一式重爆撃機(フィリピン戦・マリアナ諸島戦)~走るより他は無い。~
みなさんこんばんは
ホントに長くお待たせしました。
(え? 待ってない? (; ;)ホロホロ)
とりあえず、B29の配備まで
到達しました。
どうぞお楽しみください。
人生とは孤独であることだ。
誰も他の人を知らない。
みんなひとりぼっちだ。
自分ひとりで歩かねばならない。
ヘルマン・ヘッセ
◇ ◇
ここ2週間規模の潜水艦の偵察活動によって、米軍側の夜間哨戒のルーティンは解析されていた。この時間、この場所は、比較的安全とされている。信じるしかない。
伊32号潜水艦は夜間潜望鏡を上げ、同時に逆探のアンテナを上げた。周囲には敵艦もなく、遙か遠くの空が淡く明るい。逆探にも不自然な反応はない。潜水艦長の井元正之少佐はそれでも水中聴音機担当への確認を怠らなかった。
「浮上するぞ、時間との勝負だ。全員、用意を成せ」
潜望鏡深度から、潜水艦は静かにその姿を海上へとさらした。計時担当兵がストップウォッチを押す。距離は15㎞。下手をすれば敵の対艦レーダーに抑えられる。数少ないハッチから次々と乗組員が出てくる。艦橋前の大きな対水圧扉が開く、通常はここから零式小型水上偵察機が出てくるが、出てきたのはかなり小さな機体とおぼしきものであった。その数6。次々と用意される。
カタパルト上で主翼を開いても、その全幅は3.6mに過ぎない。名称を
「イ号Ⅲ型乙誘導弾」
とする潜水艦に搭載するために作られた対艦・対地ミサイルである。カタパルトもこの機体(弾体)用に改装されており、カタパルトの圧搾空気を生み出すコンブレッサーを変更したりと最大40秒以内に一発発射することができた。
「放て」
兼任の砲長(本来潜水艦の砲長は新任の少尉レベルが務めるものであるが、この兵器を搭載している潜水艦では副長が兼任している)は、艦首を目標環礁に向け、浮上1分40秒後に1発目のミサイルを発射した。何度も訓練を続けた乗組員としてもそれ以上のタイムは出ていない。そして次々と残り5発の発射を急がせた。弾体はカタパルトで勢いを受けると数秒後に補助のロケットモーターに火を付け、いったん100メートルほどに上昇する。そしてメインのロケットモーターが炎を吹き出し10㎞前後前進したかと思うと全てのロケットモーターの炎は消え、自己の誘導装置の命ずるままに環礁に突入していった。1500㎏の弾頭が起こす大きな炎が見える頃には伊32号潜水艦は艦首をあさっての方向へと向けつつ海上から姿を消した。そのために空を覆うサーチライトの群れを見ることなく静かに海中を進むこととなる。
戦果を知ったのは、グアム付近で補給を受けた時であった。同時刻に集められた潜水艦は4隻、比較的警備の薄い南方からの24発のミサイルは環礁内の対空巡洋艦を載せていた乾ドックを一つ撃破し巡洋艦もろともそのまま着底、軽空母1隻、重巡1隻、駆逐艦1隻、輸送艦・タンカー5隻が沈没・着底し、以下損傷艦が数隻という戦果を上げた。これまで航空機による爆撃と潜水艦による砲撃のみの攻撃に備えていたために虚を突かれた結果である。
米海軍はマリアナ諸島攻略のための補給・休養・艦整備などの後方拠点としてメジュロ環礁を整備していたが、これら潜水艦によるミサイル攻撃によって『安全な後方基地』という価値を低下させていた。ちなみにメジュロ環礁には航空基地を設置するほどの平地がなく、他の島から哨戒機が飛来していたため、この夜間攻撃に即応する夜間哨戒機はなかった。
