一式重爆撃機(満州戦線・そして戦後)~君は、まっぱだかじゃないか~
皆さま、
こんにちは。
え?
前回の日の PV小計990 ?
新記録ですね…
なんかどっかで影響があったのでしょうか?
ちょっと気になったのが、
パソコン版440
スマートフォン版550
あれ?
この文章はパソコンで見ている人が、6対4くらいで多かったのですけれど…
(ちなみに別垢の「ノクターン」小説は、スマホ版がはるかに多い)
何かあった???
ついに、ついに…最終部です。
(´;ω;`)ウゥゥ
こんなに長くなるって思わなかったよぉ~~
なんでこんなに長くなったって?
書き手が悪い…………否定できない……
理不尽な戦いで死んだ者たちに、
それこそ
こうすれば良かった!
などと、後付けばかりをしてしまって申し訳ない思いです。
でも…
そんな無意味な戦いを少なくするためにどうすればいいのか?
それをなるべく歴史上に破綻しないようにするために…
と、やっぱり長くなりますよね。
「あんた、バカぁ?」
頭にそんなセリフが……
まぁ
お楽しみください。
「未来のイメージ」は持っているか。
持っていないなら、今からでも作ろう。
それが人生の地図となって、
窮地のあなたを助けてくれるだろう。
ユークリッド (エウクレイデス)
◇ ◇
「ソビエトが攻め込んでくる?」
「そんな馬鹿なことありえんよ」
昭和19年の夏、複数の情報筋から
『ソビエトの満州・樺太(・北海道)への侵攻』
が囁かれた。その情報筋の中にはスイスを中心とした複数の日本大使館や、「シェル石油」(前述の様に定期的に日本にタンカーを回していた)・東芝を通しての「GE」(未だにどのような手段で戦時中に連絡を取り合っていたのかは分かっていない)などの共産主義自体を嫌った民間会社・組織があった。
陸軍省や大本営陸軍部の中ではこの情報は軽く見られ、似非情報扱いする者もいた。マリアナ諸島やフィリピン戦の忙しさに紛れ、この情報は書類棚の隅に片付けられることとなる。しかし、それを拾い上げた者がいた。
阿南惟幾大将である。
東条首相の「お気に入り」ばかりになった陸軍省の中にもそのことを嫌う一部が、元陸軍次官である阿南(東条の方針に否を唱えて左遷されていた)に伝えたのである。その頃阿南は第2方面軍司令官であり、太平洋南方の戦局悪化に伴い、ミンダナオ島のダバオに赴任していた。話を聞いた阿南は
「全てをおまえに任す」
と、秋草俊少将に託した。秋草少将はかの「中野学校」を設立した『日本のスパイマスター』とも称される人物であり、特務機関(つまりはスパイ活動)の専門家であった。その頃秋草は虎頭要塞付近の第4国境守備隊長を務めていたが、阿南の手で即座に兼任であるが関東軍情報部長に赴任し、情報の収集に努めた。
「間違いなく、ソビエトは満州に来ます」
阿南がミンダナオ島より日本本土に呼び寄せられ、東条内閣が瓦解したあとで陸軍航空総監部兼航空本部長に赴任する中、秋草はきっぱりと言い切った。
「ドイツはもう無理です。西部戦線からシベリア方面に戦力を集中するまで三ヶ月と考えられます。もちろん全部は回さないでしょうが、三分の一と考えても百万近く」
すでに満州方面の日本軍戦力は中国や南方戦線へと回されており、かの広大な満州を守っているのは主勢力を抜かれた現状十数万がせいぜいであった。
「根回しが必要だな」
後に東条の下野の中で混乱した陸軍をまとめる役割である陸軍大臣へと昇格する阿南は
「まずは中国との停戦が必要だ。背後から叩かれてはどうしようもない」
「できますか?」
「できる、できない、ではないよ。やるんだ。それに国民党としても日本がソビエトに満州を明け渡すのはいやだろう?」
阿南は直接の部下だけでなく、満州の第二方面軍時代のつてをたどり国民党との連絡を取り始める。日本陸軍の脳天気な上層部(後方に居ると楽天的な空気となる)と違い、直接接する国民党の方が危機管理に敏感であった。国民党としても満州がソビエト、更には中国共産党の地となることは避けたかった。日本に勝っても、代わりにソビエト・中国共産党と対峙するのは許せることではない。このことが国民党としても停戦後のハードランディングではなく、ソフトランディングを選択した大きな理由の一つとなったのである。
