排気タービン過給機実戦へ(艦船の進歩に向けて)その2
長らくお待たせしました。
ご心配おかけしてます(してない?)が、この文章はちゃんと途中で終わらせずに終わらせるつもりですので気長にお待ちください。
まだまだネタはありますから…ね(笑
前回、何だか日・週の歴史部門で上位に躍り上がったために、PV数が1,000を超える勢いで(しかも2日連続)ドギマギしてしまいました。
え?
う、嬉しい…
まあ、今回、20日くらい時間を費やしたのは、どうまとめて良いのか自分でもよく分からない状態に陥ったからです。
またまたニッチな話題で、自分自身は「排気タービン過給機」へと繋がる道なので仕方ないと納得してますが…読んでいただいている人には、楽しいのか?
とりあえずお楽しみください。
最大の危機は、
目標が高すぎて失敗することではなく、
低すぎる目標を達成することだ。
ミケランジェロ・ブオナローティ
◇ ◇
前回、「粉末冶金」という言葉を用いたが、実は世界的にもかなり昔、紀元前からやってきたもので日本でも「刀」を作る際の材料、「玉鋼」を作る方法として知られている。簡単に言うと、鉄などの材料を粉末状(砂鉄などを思い出して欲しい)にして高温で溶鋼する手法である。現在では金属の粉末を「金型」に入れて圧縮して固め、高温で「焼結」して形状精度の高い部品をつくるわけであるが、その利点として材料の比率を一定にでき、金型のために同じ製品を大量に作り上げること。つまり削り出しなどに比較して安価であることを挙げられる。また欠点としては強度の問題があるが、材料を工夫し形成後に焼き入れをしたり、金型圧縮をプレス機などでもう一度繰り返すことで多少は克服することができる。日本海軍が考えていた弾体の粉末冶金は、現在の工法を考慮したものである。それはアメリカ・ドイツからの技術流入の結果でもあった。第一次大戦の大量生産の際にアメリカで盛んに研究され、そして1920年代にドイツが更に研究を続け、工場での生産力強化に繋がったのである。
通常の材料を溶かす鋳造では融点・比重の組合せで均一な組織が作りにくい合金の製造に適したやり方であり、ドイツからの技術導入に伴い「ブレアリー研究所」の研究は、熔解(電気炉など)方式での鋼板生産と共に粉末冶金で合金製作も行うようになった。
この粉末冶金は、大規模な溶鉱炉(高炉など)が必要なく、小規模の会社でもとりあえず始めることかできる。新しい生産は、陸軍も海軍も後押しし、日本各地で冶金・合金での部品・部材生産の会社が設立された。
その中でも現在も続いているのは、前述の3社を別にしても、
・株式会社タンガロイ(東芝の前身である芝浦製作所と東京電気が1934年に共同出資し設立された「特殊合金工具株式会社」が基となる)
・日本タングステン株式会社(旧「日本タングステン合名会社」。戸上信文が1931年創業した戸上電機製作所のグループ企業であったが、その後、東芝の系列企業となった。現在は独立している)
・株式会社ダイヤメット(日本でも有数の歴史を持つ三菱金属(現 三菱マテリアル)の新潟工場を分社化)
・トキワ精工株式会社(旧 常盤電気製造所。電機部品や機械部品を作っていたが、粉末冶金用の金型を製造する)
・大阪冶金興業株式会社(金属熱加工を得意とし、粉末冶金へと繋がっていく)
などで、戦後の工業産業の発達に伴い、現在もその数を増やしている。
