一式重爆撃機(停戦への流れ)~まさに最後の一片の残光も消えようとした~
みなさん
こんにちは。
一話で終わらない…(; ;)ホロホロ
ので、二話にしました。
ちょっと無理矢理な流れ? かな?
お楽しみください。
雲の切れ間に 輝いて 空しい願い また浮ぶ
ひたすら夜を 飛ぶ流れ星
急ぐ命を 笑いますか
小椋佳作詞「愛しき日々」
◇ ◇
「おい、Dinahが付けてくるぞ」
「後方からか?珍しいこともあるもんだ」
Dinahとは百式司偵に付けられたアメリカ軍のコードネームである。連合国の偵察機は基本的に爆撃機や戦闘機を活用することが多いが、日本では偵察任務を重視してその専門機を用意していた。陸軍の司偵・軍偵、海軍も艦偵などを以前から用意している。そして偵察任務だけではなく、一種の多用途機としても活用していた。敵機の哨戒任務や防空戦闘機の先導・誘導任務である。百式司偵はその速度(落としにくさも)と優美な姿(「地獄の天使」とも称された)もあって連合国では有名な機体の一つであった。普段ならば前方や側方で接敵することが多いので、確かに機体の後部銃手が報告するのも不思議なことであった。
「機長、どうします?」
「とりあえず全機に連絡だ、日本軍戦闘機の前触れだろう」
と、サイパン島を飛び立った3個の爆撃集団(全100機余り)は初めての日本本土爆撃の目標を東京を中心とした関東地方に定めていた。B29ロッキースピリット号の機長は自機の集団長に連絡し、自機の搭乗員には周囲警戒を密にするように促した。
サイパン・テニアンの占領に伴い、急ピッチで航空基地を整備しB29の航空戦隊が到着したのは一ヶ月前である。航空基地だけでなく、航空機を運用するために桟橋が整えられ、ガソリンタンク群が建設されパイプラインでタンカーより直接ガソリンが陸揚げされる。 この基地作成能力の高さは、単にブルドーザーなどの土木機械の量数だけではなく、アメリカ軍自体が工事関係に直接携わっていたことがあげられよう。例えば米陸軍の工兵はいわゆる戦闘工兵(日本の工兵もこれである)的役割と建設工兵的役割とに分かれているが、大規模な河川工事・道路工事・基地工事など、日本では民間会社に任せるところ(場合によっては緊急性はあるものの予算が付かない工事)も場所によっては工兵が行う。つまり軍が構築・建築に理解が深いのである。海軍の建設工兵である「Seabee」も同様ではじまりこそ1941年であるが、最初に土木・建設作業に熟練した志願者から選抜され、大規模な土木作業や基地建設ということにも慣れた存在であったのだ。
B29の戦闘訓練が増し、日本本土に少数機の偵察・写真撮影隊が多数出撃した。その間にグアム島からの日本軍機の攻撃が加えられていたが、サイパン・テニアンでの被害にアメリカ軍はグアム島の早期占領ではなく、無力化を図るために周囲を巡洋艦・駆逐艦で取り囲み、日本軍輸送船への阻止線を張ったのである。そして徹底的な航空機による攻撃策をとり、
日本本土 → 硫黄島 → グアム島
という海上・航空の輸送経路を遮断する作戦である。
まだ硫黄島の近海を通過したばかりの状態なので、サイパン島を深夜に発進したB29の集団は巡航高度6000メートルあたりで密集しないまま北上を続けていた。
ところが百式司偵は次第に速度を上げ、B29集団へと後方より近づく。
「体当たりでもするつもりか?」
後部銃座銃手は光学照準器を覗き込んだ。B29の銃座は全て動力銃座であり、機載の射撃用レーダーに連動し偏差射撃(相手の未来位置を予測する)ができるが、あまりにも凝った作りのために初期では十分には活用できてはいなかった。
そして、距離が500メートルほどに近づいた時に後部機関銃は激しく火を噴いた。威嚇射撃でもあるが、それでも無駄弾を出したくない。FM機銃の弾道性は良く当たると思われる距離まで待っていたのである。そして、その直後に相手の機首が光った。
当たった!! と思った瞬間、自分が居る尾部が吹き飛び、虚空へと後部機銃手とDinahを見に来た偵察員は投げだされた。