「そんなにソビエトが怖いのか?」
『怖ソ病』という言葉がある。単純には「ソビエトを怖がる」ということであるが、陸軍の中層士官にとっては、一番言われたくない言葉である。「ソビエト何するものぞ」という雰囲気(空元気とも言える)の中で、ソビエト軍の脅威を「情報に伴って、正確に」伝えるだけでも『怖ソ病』と馬鹿にされるのであるから、正しい情報自体が無視され、隠されてしまう。阿南にしても山下(以前、中国方面の第一方面軍司令であった)にしても、それら観念的な連中を閑職に回そうとしたのであるが、使える者(つまりは「あたまがいい馬鹿」)が多いことでその半分を入れ替え、その時を迎えたのである。
鈴木内閣発足前後には、政府内外で和平派による活動が活発となっていた。阿南自体は徹底抗戦を望んでいたが、それは『無条件降伏』に対するものであり、和平派の東郷茂徳外相(東条内閣で罷免されたが、鈴木内閣で再任される)を中心とした和平への道を進めようと強いた。また、かつて第2方面軍司令官時代に当時の外務大臣であった重光葵にも終戦に向けた動きを勧めた。海軍大臣の米内光政大将は「ソビエトに頼れば…」といっていたが、それに対して集めていた情報をまとめた『ソビエトの満州侵攻計画』を叩きつけ、ソビエトが他国との仲介にたつどころか、日本(北海道以北)の占領を考えていることを明らかにし、楽天的な空気を一蹴した。
阿南の下に「満州防衛戦」の組織が作られたのは、秋草の報告後すぐのことであった。
満州を守る関東軍第一課(作戦課)は
「ソビエトが侵攻するのは早くて9月、常識的に考えると冬を迎えるので来年の3月ではないか?」
と下手をすれば日本本土より楽観的なものであった。しかし、直接守る第三軍・第四軍司令部は阿南からの連絡を受け、雪の消える3月から国境地帯への挺身偵察隊を複数送り込み、その軍勢がすでに増強されつつあることを知り情報収集・分析した上で、「8月攻勢」を導き出していた。また参謀本部作戦課の朝枝繁春中佐も独自に満州辺境に動き、同じ結論を得た。それでも納得しないのが関東軍第一課であり、大本営の方から首席参謀草地貞吾大佐に対して、
「指示に従わないのならば、さっさと辞任しろ。全員でも良いぞ」
と叱咤され、慌てて作戦を練り始めていた。
「一ヶ月以内に作戦を決定し、6月までには行動を開始しろ。できないのならば総替えだ」
「参謀本部でも作戦は立てているぞ」
脅しである。それだけ阿南の周辺は焦りを持っていた。周囲を説得できずに終わったが阿南の友人でもある石原莞爾予備役中将を現役復帰させて大将昇格し満州総参謀へ、そしてその部下も石原の信望者でまとめあげて満州に送り込もうとさえした。(戦後それを聞いた石原は「できんことはないが…」と苦笑したという)
栄えある関東軍の参謀となったからには辞任させられたらあとはない。せいぜい閑職に回され、下手をすれば即予備役だ。その椅子にしがみつかねばならない。彼らの頭の中にはソビエト軍に負けるなどということは一考としていない。
草地らはそのころ歩兵第65連隊長(大陸打通作戦に参加、戦線整理のために揚子江沿岸地域に駐屯)になっていた服部卓四郎(大陸打通作戦を立案)大佐にアドバイスを求め、歩兵第65連隊は隊全体で急遽、満州へと向かった。一足先に飛行機で戻った服部大佐は精力的に動き回り、周囲に説き伏せられた関東軍総司令官山田乙三大将から「黙認」の言質を取り、奉天(主司令部)と大連(副司令部)に分けて、長春付近に主戦線を置き、長春が突破されれば奉天、奉天が破れれば遼東半島の根元付近で徹底守備を行う予定が立てられた。ちなみに、現地徴収された兵(ほとんどが30歳を超える、家族持ちの者ばかりである)を編制した隊は、遼東半島の防備に回されていた。
