一式重爆撃機(ビルマを巡る日米英の戦い)~ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。~
おはようございます
こんにちは
こんばんは
はじめまして
って、挨拶は難しい((; ;)ホロホロ)
最近、更新が遅れて申し訳ありません。
暑さにやれたこともあります(クーラー嫌い)が、今月末にちょっとした手術を受ける関係でなかなか気分が上がりません。もしかしたら月末は2週間ほど時間を頂くかも知れません。
今回はピルマ方面の「航空戦」に話を絞りました。地上戦を含めると一話に絶対にならない…と、諦めました。ちょうどうまい具合に連合軍から見た戦争の記述がありましたので、それを話の主体としています。
では、お楽しみください。
数えきれないほど、
悔しい思いをしてきたけれど
その度にお袋の
「我慢しなさい」
って言葉を思い浮かべて、
なんとか笑ってきたんです。
手塚治虫
南太平洋の三ヶ月に及ぶ戦いを終えた日米軍であったが、米軍はその使える空母がなくなり、切り札とした新鋭戦艦も沈められたために大規模な作戦が停滞していた。大西洋からの空母回航はチャーチルの大反対に遭って頓挫した。せいぜい数を増やしつつある護衛空母を数隻回すのが精一杯で、もちろんそれを空母戦などに使う愚は犯せない。それはニューギニア方面でも同様であった。ソロモン海での輸送船・駆逐艦の喪失はポートモレスビーへの補給物資の低下につながりニューギニア島における日本軍追撃の戦闘が滞っていた。
戦術的な勝利を収めていた日本軍も同様で、ガダルカナル島への航空基地建設が終わり、戦闘機や陸攻が降り立ち、最前線へのレーダー配備も完了したところで、それ以上の攻勢は難しかった。少々の航空機、艦隊でアメリカとオーストラリアを分断することはできないからである。では大規模な艦隊を投入するか?艦載機の数、空母発着が可能なベテラン搭乗員の数が空母の半数で不足していた。無理すれば正規空母三隻(加賀は修理中)と準正規空母二隻のうち半数を投入する計画を立てることができるが、その際にはまた半数の艦数機・搭乗員を失う危険があり、全力を投入する作戦のためにはせめて半年、できれば八ヶ月が必要と日本海軍は判断した。
日米ともにこれから半年間は互いに観察することがあっても、できれば自己の戦力を充実させるための時間を欲していた。
対して一式重爆、二式陸攻の運用はより活発となった。もちろん損害も増えてきたが、それを上回る損害を相手に与え続けていた。ニューギニア島ではポートモレスビーへの夜間爆撃(ラバウルに送る一式重爆が少なく、また十分に補給するだけの輸送船割り当てが少なかったために夜間での嫌がらせ爆撃を続ける方が効果的と判断されていた)が続き、2式陸攻は零戦を従えてポートモレスビーや連合軍の基地・補給所があると思われる各所に爆撃攻撃を続けていた。海軍としても陸軍としてもポートモレスビーを奪うことは望んでいたが、前記のようにその総合的な兵力に不足を感じ、手をこまねいていた。
またビルマ戦線では長駆インドの後方都市や中国への援蒋ルートを狙い、雨期の厚い雲が覆われる中であっても、哨戒レーダーから派生した簡易の地形レーダーにより都市部への爆撃を続ける。まだAスコープではあったが熟練した先頭集団の一式重爆は、そのわずかな差を読み取り次々と小型爆弾の雨を混じらせた。パノラマスコープは未だ本土の電波研究会で試作を続けており、試作品の実践試験はこのビルマだと言われていた。
イギリスは一式重爆に対抗するために高高度型20ミリ機関銃搭載のスピットファイヤーの投入を行っており、その重厚な防御武装もあって近づけさせなかったものの、同高度に追いつかれた際には50㎞以上の速度差もあって撃墜・損傷の被害が続いていた。
陸軍は新型機を欲した。これまで以上の速度、高高度の安定性を目指した次期の重爆である。一式重爆はその戦訓から次から次へと小改良を続けているが、ある種、つぎはぎだらけの機体とも言えた。川崎のキ91はしばらくは難しく量産、実戦投入のためには三年はかかるかと思われたし、海軍の中島連山はそれよりもやや早く制式採用されるだろうが、まだ未知のものでしか過ぎない、ならば次善の策としての一式重爆を使わざるをえない。陸軍は