陸海軍が、一式重爆・二式陸攻の対艦能力を上げるために作られた「イ号誘導弾」であったが、米海軍はその対抗のために空母の搭載機の中で戦闘機の比率を上げ、母機を狙うことを目標とした。また高度10メートル以下のレーダーに映りにくい高度をとる弾体に対しては直接照準で40㎜ボフォース・20㎜エリコンの対空機関砲・銃を艦艇の搭載量を無視して載せるという荒技に出ることになる。(完全なトップヘビーであり、荒天時に駆逐艦が横転する事故もあった、しかも数隻)
海軍はその重さ(甲が1.5トン、乙が800㎏)よりも形状(上部に瘤状に膨らんでいる)に爆弾倉を設けた双発機以外の運用を困難さを憂えた。そのため開発陣は艦上攻撃機に搭載する必要に応える、それが、イ号Ⅱ型と呼ばれる魚雷に小さい主翼を付けたような形状の誘導弾である。重量910㎏、最大射程8㎞、誘導方法はイ号Ⅰ型丙と同様の音響誘導(シーカー反応角度の中で対空砲火の一番激しい場所に突入する)、突入高度は電波高度計の反応が10m。また弾頭も通常弾と対装甲反応弾(いわゆるタ弾)を搭載時に選択できる。艦上攻撃機天山、艦上爆撃機流星、陸軍のキ102乙、陸上攻撃機銀河や陸軍の飛竜(弾頭重量を高めた乙型1.2トンを利用)などでの実戦投入された。(ちなみに川崎に発注された単発襲撃機キ119(搭載量は小さいがアメリカ海軍スカイレイダーAD-1に似た機体である)にはイ号誘導弾の搭載が最初から要求されている)
このⅡ型の大型版が、艦船搭載型の誘導弾である。外観は61㎝魚雷に小型の主翼を付けた形状に近い。前記の「イ号Ⅲ型乙誘導弾」(発射時の加速を行う補助ロケット付き)が潜水艦のカタパルトを利用するものであり、甲型が水上艦用(自機発射・4連装ランチャー式)のものである。全重量3.2トン(ちなみに92式61㎝魚雷は2.8トン)、最大射程22㎞(乙型は25㎞)、弾頭は大和型46センチ弾(もしくは1,500㎏爆弾)を利用したもので、巡洋艦レベルの艦艇も1発で戦闘不能に、2発で大破(駆逐艦などは1発で爆沈)できるものと思われた。事実、先の環礁攻撃において休暇中で油断していたとはいえ重巡1隻が1発で大破着底まで陥った。この弾体の推進エンジンは液体酸素とエタノールという液体ロケットである。(ドイツからもたらされた過酸化水素水とヒドラジンという組み合わせは強力であるが、艦艇に載せるには過敏であり、以前から海軍が考えていた方法がとられた。酸素魚雷の必要性から酸素発生器を搭載している駆逐艦・潜水艦・巡洋艦には液体酸素生産機を設置する環境が整っていたのである。ちなみに酸素魚雷は日本海軍独自のものという話もあるが、ソ連でも大戦中に制式採用されている、使われた場面はないが…)
フィリピンへの米軍攻略部隊は、ミンダナオ島への上陸から始まった。マッカーサーは最初にマニラを内包するルソン島への上陸戦を望んでいたが、太平洋の「壁」というべきマリアナ諸島を攻略する前であり、補給を考えるとルソン島の前に橋頭堡というべきミンダナオ島をまずは抑えることが大切だと思われた。そしてネグロス島・サマール島と攻略していき、最終的にルソン島を抑える…そのような戦略を立てていた米陸軍である。
米陸軍の思惑は、最初のミンダナオ島で躓く結果となる。アメリカ本土から送られた物資はまずはオーストラリアに集結される。そして西オーストラリアから船団は北上し、チモール海・バンダ海・セレベス海を通過してミンダナオ島へと届けられるのであるが、日本海軍はそこに大型潜水艦である伊号よりも、中型潜水艦を集中させた。呂号と呼ばれる1,000トン以下の潜水艦だ。第五十一潜水隊(呂100型5隻で編制)や第三十四潜水隊(呂35型3隻で編成)などを中心に18隻である。(伊号も6隻が参加)