「ちくしょう!! やられた!!」
後部与圧室の気圧が低下し薄くなるような気になった。
「機首下げるぞ !!」
インカムから聞こえるのは機長の声、集団から離れたくはないが、このままでは壊れた後部与圧室の連中がダメになる。
「垂直尾翼、下の方が半分吹っ飛んでます、方向舵、ありません」
上方銃座手が機長に報告する。
「やっぱりか…… だましだまし引き返すしかないだろう」
舵の効きが悪くなった原因を知った。すでに機体高度は4,000mを切っている、爆弾倉を開け放ち胴体内に納めていた爆弾を全て捨て去る。方向舵がないが旋回できないわけではない、昇降舵とエルロンを使いつつ運動性がさほど良いはない機体を軽く傾けて大きく旋回を始めた。
「機長!!」
上方銃座手の叫び声が響く。
振り向いて上空を見る。1機のB29がその主翼を折り、旋回しながら空を舞っているのが見えた。さらに黒い煙が数筋……
あのDinahは武装してたのか…
偵察機と思い込んでいた機長は改めてこれまでの数分間を後悔した。
この機体は排気タービン付きの百式司偵四型に武装を施したもので、最大速度は高度10,000mで630kmを誇り、B29よりも50㎞ほど速く、機首に20㎜機関砲を2門・37㎜機関砲1門を備えたタイプであった。(別に夜戦型として37㎜機関砲を斜銃にしたものや、対空ロケット弾を備えたものもあった)
ロッキースピリット号は基地には着けなかった、一発の37㎜砲弾によって方向舵と尾部銃座を失った(そして搭乗員2名も)機体は正確に滑走路を捉えることができない、管制指示に従い、基地手前の海岸に胴体着陸した。
「半分を失ったのか…」
自機が所属する36機のB29集団は、自機を含めて撃墜や帰路損失、損傷機の数が16機となったことをその夜に知った。
日本本土の防空体制は、アメリカ軍の思惑以上に構築されていた。
B29が日本に初めてその姿を現したのは、北九州空襲であった。八幡製鉄所を狙ったものである。日本本土へB-29が飛来したのは昭和19年12月16日、深夜の八幡への空襲が行われた。これは米軍のサイパン上陸作戦と同じ日であり、「対日爆撃でサイパン上陸作戦に協力すべし」という命令の元で行われたものである。B29による初の日本本土の爆撃計画
「マック・ホーン作戦」
は、1943年11月に策定され準備されていたのであるが、ビルマ戦線の膠着状態もあり、航空輸送しか軍需品(ガソリン・爆弾などを含む)を運ぶ手段がなく計画は遅れに遅れた。なにせイギリス軍はビルマ戦線を少しでも有利に運ぼうと輸送機の確保を最優先にしていたからである。
インドのカルカッタを根拠基地とし、中国四川省・成都に前進基地を設け、B-29の戦闘半径6000キロ(地図を見ると長崎・佐賀・福岡・鹿児島西部)ぎりぎりで、日本本土にインパクトがある被害を与える事ができるのは長崎もしくは、北九州。そして作戦は当時日本の鉄鋼生産の24%を占める八幡製鉄所、「YAWATA」として定めた。
対して日本では日中戦争時に中国大陸より爆撃機(アメリカ製)が飛来したこともあり防空の意識が高く、四川省にB29の基地が設けられるという情報を得たあと、九州地区にレーダー基地を多数設け、陸海軍の垣根を取り払った「防空指揮所」を福岡市南方の春日地区の丘陵に半地下の建物を設置していた。(海軍は佐世保地区(すでに海軍は鎮守府単位の防空指揮所を作っていた)を推したが、拡張する(3~4倍の広さと10倍以上の人員が必要と考えられていた)よりも新調したほうがましだと考えられ、交通の利便性や八幡地区の防空も考えてこの地とした)関東地区の厚木防空指揮所と同時期に作られたこの施設は、ラバウルから試験運用された防空指揮所を洗練したものであり、海軍単位ではあるものの鎮守府の防空指揮所や陸軍のビルマ方面の指揮所での運営経験・採用されたものからより無駄を省き、効率よく防空隊(航空機だけでなく、高射砲隊なども含まれる)の運用ができるようになっていた。