○これまで以上の速度、
○高高度の安定性
○重厚な防御武装
の三点のみに目標をしぼり、具体的な数字を上げずに三菱に任せる策に出た。なぜならばここ数年の陸軍試作機の中で、多大な要求を出したために(そして思いつきのように次々と改善案を与える)失敗した機体があったからだ。無理を言いすぎるから無駄になる。ならば任せてしまえ、そちらの方が幾分かましであろう。
「かなり航続力、行動半径が狭まる恐れが…たぶん爆弾満載時で2,000㎞くらいの作戦可能範囲になるかと…」
「かまわん、いや、それでも十分だ、(三菱の)諸君らに任せる」
こうして一式重爆Ⅲ型の開発が始まった。
この機体の「きも」は新型エンジンである。初期の案に載せられたのは
○ 三菱 ハ104(18気筒・離昇 1900hp)
○ 中島 ハ45(「誉」)
○ 三菱 ハ214(ハ104の性能向上型)
○ 三菱 ハ211(「金星」の18気筒版)
すでに開発が終わっている前2基のエンジンはエンジンを変更したところでさほど向上しないものと判断され、後2基のいずれかを用いることが選択された。後はエンジン部とのこの機体に載せるための高高度性能向上のすりあわせである。ハ214は排気量の余裕があり、特に重爆に載せるために作られていることもあってエンジン部としても押していた。しかしハ211はやや小型であり機体の重心調整に手がかからないものと考えられており、燃費の点で利点があると思われた。(ちなみに陸軍は早期に新開発のエンジンを絞り込み、ハ211に対してたいして期待していない)いずれにしても、どちらもまだ開発は終わったものの十分に熟れていない点で不安があった。しかも未だ排気タービン過給器は不安定であり、その代わりの機械式過給器(二段二速・二段三速)の方が開発は終わっていないもののまだマシだとも噂されていた。中島は現在の「誉」エンジンの向上型や次期エンジンには機械式過給器を特に戦闘機の基本と考えていた。排気タービンの開発は三菱自社のもの、日立のもの、石川島のものと3種類の開発が続けられていたが、三菱はエンジン開発の傍らに行っており、日立はまだ技術的には未熟なものとされていたため、陸海軍ともに石川島の排気タービンに重きをおくこととなる。(ジェットタービンエンジンも同様に石川島がその技術的成果を発揮する)石川島は東芝関連でアメリカの技術情報を早くから取り入れており、戦闘機のような激しいエンジンのスロットル操作に比較し、重爆などの大型機こそが排気タービンにはふさわしいものとしていた。すでに同じ三菱の百式司偵3型に試験的に排気タービンとインタークーラー(中間冷却器)をつけて実践的な試験飛行をビルマ方面で行っていた。
そのころビルマは陸軍にとって攻防ともに大事な戦線であった。一式重爆はすでにⅡ型が主流となっていたが、スピットファイヤーなどの投入により、その損害を増やしていた。日本軍にとって幸いなのは、高高度用スピットファイヤーの配備数が少なかったこと、そして航続力が短いことだろう。そして一式重爆Ⅱ型の武装をすべて20ミリに変換するなどの対抗処置をとっていた。中には、弾薬の大半を曳光弾にして近づけさせない工夫を加えた部隊もあった。実は曳光弾を増やすことによって機関銃のめかけの数を増やし、防御火器の威力範囲をわざと見せつけて防空戦闘機を近づけさせないようにする工夫は東西を問わず行われたものである。
後方の日本本土では、
「インド解放軍(捕虜になったインド兵を日本軍が再編成・訓練を行っていたもの)を先頭に立てて、インドのイギリス軍を追い出そう」
などと、勢いばかりで何も考えていない連中が言い立てていた(言うだけならばタダだ。作戦を立てるまではするが、作戦行動はその地の部隊であり、成功すれば自分の手柄、失敗すれば現地部隊の責任、くらいのことしか考えていない)。ビルマを知る方面軍はインド解放軍が張り子の虎に過ぎずろくに戦闘などができないことは分かっていた。そして本格的にインド侵攻をするための余力の兵力・弾薬・食料などはどこにも存在しない。
実は同じくイギリス本土も
「シンガポールの早期解放」
