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排気タービン過給機実戦へ(我輩ハ複動四七ノ内火機械デアル 前編)その3

皆さん

お久しぶりです


季節の変わり目のせいか体調が思わしくなく…


なんてのは嘘で((*^▽^*)

「我輩ハ複動四七ノ内火機械デアル」

の取り扱いにうんうんうなってしまいました。


今回は

ディーゼルエンジン

についてのいろいろです。


ではお楽しみください。


船荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。


一定量の心配や苦痛、苦労は、いつも、だれにも必要である


                 (ショーペンハウアー)


     ◇          ◇



 さて、日本の民間造船が主に採用したのはタービン(石炭炊きの釜を持つものはタービンが主流となる)ではなくディーゼルである。タービン機関は確かにレシプロ機関に比べて効率は良い。しかし燃料効率から言えば大きく、軍艦のように高速を出す必要があるものは別にして(民間の荷客船では20000馬力以上はタービン、それ以下はディーゼルとも言われていたようだ)、民間の船舶では燃費のことが大きな問題となる。(運賃・輸送費に直接響く)重油を燃料とするディーゼルエンジンは、確かに石炭燃料のレシプロエンジンに比べて高価であった。ただ、釜が不要ならばその分の人件費(石炭の積載・釜焼べは基本的に人力である)が削減でき、レシプロ・タービン機関で重油燃料を使う場合と比べても燃費が優れ、機関が船体に占める容積も小型なため貨物搭載スペース確保などに有利だった。

 日本において、ディーゼル機関が始まり広がったのは英・仏・米に比較しても早く、また裾野まで広がりを見せたのは、何といってもその使用する燃料(軽油・重油など)の広さと燃費の問題、そして点火プラグを必要としない取り扱い・整備の安易さが大きかった。そして陸軍がそれを後押しする。それは民間のさまざまな場面で活躍することとなった。


 資料によると、明治末期に横須賀海軍工廠でディーゼルエンジンの試作が行われた。日本でのディーゼル機関生産の始まりは大正5年、三菱造船神戸造船所(現・三菱重工業)がディーゼルエンジン国産1号機(250 馬力)を発電用として完成、ほぼ同時期に新潟鐵工所(2001年破綻・解散)が船舶用、池貝鉄工所がエアー・インジェクション・ディーゼルエンジンを製作。池貝は大正15年には無気噴油ディーゼルエンジン(SD型)を完成させる。

 日本における最初のディーゼル機関搭載は音戸丸級貨客船とされている。ヴィッカース ディーゼル機関を装備した688総tの瀬戸内海沿岸部の諸港を巡るものであった。この音戸丸が好評であり、改設計された紅丸(くれなゐ丸)等に続く。その動きは内海・近海用の小型船舶に止まらず、赤城山丸級・さんとす丸級などの海外航路向けの船舶にもディーゼル機関が採用された。

 特に有名なディーゼル機関搭載の民間船、『太平洋の女王』と称され、アメリカの高速荷客船に対抗する形で建造された「浅間丸」・「龍田丸」はスイス・ズルツァー製ディーゼル機関、更に「秩父丸(後に鎌倉丸と改名)」・「氷川丸」・「日枝丸」・「平安丸」はデンマーク・B&W社(後にドイツのMAN社と合併)製ディーゼル機関を採用した。

 当時、ディーゼルエンジンを製作していた日本の企業はヴィッカースと提携していた三菱神戸造船所、スルザーと提携していた神戸製鋼所、そのほか新潟鐵工所および池貝鉄工所などであった。(この提携については、整理するのが難しいくらいさまざまな欧州メーカーの名前が並ぶ。それは民間会社自身も開発に迷いがあったこともあるが、ディーゼルエンジンの開発速度がかなり速いことと海軍からのディーゼル機関開発のために参考とするために様々なメーカーの機関の実物を欲して補助金を出したこともある)

 その頃、日本からの欧州航路のため建造を計画された「靖国丸」・「照国丸」は当初、巡航速度18ノットをめざし蒸気タービンエンジン用に設計されていたが、日本政府がディーゼル機関を使用するように圧力をかけ、三菱・スルザー型ディーゼル機関2基を使用するように仕様変更がなされた。ここで三菱は発憤する。このままの設計では