北九州の八幡地区を狙ったこの「マック・ホーン作戦」はその時四川省で運用できるB29全力(72機)を出撃させたが、洋上で索敵機に発見され海軍の夜戦月光・陸軍の屠龍の迎撃を受ける。また八幡地区の高射砲隊の攻撃を受けて、ギリギリの作戦行動距離(2トンの爆弾を搭載)でもあり、撃墜こそ2機に過ぎなかったが、攻撃目標であった八幡製鉄所は何の被害をうることなく、帰路で行動不能によって6機を失う結果となった。
マリアナ諸島の攻略が一段落した頃、マッカーサーは海軍に要求する。
「フィリピン攻略へ協力しろ」
一言で言えばそれだけのことである。
しかし、海軍側としては思っていたよりも消耗が続き特に海兵隊をフィリピンに投入した場合、硫黄島攻略がより遅れてしまうことを懸念したのである。米海軍としてはフィリピン攻略が戦争自体の早期解決にはあまり役立たないと判断したことも懸念材料の一つであった。マッカーサー自身は、フィリピン全土を占領したあと、東南アジアと日本本土の輸送路を締め上げ、台湾・沖縄へと北上するつもりであった。マッカーサーはフィリピンにこだわった。
太平洋艦隊、というかアメリカ海軍はフィリピンを無視しても日本を屈服ざられると考えていた。もちろん損害は多く、時間はかかるだろうが。ならばなぜフィリピン戦に介入したのかといえば政治である。マッカーサーはフィリピンからの撤退でその影響力を落としていた。そして「フィリピン国元帥」である限り、第二の故郷というべきフィリピン全土の奪回は彼にとって『英雄』たるために必要なものであった。(以前も述べたようにフィリピンから個人的に『秘密費』の名でかなりの金銭が個人的に渡し続けられている)その『英雄』の名を与えたくない者もいる。その第一が米大統領ルーズベルトである。大統領選を控えたルーズベルトは対抗勢力にマッカーサーが出た場合、かなり苦戦することが分かっていた。本来、米大統領は二期で次の大統領戦には出ない(これには初代大統領ワシントンが3期目の大統領選出馬を拒否し、大統領職は2期までという慣習的政策を作り、アメリカ合衆国憲法修正第22条によって正式に最大2期までとなる)はずであるが、ルーズベルトは戦時・有事を理由に4期への出馬を考えていた。ハワイでの個人的な交渉になるが、ルーズベルトはマッカーサーが大統領選に出ない(彼の部下「マッカーサーボーイ」たちは出馬をかなり勧めていた)ことを引き換えにフィリピン戦の継続、そして海軍の援助を許したのである。(ちなみに一時マッカーサーの部下であったアイゼンハワーがマッカーサー(ついでに夫人)のわがままに振り回され、強引に袂を分かったのちに順調に地位を上げてヨーロッパ戦域の連合国軍最高司令官に着任し、ドイツ・イタリアとの戦いを主導、戦後に米大統領となっている)
フィリピン戦は、中部太平洋の諸島を占領・無力化したために、ハワイから直接戦闘艦隊、輸送船団を直接送り込むことができるようになった。
ハワイやサン・ディエゴ(ジェゴとも)の海軍基地での艦艇修理を受け、空母群は少しずつではあるが、航空機とパイロットの補充を受けて訓練に明け暮れる。しかし、フィリピンには全軍をあげた攻撃を行うにはしばらくの時が必要とされた。もちろん政治的な判断を嫌う勢力が海軍にあったが、戦艦と護衛空母で編制された上陸支援の艦隊と、日本艦隊攻撃を引き受けるハルゼーを司令官とした正規空母艦隊が編制された。ここで海軍は、戦力の分散、小出しという愚を味わうこととなるのである。
日本軍はそれまで小規模な輸送船団(但し、速度重視の編制)で台湾からフィリピンのルソン島にピストン輸送し、中国大陸か兵を、日本本土から各種の兵器を輸送することに成功していた。無論、米潜水艦などの妨害が続き、輸送船やその護衛する艦艇も損害を受けたが、日本陸軍としても航空機による輸送船防御を行い約9割の人員・物資をルソン島へと揚陸できたことを歓喜した。
第14方面軍司令官、つまりフィリピン防衛司令官となった山下大将は、これまでのマリアナ諸島の攻防戦を研究し、
「できるだけ長く敵の大軍をルソン島に引き付けて」
「アメリカ軍の我が本土攻撃を遅延せしめ、友軍の作戦準備の余裕を与える」ために
