排気タービン過給機実戦へ(日米の排気タービン過給機への歩み)その5
皆様
こんばんは。
筆者は年齢を重ねるに連れて
冬に弱くなってます。はい。
午前中勤務の後は、午後から猫さんと一緒に同衾してます。
(*^▽^*)
いつのまにかフックマークが増えていて、少々狼狽えています。
拙い文章を一人でも多くの人の目に触れるというのは…単に自分が読みたい文章だけではダメですね…などとプレッシャーを感じます。
「現実」と「空想」をどの程度交わらせるか…は、これからも課題です。
今回はいつもよりもやや短めですが、きりが良いので掲載しました。
いろんな資料に目を通すと、
「なるほど、そうだったんだ」
(「そうなんですよ」(・_・)(._.))
と再発見することが多いですね。
では
お楽しみください。
よりよい成果が得られるのは、自分が一番好きな仕事をしているときだろう。
だから人生の目標には、自分が好きなことを選ぶべきなんだ。
アンドリュー・カーネギー
◇ ◇
「少しは調子悪くなれよな」
いまいましいことに2つのエンジンは順調のようであり、2つのプロペラは上手く同調していた。うねるような羽音が左右から響く。
この寒さ、というより冷たさに身体の芯からガタガタと鳴りそうである。エンジン自体は三菱のそれなりに信頼性のあるものであるのだが、追加された機器が問題なのである。一番最初の高高度試験飛行では加熱してしまい途中で引き返してしまったが、二度目以降は何をどう変更したのか、好調なままであった。
この高度も五度目である。主操縦員である自分自身以外は幾度か交替しているので、毎回初体験の乗組員に
「凍るなよ」
と軽口を叩くのが習慣になっていた。
いや高高度用の電熱服は搭乗する全員が着ているが、脚や腕は温かくできない。
「身体は暖かいのだから我慢せよ」
というのだろうか?足先や指先がじんじんとして血流が留まりがちなのが自分でも分かるのが辛い。その割に身体全体はポカポカするのだから、緊張感を失うとうとうととしてしまうことにも参っている。
客席に乗っている研究員はいくつもの計測機器をいじり回しているようであるが、分厚い飛行用手袋では扱いにくいだろうに… 少しずつ酸素が流れるように調整されたマスクのままの1時間余りは研究員にとっても辛い時間になっているはずなのに、交替で次々と搭乗する研究員はそれぞれにその時間を満足しつつ過ごしていた。
「良い数字がとれました」
「素晴らしい体験、ありがとうございました」
大学や企業の研究員は地上に降りるなり口元をほころばせながら私にそう伝える。客席の小さな窓から見える、全ての雲が足下となり地球の丸さが分かるその体験はそれぞれに未知の興奮を与えたようである。
そのたびに私は思ってしまう。
「もっと気楽にあの高さに行ければ良いんですけれどね」
12,500メートル。
今日の最高記録だ。いわゆる『成層圏』への道を探るための機体がこの機体である。
日本陸軍は、東京帝国大学航空研究所に次期の航空機開発を目指して三つの課題解決を要請する。
1 「研1」遠距離航空実証機
2 「研2」高高度航空実証機
3 「研3」高速度航空実証機
つまり「より遠く、よく高く、より速く」ということである。
「研1」にあたる遠距離航空実証機は本来ディーゼル航空エンジンを新規に採用しようと企画されたが、その実現には時間がかかることもあり川崎のBMWを元に低燃費型に改修したものを搭載、東京瓦斯電気工業(瓦斯電、後の日立飛行機)が製作しその頃の世界記録(周回航続距離11,651.011km)を出し、いわゆる『航研機』と称され大々的に宣伝された。簡単に言えば
「日本すごい」
ということである。この機体の成功に気を良くした陸軍は朝日新聞社と共にアメリカのワシントンまでの無着陸飛行を目指した「A-26」(陸軍名キ77)という長距離飛行用双発機を試作する。(非公認ではあるが16,435kmを飛行)
