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排気タービン過給機実戦へ(最初の排気タービン過給機付き航空機)その1


みなさん、おはよーございます。

え? 夜中?

いや、さっき起きたのです((*^▽^*))

年寄りって、寝る時間がいろいろでして…


さて、新たなお題として「排気タービン過給器(ターボ)」を選びました。

実は僕の車遍歴の中でターボ付きは3車あるのですよね。


・三菱ミニカ・ターボ(ガソリン)

・トヨタソアラ・ターボ(ガソリン)

・三菱RVR・ターボ(ディーゼル)


ミニカは軽自動車だから車体も軽いし発進時のドンっていう加速が楽しかった思い出…


で、いろいろ調べていく中で、

アウグスト・ラトウ(ラトー)

という人物名にであいました。しかも陸軍が排気タービン過給機を輸入している…

おぃ、捨てるなよぉ~~~!

もったいないだろうが!

てな形で始めました。


では

お楽しみください。




「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ……」


と、王子さまがいいました。


    サン=テグジュペリ/内藤濯訳『星の王子さま』


◇         ◇



 B29は、本来、南米の「反米(アメリカ嫌い)国家」に対する抑止力として作られたということを知る人は少ない。

 南米は大航海時代以降ずっと西欧列強に搾取され続け、第一次大戦以降の「民族自決」的な雰囲気の中でもアメリカからの横やりに反発を覚えていた。

ドイツは第一次大戦後、敗戦国として貿易を大きく制限される中、数少ない輸出先である南米との経済関係が深まり、それに伴いブラジルやアルゼンチン(一時期は世界でも有数の経済大国)などにドイツ系移民が多く強い結びつきがあった。

 アメリカとしては中米に既に影響を及ぼしており、南米へも経済的・軍事的にもその手を伸ばそうとする中で、「親独」の国家は邪魔でしかなかった。つまりB29は「軍事的圧力」として誕生しようとしたのである。(「砲艦外交」の航空機版と言える)

 それは第二次大戦によって変化する。開戦当時の圧倒的なドイツ空軍を飛び抜けた性能の航空機で屈服しようと考え、性能要求はそれに併せて高性能なものとなっていく。そのために開発はアメリカの工業力を以てしても困難であった。爆撃機としては数世代を一気に跳んだものであったためである。そして、ドイツにはB17を大量投入し、そしてB29の矛先はドイツではなく日本に向かう。




「敵機集団、高度9,000メートル………」


 ノイズと共に、飛行帽の中に仕込んでいるイヤホンから女性の声が聞こえる。2年ほど前から試験運用(実践運用に移ってはいるものの、未だ正式な名称となっていない)されている「防空指示所」の音声連絡は女性連絡員(連絡員アナウンス養成学校を経て軍属として採用)へと切り替わっていた。無線電話のノイズの中でも女声の方が男声よりも聞き取りやすいという判断らしいが、搭乗員たちはかなり気に入っていた。(だって男だもん)搭乗員の中では、個々にお気に入りの連絡員(ただし顔も名前も分からず、あだ名で通っている)がいるらしい。ちなみに松中少尉は今その声を聞いている『横須賀さくらさん』がお気に入りである。すっきりとした歯切れの良い高音。


「………迎撃お願いします」


 本来は「迎撃せよ」という命令・指示であるが、女性らしい締めくくりにも指揮所の皆も角を立てることはない。(だって男だもん)搭乗員からも好評であったし、間違った連絡でもない。(一部の四角四面な将校は、周囲の圧力で黙らせた)

 指示があった方角に目をこらしていると、ポツポツと黒いごま粒のような姿が見え始め、キラリと反射光を見つけた。隊内無線のスイッチを押しながら酸素マスク内のマイクに怒鳴る。


「カク、カク、高度を上げるぞ、続け」


松中少尉は、随伴する3機とともにその方角からややずらしてあと1,000メートルを稼ぐためにスロットルを開けた。火星エンジンは全開、熊のうなり声のような音を立てる中で高速で回っているキーンという高音が目立ってくる。ちらりと後方を確認してみたが、3機とも不都合はないらしい。