「ルソン島では決戦せず、戦略持久に徹する」
ことを決めていた。そのために、ルソン島の南半分、防衛に適さないマニラ市までを放棄することさえ考えた。
大本営は、山下を嫌う陸軍部勢力(山下が「皇道派」であったこともあり、開戦時マレー・シンガポールをスムーズに攻略したが陸軍上層部ではその評価は低く、特に東条派と寺内派が山下を嫌っていた。二・二六事件による天皇の不興も続いていた)もあったものの、
「派閥などはこの時勢にそぐわない」
という海軍側からの反発もあり、また、着任からの時間を考えてフィリピン防衛の全権を(単に組織上のもの以上の指揮権、大本営直属とし、フィリピン戦が終わるまで他の指示は無視できる)を与えた。更に山下にとっては幸運なことに自分の参謀長として熱望されていた武藤章中将が採用された。そして幸いなことに山下の司令部に敵の意図や行動をあまりにも正確に予測することから後に
「マッカーサーの参謀」
というあだ名をつけられていた堀栄三中佐が参謀として参加していた。
この堀中佐は『敵軍戦法早わかり』という著書をフィリピン戦以前に各所に配布し、戦後の著書で
「情報を重視し、正確な情報的視点から物事の深層を見つめて、施策を立てることが緊要となってくる。」
というように、事前の情報収集の大切さとともに、事後の情報処理の大切さも述べている。
フィリピンの戦いは、ルソン島の南方、レイテ島への上陸作戦から始まった。レイテ島を守る日本側は二個師団であったが、予定通り上陸時でのロケット兵器・重砲での攻撃を加えた後には、後方の防御基地にこもった。
日本海軍は、レイテ島の船団に向けて大きく二つに分けた艦隊を出撃させた。戦艦を中心とした船団攻撃の艦隊、そして米空母群を引きつけるために「囮」となる空母艦隊である。空母には艦偵・戦闘機のみを配備し、防空戦闘後はルソンの陸上基地に戻るように促されていた。それは戦闘機発進後に、飛行甲板上に並べられだけの機銃と対空ロケット弾(移動式の12㎝、15㎝の多連装ランチャー)を配置する予定となっていたからである。
日本の戦艦・巡洋艦群はレイテ島に隙を突いて殺到した。防空任務を担うはずの護衛空母に配備されていたのはF4F(もしくはグラマン社以外で量産されたFM-2)が主たるものであり、対地攻撃の訓練こそ受けていたが、対艦訓練などは受けたことがない。戦艦に対抗できるものは少なかった。さらにその時に日本陸軍の戦闘機が防空任務を担ったこともあって、日本戦艦はその高速運動でレイテに突入した。ちょうど同時期に陸軍の重爆が上陸部隊を襲い、輸送船が多数沈没・撃破し破棄され、上陸部隊の陸軍兵力・物資の6分の1を失う結果となった。日本側空母部隊を主力と考えていたため、その場を離れていたが、慌てた戦艦を中心とするキンケード第7艦隊は、取り急ぎ現場へと急行し、日本艦隊との一大決戦を行う。
ここで戦史上最後の戦艦同士の殴り合いという、航空機が主力となった時代(日本海軍がハワイ・マレー沖海戦で航空機優先を実証したこは皮肉である)での珍しい戦闘が行われた。単に戦艦の戦いに終わらず、駆逐艦・巡洋艦に搭載された対艦ミサイルのデビュー戦でもあり、弾頭に備えられたノイマン効果を狙ったタ弾は太平洋戦争以降の戦艦衰退(装甲板による防御の無意味さ)のきっかけとなった戦いとして戦史では語られる。これ以降、戦艦はイギリスの「ヴァンガード」(建造がほぼ終わっていたため)が進水した以外は例がなく、空母以外は軽装甲の巡洋艦・駆逐艦のみとなってゆく。
「日本は戦艦を2度沈めた」
そう語られている。
アメリカ軍は戦艦や巡洋艦の損傷がひどくなり(沈没艦自体はこれまでのダメージコントロールの蓄積の成果もあり、戦艦1、巡洋艦5、その他4程度であった)かの有名な電文が発せられた。
「第58任務隊は何処にありや?全世界は知らんと欲す。」
(よく艦隊とか空母群とか訳されるが「タスクフォース」は日本語訳的には「任務隊」にふさわしい)
