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一式重爆撃機(間宮と海上護衛総隊)~ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。~

おはようございます

と、いってたら大丈夫?


ブックマークが42人?

いつのまに?

ありがとうございます。


前回の予定では「中部太平洋諸島を巡る戦い」になるはずだったのですが、僕自身のひねくれ方から(笑

このような話になりました。しかも、主人公(一式重爆・二式陸攻)はほとんど出てない…


もう、戦争も中盤を過ぎました。


では、お楽しみください。

『小さなチョウの羽ばたきが、地球の裏側で台風を起こすこともある』


   ◇         ◇


「見つけた! 間宮だ!!」


「時間が早いだろ? ああ…ホントだ、おい、急げ」


「間宮が来たぞぉおおおおお!!!」


 艦内がどよめく。すぐさま内火艇が艦より下ろされる。こういうときには小さな艦は有利だ。間宮が碇を下ろすまでが勝負だ、他の艦からも内火艇やカッターが下ろされつつある。乗り込むのはウキウキした乗組員だが、数名、緊張した顔を見せた者がいた。


「どのくらい確保できるか…」


 羊羹は絶対だ、艦員にわずかずつでも分けられる量を確保しなければならない。それからラムネ、饅頭、最中…まずは甘いものだ。どれだけ内地風の甘いものに飢えていることか。アイスクリームは…無理だな、持って帰るまでに溶けてしまう。内火艇の乗組員分はなんとか確保しよう。それからそれから…


 間宮は護衛の駆逐艦数艦と離れ、トラック諸島のラグーン内海のひとところに停止した。もたもたしている場合ではない。内火艇の艇長(本来は第二魚雷管の魚雷班長)は見事な操作を見せて、間宮の艦舷に寄せていった。間宮から艦舷梯子が下ろされる。それに近づき、


「主計長、お願いしますよぉ!」


と艇長が叫ぶ、言葉は荒いが、そこには懇願が込められている。苦笑してしまう、艇長は40すぎくらい、俺の父親と余り変わらないんだけれど…

さて、これからが俺たちの戦場だ。殺し合いはないが、精神的には削りに削られる。


 小一時間後、間宮のデリックから荷物を受け取った内火艇は間宮を離れる。周囲には様々な艦の内火艇やカッターがひしめき合っている。それでもちゃんと順番を守っているのが面白い。けんか腰ではあるがけんかにはならない。当たり前である、そんなことで順番が遅れると艦に帰ると総スカンを食らう。

 少々離れたところで内火艇は止まった。内海独特の緩い波が内火艇を軽く揺さぶる。


「うま~い!」


アイスクリームは少量ではあるが、内火艇の乗組員に配ることができた。役得である。要求した甘いものはちょっと多めにしていたが、主計員の一人が間宮の係の小学校時代の先輩・後輩であったためほぼ全量を確保できた。いつもならば8割程度(ぎりぎり定量を補える)だったろう。その他の食料品もだいたいうまく積み込めた。


「うまいなぁ~」


アイスクリームを口にし、ほっとして主計担当の顔を見る。みんなの顔はほころんでいた。見上げた上空を四発の攻撃機が飛び去った。




「間宮は無事に停泊したようだな」


機長はつぶやいた。やれやれだ。大和や長門の入港よりも緊張した。定期の哨戒線をかなり逸脱して、間宮の航路を集中した哨戒を行った。この機だけではない、予備機だったはずの機体も「修理の完了試験」と称して間宮をずっと見守っていた。隊長は苦笑するだけだった。


「バレないようにしてろよ」


いや、あなただって、帰りの哨戒飛行で計画上、間宮に合わせたでしょう?

後日、間宮艦長から「間宮羊羹」とともに


「貴隊の気遣いに感謝する」


という簡単な礼状が送られてきた。




ハワイのアメリカ軍無線傍受の施設は、ある船の動きを執拗に追っていた。大和でも加賀でもない、間宮だという名前の船である。そしてその結果を次々と太平洋艦隊所属の全ての潜水艦に打信していた。