「巡航速度は15ノットまで低下する」

とされたのだ。しかし三菱の船舶エンジン部は諦めなかった。苦肉の策として他社にも協力を求めた。

「民間の本気を見せてやろうじゃないか」

ブレアリー研究所を中心として、神戸製作所・大阪製作所などのディーゼル機関に関係があるものだけではなく、石川島や日立などの興味を示した会社がいわゆる「よってたかって」開発に明け暮れた。結果として、材料や工法・工作機械からの見直しに始まり、排気タービン過給機を備え、最大速度19.5ノット、巡航速度18ノットの船を建造し(排気タービンの開発については後述)海軍の鼻を明かした。


 海軍の艦成本部はエリート意識が高く「船舶のことならば日本で一番」などと自称し民間の造船所を下に見ているが、この大正から昭和初期に掛けての研究・開発・建造については民間も負けてはいない。なにせ世界の造船会社が競争相手だからだ。例えば漁船はエンジンを積みそれぞれの漁法によって船体を決定しつつ遠洋の漁場に適したものになったのはこの頃であり、「海上トラック」とも呼ばれる日本国内航路用の500~1000tクラスの貨物船が様々な造船所から引き出され、また蒸気タービンの高温・高圧化に関しては民間の商船建造において海軍より早く開発が急がれており、ディーゼル機関などは(潜水艦を除き)民間船の独占的な場であった。中には民間造船会社が開発したものを艦成本部の名で特許申請したものもある。燃料効率や様々な港湾に出入港するために思い通りに動く船形など、この頃の小規模なものを含む民間造船所・エンジン機関会社の働きは現在の日本の造船業界へと繋がる。


 ヤンマーという会社がある。現在、農機具、漁船などのメーカーとして知られている大企業の一つである。ガスエンジンや石油エンジン、揚水ポンプなどを製造修理していた小さな会社であったが、その躍進はディーゼルエンジンにあったのもよく知られている。しかも当時不可能とも言われていた軽量・小型(10馬力以下)のディーゼルエンジンを完成させた会社である。それは昭和5年、ほぼ1年がかりで立形2サイクル5馬力(完成時は 6 馬力)ディーゼルエンジン試作機を完成したことに始まる。その後も小型ディーゼル開発は苦心しつつ「HB 形」(5馬力)を開発・量産することに成功する。

 ヤンマーのライバルと言える会社は様々にある(そのほとんどは現在では残っていないが…)が、農機具・漁船のエンジンと言えばクボタであろう。昭和初期に舶用ディーゼルエンジンの開発に着手しその後陸用ディーゼルエンジンを開発、近代的な発動機専門工場を建設する。それは工程集中管理システムやコンベヤーシステムを導入し、一時は小型農業用エンジンの全国生産量の55%を占めることとなる。

 ただ、ヤンマーはディーゼルエンジンに全振り(「せっかく売れているのにもったいない」という石油エンジン推しの社内の意見を無視した)し、クボタはその用途によって石油・ガソリン・ディーゼルのエンジンを使い分けていた(戦後かなり遅くまで三種の生産を行っている)違いがある。

(ちなみにヰセキも戦前からの農機具メーカーであるがエンジンを内製にしたのは戦後かなり後のこと。いすゞ自動車の技術援助。ヤマハ・ホンダ・スズギは戦後の小型船舶のエンジンメーカー)


 これら関西のメーカー(京都・大阪・岡山あたり)がその時代から戦後に勃興し、現在でも小型エンジン開発・量産の中心となった契機として考えられるのは、動力籾摺機・動力脱穀機の普及と昭和初期に西日本を襲った大干ばつである。

「耕して天に登る」

という言葉があるが、明治期に北洋艦隊提督李鴻章もしくは孫文が日本(瀬戸内海?)の棚田を見て言ったとされている。しかしこれは中国人的畑作の「陸耕」の考え方であり(しかも李鴻章・孫文はその頃としては裕福なエリート層の出身)、日本の「水耕」、水田式棚田は本来上から下(山裾から平野部)へと、言わば