この狭い海域に24隻の潜水艦が配備されたのである(後半に呂号波号11隻が増援された)が、その約半年にわたるフィリピン戦でその半数の損害を受けた。基本的な攻撃方法は待ち伏せであるが、長い戦いと考えていた。米軍の航路帯は五本ほどであったが、その中間部で夜間・薄暮・早朝を狙った。航空機も夜間襲撃を主として行い、その混乱した時間を潜水艦で狙う方法を多用した。既に艦上夜間戦闘機(F6Fの改造機)を開発した米海軍であったが、それを搭載している正規空母はフィリピン方面にまだ配備されておらず、船団に含まれている護衛空母には夜戦型だけでなくF6Fを運用できる能力はなかった。そのために夜間の襲撃には占領された陸上基地から陸軍の夜間哨戒機や夜間戦闘機が派遣されていたが、通り魔的な日本陸海軍の夜間攻撃に十分には対処できないでいた。そのためにオーストラリアからフィリピンのミンダナオ島への物資補給は三分の二が届けば成功というように言われた。
日本海軍は、開発したばかりの「波201型」の訓練(潜水艦の訓練は不具合の発見・改修を含め最低3ヶ月できれば半年とされていたが、2ヶ月の訓練が終わった時点で実戦配備された)この波201型は『潜高小型』とも呼ばれ、米軍の対潜戦の技術的向上によって日本側の潜水艦被害拡大を考慮し、水中高速性能を重視していた型である。排水量320t、水中速度は13kt(通常の潜水艦より5ノット速い)、しかも水中での運動性能・操縦性能により重点が置かれ、非常に軽快に水中を運動することができた。欠点はその武装と言うべきものであり、魚雷発射管を2門(魚雷数4)しかなく、大型艦への対処はほぼ考えられていなかった。(大型艦には最低6発の魚雷が必要(甲型潜水艦の発射管8発、甲型駆逐艦の4連装魚雷発射管×2基というのはその数値に考慮したものである)というのが日本海軍の常識であった)しかし、この波201型は最終的にフィリピン海域に8隻が配備(他にも試験的により大型の伊201型が2隻配備される)され、米護衛艦艇は大混乱を起こす結果となる。これまでの対潜戦が全て破棄され、新たな対潜兵器・技術の向上までフィリピンは通常潜と高速潜との不定期な攻撃、そして陸上からの航空戦に忙殺され、海軍側は正規の空母や戦艦の投入をためらった。そのためにフィリピン戦は米陸軍がミンダナオ島を攻略しつつも次の段階に進むことがなかなかできないでいた。
これについてはマッカーサーが乗艦していた軽巡ナッシュビル(マッカーサーのお気に入りの艦でもあった)が波202号によって日本の魚雷を受け沈没させられたことも原因の一つである。マッカーサーは「カエルどもの言い訳は聞きたくない、自分もナッシュビルに乗って護衛に参加する」と主張する、もちろん周囲は慌ててこれを止め、ナッシュビルは護衛艦隊に組み込まれ、マッカーサーの激励に応える形で積極果敢に先陣を切ろうとしたが、これが悪手となり数艦での行動で船団より離れたためにあえなく撃沈させられる。 第78任務部隊司令部が全滅し生存者二十数名という損害にマッカーサーの周辺(マッカーサーボーイと称される)は真っ青となり、マッカーサーはこれ以降、陸上の司令部に閉じ込められてしまう。
これ以降、フィリピンの戦いはミンダナオ島を占領した米陸軍であるものの閉じ込められた形で数ヶ月を費やし、ネグロス島・サマール島、そしてルソン島へは散発的に攻撃を続けるしかなかった。