日本軍の「囮艦隊」に引っかかっていたハルゼーは激怒した。キンケードからの電文に対してはほぼ無視した結果(「日本空母艦隊」という「囮」に完全に引っかかっていたためにたいしたことはないと考えていた)として、太平洋艦隊からの電文がそれである。
特に「全世界は知らんと欲す」という文句である。
「アメリカ人が子供のころから暗誦しているテニスンの『騎兵旅団突撃の歌』の一節だったから、奇妙な冷笑的効果を持っていた。」
「米軍の重要電報は、本文を繰り返した後に、なにか無意味な文句を挿むことになっていた。ところがこの句はあまり内容にぴったりだったので、(ハルゼー司令部の)解読班士官が念のため本文として扱ったのであった。こういう間違いやすい文句を挿んだのは、暗号組立班にも責任がある。それは1人の若い少尉候補生で、何気なく頭に浮かんだ句を挿入したのであった。彼は後で、譴責された。」
大岡昇平「レイテ戦記」より
ハルゼーの空母群は、ちょうどその時に二つに分かれており、片方は補給・補油中であり戦場より500海里以上離れており、もう片方は「囮」艦隊へと全速力で向かっていたために同じくレイテとは300海里離れている。そして航空機のほぼ全てを「囮」艦隊へと向かわせていた。日本空母群はその頃のアメリカ艦隊と同じくらいの防空火器を積載しており、防空戦闘機も乱舞していた。そのために米艦載機隊は思っていた以上の戦果が上げられていなかった。ハルゼーの怒りは爆発した。数時間の戦闘で空母1隻沈没、数隻の空母に損傷を与えただけに終わっただけではなく、全航空機を収納し、レイテに引き返さざるをえなかったからである。太平洋艦隊が持つ正規・軽空母の半数を引き連れてこのざまである。果たしてハルゼーが帰ってきた時には、日本の戦艦群はレイテから姿を消していた。更に追撃に移るハルゼーであったが、分散して逃げるだけの日本艦隊を追い込むことはできず、損傷を受けて速度が低下していた戦艦武蔵に航空戦力を集中させ沈没させただけに終わった。またその途中でレイテに配備されていた数隻の伊200型によって正規空母1隻が沈没、1隻が中破という結果に終わった。
「レイテ沖海戦」と後日称される戦いは、日米共に痛み分けで終わる。戦闘艦だけの被害は日米共に均衡(後日の潜水艦での被害を合わせても被害艦だけであればやや米軍が多い)し、輸送船団の被害は全体の5分の1に及び(日陸軍の航空攻撃を含む)レイテ島上陸戦は初期に一週間ほどの遅延に苛まれた。これは輸送船の被害も原因であるが、マッカーサーの乗艦(つまりは上陸戦指揮艦)である巡洋艦が大破炎上したことも大きな原因である。普通から考えると、指揮の譲渡が行われるはずの場面であるが、マッカーサーはそれを拒否、マッカーサーが改めて指令艦を指揮を執り始めるまでに1日半の遅れが生じた。その影響で全体の流れが一週間遅れたのである。
「海軍の非協力的姿勢が全ての原因である」
マッカーサーの独善的な発言(本人は自分以外は全て馬鹿だという認識に過ぎない)は、米海軍の不評を買った。確かに空母だけならば、再編成中ということもあって実働の艦の半分しか出さなかったが、戦艦は損傷艦以外ほぼ全てを出したにもかかわらず、この体たらくであったために、マッカーサーの言葉は新聞紙上を賑わせ、アメリカ本土ではマッカーサーが正しいという論調となった。マッカーサーと大統領との密約でもあり政治的には正しい作戦とはいえ、戦略的には無意味と考えていた米海軍はかなりマッカーサー(米陸軍に対するものではない)に不満を持ち、その後も消極的な協力に徹底した。そのためマッカーサーが狙っていたフィリピン戦以降の中国本土・台湾への上陸戦に対して
「海軍としては到底協力できることではない」
と拒否し、作戦は宙ぶらりんのままに立案こそされたが実施への道筋が途絶えたのである。慌てたのが中国の蒋介石、ちょうどその頃、「大陸打進戦」という日本陸軍独自の四川省(B29の基地攻撃を目指した)への攻勢によって、陸上部隊があまりにも速く中国南部沿岸部・都市を中心とした攻略が進み、また一式重爆によって四川省に設けられた四つの航空基地への攻撃が重ねられた結果として、北九州を主目標としたB29の攻撃は尻すぼみ状態となりつつあった。(これには九州・中国(現在の山陽山陰)地区を防衛する西部防空指令部を中心とした防空任務隊の活躍も無視できない)中国軍だけでは日本軍は排除できない。蒋介石は何度目かの「対日単独講和」をまことしやかに唱えて米軍の中国本土への補給・介入を望んだ。