「整備員に感謝しなくちゃあな」


と誰に言うこともない言葉をつぶやく。

 この高度では、ちょっとした不備がすぐさま高度を下げる。一瞬間後に1,000メートル降下したなどは当たり前の様に起こりえる。昇降舵や方向舵に急激な運動をさせずに大きく回り込みつつ機体を上へと持ち上げた。ここまで近づくと、機体上部の旋回銃塔が動き出すのが分かる。パッパッと発火している、遠すぎるせいか銃弾は下の方ばかりを通り過ぎている。小隊を2機ずつに分ける。


「戸田、突っ込むぞ」


防御機関銃のオレンジの雨を無視して、緩降下で2機は端に位置するB29の主翼付け根を狙い、20㎜機銃を撃ち込んだ。まず自機、そして僚機、それぞれに4挺で150発ほどを消費し、B29の主翼は主桁が折れたらしくポキリと折れ、火も噴かないままにそのまま止まった竹とんぼのように空を下っていった。

 2機は緩降下した速度を生かして上昇をする。近くなったために他のB29からは激しく機銃がうち鳴らされる。そして、高度を稼ぐと緩く横方向のループを行い、別のB29へと後方よりにじり寄った。そして射撃、一瞬間、B29は火を噴いたかと思うと下火になりやがて消えてしまった。しかしじりじりと速度が落ちていく。見てみると左内側のエンジンが止まっていた。

 すでに酸素マスクをして1時間近くが過ぎようとしていた。一万メートルに達してからだけでも30分。酸素ピン二本は哨戒中、途切れ途切れにだましだまし使っていたが戦闘中には常に開けていたのでそろそろ時間切れだろう。弾はまだ1攻勢分はあるのに難しいことだ。


「カク、カク、アツマレ、アツマレ、帰るぞ」


たぶん他の機も酸素切れ近いだろう。防空指揮所にも連絡を入れる。


「………帰投許可でました、周辺に敵機は確認してません、お疲れ様でした」


『横須賀さくらさん』の声に松中少尉は、生き残った実感を味わった。

4機の雷電33型乙は、その大きな胴体を翻して基地へと帰投した。

小隊の戦果は2機撃墜、3機撃破。こちらも3番機が数発の機銃弾を受けていたが無事に生還した。


 戦後、出版社に勤めていた松中は上司の世話で見合いをすることとなる。優しそうだがやや地味な相手と会って多少会話する中で、

「あなたの声に一目惚れしました」

と結婚を決めてしまう。果たしてその人は『横須賀さくらさん』こと、村佳亮子であったことを知ったのは、結婚後のことであった。


 雷電という機体は、日本海軍の局地戦、つまり基地防空のために用意されたものである。その頃、日中戦争時、日本海軍は96式陸攻を中心として陸上より中国軍を攻撃していたが、中華民国空軍の爆撃機(アメリカB10(「馬丁式重轟炸機と称された)・ソビエトSB2など)隊により陸上基地に被害を受けており、その戦訓を受けた海軍が三菱に対して「十四試局地戦」として発注したものである。その要求の中で最初から「排気タービン過給器」を装備することとなっていた。



さて、クイズ。

日本で最初に排気タービン過給器を付けたのはどの機体だろうか?


日本で一番最初に排気タービン過給機を付けたのは陸軍の「甲式四型戦闘機」(フランスのニューポール・ドラージュ NiD 29の輸入機・国産化機)の中の、

「試製三型戦闘機」

である。

この機体は、1926年に日本で製作されたラトウ式ターボコンプレッサー(過給器)の複座実験機、つまり、日本で最初の排気タービン過給機の搭載機である。

ただ、計画だけならば更に遡り、「A-3(校式A-3 とも)」長距離三座偵察機(司令部偵察機の原型?)という機体がある。フランス人技師アントワーヌ・ド・ボアザンを中心として設計された国産機(?)で、試作機が完成したのは1924年。エンジンにはラトウ式ターボコンプレッサーの実験的装備が予定されていたが、実現しないままに終わった。

ターボ過給器に目を向けた時期は、世界的に見て決して遅いものではなかった。


 フランス人のエンジニアにアウグスト・ラトウ(ラトー)という人がいた。現在の蒸気タービンを実用化し「圧力複式衝動タービン」(ラトウタービンとも)を開発したエンジニアの一人であり、そして「排気タービン過給機」の発明者(異論もあるかもしれないが、少なくとも実用的なものを作り上げた)である。