「間宮をやれ」


それは何物にも代えられない第一目標とされていた。


間宮


当時海軍将校だった作家の阿川弘之氏が、著書『軍艦長門の生涯』のなかで


「『長門』が連合艦隊の象徴なら、『間宮』は連合艦隊のアイドルであった」


と書いている。

 アメリカのオレンジプランに対して、日本はマリアナ諸島付近での迎撃作戦を考えていたことはよく知られている。遠く日本を離れた艦隊への食料品の輸送のために建造されたのが間宮である。当時としては最新式の巨大な冷蔵庫・冷凍庫設備を持つ船は18,000人の3週間分の食料を貯蔵できた。それだけではなく船内にさまざまな加工設備を持ち、アイスクリーム、ラムネ、最中、饅頭などの嗜好品からこんにゃく、豆腐、油揚げ、麩などの日本固有の食品まで、それぞれに専門の職人が乗船し製造していた。特にアイスクリームと羊羹、最中は絶品で、有名菓子店を凌いでいたと言われている。

 昭和17年より間宮主計長を務めた角本元海軍中佐の話によると、

「と○やの羊羹より大きく!」

との命令が申し送りされていたとの話。当時「間宮」で製造され配布された羊羹は、最低でも2kgはあったという。(「まな板」と呼ばれていた)間宮が来港した際には、それぞれの艦から電波が大量に飛び交い(へたをすれば平文で)、アメリカ軍の通信関連の部門はかなり戸惑ったという話もある。「すわ、大規模な作戦の前触れか?」と…。


「マミヤとは?」


 それが日本海軍の給量艦『間宮』であることはすぐに判明する。しかし、その艦が日本海軍の士気を維持するためにどれだけの影響を与えているかに理解が届くまでにはしばらくの時間が必要であった。そしてそれが理解された時、間宮はアメリカ潜水艦にとって、優先的に沈めるべき船となった。

 一方で日本海軍にとってみれば間宮は「重要警護対象」(戦艦・空母に匹敵する)であった。トラック諸島などの泊地に入れば、停泊場所は奥の最も安全な所が割り当てられ、その周囲を艦隊や地上の高射砲が守ることとなり、また停泊時の警戒活動はより一段と張りつめるのが当然となっていた。出港時も同様で、航路の選定、護衛には特に念を入れられたといわれている。


「間宮がやられたと?!」


「船団が潜水艦の襲撃に遭いました。間宮は1本魚雷を受けました。今のところ航行は大丈夫です。横須賀に向かってます」


連合艦隊司令部は大混乱に陥った。司令長官が戦死した以来の混乱ぶりであった。


「船団の被害は?」


「他に輸送船がもう一隻、魚雷を喰らいました。なんとか自力で航行できていますが…父島に行かせようとしてます」


「潜水艦か…飛行機は? 哨戒してたんだろう?」


「ちょうど、交替時期でした。直援機も夕方になったので、基地に帰っていたみたいで…」


 襲撃が父島付近であったことが問題であった。日本に近づき警戒の緩む地点であったが、日本に近すぎる。




「うちにどうせよと?」


 第四艦隊麾下の第二海上護衛隊司令井上保雄中将は突然の来訪に驚いた。中佐である軍令部第1部部員が招き入れられたのは間宮が未だ横須賀に入港していない日であった。何度か軍令部ですれ違っていただけの関係でしかなかった。


「間宮のことは、確かにこちらの不手際かもしれんが…」


「それです。間宮の触雷はあちこちで大騒ぎになってます。単なる責任問題ならば、何人か閑職に回されてそれで終わりですが、思った以上に問題が広がってます。連合艦隊や軍令部の、しかも上の方の首が飛ぶかも知れません」


「たった一隻のために?」


井上中将は、この中佐を称する来訪者の話の落とし所が分からなくなった。


「たった一隻のために…です。陸軍が騒いでます」


なるほど、大本営の、政治的な問題になっているのか…しかし、こちらに話をしている意図は?


「こちらの第二海上護衛隊と東南アジアの第一海上護衛隊、増員が必要ですよね。大幅な…。そしてできれば第三、第四、第五と…」


「貴官の意見は分かった。自分としても異論はない」


なるほど、この問題を利用するつもりか?