をがなり立てる人物がいた。チャーチルを中心とした『今以上の華やかな戦果を』望む人々だ。このまま戦争が終わったとしてもイギリスのアジア方面における影響力を示さねばならない。インドからビルマに侵攻し遠くシンガポールまで貫いていくという計画である。日本軍のやや優勢な状態のこの方面でそれが実用的でないと分かると
「ならば、海上機動部隊でのマレー半島上陸を」
大規模な敵前上陸作戦など、第一次大戦以来したこともないイギリスが立てた計画は余りにもずさんであった。船舶不足、上陸用舟艇不足、護衛艦艇不足、空母不足…絵に描いた餅よりもひどい、イギリスの全兵力を使わなければ実現不可能な作戦であった。
そのため、日英ともにビルマ・インド国境を挟んで航空兵力のみの一進一退の状況が続いていた。
イギリスはインド・ビルマ方面を戦区とする東南アジア連合軍総司令官にルイス・マウントバッテン英海軍大将を任命する。年若く、チャーチルのお気に入りである。
連合軍の航空部隊総指揮官のリチャード・ピアース空軍大将は
「インドではすべてが信じられないほど原始的だ。参謀は極めて不十分だし、必要な物資も完全に不足していて危機的な状態だ。多くの兵士たちは改善の見込みがない。そして、インド政府は不思議の国のアリスのような組織をしている。」
と英本土への航空兵力の増加を願い続けたが、その意見は無視同然の扱いを受けていた。
しかし、今後のためにとその受け入れの飛行場を複数、ビルマ北方の地帯(アッサム地方)に建設を急いだ。(最終的に275 本の滑走路というからその底力が分かる)しかしピアーズ大将は(主に同僚の妻との情事というその下半身の事情で)解任される。
マッカーサー米陸軍大将は赴任したマウントバッテン大将に次のように伝えた。
『「(東アジア戦域では)より多くの航空戦力が必要になる」
マッカーサーは机をバンと叩き、叫ばんばかりに、2 度も 3 度も航空戦力増強の必要性を力説した』
アメリカにとってアジア・太平洋戦域での戦略的・戦術的な遅れは致命的になるかも知れない(最終的には勝つだろうが、それがマッカーサーの功績としては数えられない、あるいは自分の立場を崩す恐れがあるという意味で)という思いがあった。そしてマウントバッテンと彼が率いる首脳陣・指揮官たちも、この戦域の英航空戦力こそが、その量と質を大幅に増やすことこそが、ビルマ戦線におけるイギリスの優勢を得るものだと認識していた。
しかし英本土はそれまでの危機感を共有できないでいた。英インド方面軍は優先的に配備を要求していたが、イギリスにとって大事なのはヨーロッパ戦線であり、まだ戦況はイギリスよりもドイツの方に軍配を上げられてる。高性能であればあるほどインドのような遠いところへやる数は知れていた。また航続力の低さは待ち伏せ攻撃能力に乏しいこととなる。高高度への迎撃はその高度に達するまでに全力運転の連続であり、会敵することも難しい。現に排気タービン付きでもない百式司偵であってもなかなか迎撃できない機体としてイギリス軍に知られていた。
英軍は敗北に次ぐ敗北を経験していた。唯一の成功例として知られているのは、
「ロングクロス」
と呼ばれた作戦であった。ウインゲート大佐に率いられた英国の長距離挺進突撃旅団が、日本の通信連絡網を破壊し、作戦行動に不備を図る目的でビルマの国境を越えて、進攻しようとしたものである。ウインゲートはこの作戦で数少ない英航空戦力を集中して使用し、補給品を事前に準備した着陸場まで運込み、またパラシュートで投下した。しかし、ビルマ方面の日本陸軍は、ラバウル方面のレーダーの利・活用の方法を学び、ビルマ各地の国境沿いの高地にレーダーを配備し、また重爆を含む偵察機や直協、軍偵などを多数投入した。この作戦を側面から支えるために英戦闘爆撃機が日本軍の陣地を空襲したのだが、レーダーの配備が密になるに従い下火となった。パラシュート投下のため無線隊が適切な投下ゾーンを報せる信号を送るのであるが、日本軍はそれに対しても電波探知を細かく行い、ウィンゲート率いる司令部への攻撃が続いた。
ウインゲートのことを
「ジャングル戦の性格を見事に変えた男」
と評する戦後の本も多い。敗北続きだった英軍の士気を大いに高めたことは確かである。しかし、投入された航空機・機材の割にウインゲートの功績はかならずしも大きいとはいえない。そしてウィンゲートの罪、というべきか余りにその作戦行動が不甲斐ないインド・ビルマ方面を鼓舞するために祭り上げられ、(戦死・戦傷者の低減のためという側面もあるが)アメリカ軍はベトナムで同じタイプの作戦、つまり