 効率的なターボ圧縮機(どうやら鉱山の縦坑などに空気を送り込むためのポンプを作ろうとしたらしい)を作ったラトウは、単段の軸流タービンと単段の遠心圧縮機からなる排気ターボ過給機を1918年ごろ航空機用に実用化し、第一次大戦末期、フランスの戦闘機に搭載されたルノー・エンジンにターボを取り付けた。


 第一次大戦は「新兵器の実験場」とも呼ばれるが、航空機もその一つである。偵察機として投入された当初は出会った敵機同士が手を振って別れたなどというが、邪魔であるのは間違いない。すぐさま搭乗員が機内に持ち込んだ小銃やピストル、ついには機関銃で撃ち合いを始め、レンガ、手榴弾や砲弾の弾頭を利用した爆弾で地上攻撃を行う。

(『青島要塞爆撃命令』という映画があるが、場所こそ違うものの、この時期の航空戦が味わえるので未見の方はぜひ。搭乗席の横でひもに吊された小型爆弾がガラガラ音を立てるシーンは必見。特撮監督はかの円谷英二氏)

 航空戦が変化したのは「エンジン同調発射装置」の発明にある。機関銃の弾丸がプロペラを貫くことを回避できる装置は機首部に機関銃を置くことを可能とし、我々が「空中戦」と言われた時に想像するシーンが始まったのである。(それまでのプロペラを回避するためのさまざまな工夫は、それなりに面白いものではあるが…「プロペラが邪魔なら前に銃座を設ければいいじゃない?」とばかりのスパッド A2、あれだけは無理無理)

 ただ、くるくると回り続けるような空中戦はさほど多いわけではない。基本的には、さっさっと先に見つけ、相手に見つからないように近づき、そして一気に攻撃を掛けるという「一撃離脱」こそが第一次世界大戦でも多用された戦法である。(だって安全で有利だもん)いわゆる空中戦はその後の残敵に対するものに過ぎない。ならば有利になるためには?敵機より速度・高度が必要であることは言うまでもない。未熟であったガソリンエンジンは第一次大戦の中で飛躍的に発展する。しかし、大馬力のエンジン単体だけでは「高度」に対応できなかった。そこでラトーの独創的な「排気タービン過給機」は、高度に関係なく、エンジン内の空気圧を一定に保つことができたため、空気が薄い場所でもその性能を発揮することができたのである。フランスの航空機会社は狂喜した……わけではなく、もう戦争は末期であり、この過給機自体はあまり活躍する必要がなくなっていた。

(ラトウ自身はこの過給機を気に入っていたのか(はたまた宣伝のためか)、戦後のパリ上空を過給器付き飛行機で散歩していたというが、どの機体なのかは不明)

エンジン単体ではこれ以上の発達がないと、この過給器に目を付けた国がある。その国の一つが日本である。その頃の日本陸軍は航空機をフランスより学ぶことが多かった。その中で排気タービン過給器の存在を知ったのである。


 「試製三型戦闘機」は、そんな中で生まれた。しかし、期待してた以上(以下?)に上手くいかなかった。新規の技術に興味はあるが、

「熱しやすく冷めやすい」

のはこの頃の日本陸軍の体質とも言える。

(金かけてんだろ?! もっと大事に育てろよ!!)

日本陸軍は、「排気タービン過給機」を民間に放出する。簡単に言うと

「興味のある人、手を上げて!」

である。

「はーい」

と手を上げたのは、三菱・日立・石川島であった。

 それぞれにその『価値』を見いだしていた。ちょうどその頃の船舶・海軍関係において、蒸気タービーンによる艦艇用の高速化が図られようとしていた。(かの「弩級」の歴史的言葉を生み出した英国戦艦「ドレッドノート」の影響。(強調接頭語の「ど」はその時代に生まれた……思いっきり民望書房レベルの嘘です (*^▽^*)))そしてアウグスト・ラトウという名は、航空機関連の中ではさほど名を上げていないが、始まったばかりの蒸気タービンの世界ではそれなりに「知る人ぞ知る」の名(実は現在、世界的にはラトウ式タービンが主流で、日本だけはなぜかカーチス式タービン(だけではないが…)を作ってる不思議、特許のせい?)であり、手がけたものをうやむやにすることはできない、技術の一端を知るためにはその新技術に直に触れたいというのは研究者としては当然のことであろう。