「耕して海に下る」

農業である。なぜならば「水」の流れは基本的に上から下だからだ。(今年の「鉄腕Dash」の田を見れば良い)山裾であれば水は川の流れを利用して自然と田に水を入れることができるが、平野部では川の流れがゆっくりと水田より低くなるために水を上げる必要が生まれる。現在平野部に用水路や揚水用のポンプがあちこちにあるのはそのためである。(と「扇状地」・「ため池」・「クリーク」あたりのことを教えていただいた中学校時代の社会科の恩師)

 特に干魃時に揚水用ポンプと合わせてエンジン(その頃は石油エンジン)の需要が高まり急速に普及したのはそのためである。(ただし、昭和一桁生まれの作者の父親は小学校登校前後(戦中)に踏み車(脚踏み式水揚げ機)を二時間ほど毎日してたと言っていたので、地域差があり限定的なものであったろう。未だに町で最初に動力耕運機を使ったことが自慢(それまで牛・馬))

 そしてその小型・中型ディーゼルエンジンは漁船などに次第に広がる。現在でも「魚の値段」は燃料費と比例する。石油エンジン、ディーゼルエンジンや焼き玉エンジン(いわゆるポンポン船、現在はほぼ消えている)の中でもディーゼルエンジンの普及は広がっていく。(その結果として大型動力漁船(100トン以上)が黒潮部隊として太平洋前線哨戒に消費されたのは皮肉である)中でもディーゼルエンジンは重さの割に馬力があり、燃料消費が少なく、運用・管理が楽であるという理由で使われていた。


 昭和12年 7 月、北京郊外で発生した蘆溝橋事件を発端として、日本と中国は全面戦争へと突入した。日中戦争の開戦である。陸軍の宇品運輸部からヤンマーへとディーゼルエンジンの発注があった。用途は舶用主機で、出力は 10 馬力前後、発注台数は数千台。軍部との交渉の結果、とりあえず在庫のH型と量産体制を整えたS型を舶用エンジンとして納入した。これを搭載した小型舟艇(小発よりも小さめ)は、修理サービスのために技術員数名と来ていた山岡内燃機の吉川武夫が提案した「ヤンマー船」と呼ぶことに決定し、新聞報道で一気に広まったのである。(その後、ヤンマーは「小発動機艇(小発)」用の60馬力ディーゼルエンジンを納入する)戦後、特に瀬戸内海沿岸の漁船がヤンマーを主流とすることになる(陸軍の船舶関係の兵は瀬戸内海沿岸部の漁民を中心として編制)のは、この時の「ヤンマー船」での実績あってのことといわれている。

(ちなみに大発のエンジンはA~C型がBMW製ガソリンエンジン、D型は三菱製のディーゼルエンジン(6気筒OHV60馬力)を搭載。米LCVP(225馬力ディーゼルエンジンまたは250馬力ガソリンエンジン)と比べて馬力が小さすぎないか?まぁ「五式大型發動艇(たり艇)」だと水冷V型12気筒ディーゼル二型2基 計300馬力だけれど…)


 ヤンマーを柱として、農業・漁業でのディーゼルエンジンのことを述べてきたが、日本のディーゼルエンジンを語るうえには、これまで述べた

・三菱造船神戸造船所(現・三菱重工業株式会社)

・新潟鐵工所(2001年破綻・解散)

・池貝鉄工所

(神戸製鋼機械部がディーゼルエンジンを開発量産、大阪鉄工所が新潟鐵工所の指導の下ディーゼルエンジンを量産、また赤阪鐵工所という漁船エンジンメーカーもディーゼルエンジンを量産)

などの船舶エンジンメーカーと共に、

・石川島自動車製作所(後にダット自動車製造と合併)

・東京瓦斯電気工業

のことを考慮する必要がある。(この二社が合併して「東京自動車工業」後に「いすゞ(現 ISUZU)」となり、現 日野自動車が独立)

 当時、石川島の社長である加納友之介は


「年産 500 万台規模になっているアメリカには、今更ガソリンでは太刀打ち出来ない。ディーゼルは欧州で研究が著についたばかりであり、日本の燃料問題の将来を考える時、何としてでもディーゼルエンジンの研究を進めたい」


とディーゼルエンジンをトラックに載せることを決意。車両用のディーゼルエンジン開発に勤しむこととなる。(すでにドイツの MAN 社が 4tトラック用ディーゼルエンジンを完成させている。ところがドイツは車両用のディーゼルエンジンにはあまり興味がなかったのか開発は遅々として遅れている不思議)1年を掛けて予燃焼室式水冷6気筒エンジン「DA4(40)型ディーゼルエンジン」が完成。いすゞ(その頃は会社名ではなく製品名)の名を広めることとなる。