しかし、その「介入」は果たされることがなかった。
米大統領ルーズベルトの病死である。
ドイツは歓喜し、
「悪魔は死んだ」
と広報した。
それに対して日本側の首相鈴木貫太郎は、ルーズベルト大統領の死去に際し、アメリカ国民に対する深い哀悼の意を表明す。
「ルーズヴェルト大統領の施政が非常に成功を収めたこと、そしてアメリカが今日の有利な地位を占めるに至ったのは、彼のおかげであることを私は認めざるを得ません。その故に、彼の死去がアメリカ国民にとって意味する所の大きな損失を私にはよく同感できるのであります。私の深い哀悼の意をアメリカ国民に向けて送ります」
小堀桂一郎氏『宰相 鈴木貫太郎』より
このことはワシントンポストを中心としたメディアが盛んにドイツとの比較材料として掲載し報道した。
「我々は、日本は敵であり滅ぼすべき存在と考えていた」
「ドイツだけではない。アメリカ・イギリス・フランス以外の国はルーズベルトを大統領から降ろすことがこの戦争を止める手段であったとしていたにも関わらず、我が国の国民はルーズベルトを大統領と選んだのだ、それがアメリカという国がナンバーワンになるために必要不可欠であることを望んだのだ」
「しかし、同じ白人というカテゴリーのドイツの反応はどうだろう? 日本国首相の『哀悼の意』という言葉は、ルーズベルトがいう『遅れた国』というにはそぐわない。間違いなく礼節を知る国であった」
「果たして、日本を屈服させるためのこれからの我が軍の被害を、我々国民は許すのであろうか?」
それは最初は小さな火だねにしか過ぎなかった。
ルーズベルトの後を継いだトルーマンは悩みに悩んだ。
ルーズベルトが死んだことによって、棚ぼた的に大統領の椅子を甘受したものの、ドイツは死に体であり、そのままの攻勢であっても陥落することは目に見えている。多分ではあるが、ヨーロッパ戦線の戦力を回して全力を上げれば1年以内に日本側も降伏するだろう。
「しかし…」
トルーマンは、次の大統領選こそが大切なものと考えていた。政治である。
そう、
『戦争は政治の延長にしかすぎない』
トルーマンはそのことを心の底から信じていた。そこにはアメリカ以外の国は存在しない。万が一、日本本土への攻撃を続けるのならば、1年の時間と、十万単位の戦死傷者(百万を超える予測が出されていた)。その間、他の国はどうするのか?アメリカと同等の負担を強いても難しいだろう。アメリカが日本を屈服させる間に、自国の利益を守り拡大させるだろう。アメリカのみが損を甘受しなければならないか?
トルーマンは、ルーズベルトのように中国に付託することも、イギリスに遠慮することも必要なかった。そしてその瞳には戦後のソビエト連邦の軍事的脅威、経済的脅威こそが映っていた。
「冷戦」の始まりである。
イギリスはまず油断しなかったら自群に取り籠められる。フランスは分からない、イギリス以上に独善的で自国の利益に敏感であり、歴史的にも共産主義への親和性が歴史的にもある。しかしヨーロッパはイギリスと敗戦間際のドイツとを抑えていればなんとかなるだろう。問題はアジアだ。インド・東南アジアへのイギリス・オランダ・フランスの影響力は低下するだろう、代わりにアメリカがその影響力を発揮できる隙間はある。取って代わればいい。ならば中国である。紹介石を中心とする国民党、毛沢東を中心とする中国共産党、そして日本軍の三竦み状態である。日本軍を中国大陸から撤退させたとして、アメリカが望む国民党に委譲できるか? ソ連の影響を受けている共産党はじわじわと中国全土に広がりつつある。国民党はそれを防ぐことができるか? フランス以上に難しいと情報部は判断する。
ならば、日本は?