(筆者は文系であるが、30代の頃尊敬する大先生(当時85歳)に初めて会った時には興奮の余り話が上手くできなかった。たとえそれが広島大学附属病院歯科受付前の暗い待合室であったとしても…「弟子入り」を断られた苦いおもひで…………)

 レシプロ式蒸気機関(基本は「黒船」の時と同じ、蒸気機関車を思い出すと良い)は蒸気でピストンを動かす(つまり縦運動であり、次に回転運動へとクランクなどを通す必要がある)が、蒸気タービンは直接回転運動である。高速回転できるし、効率は良い。戦闘艦が蒸気タービンに移る必然はあった。また、第一次大戦後のヨーロッパの復興に伴い大西洋での客船の高速化競争などによって蒸気タービンは次第にその範囲を広げた。(低速用にはレシプロ式はかなり長く生き残り、第二次大戦時のアメリカのリバティー船にも利用されている。ディーゼル機関の発達で現在ほぼないけれど…スターリング? あれは別)

 三社はそれぞれに排気タービン過給機をいじり回した。どうもディーゼル機関に相性が良い(ディーゼル機関は大量の空気を気筒に送り込む必要がある)ということが判明し、三菱は戦車と造船部門で、石川島も車両(ディーゼル機関)と造船部門で、そして日立は発電機(ガソリン機関とディーゼル機関)での取り付けを考慮した。(ディーゼル機関車への搭載も考えられていたらしい)三菱は国産化したイスパノ(ヒスパノ)エンジンにも取り付けて実験研究を始めていた。この頃、航空機の高速化・高空化対応のために、世界的にも「過給器」の研究が始まっていた。

 最初は破損もあり、それぞれの会社でその排気高温度対策が悩まれた。地上のディーゼル機関に対してはなんとか実用化のめどが立った(それでも数年がかかるのだが…)、ガソリンエンジン、特に航空機用に対応できる小型・軽量なものができるまでには困難が続いたのである。

 その根底にあったのは、日本の冶金・合金に対する歴史と能力の低さである。東京大学をはじめとして、いくつかの帝大には冶金関連の学科・研究所もあり、毎年、幾ばくかの学生が出されていたものの、基本的には鉱山から出される鉱石を洗練することに人的資源が割かれており、今でいう「インターン」も石炭鉱山が主であった。(日本の近代的な鉱山が石炭鉱山に集中していることもあるが…)


第一次大戦後、その後の金属の世界を変えるものがイギリスより販売される。

「ステンレス食器」

その存在は、現在「百均ストアー」の調理道具コーナーにはありふれたものであるが、登場当時は大反響を受けた。銀色のカトラリー(ナイフとかフォークとか…)は、基本的には『銀製品』であり、銀はさまざまなものに反応しやすい(おかげで「毒」の有無を判断するためにカトラリーに使われていた)ために曇りやすく、使う貴族・富裕層はいいとしてもそれを管理する下々の雇われ人にとってはやっかいな存在であった。ステンレスならばそのような管理はほぼいらなくなる。そして富裕層に憧れを持つ人々は煌めくステンレス食器は手頃に手に入る(もちろん安くはないが…)ものである。しかも管理する(曇りを取るためにキリキリと磨く)必要はない。流行らないわけがない。



「砕けた?」


陸軍の『戦車研究会』は第一次大戦後に設立され、フランスやイギリスの戦車を輸入して国産化のための方策や戦術研究を進めていた。


「はい、見事に砕けました。徹甲弾が、です」


装甲という「盾」に対する「矛」の存在。


「熱処理で硬化するにはもはや限度かも知れません。材料から、もしくは製法から…根本から考えないと想定される敵戦車の装甲は抜けません」


戦車研究会の面々は日本でも機械にはかなり詳しい者、新しいものに対する拒否反応を示さない者が集められていた。


「主任、装甲板も国産するんですよね」


「軟鉄で作るわけにはいかない。鋼鉄を熱処理して…、おい、装甲板もか?」


「ええ、敵の速射砲なんかに狙われると…海軍さんからもらえませんかね?装甲」


「馬鹿言え、鼻で笑われるのが関の山だ…神戸製鋼に頼むしかないか…」


 その頃の日本陸軍の最大の兵器工場は大阪工廠であるが、日本でも最新鋭といえる工作機械が並んでいた。その工廠でも「戦車」のような車両(初期の国産トラックもこの工廠製である)はさほど経験もなく、そのような場合周辺の民間企業に必要な部品・材料製造に応援を頼んでいた。そんな民間企業の一つが神戸製鋼所である。