 やや重量があるが馬力(85馬力)は当時としてもそこそこであり、手堅い設計で安定性があり燃料の汎用性の高さなどもあって、扱いやすいエンジンと評価された。

 当時、車両用としては陸軍の

89式戦車乙型・95式軽戦車(ハ号)の

 ・三菱A6120VD 4スト6気筒空冷ディーゼルシリーズ

97式戦車チハ

 ・三菱SA12200VD 4ストV型12気筒空冷ディーゼル(170馬力)

九七式軽装甲車の

 ・池貝4スト4気筒空冷ディーゼル(65馬力)

などが上げられるが、日本陸軍がディーゼルエンジンを重視したのは、燃料・燃費のこともあるがガソリンエンジンの発火事故の危険性を重視したためである。実際にガソリンエンジンの発火事故が何度かあったためにかなり真剣にディーゼルエンジンの開発に勤しむこととなる。ただし「ない袖は振れない」。自分で完結しよう(自分の研究・開発が一番というエリート意識もあるが…)と躍起になる海軍と比べて陸軍は武器などを別にすると民間にその開発・研究を依頼することが多かった。(これはディーゼルエンジンに限らず、民間に資金を渡して研究を進めていたものが多い)特に戦車のエンジンについては三菱が重視された。


 そしてトラック用としてはこの「DA4(40)型ディーゼルエンジン」エンジンが最適と考え、また気筒を増やす(あるいはボア・ストロークを拡大する)ことによって適当な馬力を当てはめられるとして、原乙未生大佐を中心としてこのエンジンを元に

「統制型ディーゼルエンジン」

を計画することとなる。原大佐は日本の製造力を増大するためにこの計画を推し進めた。もちろん日本陸軍に納入するためのものである(後日、開戦を間際としたために民間統制エンジンともなった)が、部品の共用化などの生産性、整備性などを向上させ、併せてコストを下げるために、日本国内のエンジンメーカー各社共通のエンジン規格として制定されたものである。

 参加したのは車両用ディーゼルエンジンを生産していた企業である。東京自動車工業(後の「ISUZU」・「日野」)、三菱重工、池貝自動車、日立製作所、新潟鉄工所、興亜重工業、昭和内燃機、羽田精機などの企業が自社作のディーゼルエンジンを停止してそれぞれに生産を担当した。

 ここで重要なことが二つある。一つは「燃料噴射ポンプ」の存在である。実はディーゼルエンジンに関してはいくつかの分類があるがこの「燃料噴射ポンプ」の有無ということは重要である。現在のディーゼルエンジンはほぼ「燃料噴射ポンプ」を付けているが、ディーゼルエンジンの初期にはその存在がなく、「燃料噴射ポンプ」の発明はディーゼルエンジン(もちろんガソリンエンジンにも)に影響を与えた。発明というべきか量産規模で開発したのはドイツのボッシュ社であり、日本にも導入された。そして日本の企業はボッシュ社の特許を避けた「燃料噴射ポンプ」をそれぞれの社で開発したのであるが、効率・効果的にはボッシュ社のそれと比較にならないものであった。そこで「統制型ディーゼルエンジン」にもボッシュ社のものをそのまま導入しようとしていた矢先、三菱が開発したのが「三菱・岡村式燃料噴射ポンプ」である。(本来は航空機用ガソリンエンジン用であるが、ディーゼルエンジンにも流用できるようにしていた)

 この開発によって、東京自動車工業、三菱重工、池貝自動車、神戸製鋼、新潟鉄工所など各社の共同出資でヂーゼル機器(現 ボッシュ株式会社)が設立され、同社でライセンス生産されたドイツのボッシュ社、及び三菱の燃料噴射装置の量産が始まった。この後、更に三菱は「三菱・杉原式混合比自動調整機構」(本来は航空機用ガソリン・ディーゼルエンジン用)が開発された。噴射式の利点は出力向上と燃費改善とともに、そのダッシュ力・姿勢変化に対する追従性にあるが、機体の姿勢変化に対する追従性は空燃比の調節が大切でありそのために航空用ガソリンエンジン用に混合比自動調整機構が必須となるのであるが、ディーゼルエンジンにおいても戦車などの姿勢変化が激しいものについてはこの機構が必要とされていたのである。(計算上のことであり、実戦にどのくらい必要だったのかは分からない)