対して日本陸軍は、一式重爆・四式重爆を中心に爆撃を行っていた。米陸軍も高性能なP51などを中心に迎撃を加え、また日本陸軍も採用・量産されたばかりの四式戦をこの戦域に集中させた。(四式戦は本土の訓練部隊を除くと、ビルマとフィリピン戦域に次々と送り込まれた)海軍も戦闘機を中心に配備してフィリピン戦線の維持に役立つことになる。
米軍側はフィリピンを早期に占領し、そこから台湾・沖縄を伺い、また東南アジアから日本に向かう船団を狙うつもりであったが、フィリピンへの輸送船団の攻防(未だフィリピン南方海域の制空権ははっきりとしていない)、航空戦の激しさ、ミンダナオ島への日本側からの『ヒットアンドラン(ヒットアンドウェイとも)』攻撃、そして逆上陸作戦などによって、米軍がやや有利な状況で戦いは続いていたもののそれ以上の戦線北上には時間がかかっていた。
日本側の『ヒットアンドラン』攻撃は米軍に習い、竣工したばかりの空母「雲龍」に護衛の水雷戦隊という小さい艦隊を組み、搭載する航空機はレーダー搭載の天山12機と新鋭の戦爆Ⅱ型(戦爆Ⅰ型は21型に250㎏爆弾を搭載するために改装されたもの)とも称される零戦64型(金星エンジン搭載、最大500㎏爆弾搭載可能)50機(一部露天搭載)によってミンダナオ島のさまざまな米軍基地・艦艇・戦線に通り魔的に攻撃を加えてそのまま逃げ去る攻撃を続けた。それら高速移動を度々行うためにその補給体制を整え、数ヶ月の間であったが米軍を翻弄し続けた。
逆上陸作戦は、米軍の部隊が薄い部分に対して3度行われた。もちろん占領までを狙ったものではなく、威力偵察であり、攪乱戦である。活用された海上機動第2旅団(増強連隊規模)は、本来、西部ニューギニアに投入予定であったが米軍の動きからルソン島に配備され、揚陸艦の一種である機動艇を10隻(二等輸送艦であるSB艇を含む)、大発・特大発・駆逐艇・高速輸送艇などの小船舶200艇余りを有していた。(旅団固有の輸送隊は編制できないままルソン島に配備されていたがこの作戦のために各方面よりかき集められた)それ以外にも作戦時に特TL型護衛空母(艦載用99式襲撃機18機を搭載)や海軍から駆潜艇、一等輸送艦の補強を施された。また、装甲車両の用意が少なく、代わりにロケット兵器や無反動砲など、人力で輸送できる兵器を重視され陸軍としても最大限考慮された兵器編制とされた。
この逆上陸作戦によって米軍の混乱を招いたとともに、ミンダナオ島の日本軍残存部隊を吸収し、1~2週間上陸地点で米軍に圧力を加えた後に兵を引く形で離地する(残存兵を含む)のである。最終的に3度の逆上陸作戦は兵力を半数以下にしたことによって陸軍側は
「失敗した作戦」
としたものであったが、米軍はこの逆上陸による損害とその混乱とで、第二段階のネグロス島・サマール島への攻略戦に二の足を踏み、計画の変更(特に兵力・必要軍需品の1,5倍以上の増加が必要との判断)を行い、第二段階への作戦移行を計画より3ヶ月以上遅らせており戦後の米軍側戦史では
「太平洋戦争最大の遅延作戦」
と評した。
ここでフィリピン戦線は膠着し、それぞれに消耗戦へと突入したのである。
このフィリピン戦を打破するためには多量の輸送船団が必要とされていたが、オーストラリア経由の輸送経路では時間がかかり、またフィリピン南方海域での損害が多いために、ハワイからフィリピンに直線的に輸送できるように日本側のマリアナ諸島の無力化が最低限必要不可欠と考えられていた。また米海軍としてもその攻略は日本を直接狙うためには大切な補給場所であり、日本本土への攻撃のために生産されているB29の基地としてマリアナ諸島(特に航空基地適地のサイパン島・テニアン島)を攻略することがすでに計画から実行段階へと進んでいた。