これら、冶金・合金の発達に伴って、恩恵を受けたのはまず海軍の潜水艦であった。今もそうであるが、潜水艦の建造は三菱重工業神戸造船所・川崎造船所神戸工場(現 川崎重工業)の二つがほぼ引き受けている。(民間の西村式潜水艇(ちなみに海軍がその改良型を建造し、現在アメリカに残されている。旧帝国海軍呉工廠建造3746号艇)や陸軍のマルユ潜行輸送艦などは特殊な例かも…戦中に三井造船玉野造船所が潜水艦を作ったという話もあるが、調査不足)そして「ブレアリー研究所」の成果を得た神戸製鋼社の恩恵を受けることとなる。潜水艦の耐圧船殻は高強度鋼で作られており、それらの高強度鋼は単に合金の比率を考えるだけでなく均質・均等である事が望まれていた。その点でブレアリー研究所と連携して生産方法までも研究できる神戸製鋼社は、その組織を揚げて潜水艦に適した高強度鋼を開発することとなる。
日本の潜水艦は、日露戦争時、アメリカからホランド級潜水艦5隻を購入することに始まる。その後、川崎造船がホランド級を参考に2隻国産化する。かの佐久間勉艇長の「第6号艇」がそれである。またヴィッカース社から購入したC1型潜水艦「波1型」、呉海軍工廠で製造されたC2型潜水艦「波3型」、そして純国産(ヴィッカースの影響が大きい設計)の「波6(川崎型とも)」が製造されたが速度・航続力ともにC1・2型よりかなり劣っていた。さらに「呂1型」、イタリア・フィアット社が設計したロレンチ型潜水艦を日本でライセンス生産し、主機はフィアット型ディーゼルを輸入した。(それまではガソリンエンジンであった)残念ながら船体の強度に難があり、また主機のディーゼルの信頼性も低く実用上問題があった。その後、ヴィッカースのL1(ヴィッカース式ディーゼル搭載)のライセンス製造、そしてその日本での改良設計型であるL2~4、「呂51号~68号」はかなり成功した部類に入る。(海軍の戦術決定(長距離哨戒・偵察・攻撃)と軍縮会議のためにこの1,000トン前後の中型艦がしばらくなくなったのが悔やまれる)
そして第一次大戦で活躍したUボートの技術を学ぼうとし、単にドイツ潜水艦を手に入れるだけにとどまらず、ゲルマニア社のテッヘル博士を中心にドイツ人技術者を日本に招いたのである。日本海軍が重視したのはUボートの高速・長距離航続力である。いわゆる「伊号潜水艦」の始まりであった。(分かりやすく伊号・呂号・波号としているが、これは命名基準後の話であり、それ以前は単に「1号艇」などと称されていた)
伊号は、最初、二種類に大まかに分かれる「巡潜型」と「機雷敷設型」である。「巡潜型」はドイツ海軍潜水艦U142をもとにして(本艦を入手することは出来なかったが、図面を入手し、ドイツ技術者を招いたことで技術を取り入れた。兵装を日本式にしたU142のコピーである巡潜1型(「伊1」)であった。対して「機雷敷設型」はドイツ海軍潜水艦U117型をコピー、専用の機雷42個を搭載するもので「伊21型(後に伊121)」と呼ばれる。
そしてそれらの情報・設計を元に日本独自の設計をしたのが「海大型」と称されるやや小ぶりな(それでも1,500t前後)潜水艦である(「伊51型」)。
ところが、神戸製鋼が耐圧船殻に適する高強度鋼を川崎造船に提案したことから、話は変わった。ちょうど川崎造船は「海大3型a」(「伊53型」4隻)を製造しつつあったが、この高強度鋼の性能を元に改設計し、「海大3型b」(「伊56型」5隻)へと繋がる。この高強度綱のため「3型b」は「3型a」より安全深度が1割強増しとなり、無理な海中行動にも耐ええる船として海軍は大いに喜んだ。
潜水艦は水上ではエンジンで動かし(発電しバッテリーに充電する)、水中ではモーターで動かすことはよく知られている。そのモーターと発電機に共通して使われているのは何か?