「研3」にあたる高速度航空実証機は、当時の世界最速記録(He100(He112U)の634.32km/h、746.606km/h、更にはMe209V1(Me109R)の755.13km/h)を超えることを期待して計画されたものである。ただ、この数値は今の日本では実現不可能(この判断自体、素晴らしいものだと思える)と考えられ、とりあえず700km/hを超える機体として「研3中間機」(現在「研3」とされる機体)が製作されることとなる。この機体はその頃の日本航空機研究の総決算(LB翼・親子フラップなど)が捧げられたと考えられるほどに新機軸が与えられたもののそれだけにその能力を示すのにも時間がかかった。その上、エンジンは輸入したドイツ製のDB601Aaを改造し高回転・高馬力化したものであったからさあ大変。トラブルのために途中でエンジン変換を行うこと二度、製作した川崎のベテラン整備員でさえ泣かせたエンジンでもあった。これらの人々の努力の成果として、計器指示速度682km/h(計器誤差修正後699.9 km/h)を記録した。
「シン・研3」にあたる機体は、この中間機の設計が終わった頃から始まる。東大航空研究所は基本的に機体の開発のみ(エンジンの改良程度は行っているものの)であり、これ以上の高速度を目指すためにはエンジンの性能向上を待たなければならなかった。そのいくつかの構想を見る限りでは、後の「キ64」・「震電」・「景雲」などの機体との共通点を見いだせる。(中には可変翼機の構想もある)
実際には戦争が続く中で、「実証機」のようないわば趣味のための開発は細々と続けるしかなく、二千馬力オーバーのエンジンの登場によって実用機での700km/h以上の機体が望まれることとなり、実際に開発・試作へと繋がっていく。
「研1」、「研3」と話を進めたが、「研2」についてはとにかく地味な存在である。『航研機』と称された「研1」のようにその成果が大々的に宣伝されたわけではないし、「研3」のように戦時中の秘話扱いで戦後に好事家に広まったわけでもない。成層圏を飛ぶ航空機のための基礎研究として、エンジン(過給器を含む)の開発と与圧気密室の開発にその主眼が置かれていた。その頃の米・欧にとっても成層圏はまだまだ冒険する段階であり、「研2」のように対応するエンジン・与圧気密室の研究はそれぞれに行っていた。ちなみにドイツは気圧維持を意図して空気が漏れないように機内の密閉性・機密性を重視し確実なものにしようとした。対してアメリカは機内を加圧することで気圧を維持すると発想がかなり違っていた。航空研究所が選んだのはアメリカ方式でルーツ式の加圧器を利用しキャピン内の気圧を維持する(0.8気圧を維持)方法である。
この「研2」については、そのような未知の分野に挑戦することの困難さもあって以下の三つの段階を経ることを計画された。
1段階 高高度飛行のためのエンジン・過給器の研究
2段階 亜成層圏(8,000~10,000m)対応与圧気密室の研究
3段階 成層圏(11,000m以上)対応与圧気密室の研究
この中で1段階目を三菱を中心とした民間会社に任せ、2段階目を航空研究所が設計し、立川飛行機が制作することとなった。(3段階目は以上の研究経過を以て再度設計・製作することとなっていた)
陸軍としてはその頃できたばかりの97式重爆を元にする気であったが、立川側が自社の生産するロ式輸送機(ロッキード L-14 スーパーエレクトラのライセンス生産機)を推しそれに合わせて航空研究所が与圧気密室の設計を行った。(アメリカが与圧気密室の研究に使ったのもロッキード L-14 スーパーエレクトラであるのは偶然の一致にしても面白い)
さて1段階目のエンジンであるが、ロ式輸送機に採用されているのが三菱の「ハ26」(海軍名「瑞星」)であり、陸軍は三菱に向けて高高度対応エンジンへの改良を命じた。それが「ハ102」(海軍名「瑞星21型」)であり、一段二速の機械式過給機を搭載した。このエンジンは2段階の亜成層圏での飛行を考えたものであり、三菱としては次の段階、つまり成層圏への対応のために
○二速目の全開高度を更に高める
○一段三速機械式過給機を付ける
○二段二速機械式過給機を付ける
○排気タービン過給機を付ける
などの案を検討する。その中で採用されたのが三菱が以前より自社で研究を続けていた排気タービン過給機の実用試験を兼ねたものであり「ハ102Ⅱ」と称された。(保険として二速目の全開高度を高めたものが製作され「ハ102特」と称されたが試作のみに終わる)