「何機やられた?」
「7機ついてきます。4機やられました」
第一機動艦隊司令長官の小沢治三郎は最初「アウトレンジ戦法」、つまり米航空機の届かない場所に空母を置き、航空機を長距離攻撃させる予定であった。それを補佐すべき司令部幕僚には小沢中将に意見できるような人物がいなかった。しかし、二航戦の奥宮正武航空参謀、航空本部部員角田求士・源田実は激しく抗議した。
「搭乗員を無駄死にさせるつもりか」
楽観気味、弛緩気味の第一機動艦隊司令部の幕僚を一人一人説き伏せ、防空の戦闘機専用空母(千代田の場合3個中隊36機の零戦を搭載)を用意し、空母上空に対空レーダー搭載の二式陸攻(警戒機とも呼ばれていた)を複数配備した。
また、各空母には対空機銃だけではなく多連装対空噴進砲を隙間ない状態で配備し、個々の艦の対空能力を高めていた。
大鳳から発進した天山攻撃部隊は敵艦隊の100㎞前方でその数を減らした。F6Fは阻止線を作るべく待ち構えていた。零戦が攻撃部隊を守り突破するために先行する。数分後にはあちらこちらで黒煙や白煙をまとった赤い点が海へと急ぐ。小型空母を戦闘機専門にして、零戦の数を増やしたもののF6Fの方が数的には有利であった。未だ東南アジアからの原油、もしくは精製されたガソリン・重油の輸送量が低下していない(損害タンカーよりも新造タンカーの数が勝っている状態)こともあって、航空部隊の訓練は比較的順調に進んでいたが、開戦直後の神がかり的なパイロットはその数を減らしていた。そのため「質より量」の教育課程が組まれたものの、新兵は初戦での戦死者が一番多い。搭乗員の質が一番良いはずの第一、第二機動部隊でもその損害がこの一日二日で急増するのであった。
米艦隊の火山の噴火を思い出させる激しい対空砲火を形成した輪陣を抜ける、高度20メートルでの最大速度を発揮した天山であったが2機が直撃、対空砲火の破片を受けて片方の主翼を失い、速度を失った竹とんぼのように海面へと激突した。残存の天山は敵主力艦にイ号Ⅱ型誘導弾を放った。
「逃げるぞ!!」
操縦桿を握る艦攻の中隊長は火星25型エンジンを再度最大出力(水エタノールは使い果たしていたので、1500馬力前後)に上げ、プロペラのピッチ角を変更しつつ機体の高度をそのまま10メートル以下で艦隊をくぐり抜ける。毎日のように激しく叱咤していた部下の機体もそれぞれに散開しつつ敵陣より逃げようとした、離脱時の直線飛行こそが対空砲の餌食になるという教えは中隊全体に浸透しており、視界に入るだけではあるが各機は不規則に蛇行して敵陣を抜けていった。
第一機動部隊の天山は132機、うち生還したのが79機(レッコ(機体廃棄)7)、未帰還機は53機(陸上基地に帰還が3機、搭乗員回収5機分)、約4割の損害を受けた。
対して日本側は米機動艦隊の航空攻撃を受けた。3波に渡った米軍側の攻撃は戦闘機専用空母(千代田などの3隻)に詰めるだけの戦闘機を載せ(着艦訓練がままならなかった搭乗員は陸上基地に向かうように指示されていた)発艦させた後、後方へと下がり、追加の航空機を受け取っていた。
「戦えるか?」
「半数ならば…1時間いただきます」
参謀は多少言いよどむ。予想された損害であるが、目前とすると辛いものがある。
ここで使い果たしていいものか、続くフィリピン戦まで待つべきか…
「敵艦隊の動きは?」
「偵察機からの連絡によると、現在陸上基地からの攻撃を受けており、隊形がまた崩れているようです」
ちらりと地図を見て、それほど敵艦隊位置が変更されていないことも告げる。
これまでと違い、地図は机の上ではなく、壁に張られた板に掲示されており、そこにいくつかの矢印が記されている。