「及川大将にお願いしようと思ってます。表の顔は…そして」


「裏は君か?」


「第一海上護衛隊には話は通しました。ご協力願います。」


軍令部第1部部員大井中佐は、深々と頭を下げた。

 井上中将は戦後、大井篤大佐(終戦時)と会ったことについて


「とにかく馬鹿に我慢ができない。だいたい頭が良いものは目先の戦果にとらわれがちだが、神(重徳少将)とかそいつらを毛嫌いしてた。反対に及川さん(古志郎大将)なんかには年をとっているのにもかかわらず、新しいことも順応に知ろうとする人だと言って感謝していた。1年後、2年後のことを常に考えている。感情論が台頭しがちな後方を説得できたのだから、すごいもんだよ。」


連合艦隊から独立した組織として

海上護衛総隊

が設立したのは、間宮触雷2ヶ月後であった。


「私は何でもするぞ、どこにでも行く。どこへ行って何をするべきかは貴官たちが考えて欲しい」


及川大将は着任早々、その手足となる部下にそう言い放った。


「『常在戦場』だ、軍令部とは違う」


 連合艦隊司令部は、あたりまえであるが基本的に24時間営業である。いつどのようなことがあり、それに対する即時の対応が必要とされる。対して海軍省の軍令部は、他の役所と一緒、つまり9時~5時が基本であり後は自宅に帰る。(機密文章が多すぎて自宅への持ち帰り仕事もできない)平時の話ではない、開戦後も同じような勤務体系であったのだ。もしも夜間に何かがあったら?それから各所に連絡があり人員が終結するまでの間、何の決定もできない。なぜか?簡単に言えば、基本的には給与体系である。誰も軍令部を24時間、働かなければならないと考えていない。予算に限りがあるので、下手に人員は増やせないし、残業手当も付けにくい。仕事量の増加は? 軍令部は超エリートの集まりであるから、ペーパーの仕事は二倍くらいに増えてもなんとかしている。

『連合艦隊付属軍令部』

と揶揄されたこともしばしばあるのは、本来は軍令部が上である立場を連合艦隊司令部が力(山本五十六大将の就任に伴った)の均衡を破ったこともあるが、結局、開戦後に下請的な仕事が主体になっていったからである。(ミッドウェー海戦後あたりから、名目上、立案・作戦指導には連合艦隊と「合同」で行うこととなる)


「しかし、我々の人数では、そうはできません」


できたばかりの司令部は、少数精鋭というにも少なすぎた。


「大井君」


及川は、その答えを用意していた。


「現役の士官以外で使える者は? 用意してるんだろう?」


「予備仕官ですね。それから、学徒出陣の予備学生ですか。必要な数は軍令部に隠れて確保してます。どうせ増えるだろうとその倍、名簿はできてます」


大井は、以前、海軍省人事局第1課に勤務していた。


「うん、早急に手配してくれ。苦情が出たらこっちが引き受ける。艦に載せる者、司令部付きにする者、島に派遣する者、様々だろうが経歴をよくよく考えてくれたまえ」


そう言うと、及川は陸軍省に先触れを出した。もちろん陸軍との交渉のためだ。

「東南アジアからの航路を確保する」

という目的のためには陸軍は欠かせない。開戦前から陸軍の要望として、東南アジアからの原材料輸入と東南アジアへの兵員・軍需物資の補充について、『万全を尽くしていただきたい』と言ってきていた。本来陸軍は『北進』が主流であり、東南・東アジアを主戦場としたのは大陸の援蒋ルートの分断と資源の確保に過ぎなかった。及川とその幕僚は陸軍との交渉を経て、

 海軍からの護衛支援

とともに

 陸軍独自の護衛体制

を決定した。これ自体は陸海軍の分離とも考えられるが、陸軍の輸送船そして艦艇の航行中の指揮権を海上護衛総司令部側が確保したことは大きな成果と言えた。(後日、更に陸軍側の航空哨戒機の指揮権も含まれるようになった)更に言えば、陸軍の鉄鋼割当量が海上護衛総司令部へと流され、輸送船舶や護衛船舶(船籍上は陸軍)の確保が連合艦隊を通さずに使えることとなる。また陸軍が確保しているスマトラ島の油田パレンバンなどから原油や精製されたガソリン・重油などをある程度海軍側に流すこと(取りに来てくれるならばという条件付きではあったが)が決定された。(戦前、陸海軍は交渉し、スマトラ島の石油を陸軍が、蘭印(ボルネオ島、タラカン・パクリパパン油田など)の石油を海軍が抑えそれぞれに利用することとなっていたが、スマトラ島の石油の方がはるかに産出量が多いことを無視したもので、占領後、海軍から陸軍に石油の融通を願ったという裏話がある。ちなみにその交渉をまとめたのが神重徳である。馬鹿なことに産出量のことを知らないままに交渉に挑んでいたらしい)