三菱は、日本陸軍が『飽きた』
「ラトー式排気タービン過給機」
を民間に放出する際に開発の継続に手を上げた。これは航空機用だけではなくディーゼルエンジン(船舶用が主であったが)の開発のおいても今後必要であろうと判断したものであった。
以前述べたように、航空機の高高度飛行に対してはエンジンに空気を送り込む必要があり、高度が高くなるにつれて薄くなっていく空気(酸素)を無理矢理にでもエンジンに空気を入れるために「過給器」が必要となる。第一次大戦末期に航空戦闘において飛行高度が上である優位性が評価されつつあり、戦後に「過給器」の必要性が喧伝されたが、どの国も戦後の戦費低下の煽りを受け航空機への過給器搭載については及び腰となった。その中でディーゼルエンジンを発電手段として、また船舶の主機として採用する国が排気タービンにまず注目する。(もちろん高高度運転のためではなく、エンジンの馬力向上のためである)日本自身も船舶にディーゼルエンジンを採用する機会が増え、排気タービンに対する情報を集めることとなる。その中で、ラトー式はどちらかと言えばガソリンエンジンへの対応を続け、ディーゼルエンジンへはやや遅れて開発されたスイスのヅルツァー社の排気タービン過給機が検討された。三菱は船舶用の排気タービン過給機を実用化し、また戦車用のディーゼルエンジンへの過給機搭載を研究し続けた。対して石川島はディーゼルエンジン搭載のトラック開発を進め、その後の「百式統制型ディーゼルエンジン」への排気タービン過給機を考慮した開発を続けていた。
実はディーゼルエンジンと排気タービン過給機はその相性が良く、出力の増大と共に燃料効率の高まりが期待できるのである。そのため、特にドイツを中心とした欧州で排気タービン過給機付きのディーゼルエンジンが実用化に向けて研究・開発された。(最近の乗用車のディーゼルエンジンへの採用は効率的に燃料を燃やすための排気ガス対応の側面が強い)
対してガソリンエンジンではノッキングの問題もあって大量に空気(酸素)を送り込むだけではたいして効率が良くなることがなく、それぞれのエンジンの状況に応じた設計をディーゼルエンジンより厳密に行う必要がある。それでも地上(気圧の低下が少ない)で使う分にはそれほど考慮する必要がないが、馬力の上昇に比例した燃費の低下が問題となる。(最近のダウンサイジングターボは軽量・小型エンジンの馬力上昇が必要であるから採用されいるだけである)その当時モーターサイクルの世界で一時使われていたが、実用車への搭載がほぼないのはそのためである。(1980年前後の日本車へのターボ(排気タービン)過給機搭載の理由は2000cc未満の車両税対応が影響する)
これら『地上・水上』の排気タービン過給機に対して、航空機の世界では高高度飛行に対応するための搭載である。航空機用ガソリンエンジンへは
○機械式過給機
○排気タービン過給機
の二つが主流として開発された。機械式過給機はエンジン出力の一部を利用してタービーンを回しそれで圧縮された空気をエンジンに送り込むやり方で、第一次大戦末期にイギリス・フランス・ドイツなどの航空機先進国で盛んに研究された。実用化されたのは戦後の戦間期となるが、どの機体が最初に載せたのかははっきりとしていない。(ダイムラー社のガソリン車がモーターサイクルの世界で活躍しているが…)アメリカにおいてはリバティー水冷エンジンが戦中に量産され戦後にも多用されているためこのエンジンが最初の機械式過給機搭載とも考えられる。(排気タービン過給機もこのエンジンで研究されている)日本の場合は(イギリスのジュピターエンジンの影響を受けた)寿1型には過給機を搭載していないが、2型以降は一段一速の過給機を搭載している(ほぼ同時期のヒスパノエンジンにも搭載されていない模様)ので、イギリスもしくはアメリカの影響から搭載されたようである。