すでにソビエト軍に対する謀略放送(かの森繁久彌氏も放送原稿作成、放送に携わった)を行ったり、ソビエト奥地までの航空偵察に始まり、中野学校出身者を中核とした複数のゲリラ的浸透偵察部隊(シベリア鉄道に対する爆破計画を含む)の出撃、満州軍の紙上演習(百万のソビエト軍の侵攻計画)から少数の演習、部隊自体の移動、防御基地・航空基地の設置、軍需物資の集積などのできることを優先させた。満州などに散らばる民間人は希望に応じてその帰りの便に載せるだけ載せて旅順あたりに引き上げさせた。
漫画家のちばてつや氏もその引き揚げ者の一人であり、満州国奉天に一家揚げて移り住んでいたが、民間人の移動指示(この段階では「命令」ではない)に伴い、その周辺全家庭が引き上げることとなった。後年、『屋根うらの絵本かき』という自伝的漫画の中に詳しく語られており、引き上げ時の混乱だけでなく、父の同僚(印刷会社勤務)の中国人徐集川氏に一家がかなり助けられたエピソードもある。
そして、中国との停戦に伴い、中国中部・南部の地域の駐留部隊の中でも余剰の兵を兵器の大半と共に満州へと転進させた。それはビルマ・マレー・インドネシアの兵も同様で、満州の旅順港と朝鮮の鎮南浦港(現在の南浦)は混雑した。
一式重爆の部隊はフィリピンやビルマに残存するその全ての機体を満州に回し、フィリピンの戦闘機もそれに続いた。(日本本土に残る機体以外は、陸軍機・海軍機を含めて回されたという話もある)
戦いは、ソビエトとの次の和平工作(日本とソビエトは日ソ中立条約を締結している)を続けていく中で行われた。昭和20年4月5日、モロトフ外相がモスクワ駐在の佐藤尚武大使をクレムリンに呼び、日ソ中立条約は1年後に期限が切れるが延長しない方針であると伝えた。それをどうにか継続できないかと考えて交渉を続けていたのであるが、すでに述べたようにソビエトは満州、日本に対する侵攻を決定していた。
ここで問題となるのは「日ソ中立条約」の期限である。日本側は21年4月まで有効と考えていたが、後日、ソビエト側は20年4月までと言い放ったのである。(「5年間」をどう考えるのか? その当時ソビエトの役人は口をつぐんでいる以上分からない。ただ、ソビエトは「条約を守らない国」として有名である)
8月8日、
『八月の嵐』作戦開始日
ソビエト軍は国境沿いの数カ所からの突入口を以て、約百五十万と称する兵を繰り出した。その頃、やっと他国との『終戦』が締結され、満州方面には約四十万(最終的には現地招集も併せて73万)の日本軍勢がその配置についていた。
「遠慮することはないよな?」
「攻撃命令、受信しました」
先日昼から蒙満国境上6,000メートル上空で偵察していた一式重爆はソビエト軍の国境突破を知らせるとともに自機に搭載していた3トンのクラスター爆弾を後方から追従する装甲部隊・輸送部隊に狙いを定めた。
その後も一式重爆は連日、高空から爆弾を降らせたが、その高度に届くソビエト戦闘機はなく、ほぼ被害がないままに爆撃を繰り返し、集団での行動はかなり難しくなり、移動速度が低下していった。単発機・双発機は前線の仮設航空基地から飛び立ち、攻撃後は、後方基地に戻ることで地上撃破を免れていた。しかも1日に数度の攻撃を繰り返したのである。ここでもタ弾を子弾としたクラスター爆弾と、海軍から支給された対地ロケット弾が活躍した。
「火炎瓶よりは楽だ」
と、ある古参の兵は言った。火炎瓶ならば10メートル以内でないと当てるのが難しい(しかもノモンハン後半にはエンジン上部に金網を張るなどの対応策ができ、火炎瓶ではなく直接地雷を抱えて体当たり攻撃を行っていた)が、四式七糎噴進砲は有効射程200メートル前後、必中をきたすならば100メートル以内で発射するようになっていた。それでも少なくとも火炎瓶よりも生存する可能性は高い。
ソビエト軍は装甲車両(戦車だけでなくトラックを利用した装甲車)を多用しており、速度を重視して軍勢の前方に置きがちであったが、日本兵の四式七糎噴進砲や簡易無反動砲はそれに向けて火を放った。一両あたり2、3発のロケット弾や無反動弾が交差する。(この戦い方は、日本陸軍では対戦車攻撃の定型として、戦車や速射砲(対戦車砲)で多用されている)