『航空兵力に支えられたジャングル戦』
『(面ではなく)点と線を繋いでいく行動』
を行ったことで、多大な損害を被り南ベトナムを失うこと(もちろん政治的な失敗が大きいが)になったのである。
イギリス軍の航空戦力の増加にはうまく決定したとしても、最低4ヶ月は必要であった。(実際には半年がかかるものと思われた)インドの工業産業はイギリスの植民地政策のために貧弱であり、航空機、搭乗員、燃料、機材すべてを南アフリカ沖を通り過ぎるルート(地中海は未だ連合軍のものとなっていない)によって英国や米国から運ばなければならなかったし、そのルートはまずは北アフリカ戦線への補給のためのルートであった。そして本土のイギリス空軍司令部は、インド・ビルマ方面に対して軽視していた。
それに対して、アメリカ軍の太平洋方面軍は二つの理由でインド・ビルマ方面の日本軍へのイギリス軍からの圧力を高めようと考えていた。一つはフィリピン・中部太平洋へのアメリカ軍の侵攻に対する側面的支援である。インド方面から圧力を受ければ日本軍は対応せざるを得ない。そしてその分、フィリピン・中部太平洋は戦力的に低下するということである。もう一つは中国への支援である。中国へのいわゆる「援蒋ルート」は日本軍の仏印進駐、さらにはビルマ侵攻によって分断されていた。もちろん、インドを利用した細々とした輸送は行われていたが、蒋介石を納得させるだけの量とは決して言えなかった。その細々としたインドルートも日本軍航空機の攻撃を受けている。連合軍からの中国の単独講和さえ囁かれていたのだ。こうなるとアメリカ本土、特に大統領周辺はあせる。万が一、日中の講和がなった場合、大陸に散らばっている日本部隊はインド方面・太平洋方面に回すことができる。もちろん可能性だけであるが、それこそ十分に検討する余地があった。
イギリスが航空機を回せないのならばアメリカが、という話になったのは仕方がないものであったろう。アメリカは本来、ヨーロッパやニューギニア方面に送るはずの戦闘機(P38やP51の長距離戦闘機)や爆撃機(B24・B25など)を投入する。ところが、英側は
「輸送機を」
と追加要求した。中国への援蒋ルートを航空機によって行うこととしたのである。またビルマ方面の英陸軍への補給にも輸送機は重きをなしていた。つまりは前面の航空戦闘力よりも継続した戦闘能力の向上を狙っていたのである。イギリスには旧式の爆撃機を改装した輸送機しかない。機数も限られている。アメリカに要求するのが理にかなっている。第一、援蒋ルートの継続はアメリカの希望である。しかし膨大な工業力を持つアメリカにとっても輸送機は大切な存在であった。どこにでも必要な、必須のものである。前線に必要なものは確かに正面武器であるが、その戦いを支えるのはトラックである。だからこそどの軍隊も、鹵獲のトラックを使い倒していたのである。そして戦線によっては航空輸送能力の高低こそがその戦線を維持できるかに関わっていた。主要な都市以外、山地とジャングルに覆われたインド東部とビルマに関しては、トラックよりも輸送機がどれだけ重宝されていたか、ヨーロッパしか見ていないイギリス本土の司令部には分かりにくいものであった。
18年の末、この方面の航空戦力優勢は未だに日本側にあった。17年には戦前から配備されていたどちらかと言えば旧式な航空機は一掃され、細々とした英航空機の増援も瞬く間にジャングルや海の中に消えてしまった。たまに英新鋭機が来て苦しむこともあったが、数が少なく多少の被害は受けるものの日本側の数の優勢の前には苦戦が続いていた。 この数的な優勢は本土からの輸送船の損害が少なかったこと、後方に安全な基地としてのタイとシンガポールがあり、損害や疲労に応じてそれらの基地で休養と新編成、訓練が行えたこと。そしてパレンバン油田などで精製された良質なガソリンやオイルなどが優先的にビルマに回されていたことが挙げられる。日本側、特に陸軍に割り当てられたタンカーは数が少ない。従って普通の輸送船でドラム缶に詰めた状態で送られることが多かったが、