機械式過給機は排気タービン過給機と比べタイムラグもなく排気ガスの導路パイプを作る必要もない。必要な時にクラッチを用いて繋ぐだけであり高度3,000m前後(地上の大気濃度の三分の二程度)に効率よく空気を圧縮してエンジンに送り込む形で、戦闘機などの実戦高度(だいたい5,000メートル以下)での機動をスムーズにすることに繋がっていた。戦間の機械式過給機はどの国も一段一速~二速であり、二段式などが活用されるのはより高高度飛行が望まれ、またその機構の複雑さを克服すると共にエンジン自体の余剰出力が大きくなった時である。二段二速機械式過給機付きエンジンとして有名なのがかの「マーリン」である。スピットファイヤーやP51に搭載し、高高度戦闘を有利に運んだ。
対して排気タービン過給機は前述のようにアメリカの産官学の連携を目指した航空研究機関であるNACA(NASAの前身、アメリカ航空諮問委員会)での研究から始まった。もちろん
「より高く」
の部分である。アメリカは二段二速機械式過給機(もちろんまだ開発されていない)よりも、一段目を機械式にし二段目(つまり高高度用)を排気タービン過給機に任せようと考えた。戦後間もなく開発に入ったものの、排気タービン過給機は出力不足で高高度飛行に十分に対応できないでいた。これは排気タービン過給機自身の耐熱性・高速回転に伴う耐久性とともに排気ガスを導くパイプなどの設計常の困難さがあった。(日本陸軍は早期に諦めたが)NACAは諦めなかった。その頃のアメリカは軍用機こそ緊縮財政のために新型機の量産こそ行っていなかったが、新技術には貪欲であり次々と(製造会社の自主的な開発を含めて)試作機を作り上げ、また民間の航空会社は広大な国土交通を航空機によって支えようとし、好景気に沸く金持ちは航空機による移動をステータスと考えていた。(ちなみに…最初、航空運賃を「体重制」にしようとしていた航空会社は金持ち連中の太り具合に一人あたりの一律料金にしたという真しやかな話がある。現在サモア航空が採用)民間としては
「より速く・より快適に・より効率的に」
空の旅を提供するために新たな技術(四発機・与圧キャピンなど)を取り入れようとしていた。
アメリカの航空機への排気タービン過給機搭載はボーイング XP-4である。複葉機PW-9の機体に試作エンジンパッカード 1A-1500 を搭載した。残念ながら重量過大・エンジン不調・空力設計不全に直面しわずか 4.5 時間の試験飛行に終わった。1927年製作ということであるが、日本の排気タービン過給機付きの「試製三型戦闘機」が1926年。このまま陸軍が研究を進めていれば良かったのだが、民間企業に放出した。アメリカは諦めずにその頃の制式機のカーチスPー1に排気タービン過給機付きのカーチス V-1150 エンジンを搭載し「Pー5」と称された。1927年のことである。P-5は4機(うち2機が試験中に墜落)が製作され、排気タービン過給機の実用化に向けて各種のトラブルにめげずに改良を続け高々度試験・データ収集に使われ、着々と成果を上げた。
そのような流れと成果の中で、「Bー17」が生まれた。マーチン社の「Bー10」の後続機として計画される中で、Bー10を大幅に上回る性能を期待される中でエンジンへの排気タービン過給機を搭載することが決定した。製作された機体は高性能ではあったもののアメリカとしても余りに高額なために採用したものの製作される数は少なかった。(そのために双発のダグラス社「Bー18」も採用された)
Bー17は戦闘機の分野にも影響を与えた。その頃のアメリカ陸軍の戦闘機は5,000メートル以下での活動を主に考えており、Bー17のような高高度の航空戦を想定していなかった。そのために相手(主にドイツ軍を想定しているがイギリス軍(カナダ軍)への対応も考えていた)が同じような機体でアメリカ本土に襲撃した場合にそれを効果的に留める手段がなかったのである。そこで戦闘機の分野にも排気タービン過給機を搭載することを計画した。
アリソン V-1710V型対向12気筒エンジンはその頃ヨーロッパに流行した大馬力の水冷(液冷)エンジン(ダイムラーベンツ・ロールスロイス・イスパノイザ など)に対抗するために生まれた。そしてその新鋭のエンジンに排気タービン過給機を装備したのである。カーチスはP-36を改造し排気タービンを備えたアリソンV-1710-11を搭載した「XP-37」を製作する。改造機(と言ってもとても同じ機体とは思えないくらい改造されている)であるので陸軍への納入は早かったが前方視界の不良、操縦性・安定性の不足、排気タービンの不具合が頻発し試作のみに留まった。