「ここの研究で試してもらえないか? できれば今後の共同研究も進めたい」
大阪大学を通してブレアリー研究所に東北大学から連絡が来たのは、そんな「海大3型b」の再設計に着手されていた頃である。その頃のブレアリー研究所は大学の研究室分室や関連企業の技師・研究員(川崎造船ドイツ人技師のための一室も用意されていた)が出入りすることもあって拡張に拡張を続け敷地だけでも当初の10倍となっていた。施設もそれなりに小型であるが各種の炉(高炉・反転炉・電気炉など)が並び、単なる冶金・合金の研究だけでなく、鉱石の選別・粉末化や量産化に対する総合的な製鉄・製鋼等の総合研究・開発施設となっていた。
東北大学金属材料研究所は現在、研究機関ランキング、材料科学分野において世界でもトップクラスの研究機関である。その始まりは第一次大戦勃発に伴う鉄鋼の自給に迫られたことである。東北帝国大学教授本多光太郎が鉄鋼の研究に乗り出し、住友財閥からの資金寄附もあって、良質な鉄鋼材料の国産化を目的とする「臨時理化学研究所第二部」が設置された。そしてそのトップと言える本多光太郎が生み出したのが
「KS鋼(KS磁石鋼)」
である。発表当時、世界最強の人工永久磁石とされるKS鋼は、コバルト・タングステン・クロム・炭素を含む鉄の合金であり、ブレアリー研究所の得意とした分野であった。近代・現代の工業の中で磁石の有効性は言うまでもないだろう。東北大学の研究所はその頃「臨時」の二文字がとれて正式な組織となったばかりで、特に「鉄鋼」以外の金属にも研究の幅を広げようとしていた。すでにその方面にも研究を進めているブレアリー研究所は格好の共同研究相手として考えた。しかも東大・京大・阪大の研究室とも産学共同を以前からしている。東北大学としても距離的には遠いが都合がよかった。(その為にさまざまな大学の学生が暮らすための寮が研究所内に設けられた)
結果として、東京大学の三島徳七博士は鉄・ニッケル・アルミニウムを主成分とする析出硬化型のMK鋼を開発し、本多光太郎博士はMK鋼の成分にコバルト、チタンを加えることで、析出硬化型のNKS鋼(新KS鋼)という高性能磁石を発明することとなる。チタンには微量ながらアルミが不純物として混入しており当時の製錬技術では完全に分離することができないでいた。そこで住友金属と東北大学、ブレアリー研究所は共同体制を取りなるべく混入がないチタンを作り上げることを目指して研究を続けた。ブレアリー研究所はその基礎的な研究に携わるだけでなく、その量産体制を確立したのである。(ちなみに東京工業大学の加藤与五郎博士と武井武博士によってフェライトが発明されたことがきっかけで誕生したフェライト磁石に関しては、東京電気化学工業(現NEC)によって量産化される際にブレアリー研究所も関わったとされている)
この高性能な磁石の発達によって発電機・モーターだけでなく、精密検査機器の向上、通信関係や電子機器の部品精度の向上に役立つこととなる。(レーダーに使われる「マグネトロン」は真空管の一種であるが磁石による磁界を発生させるようになっている。真空管の中心に線状の陰極があり、その外側を囲むように円筒状の陽極とコイルが巻かれているのが特徴であり、これらの磁石の発達によって高性能なマグネトロンが量産できる体制になる)
また、鉄鉱石の選鉱にも強力な磁石が必要不可欠である。日本の中小の製鉄所は安価で容易な屑鉄製鋼がほとんどを占めており(中には未だたたら式を行っているところもあった)、高炉が必要な銑鋼法の3倍近くに達していた。この銑鋼法は鉄鉱石と石炭が必要なことは言うまでもないが、その鉄鉱石は中国の大冶鉄鉱山やマレーのジョホール州スリメダン鉄鉱山からの輸入に頼っていた。しかし、アメリカやオーストラリアの鉄鉱石に比べると鉄(赤鉄)の含有量が少なかった。(1~2割違うと言われているが、マレーのものは中国のものよりは含有量が多い)そのために選鉱が大切な過程となる。ちょうどその頃、日本は民間の「大恐慌」開けの成長期であり、また海軍の条約開けを目指しての鉄鋼需要が増大していた。そのためにしぶしぶと(半国有の日本製鐵株式會社を守るために高炉建設許可が抑えられていた)民間製鉄所への高炉建造を認めつつあった。選鉱のたの大型磁石が必要とされる結果となるのである。