 神戸製鋼所は小林製鋼所という、第一次大戦前後の日本では珍しくないタケノコのように生まれては倒れていく小規模な製鉄会社であったが、経営の悪化に伴いその頃急激に伸びていた鈴木商店に買収され、神戸製鋼社として再開した。(買収した鈴木商店大番頭『財界のナポレオン』こと金子直吉は後に「その日の出来心・・・」と語る)再開したものの、日本の製鉄関係は八幡製鉄所を中心とする官営製鉄所を守る意味もあって民間企業は虐げられた存在であり、神戸製鋼社は第一次世界大戦後の不況の中で企業的経営の波を大きく被っていた。そのために単純な製鋼ではなく「特殊鋼」への道を探っていた。鋼鉄では価格が官営製鉄所には及ばない(しかも補助金付き)、ならば特殊用途の付加価値の高い商材の開発に注力しようとしたわけである。ちょうどその頃、同じ鈴木商店系列の石川島も船舶用の蒸気タービンや手を付けた排気タービン過給機のために耐熱に優れる特殊鋼を必要としていた。


「一緒に行かないか?」


と、誘ってくれたのはかの陸軍技術研究所車両部門の実質的長である原乙未生。神戸製鉄所の特殊鋼部門は歓喜した。もちろん旅費などは自腹・自弁であるが日本陸軍(政府の担当者を含む)と同時に行動することの有利さ、各地の大使館での情報を得る有利さは金銭に換えがたいものがあった。

 この遠征は、実質的には失敗であった。第一次世界大戦後の新しい技術を日本に取り入れようとした中で、イギリスと共に「クリスティー戦車」を手に入れようとしたのであるが。クリスティーはアメリカに採用されなかった戦車を

「いい戦車なのだからアメリカは必ず採用する」

と、なんだか宗教に気触かぶれたようにブツブツとつぶやきつつ、(ちなみにアメリカ陸軍は興味を示したものの議会が握っている「予算」という厚い壁にぶつかり手も足も出なかった)望んでいたイギリスにも日本(クリスティーは日本嫌い)にも反応せずに、


「そんな細けえことはどうでも良いんだ」


とばかりのソビエトに密輸入同然に奪われて(後年クリスティーは後悔したと言われているが、一言言おう「馬鹿が!」)


「特許料? なにそれ? うちが開発した(開発したとは言ってない)ものだろ?」


とばかりに大量生産(BT戦車・T34戦車系列など)され、その後もソビエト戦車の懸架方式に多大な影響となったことを考えると、クリスティーもお馬鹿なことをしたものだ。

 ちなみにイギリスは農業用トラクターとして輸出申請したり、部品レベルにまで解体して偽装、ようやく入手し、クリスティー式懸架の巡航戦車を製作した。また日本はソビエト軍のBT戦車を鹵獲して、その技術を手に入れた。

 日本陸軍は、やや旧式なルノーFT戦車(全周砲塔を持つ、概念としてはそれなりに近代的な戦車ではあったが、フランスは戦末に大量生産して余っていた。ちなみに第一次大戦の初期までフランスで使われていた)を手に入れるだけで不満を残すままに帰国の途についた。

 しかし神戸製鋼社と石川島の技術者は、別のものを手に入れた。イギリスのブラウン・ファース(Brown Firth)研究所への伝手である。正確に言うと研究所長をしていたハリー・ブレアリーとの伝手といえよう。ブレアリーは第一次大戦前に鋼の炭素とクロムの添加量の比率を変えて、鉄の耐磨耗性を向上させる合金鋼の研究を行う中で、今のステンレスの原型を作ったのであるが、その頃は、それに加えてニッケルを混ぜる次の合金についての研究をしつつも、ステンレスの特許を巡って合意できなかったこともあってブラウン・ファース研究所やその出資した企業とギクシャクしていた。