軍用機メーカーとしては新参者であるロッキードは双胴双発という独特な形状の「XP-38」を試作。多少の不具合はあったものの改良されその後の戦いで活躍したが、高高度戦闘よりも長距離航続力の利点の方が光る結果となったのは皮肉である。
ベル社は「XP-39」を試作。機体中央部にエンジンを配置し延長軸でプロペラを回す独特の方法はプロペラ軸内に大口径砲の搭載するためであり、また前車輪式降着装置などの斬新というか奇抜なアイデアを採用した。機体は性能も良く陸軍としても採用を決めたが、その後NACAにこの機体の空気抵抗を低減して速度を上げるために機体設計を洗練するように依頼する。ここで不思議なことに排気タービン過給機を外したのである。(陸軍からの要求とあるが、アメリカ版Wikipediaを読むとこの小型の機体を改良する際に排気タービン過給機を搭載する余裕がなくなったためと伝える)そのためP-39は採用されたものの性能が不十分で軍用機不足のソビエトが戦闘襲撃機としてその価値を見いださなかったら埋もれた機体のままであったろう。
これら三種の排気タービン過給機を活用するための機体を開発したのであるが、アメリカは素晴らしい「体験」をしたものと考えられる。なぜならば排気タービン過給機は機械式過給機と違い単に「ポン付け」するだけでは不具合が生じるということを学んだのである。排気ガスのパイプ配置デザインやインタークーラー(中間冷却器)の必要。ディーゼルエンジンでは無視できる不具合もガソリンエンジンでは致命的なものになることを学んだのである。
その成果を受けたセバスキー社(リパブリックと社名変更)は自社のP-35の性能向上型として2種類の飛行機を製作する。二段二速の機械式過給器付きのプラット&ホイットニー R-1830-19を搭載した「XP-41」と排気タービン過給機付きのプラット&ホイットニー R-1830-47搭載の技術実証機AP-4を経た「XP-43」である。この2種類の航空機の比較の中でフメリカ陸軍は排気タービン過給機の方が今後の機体性能向上に役立つとして二段過給機の開発スピードを緩めることに繋がる。ただ、この二つの機体は自重が重い割にエンジン出力が低く(1,200HP)、エンジンをプラット&ホイットニー R-2180(1400hp) 、更に R-2800(2000hp) 搭載の機体を開発しようとするが、さすがに二倍の馬力向上には原設計に無理があり計画は破棄され新たに 「XP-47」 としてスタートすることとなったのである。
お楽しみいただけましたか?
しかし、アメリカってけっこう執念深く開発を行ってますねぇ~。それだけでなく(航空機だけでなく)失敗も多いけれどそれを克服する底辺の力というのが、やっぱり戦間期のアメリカなのでしょうね。
僕の文章でよく『産学官』連携の研究・開発を入れてますが、NACAなどはその典型です。(まあNACAもイギリスやドイツの研究組織を参考にしているのですが、さすが大規模ですよねぇ)
P-38にしてもP-39にしても、この機構を採用し実用機として前線に配備できるって…やっぱりアメリカと戦ってはならない………
話は変わりますが、僕の三代目の愛車が「初代ソアラ」のターボエンジン版なのです。バブルカー、高級車と言われてますが、まだまだその頃の世界標準から言えばBMWなどには及ばないのでしょうが…このエンジンがM型なのが車好きの友だち(スーパーカー世代なんですよね)には奇妙な顔をさせてしまいました。ソアラはG型のはずなのに??実はその頃の初期G型は強度がギリギリに低く作られておりターボには対応できなかったらしいのですね。仕方なく前作のM型を利用したとか…ターボをポン付けすることの怖さがこのようなところにもあります。ちなみにG型はその後に改設計強度マシマシになりアメリカで300馬力オーバーが当たり前のチューンニングエンジンとなります。(なんだよ?アメリカ!!)
さて、
次回は「研2」の続きと日本軍の実用機の話になる予定です。
できれば年を越したくないのですが…
ではでは。