 もう一つ重要なことは、このエンジンの量産体制である。「100式統制型ディーゼルエンジン」は全ての陸軍車両で採用される予定であったが、上記の会社が作るにしても陸軍が必要としている月に1,000台単位での量産は行ったことはない。せいぜいが100台単位であり、下手をすれば10台単位(ほぼ手作業レベル)である。更に言えば各社が製造したエンジンがそれぞれに統一規格で作られ、そして部品単位での互換性が必要である。いわゆる「(旧)JES」と言われる規格化を日本全体に推し進めようとした手段の一つが「統制化」とも言える。例えばネジやナット、ボルトなどについてはメートル基準での規格化(米・英のインチサイズの部品も規格化されてはいるが、日本はメートル基準を以前より重視している)が既に行われており、新型小銃(後の99式小銃)などでの公差規格を進めていた。単純に言えば

 「Aという部品は、どこで作ったとしてもAという部品の規格と品質を持つ」

であるが、現代社会に生きている我々はなかなか分かりにくい。あまりにも「当たり前」だからだ。しかし、その頃の日本では第一次大戦後にその意識が芽生え、そしてゆっくりと浸透していったのであるが、工場こうじょうというより工場こうばレベルの小さな作業所で作られている部品はその品質がまちまちになりがちで、西洋各国への輸出が上手くいってなかった。そのために国としてもその品質を向上させるために「(旧)JES」の普及を図っていたのである。ただ、ボルト・ナット類のような単純な部品であれば政府・陸軍の「ごり押し」でどうにかなった(どうにかした)のであるが、ディーゼルエンジンの鋳物ブロックなどの大量生産の公差についてはまだまだ不都合なことが続く。そこで、単にこの企業グループだけではなく、他社の協力を仰ぐこととなった。具体的に言えば三菱の航空エンジン部(研究所は大きく分けて東京と名古屋に分かれているが)、トヨタ・日産の自動車会社(100式統制型ディーゼルエンジンの自社採用はしなかった)、そして既にディーゼルエンジンの企業の中でもアメリカ的流れ作業の行程をいち早く取り入れているクボタ、そして各種の金属的素材的研究・開発として神戸製鋼とブレアリー研究所が陸軍の依頼で「ディーゼル機関連絡会議」として合流することとなる。

 この連絡会議は、部品の量産、エンジンブロックなどの精密鋳物(粉末鋳造・流体鋳造などを含める)等の製造精度を上げ、その後の「100式統制型ディーゼルエンジン」の改良、効率的な量産に寄与することとなる。それは車両用ディーゼルエンジンに止まらず、船舶用ディーゼルエンジン(漁船・民間船舶用の小型・中型エンジン)やガソリンエンジンの大量製造にかなりの影響を上げ、戦後のエンジン製造にも貢献した。(実際、戦後10年単位で統制型ディーゼルエンジンの影響を受けた(あるいは改良)エンジンが製造されていた)

ちなみに100式統制型ディーゼルエンジンはその12気筒V型という最大の排気量を持つものでも280馬力(過給器付きで)であり、それ以上のものは三菱が試作を続けていたものが

「4式統制型ディーゼルエンジン」

として採用されることとなる。


 さて、昭和 5年に横須賀海軍工廠造機部から

「我輩ハ複動四七ノ内火機械デアル」

とややふざけたような題名で赤本(説明書・取扱説明書と言うべきか?)が発行された。「軍極秘」の角印付きである。内容は当時の日本海軍が潜水艦用の主機ディーゼルを輸入機から国産機に切り替えるために,独自設計から苦心の研究実験を重ねて完成に至る迄の過程を詳細に記録したものである。しかもその記載表現が題名と共に当時としてはやや不思議なもの、エンジンを一人称として、祖父・叔父・父など(すべてディーゼルエンジン)の紹介と共に自分の成長を記録した形式を取っている。