「うちに来ませんか?」


神戸製鋼社から提案する。


「こちらの研究所と同等以上の研究所とあなた自身への待遇を保証します」


 技師は電報によって神戸製鋼本社と連絡し合い、それは親会社の鈴木商店にまで伝わった。一介の技師では約束できないものも、正式な契約として鈴木商店のロンドン支店で交わされた。

 こうしてブレアリー一家は、神戸の旧外国人居留地に居を移し、神戸製鉄所内に設けられた研究所に通う日々となる。それは、同じ旧居留地に住むドイツ人(潜水艦関係でドイツ技師が多数住んでいた)から川崎造船所、そして海軍側にも伝わっていった。そして、その話は帝国京都大学・大阪大学の冶金関連の学科に伝わり、共同での研究が始まった。


「大学も出てない俺が、大学生にあれこれ指示できるなんて!」


と、喜びと戸惑いを感じたブレアリーであった。(この指導をスムーズにするために『特任講師』の名称を京大・阪大からわずかながらの棒給とともに与えられる)


 その頃の海軍も陸軍と同様、イギリス製の装甲板と国産の装甲板の違い(有名なのがイギリス製の金剛と日本製の同級艦との比較である)に


「スエズ以東で戦艦を国産できる唯一の国」


と豪語していたものの、鉄鋼関連では十分な実績を上げることができてはいなかった。値段的には世界の倍近く、政府からの補助金を利用しても海外との競争には対抗できず日本国内で消費するほかはなく、特に第一次大戦後の鋼鉄不況の中で売り先がなかなか定まらず、また鉄鋼会社の余裕がないために研究が進まず、冶金・合金の世界では10年以上の差があっただろう。


「このままでは、私の(素晴らしい)設計が生かせないではないか?」


八・八艦隊の設計後すぐに軍縮状態に陥る中、平賀譲は技術研究所で叫びまくっていた。周囲は「いつものことだ」と、うんざりした目をするばかりであった。


「平賀(技術)大佐、僕で良かったら動きましょうか? ちょっと興味もあるし…」


それまでのさまざまな研究・開発部門が、海軍技術研究所として統合・発足したのが1923年(大正12年)、昭和に入ったばかりの頃にちょうど早稲田大学卒業後に入所した山田啓技術少尉がおずおずと手を上げた。若者の「無鉄砲な怖いものなし」の行動であったのは周囲のぎょっとした表情でも分かる。


「貴官が? おもしろい」


人を人と思わない平賀も面白そうに山田少尉を見つめた。

平賀はすぐさま伝手をたどり不況中とはいえ、その頃に百万円近い資金を集めた。山田は勝算があったわけではないが、関西を中心とした冶金・合金のための「ブレアリー研究所」(正式名称ではないが、神戸製鋼社と阪大・京大を柱とした企業研究所全体はそう呼ばれつつあった)との連携を図ろうとした。


「石川島でもやってますよ」


 そう、鈴木商店系列もあって石川島は関東地域の「ブレアリー研究所」の出張所・窓口的役割を果たしていた。山田は石川島と海軍技術研究所、そしてその関連である日本火工株式会社(現 日本冶金工業。本来は消化器を作る会社であったが、その関連からか火薬を作るようになっていた。山田は化学(火薬)が専門でありこの会社と関係があった)や日立などの企業、最後には帝国東京大学の冶金科を巻き込んで、関西との研究の連携を取りつつ、まずはステンレス鋼を一貫的に作り始めることとなった。(日本のステンレス鋼を作り始めたのはその努力もあって神戸製鋼と日本火工とがほぼ同じ頃に量産体制を作り上げる)

 海軍自身もグズグズしていたわけではない。主砲弾の強度を上げるために大砲弾体を「粉末冶金」で作る研究会発足したり、標的艦となった「土佐」の実験結果を受けて砲弾や装甲板の製造に関する技術向上を目指すために冶金・合金に力を入れ始めた。

 山田自身もこの世界にどっぷりと足を入れ、自分自身の研究を発揮しようと多摩熱処理有限会社(現 多摩冶金株式会社)を立ち上げた。当時は技術将校の傍らで親類や妻の孝子の協力もあって手作業同然で熱処理を行い小部品の熱処理をしていたが、昭和初期の恐慌時代を抜けたこと、中国方面の戦争の激化を背景に、技術や会社は次第に発展する。(山田自身は海軍を辞めようとしていたが、関東における冶金・合金研究の連絡の要となっていたために第二次大戦後までその地位に就いたままであった)


 このように陸軍の戦車に対する研究を糸口として、「ブレアリー研究所」を立ち上げ、各種の大学、企業、製鉄所・製鋼社を巻き込みつつ、海軍にもその輪をひろげ、日本の冶金・合金関係の研究が進んでいくことになったのである。


その裏で今はなき鈴木商店の影響があったのは歴史を紡ぐ糸の1本であったかもしれない。





お楽しみいただけましたか?