「どうせ夜戦になる、それを前提に編制してくれ」
小沢治三郎はそう言い切った。
戦いは続くことが決定した。
夜間の攻撃は昼間の攻撃よりもかなり数が少なかった。半数以上の稼働機を持っていても夜間攻撃が可能な搭乗員は少ない。そのために零戦も爆戦型や62型に爆弾・ロケット弾を搭載して夜間飛行ができる搭乗員ばかりであった。(敵夜戦型F6Fが来た場合は、62型が爆弾を捨て去り対処する予定になっていた)そしてまた三分の一の損害を出し、第一機動部隊、第二機動部隊の航空機は半数以下になる。通常であれば全滅と判断される数である。そして夜間攻撃隊を収納すると日本側の機動艦隊は全て退避行動に入るのであった。
日本側は正規空母1、軽空母2、(損傷艦多数)そして300機の航空機を失い、マリアナ諸島を離れることとなる。
米軍側は航空母艦13隻のうち4隻を失い3隻損傷、戦艦1隻巡洋艦2隻が沈没、280機の航空機(損傷多数により40機余りが海中投棄される)を失った。
マリアナ諸島のサイパン・テニアンに上陸した米軍は、日本陸海軍の激しい反撃に遭遇する。米軍輸送部隊はすでに陸上攻撃機と潜水艦(マリアナ諸島を巡る戦いでこの地域に配備された潜水艦は半数以上が沈没する)の攻撃によって上陸前に5分の1の損害を出していた。戦艦の陸上砲撃が盛んにおこなわれたが、その艦に向けて陸上配備されたイ号Ⅲ型乙誘導弾が24発、全力で放たれた。沈没艦こそ駆逐艦1以外なかったものの、戦艦6隻中2隻が大破、2隻が中破、重巡2隻が大破という損害を受け、それ以降の艦砲射撃を中止した。(日本側が既に全ての誘導弾を使い切ったことは知らないでいた)また、島全体を要塞化し上陸後に反撃する戦法がとられたために100メートル進むために一個中隊の損害が必要とも言われた。ロケット砲や無反動砲、歩兵分隊12人もいれば適度に移動が可能なものがこの島の防衛兵器として多数用意されていた。
上陸作戦をとられている場所以外の海岸線に配備された甲標的(小型潜水艦)や震洋(陸軍はマルレ(○レ)と呼ぶ、小型モーターボートの特攻兵器、但し本来生還することを基本としている)が、上陸直後の米軍混乱期に合わせて出撃し輸送船・上陸用舟艇を攻撃、フレンドリーファイヤーになるために小火器での対応だけであり震洋はその数の暴力(3波に渡る全86隻の攻撃)で襲い、上陸作戦は一時中止されることとなる。計画は上陸以前から破綻した。
第一波の上陸部隊は、その4分の1が海に投げ出されライフルも持たずに上陸した兵であり、続く物資は半数も揚陸されていなかった。橋頭堡構築は第二波の計画なので、物資は海岸のあちらこちらに投げ出されていた。輸送船団は海岸を離れ沖の方へと逃げている。そこを狙ったのが他の島から来襲した戦爆や水上偵察機で、収束爆弾(タ弾ではなくテルミット子弾による焼夷爆弾)や60㎏の三式六番二七号爆弾と称されるロケット弾を8発携行して米海兵隊の攻撃に加わった。その海岸線への攻撃の主たる歩兵部隊(9個中隊)は海岸線に切り込み戦術を掛け、第一波上陸部隊はその兵力と物資を減らし続けた。
第二波上陸部隊は護衛空母(正規空母部隊はハワイへと進路を取っていた)で全力で制空権を取り、上陸用の舟艇を駆逐艦や各種の艦艇で護衛し、二日遅れて橋頭堡を築いた。その中でもレーダーに映りにくい極低飛行を行いまた夜間に戦爆が少数機で攻撃を続けた。これは米軍側が正規空母機を温存し、陸上航空基地への徹底的な攻撃を行えなかったことが主の原因であり、残存の航空機を活用した日本側(残存機への徹底的な整備を行った整備員の活躍が見られる)の効果である。