 この赤本は批判を受けるどころか海軍の上層部で着目(海軍では「茶目っ気」は良い方に捉えられる)され、従来の内火屋(内燃機関専門の技術者)という10名以下の特殊な技術者集団、そしてその内容をまとめたグループは好意的に注目されることとなった。

 後に、この赤本は二つの大きな波及効果を起こすこととなる。

 一つには「マニュアル」つまり取り扱い説明書の作成・改善である。もちろん日本の工業化が遅れていたとはいえ機器に対するマニュアルはそれぞれの企業が作成していたのであるが、ここで二つの理由があり日本のマニュアルはその扱いの不備が生じていた。日本は明治維新以降「学制」が整えられ文盲率がかなり低く抑えられていた。つまり日本に住んでいる限り教育が成されている労働者が揃っているのである。この頃発行された『キング』(後に『富士』と改名)とういう成人向け雑誌は発行部数が100万部を超えることもあり、少年向けの雑誌は10万部が当たり前に発行されていた。それは最大で200万部が発行されていたとされる慰問雑誌(陸軍は「陣中倶楽部」、海軍は「戦線文庫」)に繋がっていく。そのこと自体は喜ばしいものではあるものの、マニュアルはその「学力」を盲信しており、自分とほぼ同等の取り扱うものに対する文章(文章と表・実物図・写真)でまとめられている。はっきり言って専門家以外は読んで理解すること自体が困難である。(栄エンジンのマニュアルを読んだことがあるが文系ではちんぷんかんぷんであった)そして日本だけではないが職人的「徒弟制度」ともいうべき「技術は見て覚える」状況が続いており、マニュアルを見るのは「親方」のみという(マニュアルを理解するのがその位置にいると言うべきか)マニュアル軽視の傾向があった。


「技術習得の裾野を広げるためには、兵らの興味を引くように取扱説明書を作成するべきではないか?」


自動車や飛行機などの機械に以前より急激に触れることが多くなった時期である。海軍自体が機械の取り扱う軍であるが、仮想敵国であるアメリカの民間人が自動車に当たり前のように触れることに比べれば、兵として採用した者の町・村はせいぜいが精米用のモーター一台、灌漑用のエンジン一台があればましな地域であり、そのような状況の中で技術者の底辺を作り上げることはなかなか難しかった。(「徒弟制度」を取り入れざるを得なかったのであろう)では、マニュアルを興味深く・分かりやすくすれば? この動きは、反対意見がでなかったために(消極的賛成というべきか?)プロジェクトとして始まってしまった。


「どうすれば、経験が浅い者が分かりやすくなるか?」


今でも新社会人に対する研修で企業が頭を悩ますものであるが、海軍は割り切った。

 A とりあえずその道具(機械)の利用法と動かし方

   (その際における注意点、危険性を含む)

 B 日常的整備方法、事故・事件、故障に対する処理法

 C 定期検査方法、オーバーホール方法の手順

 D 道具(機械)の構造・分解図

の4冊を基本的にそれぞれに用意したのである。これまでのマニュアルは「D」がほとんどを占めているのに比較し、入隊仕立ての整備兵・機関兵がとりあえず使えるようにするために作られ、


「自分の作業がどのように役立つのか?」


を明記することとした結果として底辺への技術の広がりと共に兵のモチベーションが上がったのはこれらのマニュアルのおかげかもしれない。このプロジェクトの試作版として

 ・海軍自身が直接作ったもの(「内火艇」マニュアル)

・外部に任せて作ったもの(その頃一般的な「TX40型2tトラック」マニュアル)

の二種類が作成された。海軍が独自で作った「内火艇」マニュアルはこれまでのものよりも丁寧な口調で図表をデフォルメしたものが加わったものに過ぎなかった。(それでも専門家・ベテランでなくても理解度は深くなる内容・表記ではある)そして、トラックは協同国産自動車(のちのいすゞ)のマニュアルは民生品(軍秘に値しない)ということもあって、


「せっかく海軍からお金が出るんだから技術以外のことは他に任せてみよう」


と、伝手をたどって出版社を巻き込んだ。大日本雄辯會講談社(現・講談社)である。その頃(大正期の文芸運動によって成人向け・子ども向けの月刊誌などが多数創刊される)の講談社は日本の出版社の中でもかなり大手であり、