ブレアリー自身は、思っていた以上の好待遇(金銭的なものだけでなく)を受け続けたこともあり、精力的に研究に対する邁進するとともに、以前の伝手をもってイギリス人(だけではなくドイツ人、アメリカ人なども)の技師・研究者がこの研究所の扉を叩くこととなる。ブレアリー自身はイギリスからの度重なる召喚(日本での活躍は他の研究者より聞き及んでいた)に断りを続け、戦争の勃発に伴い昭和16年にイギリスへの帰途に就いたが、ブレアリー研究所は戦後まで生き続け、東北大学の金属材料研究所と共に日本の二大金属研究所と呼ばれることとなる。
「すばらしい日々だった。研究者も技師も学生も、謙虚で真摯で熱心で…イギリスに住んでいたままだったら外の世界にそれだけの広がりがあることを考えることができなかっただろう」
戦後、日本に再度訪れ、より規模が拡大した研究所を目にしたブレアリーはそう語っている。
この頃の日本海軍にとっては、金属関連での大きな問題を抱えていた。それが「蒸気タービン」と「ディーゼル機関」という艦艇のエンジン、「装甲板」、「弾体」、そして「溶接」である。
「溶接」については、第一次大戦後、イギリスやドイツを中心に鋲打ち工法より溶接工法による造船の可能性を探ることが行われた。ドイツの「ドイッチェランド」、いわゆるポケット戦艦(装甲艦とも)の登場である。当時はドイツでは溶接を多用し軽量化と工期短縮を目指して,溶接を幅広く採用した艦として世界中に宣伝された。日本もその潮流に逃れまいと、潜水母艦「大鯨」の建造を全面的に溶接を行うこととした。しかし、「溶接工法」(設計・施工)のつたなさが存在する。横須賀海軍工廠での溶接変形事故である。溶接では熱収縮で船体が反り返り(このあたりは「鋲工法」とは逆方向に反りがでることを経験していなかったことも原因の一つである),さらに『第四艦隊事件』である。日本の溶接工法は一旦止まることとなる。
それらの事件を受け海軍は、事故調査委員会が開きその結論として翌年に海軍艦政本部は「艦艇船体構造電気鎔接指針」を出す。更に溶接技術の拡大は必要不可欠ともされ、海軍工廠・艦艇建造造船所の溶接関係者で「鎔接研究會」を作り呉海軍工廠で開催する。そしてその動きは他の企業・大学・研究所も次第に巻き込んでゆく。神戸製鋼・大阪電気(スタッド溶接機製造)大阪変圧器(スタッド溶接機製造)・東京電気(工業用20万ボルト定置式X線検査装置製造)・日本機械学会溶接部門委員会・早稲田大学(溶接研究所開設)・京都大学・東北大学、そして顧問として岡田実京大教授・関口春次郎東北大教授が当たった。この研究会には国鉄・陸軍も興味を示しオブザーバーとして参加、それぞれに独自の動きを始めたが民間会社や大学・研究所への協力を受けるようになる。(三菱名古屋航空製作所で九六式陸上攻撃機の主翼結合金具を溶接構造で作るなどの軽金属、アルミ・ジュラルミンへの溶接の動きも始まった)
その後、大学でも溶接についての講座・研究が始まり、溶接作業主任者などの資格認定試験が始まる。短期・多量生産に向く溶接が多く取り入れられ、幾多の溶接事故もあったものの、継手形状や溶接順序などの施工上の基本事項が確立されることになり、ガス溶接・アーク溶接・シーム溶接などの機器も愛知工業(現 愛知産業)や大阪変圧器(現 ダイヘン)などその専門メーカーができつつあった。また、ベルギー・アーコス社のスタピレント棒はアークの安定性が良く継手性能も良好であり、溶接工からも好まれたために、国産捧製作上の目標になる。国産の溶接棒については中小の企業も含めて生産が続くが中でも神戸製鋼がわが国ではじめての被覆棒の機械塗装を完成させ、イルミナイト系被覆棒(B-17)を開発し、また呉海箪工廠で被覆アーク溶接棒(MK-23)を開発するなど、次第に国産の溶接棒が現場に受け入れることとなる。溶接の方法についても簡易自動溶接をする赤崎式溶接法などが採用され、造船所だけでなく、建築物、列車などへの広がりを見せ始めた。
問題は高張力鋼の溶接である。民間船舶では問題がなくても海軍の艦艇の船体には溶接を多用できない。