 次(というより同時進行ではあるが)に及川は、軍需省や商工省などを巡り、

「資源を渡すから、便宜を払え」

という内容を、遠回しに丁寧に語った。

 及川自身、これらのことによって飛躍的に東南アジアの資源が大量に流れ込むとは思っていない。(輸送船自体の数の問題もある)しかし幕僚らは、「今より遙かにまし」であることに満足していた。少なくとも独自に自由に動ける体制ができあがった。連合艦隊の勝手気ままな命令に振り回さずにすむ。

 わずかな艦艇と人員で始まった組織であったが、陸軍や関係省庁を巻き込む形で次第にその勢力を高めていった。最終的にその司令部・総合指揮所だけでも事務・通信関係の婦女子を含め、10,000人を超えることになる。

 輸送船は、「戦標船」という規格を用い、量産はすでに始まっていた。現在、もっと簡潔に線引きされ溶接技術なども取り入れられ機関などは手に入りやすい物を用いる「二次戦標船」と平行して建造が進んでいた。

 護衛艦の方も同様で、海上護衛総隊として軍令部や建造部門を巻き込み、1,000トン以下の建造施設しか持たない建造所(当時の日本には結構あった)に発注したのである。

 一つは海防艦と呼ばれる航路護衛艦である。750~800トンくらいの船体に高射砲2門と対潜迫撃砲(陸軍の12㎝迫撃砲を利用、当初は単装であったが後日五連装となる)、機関銃多数、爆雷多数(最初は30発程度であったが末期には140発程度搭載した)レーダーと音波探信儀を搭載し、直接護衛を行う。

 次に、駆潜艇である。250~320トンの船体に、高射砲一門と対潜迫撃砲、機関銃、爆雷を搭載し、近距離の船舶護衛や泊地防衛を行う。海防艦より速度が5~10ノット程度速く運動性がいいために、便利使いされた。

 そして特設駆潜艇、特設哨戒艇である。100~150トンの大型漁船の船体を利用し、機関銃数基(25㎜機銃2基、7.7ミリ機銃数基)、爆雷数発を搭載し泊地防衛以外にも大発等の近々の護衛、単独の哨戒活動を行う。

 いずれも「二次戦標船」に準じ、簡潔な直線的なラインの設計図を用いられた。

そして目玉として上げられるのは特設空母である。すでに前年であるが、陸軍から海軍へと輸送船護衛と航空機輸送のためにタンカー等に簡易の飛行甲板を張ったもの(海鷹などは補助空母(準空母)であり、その構造も正規空母に準じている)を提案、海軍は陸上からの航空部隊で十分に対応できると蹴っていた。しかし陸軍側としては海軍を信じてなかった。

「護衛用に空母を用意してくれ」

それは、陸軍の最低条件の一つとなった。もちろん連合艦隊から引き抜くことはできない。ならば? 陸軍が提案していた特設空母である。1TL型(10,000トン、19.0ノット)タンカーを利用し、160.0m×23.0mの飛行甲板を張る、エレベーター一基であるのは海戦参加を考慮せず建造期間の短縮のためである。格納庫は半開放式にし、雨天はシャッターや扉で対応する。航空機輸送艦として用いる場合、単発機を飛行甲板・格納庫に35機収容する。海軍は艦隊への揮発油ガソリン給油船としても利用したいこともあって、タンカーが前身であることを利用し、正規空母4隻分以上のガソリンを積載していた。(これ以外に重油6,000トンも積載)この機能は陸軍でも、航空機とガソリンを同時に輸送できる船として重宝された。建造が急がれ第一期分の陸海軍各二隻が就航したのは19年春のことで、すぐさま船団に組み込まれて護衛を行った。しかし利・活用の方法が航空機離・着艦のたびに船団を離れる必要もありうまく行かず、海軍の指導があってはいたものの陸軍もそうそううまく運用できなかった。

 当初、海軍は93式中間練習機を、陸軍は制式採用前ではあるが3式指揮連絡機を搭載していたが、昼間のしかも人の目で哨戒するだけに過ぎず、陸上での計画的には上手くいきそうであったので採用されたものの、船団の評判はかなり辛辣で、護衛艦隊自身も