「大破して帰ってきても、次の日には使えるように整備する」
という合い言葉が整備員の周囲に広がっていた。
大発を搭載する一等輸送艦や哨戒艇、陸軍のマルユ潜水艦や伊300シリーズなどの輸送用潜水艦が米軍の隙を突いて必需品の輸送を続けるものの、次第に日本軍は追い詰められていく。
「なあに、これからが勝負だ」
中部太平洋方面艦隊司令長官の南雲忠一中将はサイパン島のほぼ中央部にそびえるタポチョ山に設置した司令部の地下壕で幕僚たちを鼓舞した。出征する壮行会の席上、「今度という今度は白木の箱か男爵さまだ」と述べたという南雲は、陸軍が設置した有線連絡網によって、各地に置かれた監視所、レーダー基地、航空基地や陸軍の連隊・大隊からの連絡を受け、この司令部にいながらサイパン島の状況を把握していた。
大本営はこれまでの島嶼戦において、陸海軍の統一指揮体制の重要性を痛感しており、中部太平洋方面を防衛する日本陸軍第31軍(小畑英良中将司令官)は中部太平洋方面艦隊、つまり南雲司令官の指揮を受けるようになっていた。
米軍上陸第1波への攻撃は予想以上に上手くいった。ただし小艦艇は全てなくし、サイパン・テニアン島の残存航空機と、少々離れたグァム島からの航空機攻撃が夜間攻撃を中心に繰り返されていた。そして第4派、つまりは日本軍の攻撃をほぼ受けなくなった上陸部隊はついに航空基地を占領した。航空基地の守備部隊は航空爆弾にロケット尾部を付けた投射ロケットで最後の最後まで寡兵むなしく、少数の小銃と航空機用機銃(固定機銃に手を加え、三脚や航空機用のタイヤを利用した陸上兵器と化した20㎜機銃も多数用意されていた)を手に山へと向かった。予定としては占領後、一週間以内で海兵隊・陸軍単発機、二週間以内にB29を迎える予定であったが、航空爆弾のロケット兵器が不定期に空港を襲い、その発火点に攻撃を加えようとすると多数の機銃攻撃を受けるなど、数的優先はしばらくは日本軍にあった。その均衡を破ったのは少数ながらも米軍機の配備ができた20日後のことである。それまでグラスホッパーなどの観測機だけが飛んでいたサイパン島であったが(その観測機も時折撃墜されていた)、F4Uなとの海兵隊機が配備される中で次第に奥へと追い詰められ、時折「バンザイ攻撃」が出る程度の日本軍の攻撃であり、予定より5週間は遅れたものの、航空基地占領2ヶ月後にB29はその銀色の姿をサイパン島に現した。
タポチョ山を巡る戦い(米軍にとっては残存戦力一掃戦)は、1カ所のトーチカ・機銃座を互いに狙う戦いであった。そして日本軍は粘りに粘った。遂に総司令部はより北部に設けられていた第二司令部へと居を移した。輸送船は届かなくなり、航空基地を占領され孤立したサイパン・テニアン島には米軍を苦しめたロケット砲や無反動砲の弾体・弾丸は底をつき、糧秣も残すところ数週間、時折グァム島からの航空攻撃があったものの、F4Uや陸軍機のP51、夜間戦闘機P61などの配備も進み、損害の割に米軍の被害がすくなくなっていた。
「すでに諸君らの責務は果たした、米軍に投降せよ」
南雲司令長官は全島に連絡を届けさせた。無線、有線、伝令、伝える手段は複数となった。南雲は地下壕の私室にこもり、どうしても死地を共にしたいという数名とともに自決した。それを以てサイパン・テニアン島の日本陸海軍は全面的に降伏を行った。