トルーマンは日本の位置的・歴史的背景を周囲に調査させた。 そして
○ 対共産主義の強硬性
に目を向けた。
第一次大戦に関しては、ヨーロッパへの派遣(第二派遣艦隊を除きイギリスの要請に対して戦艦を含む艦隊や陸上戦力の派遣を断り、日英同盟の破棄の要因となった)の消極性はあったものの、アメリカとしてはヨーロッパに対して関心が低いことも重要なことである。そして日露戦争以降も、敵国としてソビエト連邦を第一と考えている。(ちなみに日本海軍がアメリカを第一仮想国と考えていたのは、海軍軍備増強のための言い訳でもある)
つまり…
「日本とアメリカは、対共産主義とは協力できる存在」
という、戦後を考えた結論であった。
五月にドイツは全面的に降伏した。アメリカとソビエト連邦とがその国を二つに分けた。六月初旬に中国は日本と単独講和の話し合いに入った。とりあえず中国方面は現状で停戦状態となる。そして四川省のB29基地は閉鎖さえされていないが、基地維持のための中国人(兵)は動きを止めた。国民党としては、ドイツ戦が終わったことで焦りが最大限になった。日本側の「大陸打通作戦」で追い込まれ、アメリカ・イギリスからの軍需品の輸送はか細く、このままでは中国はソビエト連邦の支援を受けた中国共産党に奪われてしまう。アメリカ軍がフィリピン戦に手こずっている現状で、しかも米大統領が変わったために『オタワ会談』は無意味と考えたのである。
「前提が変わった」
中国としては日本軍の停戦・武装解除というハードランディングによって空白地帯が生じた地帯への共産党の侵攻を心配したのである。ならば停戦のみでソフトランディングによる日本占領地をじわじわと国民党の影響下へと交換していくことの方が望ましかったのである。
日本側としては、陸軍の中国方面隊など
「これからが本番」
と鼻息高いものも多かった。鈴木首相が天皇に報告に行き許しを得た後、東郷外相は直接成都に赴き、日本側の終戦に向けた意気を直接伝えた。香港・マカオなどの外国領地、南京政府の汪兆銘政権地域を除き(汪兆銘以下は最終的には満州に亡命し、中国と満州との間の熱砂省を政権下に置いた)、数ヶ月を掛けて国民党政権に占領地を明け渡すこととなった。
中国の脱落に他の国々は動揺し、イギリス(オーストラリアを含む)・フランス・オランダはそれぞれに単独講和の道を探り出した。(戦時中、「シェル石油」(日本では「ライジング石油」)は戦前からの契約で民間向けであるが定期的にタンカーを日本に向かわせており、イギリス・オランダは交渉口としたと言われている)ドイツの敗戦によって、これ以上の戦費増加に耐えることができないのだった。それよりも国の復興に向けて全力を傾けたいのである。そして
「日本側が占領地をきちんと返す」
「日本への輸出入の正常化」
ことがそれぞれの最低条件として互いに交渉を始め、ビルマ方面・中国方面は事実上の停戦状態になる。これに対してアメリカは自国でも停戦に向けたスケジュールが動き出す。自国だけが割を食うことは避けたいのである。そして民間企業が議会と大統領に圧力を掛ける。
「日本における我々の財産を守れ!!」
ということである。東芝だけではなく、日本にはアメリカ資本の会社、日米共同の会社がいくつもある。企業の上層部は開戦自体を喜んでいない。破壊される前提の商品・部材を喜んでいるのは軍事企業だけである。健全な企業の願いは「自由競争」にあり、なるべく早期に日本との交流を正常に向け、できればアメリカ企業が有利な(例えば国産車保護のための「自動車製造事業法」の撤廃など)場面を作り出したいのである。無差別空襲など
「会社の資産を食い潰す」
とんでもないやり方だとロビー活動を活発に進めた。
対してソビエト連邦は各国の反応に激怒し、早急に対日開戦の準備を始めた。
『無条件降伏』
から
『条件降伏』
へと大きく舵が切られたのである。
フィリピン戦はルソン島に米軍が上陸したものの、山下が率いる陸上部隊は幾度もなく撃退していた。サイパン島からはB29が飛び立ち日本本土への高高度精密爆撃から日本側の損害がさほど多くなく、交代したルメイ司令官によって中高度の無差別爆撃へと変化させようと準備が行われており、その中間地点(護衛戦闘機拠点)としての硫黄島およびその周辺の小笠原諸島への上陸前の予備攻撃が始まっていた。(日本海軍の航空攻撃が加えられ、空母数隻が損傷した。日本本土に空母部隊で直接攻撃をさせる計画もあったが、硫黄島での損害を受けて海軍は及び腰となった)