『空母ガ船団ト同速力ニテ運動スルハ最モ不可ナリ』


などと評された。海上護衛総隊としても問題視され、これまでの船団に合流した形の直接護衛ではなく、護衛艦艇数隻を率いて陸側に配備するという間接護衛の形をとることとなった。(陸側から襲おうとする潜水艦は少ない)また艦攻「天山」の配備開始で余剰となった旧式の97艦攻を横取り同然に手に入れ、配備を急いだ。魚雷や800㎏爆弾を装備してない97艦攻は特1TL型護衛空母の短い飛行甲板でもなんとか運営できた。(このため中島の97艦攻の生産ラインは終戦間際まで残されることとなった)ただ、97艦攻には新しい装備が取り入れられた。一つは哨戒レーダーである。もう一つは磁気探知機(磁探・MAD)である。「KMX磁気探知機」、「三式一号探知機」とも呼ばれる。


「そんなの、レーダーよりも簡単だよ」


 ある時、海軍の技術将校から「潜行中の潜水艦をどうにか探したい」という相談を受けた東京帝国大学工学部の阪本捷房教授はあっけらかんと応えた。その答えを聞いて唖然とした。あっさりと答えが見つかったのである。なるほど電気学や物理学の基本でしかない。


「潜水艦は鉄の塊だから、地場が乱れる。その乱れを捉えれば良い」


 海中の磁気の乱れによって潜行中の潜水艦を探し出すものである。1879年に発表されたタレンの『磁気測定による鉄鉱石鉱脈の調査』という論文はかなり以前より学者内で常識とされており、戦前にも鉱脈を見つける手段の一つとして実用化されていたのである。

 17年より海軍航空技術廠で開発が開始、噂を聞いた海上護衛隊が哨戒機複数(最大50機と言われている)の実戦実験を繰り返し、18年に制式化された。装備する機体は連動して海面着色マーカー自動投弾する装置を備えていた。探知距離は直上距離160m、左右距離120m。そのため単機での探知は難しく、(別行動の)電探機1機と磁気探知装置を装備する磁探機3~4機を組み合わせた編制で、船団前方30~50㎞を波状に10㎞幅で蛇行飛行して探知を続ける。潜水艦を見つけた際には、後方から対潜爆弾を抱えた攻撃機が向かい攻撃を加える。場合によっては艦艇が向かい対処する手はずとなっていた。

 このような形になるまでに半年以上が過ぎ、その間に対潜水艦活動で活躍したのは陸上基地の航空哨戒部隊であった。また護衛空母が配備されても、夜間の哨戒は陸上機・水上機・飛行艇がになった。

 地上基地の対潜哨戒任務は、海上護衛総隊としてもかなり頭をひねったことである。一つには海軍からその航空部隊を譲って(航空機ではなく、単に指揮権という場合もある)もらわなければならない。本来は陸攻部隊の一部を哨戒任務に回しているのだが、その部隊全部をこちらに譲ってもらえるわけがない。それでなくても中部太平洋の諸島はこれから戦場になるものと考えられており、譲ってもらうにも少数であろう。またその部隊の一部を中核として新しい航空部隊を編制しようとしても航空機の確保の問題もある。また、中部太平洋方面は海軍が、フィリピン・東南アジア方面は陸軍が、その陸上からの哨戒・護衛任務の区分となっているが、連絡網の構築や、通信体制(別々の無線機・別々の周波数帯)を編制する必要がある。ちなみに陸軍は一式重爆の部隊編制もあって、以前よりもかなり洋上飛行が可能となっていた。洋上での天測による位置確認、飛行訓練(ただし陸地が全く見えない範囲では双発以上に限る。高度をとれば陸地は見えるし…)も航空隊訓練の一部として組み込まれていた。最初は連絡体制を、そしてそれぞれの指揮系統関連をと少しずつ陸海軍哨戒部隊のすりあわせを海上護衛総隊で行い、新しい部隊編制を行い、などをしていく中で、総隊の総合指揮連絡所は拡大の一方をたどった。