民間商船においては上部構造物より溶接が始まり、溶接に向く鋼材や溶接棒、そして工作方法の改良・改善が続く中で、船体自体も溶接での建造が始まる。溶接を取り入れた造船所の努力もあり工員が慣れるに従って鋲打ち建造よりも造船速度が速まり、また溶接に改設計した船体は軽くなることもあって、中規模の造船所も段々と溶接造船を取り入れることとなった。それは後日の『戦時標準船』の量産に繋がる。
神戸製鋼はすでに高張力鋼を開発し各製鋼会社にもその情報を伝える中でDS鋼(マンガンを多く添加しているのが特徴の高張力鋼、補助装甲板として用いる)、そしてHT鋼(高張力鋼)が量産されていた(他にもNVNC鋼・CNC鋼・MNC鋼・VH鋼・VC鋼などが開発された)が、溶接に適した艦艇用鋼板とその溶接棒を開発することとなった。これらにはブレアリー研究所や東北大学金属材料研究所のさまざまなデータが公表され、各鋼鉄会社がそれぞれに工夫を加えた高硬度綱や高張力鋼が生産されることとなった。その中にはもちろん溶接に向く高張力鋼(そしてその専用の溶接棒なども)が生産されるようになった。最初は歩留まりが悪かったが、次第に改良が重ねられ「大和」建造にも取り入れられた。
溶接で特に有効に働いたのが潜水艦建造である。本来「呂33号」型の二隻目である「呂34」が溶接全体で設計図が弾き直されて全面的な溶接建造を行った。その結果は良好であり、建造期間が三分の二近くになり、艦自体の重量も軽くできた。ちょうどその頃に新しいディーゼル機関とモーターができたこともあって、水上速度が1.5ノット、水中速度が0.5ノット上昇した。以来、日本の潜水艦はブロック・溶接建造が主流となったのである。後日、Uボートで図面を携え来日したシュミット博士から溶接に適した高張力鋼(St52)の製法と溶接材料、それに工法などを教わるのであるが、それまでの日本のやり方を基本として向上させることとなる。さらには駆逐艦、海防艦、駆潜艇などの大量生産にこの鋼板や専用の溶接棒などは活躍した。
「蒸気タービン」はそれらの高温に適した鋼材の開発が続く中で、次第に熱効率が良いエンジンが造られるようになった。
日本の蒸気タービンの歴史は 明治 37 年に東京市街鉄道が 500kW蒸気式カーチスタービン 2台を輸入して深川古石場発電所で運転開始したことに始まったと言われている。(現在の地域別の電力会社と異なり、大小の電力会社・発電所が乱立していた)艦船としては明治 40 年に巡洋艦伊吹にカーチス式タービンが搭載された。国産としては明治41年に義勇艦(平時は商船だが有事の際には仮装巡洋艦となる船。募金によって作製)桜丸用にパーソンス式タービンが国産第 1 号船舶用タービンとして製作された。
以降、日本海軍にとって蒸気タービンは艦艇の高速化に欠くべからざるものとなり、海軍も国産化を図るのであるが、甘利義之造機少将はその歩みについて次のように述べられている。
「海軍におけるタービンの主機械の歴史を通覧するに,最初「カーチスタービン」の採用に始まり次いで「パーソンス式」及び「ブラウン,カーチスタービン」を併用し,これらよ り得たる経験に加うるに「ツェリー」及び「ラトータービン」の長所を採りこの間不断 の実験研究の結果より今日の「艦本式タービン」を得たるものにして,今日我が海軍は「タービン」の計画並びに製造に於いて完全に独立せり」
「旧海軍に於けるタービン式機関の歴史」より(甘利義之氏)
そして大正13年竣工の駆逐艦追風型のタービンは「完全に外国技術の制約から脱却した 日本海軍独自の技術によるもので、艦本式(初期は技本式)とよばれる」、以後はすべて艦本式に統一された。(石炭用釜から重油用釜へと釜(ボイラー部)自体は変更された)
もちろん海軍だけではなく、民間の造船所でもその動きは始まっていた。大西洋の高速客船競争(30ノットを超える船も)が太平洋航路における高速化への引き金となり、アメリカの商船に比較し古く低速な日本側の商船は効率が悪く、商業的にも運営的にも不利であった。これに商船不況が重なり、商船会社の倒産・合併等の混乱期にある中で、商船を新たに建造する余裕がどの会社にもなかった。日本の造船所はしばらく雌伏の時を過ごすこととなる。