「新型だ、側面をねらえよ!」
「了解です」
四式七糎噴進砲の貫通能力は80mm。すでにT34ー85には前面装甲板がロケット弾では抜けないことを幾多の損害とともに理解していた。しかし攻撃しなければならない。左右のたこつぼから3発のロケット弾が軽い発射音と共にすーすると伸びたかと思うと、そのうちの1発が砲塔側部に当たった。数瞬後、砲塔上部から煙が上がり残存弾に火がついたのだろう、車体に満載された歩兵は投げ出され、砲塔は上部へと吹き飛んだ。日本軍の軽機関銃が炎上する戦車周囲の生き残りのソビエト兵をなぎ倒す。
「逃げるぞ!」
軽機関銃がソビエト兵の相手をしている隙を突いて、噴進砲分隊は散らばるように数百メートル先の後方陣地へと移動した。噴出砲分隊は車両の至近距離にまで待つ必要がありその損害も多かったが、それが与えた影響は大きかった。ソビエト軍は戦車に必ず追従の歩兵を置く必要が出、前進速度は歩く速度になっていくのである。そして満州は広い。
ノモンハンの時は国境紛争か全面戦争になることを恐れて、日本軍機は国境を越えることが許されていなかったが、既に全面戦争である。日本海軍は艦隊を派遣し、ウラジオストック(ついで、ナホトカやソヴィエツカヤ・ガヴァニ港)への航空攻撃と艦砲射撃を続け、港を機雷で囲んでしまった。また、陸軍航空隊が満州戦域での爆撃に携わっていたため、海軍の2式陸攻によって各地の都市や航空基地・シベリア鉄道を叩き続けた。
ソビエト政府は満州を完全に占領するまでに1ケ月と考えていたが、その一週間後に頓挫するのであった。それは樺太・千島列島でも同様で、海軍の艦艇や航空隊が阻止線を張り、ソビエトの上陸部隊を寄せ付けなかった。
アメリカとの停戦協定によって
「自衛以外の戦闘を止める」
とされていたが、
「満州戦は自衛戦闘である」
と言い切り、安全を保証された地域(日本本土を含む)の部隊が、本土で整備された武器とともに次々と送り込まれた。中には「速度が出る」ということで、空母さえその格納庫に兵を満載して島々と大陸とを往復した。また日本の様々な港から部隊や兵器を載せて輸送船が出港し、満州を目指した。ウラジオストックから出撃したソビエト潜水艦もそれを攻撃をしようと待ち構えていたが、米潜水艦との戦いに明け暮れていた護衛艦隊は次々に発見し、沈没させることとなる。(これには日本に近かったこともあって、対潜哨戒航空部隊の活躍もある)
9月になっても長春を抑えられず、後方の基地や都市が連日攻撃を受ける中で、ソビエト軍はついにその動きを止めた。最初の計画では手持ちの補給品だけで長春近攻略が終わる予定であったが、日本軍の執拗な攻撃に進撃速度が遅れ、食料も燃料も尽きたのである。これ以上進むためには莫大な補給を受ける必要があるのだが、後方の補給基地は叩かれ、補給路はズタズタにされていた。活躍したのは4式重爆だけではなく、戦闘爆撃機と化した4式戦、5式戦、そして2式複戦、5式双襲(キ102乙)が日本本土よりかき集められて、前線と後方基地攻撃を支えた。意外と活躍したのが満州国軍のキ79(2式高等練習機・97式戦闘機の練習機型・満州飛行機製造)で、訓練中の飛行兵も参加して固定脚を生かし小型爆弾をいくつか抱えて前線攻撃を続けた。
対してソビエトは同じように航空機をかき集め、数的な優位性で押し切ろうとしたが、固定式だけではなくトラックに乗せた移動式のレーダーが複数用意されておりソビエト軍の奇襲を防いだ。また後方基地・都市を空爆する一式重爆・二式陸攻に対する高高度対応ができず、前線への補給が滞りがちになり(航空機があっても、ガソリンや銃弾・爆弾、特にウォツカの補給が細かった)、補修機も多くなり稼働機が少なくなっていった。
ここで、不思議な話がある。