「さすがに二式陸攻は譲れないよ、機数も少ないし…その哨戒や偵察関連の報告は全て回すから、それで許してもらえないか?」


「一日たってでは困りますよ、情報は新しいものほど価値があるのですから」


「分かってる、分かってる。飛行機から部隊に連絡が来たら、上に回す時に一緒にそっちに回すことを約束しよう」


長時間による会議は互いの思考をぼんやりしたものとなりがちであるが、エリートと呼ばれる彼らにはさほど問題はなかった。連合艦隊司令部と海上護衛総司令部の話し合いは、細部の煮詰めにも時間を費やした。


「で? どうなんだ? 余剰機や旧式機をかき集めているみたいだが…」


会議の休憩時間に話を振る。


「それでなくても艦艇はかなり我慢してますから、飛行機くらいは大目にみて欲しいですね。」


「何言ってる? 船団の入出港時に根拠地艦艇と飛行隊の指揮権はこっちも譲歩しているじゃないか?前日からの丸一日の近海掃除はけっこう負担だとこぼしていたぞ」


「それはそちらにもかなり効果的なのでしょ? おかげで燃料を運ぶのも食料運ぶのも計画どおり進んでますよ」


「確かにそうだな。こちらにも利がある」


「飛行機は役立ってますよ、潜水艦相手ならば低速でも十分ですし、旧式機とはいっても手慣れた機体です。整備員も慣れたもので稼動率も高い。それに電探や磁探は十分に載せられます」


 集められた機体は、三座以上の単発機(艦攻)や旧式の双発陸攻、そして水偵などが主であったが中には97式大艇、白菊(機上訓練機)なども含まれていた。また陸軍も97重爆や百式重爆、99双軽などを独自に集め、フィリピン・東南アジアへの航路帯へ投入した。もちろん陸軍機にも電探や磁気探知装置を渡し、その訓練は海上護衛総隊が担った。

 そのレーダーであるが、電波研究会の努力が結ぶ時期であり、陸軍・海軍の研究所、そしてさまざまな民間会社や大学の研究室(電場研究会の分室が設けられている)に対して、それまで兵役に就いていた研究員・技術者・技術的な職人が軍属、もしくは配置転換(現役の兵・下士官・士官)という形で集められ、技術開発のための広い裾野が形成されつつあった。

 ここでは航空用哨戒レーダーの「それから」について述べる。16年より開発・試験が続いていた機載の哨戒(対艦・対空)レーダーであるが、前記のように17年より一式重爆や2式陸攻に搭載され、さまざまな場面で活躍していた。ある日の哨戒訓練の検討会で(潜水艦隊である第六艦隊との共同訓練)


「沈んでいる潜水艦には無力でないか?」


というもっともな意見が出てそれが磁気探知機の開発につながるのであるが、


「偵察・攻撃準備中の潜水艦ならば潜望鏡を上げていることが多いのでは?」


とする意見も出た。海上に姿を現した潜水艦ならば距離的には短くなるが発見は可能でありそのような敵潜望艦を攻撃したこともあるが、海面からわずかに出された潜望鏡を見つけるのは現在のレーダーでは至難の業である。

 新たな課題を与えられた電波研究会は以前から研究していたセンチ波利用のレーダーならばと、特設分会を立ち上げた。

 ちょうどその頃、陸軍は米軍B24に搭載されたSCR717-B機載索敵レーダーを鹵獲、調査・研究中であり電波研究会へと情報を公開した。陸軍は特にこれまでの機載のメートル波レーダーとは異なるセンチ波レーダーに注目した。そしてこの特設分会はその試作品を、日本電気(住友電気)・日本電波・東芝(東芝通信)の三者に共同・競作させる。共同というのは、その回路設計や機器の情報を互いに公開させるという手段である。

 東芝は、「タキ14」と称される機載レーダーを開発する。送信機として双3極管を使用し27センチ・10㎾、最大索敵範囲は80㎞、潜望鏡に対応する距離は5㎞であった。

ここで東芝は「マグネトロン」ではなく「三極管」を採用した。東芝はマグネトロンに対して、最初はその重量(水冷)もあり信を置けず、「今戦争には間に合わない」と考えていた。

 『東京芝浦電気株式会社八十五年史』には、


「機器内に使用する真空管は極力同一規格の三極管を用いるもので、操作保守を能率的かつ簡便にするには極めて有効な方式である。…もちろん三極管で超短波を発振することには、構造的にも周波数の限界がある。…このうちには三極管を使用した極超短波(マイクロ波)の電探がある。これは波長30~60cmのもので、それまでの超短波を用いたものよりもはるかに分解能のすぐれたものであった。」