その間に、特に米・英を中心としたタービン機関は次々と発達を繰り返す。高速回転するタービンとプロペラ軸を結ぶために減速歯車が開発され、その精度が不十分なままなために(或いは特許回避のために)ターボ電気推進(現在のハイブリッド式自動車エンジンを考えると良い、但しバッテリーなし)がアメリカを中心として採用された。(フルカン接手を採用する船もあった)
日本としてはその成果を得るためには自己の船体にタービン機関を購入して取り付ける他なかった。大正10年以降、「楽洋丸」が三菱パーソンス式タービンを装備、ターボ電気推進式の「美洋丸」、二段減速歯車装置付タービンを「箱根丸」に、「らいん丸」・「ぼるどう丸」には川崎ブラウン・カーチス式二段減速歯車装置を採用する。
もちろん、購入するだけでなく国産化に向けて、船舶機関会社は動き出す。三菱神戸造船所が、パーソンス式タービンの製造技術を長崎造船所から技術移入してタービンメーカーとなった。石川島造船所は、独自で補機用タービンを開発するとともに、スイスよりツェリー式タービンの技術提携を行い舶用タービンメーカーとしての名乗りをあげた。大阪鉄工・浦賀造船所(ラトー式)などその他の造船所も欧米のタービンメーカーと技術提携し舶用タービンの製造開始を企画したところが少なくない。
艦成本部も艦本式タービン、そして艦本式ボイラー(釜・缶)の改良が始まる。高温高圧の缶を採用することで機関はコンパクトになり、燃費も向上する。日清戦争前に海軍技術将校宮原二郎が数年にわたる留学によって各種のボイラーを元に「宮原式水管汽罐」を発明、このボイラーは当時の世界の標準価格の半分位と安価で、しかもメンテナンスが簡単、耐久性も高く、加えて燃費が良く、小型でしかも高馬力。そのボイラーをまた改良したものが艦本式ボイラーとして採用される。イ号は英国ヤ―ロ―社の「ヤ―ロ―式」の小改良型で、ロ号はイ号の腐食しやすい欠点を修正した最多生産型(日本海軍艦艇の主流であり、基本的にその改修型が終戦まで使われた)。ホ号は小出力用のボイラーを開発したもので、効率が大変良く、補助ボイラ(艦内の電気供給や炊飯のために常に焚いて置くもの)や小艦艇の動力用として用いらる。そしてハ号は扶桑型の戦艦の改装時に用意されたものである。
最初イ号から始まるボイラーは蒸気圧 20kg/cm2、ロ号も最初はそうであったが次第に主流となるのは圧力30 kg/cm2 温度350℃へと移行後のものである。同じ馬力を出すためにはもちろん高圧・高温の方が良いものの、艦本式ボイラーは整備性、安定性を目指していたためにその前後で推移した。しかし、小艦艇、特に駆逐艦はその速度向上を目指し、また民間船舶の効率性重視(低燃費・小型化)のために高圧・高温のボイラーが一点生産的なボイラーではあるものの開発が続く中で、45kg/cm2・400℃というその頃の日本海軍としては高い蒸気条件のホ号艦本式ボイラーが作成されることとなる。その頃のボイラー開発は主に舞鶴工廠でであり「舞鶴キビ 13号」と称される実験用ボイラーを製作の上,実験を行わせ,44kg/cm2,450℃,150℃過熱程度のものを扱わせていた。(なお,実験用ホ号艦本式ボイラーには 65kg/cm2のものまで造られたともいう)この45kg/cm2・400℃のホ式が朝潮型駆逐艦以降の駆逐艦搭載ボイラーの主流となる。(ロ式もその影響を受けつつ高圧・高温化を図ることとなる)
しかし搭載が決定するまで、石炭から重油の燃料返還、試作缶自体の溶接化(鋲止めでは高圧に耐えきれなくなる)、高圧配管の漏洩、パッキンなどの問題が続き、その搭載自体が疑問視される中で、開発陣は民間のボイラー会社との連携を取りつつ一つずつ問題点を処理していった。