ある日、ソビエト軍の侵攻前、満州の大連の港にイギリスとの停戦直後だというのに、イギリス籍のタンカー・輸送船が数隻到着したのである。荷主の会社名は「シェル石油」。数万トンのガソリンと機械用オイルを満載して桟橋に付く。しかもガソリンはいわゆる「ハイオク」。そしてアメリカとの停戦がなった時も同様で、アメリカ籍の輸送船数隻が大連の港に入港した。その荷揚げした中身は航空機用の無線機・バッテリーと点火プラグなど、航空機に必要な装備である。とりあえず「東芝」への戦前から契約した輸出品という名目にはなっていた。(地上用の最新レーダーが載せられていたともいうが、真相は藪の中である)これらの積み荷のおかげで、満州戦域の航空機の稼動率が上がり、また高性能を発揮したとも言われているが、どこまでが本当のことかは分からない。
「同士書記長(スターリンはそう呼ばれていた)、攻撃準備は整いました」
前回の攻撃が振るわなかったために、上部の司令部は吹き飛んだ。戦前の「大粛正」を思い出した政治・軍事上層部も多かった。ここでソビエト陸軍は切り札であるソ連邦英雄ジューコフ将軍を出そうとしたがスターリンはそれを認めなかった。スターリン自身はジューコフを気に入っていたが、これ以上(ドイツ占領)の手柄を立てられたら、下手をすればスターリンの立場を揺るがしかねない、そう周辺は判断した。
九月下旬、ソビエト軍は補給を終えたのかやおら動き出す。総司令部は全面的な変更によって計画自体が十分には理解できないままに、力推しの戦術をとった。
長春手前の戦線である。日本側は塹壕を五重に広げ、Z工法によって銃座・砲座を設け、対戦車の落とし穴なども掘られていた。それを支えたのは陸軍の工兵と飛行場建設隊、そして海軍の海軍設営隊の面々である。マリアナ諸島やトラック諸島など様々な場所に残存していた海軍設営隊は優先的に満州に送られ、しかも、アメリカ軍からの「兵器ではない」土木作業車(ブルドーザー、スクレーパー、ローラー車)が中古(太平洋の諸島・フィリピンなどで使われていたもの)ながら送られた。(操縦員・整備員は船を待つ間に一週間の特訓を受けた)アメリカとしても表だって武器は送れないが、満州がソビエトに占領されることを恐れたのである。間違いなく中国全部と朝鮮半島が「赤く染まる」。日本に勝ったとしても中国を失うことはアメリカ自体の利益にならない。そう判断した結果である。名目上は「日本本土の空襲被害を早期に復旧するため」である。荷物の送り先が日本ではなく、満州になったのは日本側の「都合」でしかない。
こうして一週間にわたった攻防戦の後、迂回した部隊や航空機での前線司令部・後方補給部隊、そして督戦隊への昼夜を問わない攻撃を受けたソビエト軍は日本側の最終塹壕戦まで迫っていたが、擱座した戦車や装甲車、トラック類を捨てる様な勢いで後方へと待避した。それを追うだけの戦力は日本軍になく、ソビエト軍機(既に逃げ出して後方基地にいた)がいなくなった空は日本軍機の独擅場であった。戦闘機や襲撃機は戦車・装甲車よりトラックを狙った。「輸送隊を全滅せよ」と命令が下っていた。ソビエトは戦車優先の生産体制をしき、トラックの大半をアメリカからのレンドリースに頼っていた。(戦車に乗る歩兵の写真が数多く残されているが、兵員装甲車やトラックがないから戦場タクシーとして使わざるをえなかった)燃料がなければ戦車や装甲車は止まるしかない。大砲を輸送・牽引する車両も動かなくなり、長春付近から満・ソ国境まで燃料切れで破棄された戦車が死んだアリの行列のように点々と続いていた。ソビエト兵は日本軍の反撃を恐れ、満州から逃れようとしたのである。(督戦隊、政治将校・兵はいち早く引き上げた)
なし崩し的に停戦状態となった日ソであるが、対してソビエト側は
「国境を定めるため国境付近の軍が勝手に始めた紛争であり、政府としては何の問題もない」
という姿勢を崩さず、
「国境紛争にもかからず、都市部を攻撃した日本側には猛省を望む」
と訴えた。
諸外国は冷ややかにこのことを見ていたが、
「アメリカを中心とした諸国は、『ヤルタ会議』の決定事項を守らず、勝手に国ごとに停戦・終戦の決定を行った」
と非難し、かつて連合国としてともに戦ったことを忘れたかのような口調であった。