今回の話の柱は

日本の冶金・合金

をどうする?

ということなのですよね。


今でこそ、世界を席巻する勢いの「特殊鋼」生産を行っていますが、第二次大戦以前の情けなさってないのですよね。(ジムニーは海外での修理・修繕のためにわざと前世代の鋼板を使っているって話、ホント?)


どこで「時代」を変えようか?


と、実は幕末の佐賀と伊豆韮山などの反射炉関連をいろいろ調べてました。

 伊豆の精錬方はどうも明治時代に東京での関連の仕事に就いたみたいですけれど、佐賀の人々のその後はよく分からないままなのです。(参加した人もいるかも…)つまりせっかくの人材もうやむやなままになっている点、もったいないと考えて当時反射炉を設けた鹿児島と大分(島原藩の飛び地)、萩などの人を集めて長崎あたりに冶金の学校作ろうかな?とかも考えました。しかし、反射炉って建設費もそうですが、運営費がすごいのですね。年に10,000両(10億以上)という数字もあります。一つの藩で運営するって…

ちょっと難しい…ですので、次の機会として日露戦争後の八幡製鉄所、釜山の三菱製鉄所の設立の話にしようかとも考えましたが、とっかかりがないのです。技術的な飛躍の…

ということで、第一次大戦後の混乱期に、

ハリー・ブレアリー

を日本に招きました。(研究所を辞めた後、何をしていたのか分からない)

その頃の神戸には、ドイツ人技師も多く住んでましたし、海軍関係の技術吸収に積極的です。現在の神戸製鋼所も「特殊鋼」・「線材(鉄線・バネ)」・「素材」には力を入れてますし、海軍とのつながりも深いし、第一次大戦後後に技術的なあれこれを輸入していたりしてますので、他の官営製鉄所より遙かに組み合わせがしやすく、ちょうど良いかな?

以前の『叭号観測機』からみで調べていくと、神戸製鋼社が『テ号観測機』を作っていたり(大阪大学からみ?)、『アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン』を国産したりしてます。

これで、ちょっとは日本が変わるかな?


唐突に山田啓氏を出しましたが、冶金関係の人がいないかなぁ~と調べていたら、戦後に会社を興されていましたので、例の前倒しです(苦笑。本来は化学部門で火薬の研究をされてましたので、どう考えても平賀氏と話せる階級・部署ではないけれど、技術研究所がらみで…若手の無鉄砲さで強引に押し込みました。多摩冶金株式会社の皆様ごめんなさい。m(__)m


そうそう、せっかくなので……

日野熊雄技術少佐氏という方を見つけました。かの日野熊蔵陸軍中佐(日本初のパイロット・記録的には徳川氏ですけれどね)の次男さんなのですが、火薬が専門なのです。もしかしたら山田氏の同期か先輩かなぁ? 戦後、ロケットの研究にも携わられたとか…。やっぱり軍隊の世界って狭いですねぇ~


ちなみに…多摩冶金のホームページを作っている人、「技術大将」(技術部門は中将まで)などという階級はありません、年齢的にはたぶん「技術大尉」か「技術少佐」あたりかと…




次は

艦艇関係の蒸気タービン・車両のディーゼルエンジンあたりの話になると思います。


航空機?

あははは、

何それ? 

美味しいの?




ではでは。



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― 新着の感想 ―
[一言] もしかして冶金技術上がることで鉄道車両用の気動車ディーゼルエンジンも進んで西成線列車脱線火災事故も回避できるかも、そして一気に千葉当たりで気動車天国が。 戦後の無煙化大貢献したものの設計その…
[良い点] 新章来た またニッチwな括りで楽しみです。
[一言] 日野熊造は日野式自動拳銃と言うブローフォアード式の奇妙な拳銃を作っています
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