「ここの編集者が理解できるようなマニュアルを」


という講談社寄りの合同作業が始まる。講談社としてもせっかくの機会(新たなビジネスチャンスとも)であり、それぞれの雑誌から力のある若手を集め、原稿作りが始まった。


「漫画を取り入れてみては?」


と宣ったのはオブザーバーとしてたまに顔を見せていた『少年倶楽部』の編集長加藤謙一。もちろん全てを漫画化するのではなく、イラストとして所々に登場させセリフと共に注意を引く手法である。そのキャラクターとして田河水泡の『人造人間』(日本最初のロボット漫画とも言われている)を活用した。(作画についてはその頃売れっ子の田河水泡を煩わせることができずに弟子などに原稿を振った)後に加藤は


「さすがに『のらくろ』では陸軍さんの色が強くて海軍さんには提案できなかった」


と述べている。講談社はとりあえず前述の『A その道具(機械)の利用法と動かし方』『B 日常的整備方法、事故・事件、故障に対する処理法』についての草稿本を作り上げ、海軍に送った。ついでに自分の会社でも周囲に配った。(民間のトラックであるので「軍秘」でもなにもない)かなりの反響があった。


「うちの丁稚(この場合は入社間もない年若い社員という意味であろう)が一週間もしないうちに車の点検ができるようになった」

「会社で回し読みしたら、すぐにボロボロになった。また欲しい」


海軍でも同様で


「次の版はないか?」


と好評であった。(もちろんあれこれ言う者もいたが、兵らは思っていた以上に「娯楽」に飢えていた)海軍は早速「内火艇マニュアル」も同様の形で書き直し、これも内部で好評を受ける。そのためにマニュアル作りの組織「臨時編集会」を立ち上げる。海軍の兵の中には手先が器用な者も多く、また日本美術学校(現・日本美術専門学校)などの美術学校に声を掛けて数人を軍属扱いで採用し、専門家を交えつつ次々と新たなマニュアルを制作していった。それは民間にも広がり、また陸軍もその流れに乗った。大日本雄辯會講談社(現 講談社)や博文館(現 博文館新社・博友社)、時事新報社(毎日新聞に合併)、実業之日本社などの雑誌を出版している大手・中堅の出版社に声を掛けた。特にトラックの量産体制を固めていたトヨタ、陸軍にディーゼルエンジンを多数納入しつつあるダイハツなどの運転者や技術者を大量に必要としていた企業は力を入れマニュアルは現場の声を受け改良を重ねつつ二版、三版と出し続けられた。

 陸軍も海軍と同様、「取扱説明書改良委員会」を立ち上げ、(民間社会を経験していた)召集兵の中の出版関係者、また雑誌発行の出版社からの出向者などで航空科・工兵科・機甲科・兵站科・船舶工兵科などを中心にマニュアルを作成するのであるが、次第にその領域を歩兵科に広げていった。例えば「99式歩兵銃取扱説明書」などは今でいえばパンフレット的な多色刷りを行い、徴兵の新兵や召集兵などの初めて扱う者に対して丁寧にその扱い方・整備方法(日常的なものと実戦時の扱い方を別に掲載)、万一の故障に対する対処法などを懇切に解説、「のらくろ」をその説明者として採用したためか評判が評判を呼び、他の兵器に対する取扱説明書の手本となり歩兵科が扱う兵器全てが新しい形式での取扱説明書となり、猛犬連隊のキャラクターが活躍することとなる。

 軍隊というものは基本的に閉鎖的であり、民間に流布される雑誌などを兵舎に持ち込むことは禁止(ある程度は黙認されているが、上司による)されており、これまで述べたような雑誌に影響を受けていた者は飢餓状態(現在の若者からスマホを取り上げれば分かる。個人的に経験済み)となっており、「シャバ(娑婆・民間のこと)」の空気をこれまで味わい尽くしていた兵にとって取扱説明書といえどもその雰囲気を醸し出しているものは恋い焦がれるものであった。(現在の我々が考える以上に大正・昭和初期の雑誌文化・文芸文化は日本国を蹂躙していたのである)純粋培養的な将校(特にエリートと言われる歩兵科将校)には衝撃を与えることとなる。