ボイラーの問題と同時的に起こったタービン翼破損の問題である。第一次大戦前後の峯風型の中で輸入したパーソンズ式タービンを採用して40ノット超の高速を発揮(初代島風)したのだが、タービンの動翼(タービン内部には動翼と動かない静翼とがある)多数が折れる事故が多発。海軍省は高速タービンの計画・材料・工作・取扱いに関する審議会を設置して対策に乗り出し、事故原因を出力の出し過ぎと断じた。しかし神風のタービンはあまり大きな問題とは取り扱わず原因の追究に甘さが見られた。この甘さが「臨機調事件」を生み出したと言える。その後、高圧・高温ボイラーが次々と開発される中で日本海軍が誇る「特型駆逐艦」でのタービン翼にも多数の破損事故が起こった。それだけに止まらず他の艦艇にも破損事故が起こる。慌てた海軍は蒸気タービン搭載の艦艇への解放検査を行うこととなる。その結果、タービンの「動翼折損」が新型艦艇のほぼ全艦に発見される。そのために
「臨時機械調査委員会(略称・臨機調)」
が設置され、当時海軍次官の山本五十六中将を委員長とした。次官をトップに据えたこと自体、海軍が本気を示したことでもあるが、ここでタービン設計を担当したいた横須賀工廠造機部長の渋谷隆太郎海軍少将を
「被告」
として委員会から排除、専門家の声を無視する形で行おうと画策した。(このあたりどうも技術的なものよりも政治的なもの、艦艇設計における兵科の意見を押し通そうとする主導権争いが重視されたと考えられる)
これに異を唱えたのが軍務局第三課課長の久保田芳雄大佐であった。
「専門家の意見も聞かずに、兵科のみの意見で『機械』を問答するのはいかがであろう?」
軍務局といえば軍政の中心であり、第三課は機関・艦内工作・艦船の保存整備を担当する課であるので、最終的に予算として書類を出すのがここである。海軍次官といえども論を突き詰めないと納得させることは難しい。(もちろん一大佐が次官の意見を批判するために他の海軍首脳陣が協力したようである)
久保田課長は各種艦艇による幅広い実艦実験を主張した。その意見は海軍首脳陣に受け入れられ、実艦による危険速度域(高速)で長時間の検証が繰り返された。臨機調はその結果を受けて再度原因の調査が始まる。
その際に各種の海軍艦艇だけでなく、民間船舶のタービンを含めて破損した状況を整理した。
「故障の代表的なものは翼及翼車の振動に起因する翼の折損、亀裂で、その処置には代 々の艦本タービンの設計当事者が辛酸を舐めたもので、この問題が大体に於いて解決されたと認められるのは極めて最近のことである。この問題程紆余曲折のあったものは少く、造機関係では他に類を見ない」
「海軍タービンが始まって以来のタービン事故の記録が完全に残されていたのである」
「技術の本質を手っ取り早くとらえるには事故故障の記録からいっていくのが最も効果 的であることを痛感していたからである」
「旧海軍に於けるタービン式機関の歴史」より(甘利義之氏)
膨大なデータの処理のために、海軍はアメリカのCTR社(後のIBM社)よりキーパンチ機(キーボード操作でカードに穴を開ける機械)、タビュレータ(パンチカードを読んで小計・総計を計算して作表し、結果を印刷する機械)などを急遽取り寄せ、破損についての整理を行ったが、カードは300枚近くなった。(最終的には終戦までに海軍艦艇500枚以上、民間船舶100枚以上となる)
このような地道な調査と実験の繰り返しの中でこのタービン翼の破損の原因をさぐり、ついには
「タービン翼の振動」
に原因があると特定する。つまり「タービン翼が自ら振動して壊れる」という事象である。このような成果はどの会社・機関も発表しておらず、この調査が初めて明らかにした。
この結果を受けて、設計が見直されるとともに翼の材質・形状や取り付け角度・植え付け部の改良などと改め、艦本式タービンは改修されることになったのでる。ただ、このことによってタービン自体の重量が増し、効率がやや低下したことを受け、更に艦本式タービンは再設計されることとなる。艦成本部と各工廠の機関部が研究会を立ち上げ、材質面や工作などの問題から川崎造船、三菱造船、神戸製鋼などの民間企業、そして東北大学、ブレアリー研究所などが参加し、タービン翼だけでなくタービン全体、また減速装置の改善を図った。
これらのことを受け、艦本式ボイラー・艦本式タービンは整備性・安定性を目指す中でも高性能化への道をたどっていくこととなる。また、民間の動きは二通りに分かれて行く。