この戦い(樺太、千島列島の戦闘を含む)での日本側の被害は戦死・傷者 178,000人余り、ソビエト戦死・傷者 167,000人余り、行方不明18,500人余り(捕虜を含まない)と、3、4倍の戦力比がある中で日本側が善戦していることが分かるが、その後の追撃戦ができない時点で、その損害の大きさも分かるものだった。
ソビエトの姿勢は頑なで、それはスターリンが亡くなる1953年まで続く。その間に、日本はソビエトを除く(日ソ間に「戦争状態」に陥ったことはないという立場であるので「停戦」も「終戦」もない)連合国とそれぞれに「終戦」を迎え、アメリカとの交渉が完全に終わる昭和20年10月10日を以て、太平洋方面の戦いは終結した。
戦後、日本は満州(遼東半島と民間の利権については別にして)を失い、朝鮮半島、そして太平洋に広がっていた各諸島を失った。満州には米軍が入り日本・中国からの「独立国」という体裁でアメリカの影響を受けた連邦国として成立し、ソビエトと国境を接した。朝鮮半島は大韓民国として日本より独立、ここもアメリカの影響下に置かれた。太平洋の各諸島は、アメリカやフランス、オーストラリアなどの保護地区、もしくは独立国となったが、日本の占領時代を懐かしむ声も上がった。また台湾は「半自治領」として日本の影響を受けながらも将来の独立を目指した。海外各地に散っていた民間人は、半数以上が日本本土へと帰りつくこととなり、特に「新・開拓地」とされていた地方への移住が進んだ。
軍備面であるが、かなりの軍縮を連合国より要求された。陸軍は台湾や遼東半島の防備を含んで二十万体制(平時の日本陸軍に近い)となり、海軍は海上保安庁(沿岸警備隊・コーストガード)に編入された駆逐艦・海防艦・駆潜艇などを除き、各鎮守府ごとに残存艦を配備(旧式艦を除く)し、戦艦は大和1隻、空母は信濃・大鳳・祥鶴・瑞鶴の大型空母と、雲龍・天城・葛城・阿蘇の中型空母(後に全てヘリ母艦となる)、巡洋艦14隻、それに追従する護衛艦隊(以前の駆逐艦隊が変更される)など10隊(およそ100隻)、潜水艦40隻余りに抑えられた。(海上護衛総隊は大陸航路帯用の艦隊と司令部のみ残存し、必要に応じて海上保安庁・海軍の艦艇を編入)また、航空部隊は整理され、空母配備、及び陸軍の直協飛行隊関係(後にヘリ部隊となる)以外は、新設された空軍にその配備となる。それに伴い、大量の士官・下士官・兵解雇が行われたが、各国との輸出入が正常に戻り、またアメリカとしても確かな同盟国が必要とされたために工業・商業関係のてこ入れがなされ、数年の混乱の後に日本は好景気状態になっていく。(東南アジアや中国の国民党向けの輸出が増加した)
「敗戦国・戦犯として、裁くべきではないか?」
という声も連合国の中には上がっていた。しかし、それ以上に軍事大国と化したソビエトの動き、日本との停戦後の中国での共産党の活動、それに伴うフィリピンやベトナムなどの東南アジアでの「赤化」、さらにはそれぞれの植民地の独立運動の中で、日本軍が英雄視・神格化されることへの恐れ(名目として「アジア開放」の戦いであった)もあって、次第にその声が小さくなっていった。
アメリカ陸軍アジア方面軍総司令官とともにアメリカ満州駐留軍司令官を兼任することとなったマッカーサーは、アメリカ本土より舌禍によってドイツから戦史編纂を担当する部隊(名称は第15軍司令官)に左遷されて帰ったばかりのパットンを召集、それまでほとんど接点がなかった(行儀良くないパットンの姿勢を貴族趣味のマッカーサーが嫌っていたともいわれている)両者であったが、互いに共産党に対する嫌悪感を吐露する中で、満州への駐留を快諾した。また若手というべきマシュー・リッジウェイも招き入れ、ソビエト対策をパットンに、中国対策をリッジウェイに当てた。その後、ソビエトとは国境を挟んでにらみ合うこととなったが、中国での国民党と共産党の余波を受けて、満中国境線は慌ただしくなり、リッジウェイが対処にあたった。その際に、ソビエト軍の動きがない状態が続く中でパットンはリッジウェイにこう語った。
「さっさと代われ、すぐさま(中国共産党軍を)打ちのめしてやる」