「こんなのが面白いとは…」


そう、大半の将校が墜ちてしまったのである。その専門性がどうしても技術的なものになりがちで民間との接点が多い海軍の将校に比較して、全てが軍内で完了しがちな陸軍の将校(特に歩兵科)はカルチャーショックを与えた。しかもその効能(薬ではないものの)に間違いがない。いくら少数の声の大きい権威者が邪魔してもその流れを留めることはできなかった。

 そして近代軍用機械の集大成である航空機の分野においても同様で、三菱・中島・川崎・愛知・川西などの大手が早くから着手した。なにせちょっとした不具合によって墜ちる(つまりは死傷者が出がちな)機体であるので、底辺整備兵の技術的向上は切実なものであった。その中でも真っ先に手を付けた三菱は「海軍雑誌 海と空」を発行していた海と空社に共同でマニュアル編纂を行う。「海と空」は海軍ファン向けの雑誌というものであり、技術的な興味を持つ者に対してどのようにすれば惹きつけることを知っているのであるから、その熱意は三菱の技術者を引かせるくらいだった。そして他の航空機製造会社も同様に技術に対して比較的明るいと考えられる出版社と合同でマニュアルを作成した。(もちろん出版社の編集員のほとんどは文系の者であり、技術に比較的明るいとはいえ細かな専門的な知識には乏しいものの、96式陸攻、96式艦戦、金星エンジンなどの(そのころの)最新鋭の物を目の前にした出版社の編集員たちはその興奮の雰囲気のままにマニュアルを作成。一機体あたり10数冊になったもののその仕事ぶりは海軍としても満足をし、現場の声も高まった。

 その作成途中から既に好評を受けて、慌てて始まった他の航空機製造会社も「科学と模型」を発行する朝日屋や「科学画報」・「子供の科学」の誠文堂新光社、「空」の人工社、国防科学雑誌「機械化」の山海堂出版部などが参加してマニュアル作成に勤しんだ。そして新型のエンジンや機体が作られるたびにマニュアル作成は続いた。

 実は出版社としてもうまみがあった。それは戦時における印刷用用紙の割り当てである。これらのマニュアルはその後、必要不可欠なものとされ次第に逼迫する紙の割り当てが確保されていたのである。そしてその余分の紙を使ってこっそりと自社の他雑誌に回すという手段をとっていたとも言われていた。

 以上のマニュアル作成による影響は、日本陸海軍の全域に広がり


「新兵でさえ一ヶ月でベテランとなる」


などという意見は過大評価であろうが、機械などに触れたこともない新兵が最低限の技量を持つことに繋がり、戦中の航空機やトラック、各種機械の稼動率の向上に繋がったことは間違いのない事実である。




いかがでしたでしょうか?


やや消化不足のまま掲載しましたが…

何度か改稿に改稿を続けてしまいました。


いろんなメーカーや雑誌の名前が載ってますが、基本的に実在の会社を載せています。


どのようにすれば日本の技術向上を行えるのか?


今回もそのテーマでいろいろと手を加えてみましたが、少しでも国力が向上することを期待してます。


あ、実家の耕運機・トラクターはずっとクボタですね。(義姉の実家の漁船はヤンマー)

身近すぎます。

さて、


『我輩ハ複動四七ノ内火機械デアル』


については数年前に(たぶんヤンマーが出したタイミング?)に知ってましたが、今回、古書店より購入したのですよぉ~。(11000円 笑)読んでみるとホントに面白い。たぶん版権はヤンマーにあるのでしょうから、ちょこっとだけしか出せないのが残念です。(次回にいくらか出すかな?)

まぁこの本のためにかなり改稿しましたけれど…

もしかすれば図書館あたりにある可能性があるので、見つけたら一読ください。オススメです。


戦前の雑誌の名称もいくつか述べましたが、大正からの「文芸運動」って素晴らしいですよね。亡くなった祖母は家の仕事ばかりしてましたが、入院した時には老眼ながら本や雑誌を読むのが大好きでした。(たまたま持って行った恋愛漫画も好きでした 笑)僕が本を読むのが好きなのはまちがいなく「血」ですね。うんうん。


今回は自分の(過去の)周囲のことを思い出しつつ書いていたために、反対にどこまで書こうかというジレンマと闘いながら…


次回もディーゼルエンジン関連になります。まだ「影響の一つ」を述べてませんので…





いったい排気タービン過給機はどこにいったんだ?


さて…

どこいったんでしょうか???



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