一つはより高圧・高温のボイラーと新型のタービンを活用した「高速化」の動きであり、新田丸級貨客船、そしてそれに続く橿原丸級貨客船などは戦時の空母改装を考えていたこともあり25ノット以上を目指して三菱・ヤロー式改良型のボイラーとタービンを搭載した。(開戦後、すべて空母へと改装されるのは皮肉である)
もう一つの動きは量産である。日本の民間船舶はディーゼル機関への歩みを進めてはいたが、未だ石炭炊きのボイラーを使っている船もあって次の船にもタービン機関が欲されていた。そして欧州を中心としてボイラー・タービンの輸入も途絶えておらず、企業それぞれにボイラー・タービン、そして減速装置の技術を学んでいた。その中で川崎造船を中心として大阪鉄工所などの関西・瀬戸内の中小企業群は自己のエンジン部門を向上させるために量産型を製造する道を選択した。それぞれに得意な部門に協力体制を引き、いくつかの量産型ボイラー・タービンを作製した。
量産型の利点は何と言ってもその費用の低下である。これまでのようにそれぞれの造機(エンジン関連)企業にまかせるだけでなく、石炭炊き・重油炊き(混成釜)などの円形釜を中心として、その出力(船舶の大きさ・必要馬力)によるいくつかのタービン・減速機の型を用意してその中から船舶に合う適切なものを選択する方式である。もちろん次世代のことを考えると5年もする中で時代遅れのエンジンになることもあり得るのであるが、バランス良く性能と安定性・整備性・燃料効率を優先した現在の技術・生産のことを考えての設計であるので、搭載した場合は10年は陳腐化しないものとも言えた。そしてその製造の経験は5年後の「次世代量産型」に生きるとこの計画に参加した企業は考えていた。
その後、この量産型のボイラー・タービンはより簡略化された後に『戦時標準船(戦標船)』及び、海防艦・駆潜艇などの基本的な『戦時標準型タービン』として採用され、戦時中の艦艇・船舶の大生産を支えることとなる。その時に戦前から量産に着手した中小の企業群の働きは戦後、日本が「造船大国」となる下地ともなる。
いかがでしたでしょうか?
今回は、言いたいことが多すぎて、何を柱にしようかと悩んだ末に
「海軍艦艇」・「民間船舶」
を中心に、
・粉末合金
・高張力鋼
・高圧・高温ボイラー・タービン
・溶接
の問題を解決するためにどうするか…と頭をひねりました。
しかし「政治」がからむとよく分からなくなりますね。問題解決のためにちょっとだけ政治に触れましたが、「権力争い」のために無駄な時間を費やした(現実世界では丸々1年、このころの技術の向上を考えるとかなりの時間です)ことを回避できれば、少なくとも艦本式ボイラー・タービンの400度対応型の採用が1年(下手すると2年)は早くなるのでは?
今回も、「研究会」が様々に出てきます。(本当にあったものと、この文章上のものとは確かにありますが…)いろいろと調べていくと思った以上に大きな企業だけでなく、中小の会社がそれぞれに苦しみながら技術・生産の向上を目指しているのが分かります。関係の会社を調べてみると
「へぇ? そんな昔からあるんだ?」
と、今回出している会社は戦前に立ち上げてほぼ現在も続いている会社です。そしてその専門分野を磨き続けて今日に繋がっています。ちょっとだけ周囲との関係を築いていけば飛躍的な(?)活躍ができたのでは?
まぁ妄想にしか過ぎませんが、先人たちの頑張りがあっての今の日本です。それを少しでも広めたいと思ってます。
しかし、日本タングステンが戸上電機の子会社として立ち上がったとはびっくりしました。(亡くなった伯母が戸上で働いていた)世間って狭い…
次は
ディーゼル機関
になる予定です。
例の三菱製? 出したいなぁ~
船舶用もだけれど、機関車にも手を伸ばしたい
(…なんてしてるから、ますます書き上げるのが遅くなる 苦笑)
たぶんどったんばったんと苦しむので、公開は遅くなると…
ところで…
「日本海軍が買った魚雷艇用のディーゼル機関が『飛行船用ではないか?』と激怒した」という話、何回か聞いたことがあるけれど…
今、調べてみても分からない。どこの本に書いてあったっけ?
誰か知っている人いないかなぁ~?
ではでは。