捕虜収容所に集められた日本陸海軍の面々は、その扱いの丁寧さに驚いた。捕虜であれば辛いことがあると思っていたものの、それは新兵などの一部であり、ベテランの下士官・兵は、それなりに扱った。戦傷兵や病人には適切な処置がなされ、三度の食事もほぼ米軍が得ている食事が並べられた。(中には初めてステーキを食べた日本兵もいた)鉄条網に囲まれてはいたが、テント生活はこれまでのジャングルやトンネル生活に比較してもかなり上々のものであった。
「なぜだろう?」
食事のたびに兵らは囁いた。
アメリカ軍の秘密報告書において
「この戦いはアメリカ軍にとって史上最大の激戦のひとつになった」
とも評された。
ジェイムズ・L・デイ少将は、自分の経験から
「日本軍の将兵は素晴らしい男たちであった。航空部隊による直接の支援もなければ、海軍部隊による支援もなく、事実上何の支援も受けられない状態で戦うには、非常に柔軟かつ巧妙な戦闘指導が要求される」
と日本軍将兵および前線指揮官の優秀さを評価している。
ある戦史ではこう述べる。
日本兵への畏敬の念が行き過ぎて
「日本兵を大したことがない、なんて抜かす奴がいたら俺が撃ち殺してやる」
と新兵を怒鳴り散らす小隊長もいた。
「南雲は米軍の予定をすでに3ヶ月は遅らせた。そして、そのまま攻防戦を続けても無意味な損傷を互いに増やすことを嫌った。もしも『玉砕戦術』を取ったとしたら、日本軍はさらに一万数千の屍を山に晒すこととなり、米軍も五千以上の戦傷者を出したことであろう。あと1ヶ月は続いたと考えられる攻防戦であったが、すでにテニアンの航空基地は拡大を続けてはいたが、プラスマイナス2ヶ月の遅れによって次の段階、グァム島、硫黄島の戦いはまたもや数ヶ月は遅れた。いや、同時進行的なフィリピンでも、同様の結果であり、米軍の本土は損害の多さに、ヨーロッパの兵力を呼び返そうとさえ考えていた」
これからの戦いで米軍が勝利することは、確約されている。もちろん、それまでにかなりの損害が互いに出ることは異なめない。
太平洋艦隊司令長官のニミッツは、この後に計画されている
日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」
の展望についてかなり悲観的になっており、上官にあたるアーネスト・キング海軍作戦部長に下記の様に報告している。
『日本軍が準備された防御陣地に布陣し補給が受けられる所では、我がアメリカ軍の最優秀部隊が、従来になかった強力な航空支援・艦砲射撃・砲兵支援のもとに攻撃しても、遅々たる前進しかできないような強力な戦闘力を発揮する事がマリアナ・サイパンの実戦で証明された。日本軍は結局まとまった人数で降伏したが、わが軍が膨大な死傷者を出すことなく日本軍部隊を撃破する事は不可能である。南九州や関東平野の様な攻撃目標となっていることが明らかな地域が、マリアナ・サイパンの様に堅固に防御されていないだろうと期待することは非現実的と言うべきであろう。』
いかがだったでしょうか?
どれを拾い上げ、どれを捨て去るか…
戦史を何度も読んでいく中で、悩みまくった本作品です。
無意味に終わった島嶼戦、また各部隊をできるだけ活躍させるために
「んなことできっこないだろ?!!」
ということを、どうにか落とし込もうと考えました。
戦争ですから、死者が出るのは分かってますが…
まぁ、いずれにしても日本側の敗戦は決定しているのですが、どのような終わり方をするべきか? を、三つくらいの分岐があるのですが…どうしましょ??
とりあえず、次の回で終戦を迎える予定です。
フィリピン・硫黄島の戦いをなるべく? あっさり終わって、
B29への対応を行う予定……
(いつもの戦後回のほうはほぼ決まっていますが…なんとなく想像できる? ははははは 乾笑)
ではでは。