対して日本側は、前述のようにレーダー網を構築し陸海軍を問わない防空体制を作り上げていた。アメリカとしてもB29の被害が基地攻撃による地上撃破・途中脱落破棄を含めてすでに600機を超えていた。
一式重爆・2式陸攻は、昭和16年以来1,300機あまりが量産されていたが、昭和20年時にはそのうち700機あまりが各地に残されていた。偵察・哨戒任務で少数ごとに配備されている以外(日本本土の錬成部隊は除く)は陸軍の一式重爆はビルマ方面・中国方面・フィリピン方面へとちりばめられ、海軍の2式陸攻は台湾(フィリピンへの攻撃を行うこともある)と日本本土の各地にその根拠地を置いた。中国方面と日本本土に配備された一式重爆・二式陸攻は、時に4式重爆や陸爆銀河を交えて中国四川省、サイパン島へ、その半数を失うことがあっても繰り返し攻撃を続けた。硫黄島の空襲の隙間をついて海軍戦闘機部隊さえも参加した。日本側の攻勢に、サイパン島沖にレーダーピケット艦を用意し、防空戦闘機を配備した。そのために半数近い損害が出たのである。損傷により帰る能力を失った機体は、次々と胴体着陸を行いB29や戦闘機の駐機所をなき払い、その戦果を上げていた。中にはガソリン満タンのタンク群に突入して数日間の行動を不可能とした。このことによって「B29による爆撃によって日本本土屈服を目指す」作戦自体が、コストパフォーマンスが悪すぎる結果となっていた。(ちなみにB29の調達費は同じ四発機のB17・B24(この機体が一番安い)よりも二倍以上の値段がつき、その運営費もそれなりのものである。また日本の一式重爆は日本の人件費が低いこともあってB17よりやや高い程度になっていた)
戦争は唐突に終わった。
日本とソビエト連邦を除く連合国は六月末日を以て一旦「停戦」した。戦後の処理はまだ完結自体ができてはいなかったが、それぞれの占領地帯を保持したまま、それぞれの地域で散発的な小さいいさかいはあったものの、戦闘自体は中止された。
シンガポールでイギリス・フランス・オランダとの交渉が始まり、ハワイでアメリカとの交渉が始まった。その時に活躍したのが一式重爆Ⅰ型を改装した「五式輸送機」(陸軍としてはもったいなさ過ぎて4機のみが改装)である。日本の交渉団を載せた機体は、白色塗装に緑十字と日の丸の装いでそれぞれの空港にたどり着いた。また、シンガポールにはイギリスのRY-3(アメリカからのレンドリースB24の輸送機型C-87)が同等の塗装に蛇の目国籍マークを付けた機体で到着する。
イギリスなどとしては、早期に植民地を回復したいのであるが、問題となったのはそれぞれの植民地の「解放軍」(日本軍が現地の若者を集め、軍隊組織に作り上げたもの)の存在である。そこで、中国と同様にソフトランディングを目指し交渉が始まった。それに反対したのがオランダとフランスであり、交渉の末、三ヶ月以内(イギリスは半年以上、昭和21年春を目指した)に全部隊を引き上げるように要求した。もちろん、その代わりに自国の軍隊を送り込もうとしたわけである。
結果は、イギリス側がしたたかであった。オランダの蘭印は日本側が余剰兵器(ほとんどは鹵獲した英・蘭軍の兵器)として廃棄した兵器を持つ「解放軍」との戦いに突入し、2年後、最終的にオランダ植民地軍はたたき出された。仏印はもっと悲惨で、数年間の戦いに明け暮れ自国軍では対応できずアメリカ軍の介入も空しく10年単位の長い戦いとなったのである。オランダにしてもフランスにしても、植民地からの歳入(つまりは略取・略奪)をあてにしており、結果、それ以上の戦費を費やす結果となる。
それに対してイギリスはビルマ・マレー・シンガポールをそれぞれの現地政府を設立し次第に任せて、少量の植民地軍(現地兵を中心としている)を置くことで、「独立」の名をちらつかせた。(もちろんイギリスの影響力をある程度残したままに)その中心となったのは「中華系移民」である。以前述べたかと思うが、イギリスの植民地政策は少数民族(移民を含む)に政治・軍事部門の主体を任せ(一番上部はイギリス人)、多数の民族を支配させることでイギリスへの不満を少数民族の方に向かわせるという方略を使っていた。(現在もマレーやシンガポールで経済力を奮っている、政府の主流になっている人物に中華系が多いのはそのためである。またアウンサンスーチー氏がミャンマー(旧ビルマ)で圧迫・迫害されている根底にあるのは、アウンサンスーチー氏がイギリスの影響を受けすぎているという判断でもある)イギリスは得意の「二枚舌外交」を遺憾なく発揮していた。
いかがだったでしょうか?
すでに次話は半分以上書いてますので、土曜日にはお届けできると思います。
ではでは。