 しかし、後に、マグネトロン使用を示唆され、「タキ44」と呼ばれる3センチ・2㎾のマグネトロンを利用したレーダーを試作・量産している。

 対して日本電波のものは自社が戦前から開発をしていたマグネトロン(すでに水冷式マグネトロンは海軍に納入していた)を機載のものにするために空冷マグネトロンを開発し「タキ24」を開発する。Ⅰ型が波長10センチ・2㎾(Ⅱ型が5センチ・18㎾、後に3センチ・22㎾で設計された)、最大索敵範囲80㎞(Ⅱ型で120㎞)、

 そして日本電気のものは「タキ34」である。電波研究会・日本電波の支援を受けて新たにマグネトロンを設計・製作したもので、波長3センチ・3㎾のものであった。

これら各社の研究・開発成果は電波研究会を経て他社にも伝達された。さらに、どのものでも必要なものとして、レドームの製作、金網式パラボラアンテナ、パノラマ(PPI)スコープ等、共通する課題については大学の研究室を巻き込む形で電波研究会がまとめていた。

 これらの試作機・増加試作機は一式重爆・2式陸攻だけではなく、97式重爆、百式重爆、96式陸攻、一式陸攻などに搭載され、先行的な実戦試験が続く。重量は以前のも比べ二倍近く180~240㎏あったが、双発以上の機体であれば搭載は可能であった。また、旧式機は発電量が足らないこともあったが、地上通信機用発電ユニットを載せることで解決した。機体下部のレドーム内に半周180度をスキャンできるアンテナ、もしくは全周回転するアンテナがあり、パノラマスコープの範囲切り替え式の最大レンジは5、20、50、100海里である。航空部隊には電波研究会の技師が派遣された。その中で、アンテナとフィーダを改良したり周波数・電力出力を増加させたりすることで、次第に索敵距離を改善し、安定した性能を見せた。

 このレーダーを搭載した機体は、潜水艦狩りや艦艇哨戒活動だけではなく、B29への対空哨戒や、夜間攻撃の際の先導機パスファインダーとして活躍することとなる。

 

 これら、海上護衛総隊は終戦まで、もしくは終戦後も日本の船団を守り続け、自らかなりの損害を受けたものの米軍潜水艦隊やフィリピン陥落後に加わった米軍爆撃機への対応にも活躍を見せた。




「間宮」は戦後を迎えた。

戦後の引き上げ時、大陸や太平洋各所から戻ってきた民間人・兵隊たちへ主要な引き上げ港を回り、終戦間際の物不足の中でもパンや菓子を中心に届けた。


「日本に帰ってきたって思ったのは、舞鶴の街を遠くに見た瞬間ですね。みんな甲板に上がってきて笑顔を見せてました。そして舞鶴の港に船が着いて上陸を待っている時にあんパンが配られたんですよ。ホントに久しぶりで食べるのがもったいないくらいで…『間宮が来てくれたんですよ』、(元)海兵さんが嬉しそうにあんパンを配ってくれました。マミヤ?『ほら、あの船です』見てみると大きな船が浮かんでました。『われわれのアイドルなんです』海兵さんは誇らしげににこやかに笑ってました。あんパンの味は忘れません。ああ、生きていて良かった、って心の底から思いました。」

                      (『引揚援護の記録』1950)


いかがだったでしょうか?

楽しんでいただけたでしょぅか?


だいたいこの話は『バタフライエフェクト』を流れにいつも考えつつ、実際にあった話を交えているものですが、今回はそのきっかけとして「間宮」を出しました。

明石とか、間宮とか、結構好きな船です。主力艦より、補助艦や改装艦艇(特設水上機母艦とか)がけっこう気に入ってます。そう言えば、昔々、WLシリーズにはまっていた時に、千代田を作ろうと足柄の船体を利用してゴリゴリ作ったなぁ~今思うと、まるっきり素人作だけれど、楽しかった思い出。。。


なるべく調べて作品を書いてますが、調べると調べるほど「沼」にはまって怖いですね。中部太平洋どうしよう?


さて、

皆様の応援、いつもありがとうございます。一週間で延べ300人以上の読者の皆さん、多少遅れることもありますが、これからもよろしくお願いします。


ではでは。。。

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