かくして日本は「終戦」を迎えるが、実質的な「敗戦」であった。しかし、日本という国体は守られ、日本軍も形を変えて(連合国のかなりの指摘を受け入れた)生き残ることができたのである。
「や、飛んだぞ!!」
そんな周囲の声に、
「当たり前だ、そんなふうに作ったんだからな」
と言いながらもまんざらではない様子の東條輝雄技術部長。
戦後、アメリカからの圧力もあり「国粋主義」は影を潜め、アメリカ企業はこぞって日本企業との業務提携、資本提携を始めた。そんな中、航空機会社は以前のように陸海軍を頼っただけの会社運営ができなくなった。空軍が設立したものの、終戦後の軍縮によって以前のように数を作ることがなくなり、また輸出入の自由化によって海外の航空会社も競争相手となった。そんな中で日本の航空会社は再編成され、大きく新三菱・中島(後日の「富士重工」)・川崎・川西(後日の「新明和」)と四つの企業に分かれていた(他にも日本飛行機、昭和飛行機が下請的な位置にある)。民間の旅客機にその開発陣をあてようとするのは当然である。
各社それぞれで旅客機を開発しようとする動きを通産省が止めた。止めたというよりまとめようとしたと言った方が正しいかもしれない。戦後の「貿易自由化」の流れの中、通産省はいわゆる「船団方式」を採用しようとしていた。(銀行や自動車会社などのさまざまな業種の編成にかなり口を出した。ちなみに本田技研は独自の道を行くと断り続けた(その頃の気概を見せてよ、ホンダ))以前の「名古屋航空研究所」は未だ組織こそ小さくなったものの生きており、その組織を元に東京大学の「航空研究所」を中心として全航空機会社、関連の会社をまとめ上げて、
○ 国内向け短距離双発中型旅客機
○ 海外向け長距離四発大型旅客機
の2種類の航空機を作り上げようとした。
初期研究は「5人のサムライ」とも称される木村秀政・堀越二郎・太田稔・菊原静男・土井武夫が行ったが、実機製作に携わることを断り(特に人づきあいが苦手で引きこもりがちの堀越は最初から断った)、結局、新三菱の東條(戦時中は堀越の部下)が中心となってまとめ上げた。
名称を、中型の「YS-11」、大型の「YS-101」と決定された機体は、川崎・新三菱と石川島播磨(元石川島芝浦タービン)の共同開発したターボプロップエンジン(石川島が試作したネ201ターボプロップエンジンを下敷きとして始まったが、結局同一構造であるものの材料面から見直しを図り四年越しの研究開発によって実用化した。民間機用である以上、カタログ値ではなく安定性を重視した)を搭載し、東條輝雄技術部長(実は東条英機の息子)を中心にした各社から派遣された技術陣がまとめ上げた。
「YS-11」の初飛行は昭和25年、そして「YS-101」の初飛行は昭和26年。(ちなみにイギリス初のジェット旅客機コメートの初飛行は昭和24年、アメリカ初のターボプロップ旅客機ロッキード L-188(P3Cの原型)の初飛行が昭和32年)。アメリカでさえまだレシプロ旅客機を開発・運用している中でのターボプロップ機であり、注目を集めた。しかし、二種の旅客機ともにアメリカ機(戦後に大量放出されたこともあり、またその後すぐにボーイング707に代表されるジェト旅客機の時代が訪れた)のシェアーを奪うまでにならず、国内航空会社・陸海空軍(輸送機・通信機・対潜哨戒機として採用された他に、日本最初の政府専用機として「YS-101」4機が採用された)で採用された以外、海外の販売はさほど振るわなかった。
商業的には失敗と言われている。
それでも新技術に挑む姿勢は評価され、その後、旅客機がジェット機に転換する中で、ダグラス社やボーイング社などとの協同開発・量産(機体生産分業)に繋がっていったのである。それは旅客機に限らず、開発費・開発期間が増大する軍用機にも及んだ。
「日本が仲間になって良かった」
とは、ボーイング社の重役の一言である。
その重役は「キ50」の開発に携わった技術者の一人であったが、その後のB29の開発、
そして戦後新三菱とボーインク社の仲を取り持ち、
「あの機体は楽しかった。若かったこともあっていろんなことを試してみた。三菱の技術陣は貪欲にそれを学んだ。最初は互いによそよそしかったが、終わったあとの満足感と日本の技術者とこれで終わるのかとさみしい思いもあった」
そう回顧録に残している。
「記録は…………82.44mです」
女性アナウンサーの溜めた声がスピーカーを通して会場内に響いた。
出場者、見学者が仮設の掲示板を見つめる中、それまでのざわめきが止まったかと思うと、どっとばかり琵琶湖の大会会場全体が沸き、湖のさざ波となった。
その設計者名がテレビで出された時、解説者の木村秀政(当時日本大学名誉教授)氏が
「私の大先輩です」
と、さも嬉しそうな、得意そうな顔で朗らかに語った。
テレビのモニターには、湖上から小舟に拾い上げられた操縦者の岡良樹氏が会場に向けて手を振っていた。
第1回鳥人間コンテストが催されたのが、1977年7月2日。、約千人の応募者から設計図審査と機体審査を通過したのは37機。その中で、アルミパイプを多用した双胴に軽いテーパーがついた長い主翼、丸い双垂直尾翼、明るめの薄緑に塗られたグライダー『H7』は
「その後のコンテストの方向性を決定づけた」
と様々な考察に語られている。また、
「お遊びの世界に、空気読めないガチ勢がそろって本気を出した」(ほめ言葉)
とも言われている。
設計者の名は、本庄季郎氏。
96式陸攻、一式陸攻の設計者である。戦時中は一式陸攻の改良、体が弱い堀越に代わっての零戦(32型のすっぱりと翼端を切ったデザインは本庄)改良、二式陸攻の改良相談、終戦末期に採用された泰山陸攻、戦後に採用された大洋対潜哨戒機などの飛行機の主設計者を務め、「面白そうだ」と依頼された自転車を設計したり、飛行機部門の若手のまとめ役として活躍した。三菱の飛行機部門は東大出身者が幅をきかせていたが、学歴など気にしないこともあって技師上がりの設計者(零観の佐野技師ら)も大切にし、目をかけていた。
このグライダーに対して裏方に徹しているのか本庄はほとんど語っていない。しかし、それからの参加者を「もっと遠く飛びたい」思いへと突き動かす。「琵琶湖型滑空機」(地上10mから滑空することのみに特化して生み出される機)と呼ばれる機体の生みの親は本庄氏に間違いない。
現在の「鳥人間コンテスト」の最高記録は
533.58m(第44回大会・滑空機部門)
69682.42m(第45回大会・人力飛行機部門)
今後も挑戦が続く。
いかがだったでしょうか?
「日本軍は負けるべく負けた」
と、どっかの本で読んだ記憶がありますが、この満州関係を調べていくと
必死な人
と
のんきな人
との格差がひどすぎる……しかも、のんきな人が妙に「声が大きく、力を持っている」のがイライラしてしまいます。調べれば調べるほど…しかも戦後のうのうと生きて、それなりの地位と良い人生を送っている……
「神様なんかいない」
という言葉に頷くばかりです。
まぁ、そう考えてしまうのは、伯父がフィリピン沖で潜水艦に戦死し、もう一人の伯父と大叔父が中国戦線で歩兵として戦後抑留されて、相方の母親一家が朝鮮からの引揚者だったりと、個人的な「恨み」もあるのですけれどね。(中国戦線の伯父は、大変さをあまり語らず、酒の席で楽しかったことだけを僕にしてくれました。体は小さかったけれど軽機関銃手だったそうです)
ただ
「日本無双」
にしたくはないので、辻褄を合わすために苦労しました。
小さなコラム(丸メカニック「一式陸攻」)をもとにした今回の文章、いかがだったでしょうか?
『戦後編』に、
YSー11
鳥人間コンテスト
を出すのが、目標でした。
ちょっと唐突気味ですが……やっぱり本庄様で始めた以上、締めくくも……
第1回鳥人間コンテスト
を、リアルタイムで見た人、手を上げて!!
(あの時は、僕も目をこらして応援しました)
まあ、「評価ポイント」がとにかく少ないので、まだまだ精進しないといけませんね。
とりあえず、結末できたのをよしとしましょう(反省はしても悔いはない 苦笑)
次章は「ターボ」です。
さて、ここて問題。
日本で最初にターボ過給機を載せた機体は?
答えは次の回で…
ではでは。