「一式重爆の活躍のためには、そんな油送量では足りない」
という意見が出、その頃、SS艇(陸軍の上陸用輸送船)6隻を緊急に配備、またガダルカナル島を巡る戦いの中で建造されたSB艇(いわゆる「二等輸送艦」艦首に渡り板をつけた上陸専用の輸送船)の当初陸軍割り当て分3隻に詰めるだけのタンクローリー車(航空機用の給油車)とドラム缶を満載したトラックを載せ、ピストン輸送でスマトラ島とビルマを往復させた。これは荷揚げの時間の短縮のためで、輸送船が無駄に港や海岸に停泊する時間をなくすための努力であった。(帰りは空になったタンクローリーと空ドラム缶を搭載したトラックを載せる)確かにタンカーがあればそのような工夫をしなくても良いのであるが、割り当てのタンカーに余裕ができるまで、4カ月にわたって6隻のSS艇と3隻のSB艇はそれぞれに週一の往復を行った。その洋上での安全を図るため、陸軍航空隊は一個小隊の哨戒機と一個小隊の戦闘機部隊を張り付き状態で護衛を行った。そのころ次第にビルマ国境線後方に広がったレーダー網の陰からの応援もあって、輸送船護衛の航空戦はかなり日本側に有利に働いていた。
そのころになるとレーダー自体も改良が重ねられ、また、味方機を識別するためのIFF(敵味方識別装置)や、警戒レーダー(敵機の早期発見用に広範囲を常時探っている)と防空レーダー(警戒レーダーが見つけた敵機に対して、方向・進度・速度・高度を探り味方機を誘導するもの)に分かれてそれぞれが連携をとるための「連絡指令所」が設置されていた。ラバウルでの実践成果をビルマ方面でより防空に特化した(もちろん陸上での偵察機や洋上の哨戒機の情報も入っては来ている)ちなみに高射砲部隊の中には、電探研究室から派遣された人員が射撃用レーダーの実践試験を行っていた。
この頃のビルマ方面の陸軍航空戦隊は2つの工夫を行っていた。潤沢とは言えないが、ある程度十分な補給や補充機体を受け取る中で、小さな戦闘で一進一退を続ける中、機体に対して搭乗員が若手中心になってきたことへの工夫である。それまでは一個小隊3機で小隊長・ベテラン・若手の3名で編成していたのであるが、それを4機として小隊長・ベテラン・若手2人の4人とした。連合軍航空隊に倣ったこともあるが、小隊長とベテランがそれぞれ若手1人を従う2班編制としたものである。若手が増加する中での必要な策と言える。まずは戦闘機部隊で始まったものであったが、爆撃機や襲撃機などの部隊でも、若手が中心になりつつある中では適切な処置として導入されていった。もう一つの工夫は航空戦隊は本来3個小隊で1個中隊であるが、新規の補充機体が増加する中で、4~5個小隊で1個中隊を編制し直したものである。その別枠小隊は大規模な修理や補修、オーバーホールを受けなければならない機体を集め、日常的に防空任務に就くための機体を1~3小隊へと集中させるための工夫であるが、必要ならば修理が終わった別枠小隊の機体も防空任務に就いていた。(機体になれるために、部隊に来た若手パイロットはまずはこの小隊に放り込まれ、点検・修理作業などの修理中隊長・小隊長のありがたい薫陶を受けるのである)
一式重爆・二式陸攻は、生産を催促しても合わせて月産30機を超える程度(アメリカの四発爆撃機の生産数に比べると微々たるものであった)のものであった(川崎と日立に生産を任せることは決まっていたが、その準備中)が、陸軍・海軍ともに戦闘損害や自然消耗よりは数を増やしていた。(ただし新しい部隊編制はなかなか進まなかった)
19年の当初まで、そのような妙な均衡を続ける不思議な状態は続いた。アメリカの飛行機がミャンマー戦線に届くに連れて、その均衡は次第に左右に大きく揺れ始める。アメリカ軍の空襲が始まった。ビルマ方面のレーダー網は十全にその成果を出し、防空には必ず数の優性を持って当たれるように指示された。一式重爆や97式重爆は国境線付近の基地や、後方の航空基地を襲っていたが、対する連合軍の航空部隊の迎撃を受け、戦闘機の護衛なくしては敵基地への有効な攻撃ができない状況が続いた。特に一式重爆は国境から遠く離れた航空基地を攻撃目標としており、護衛の戦闘機を伴走できずこれも夜間爆撃に切り替える。当空域では、夜間戦闘機はイギリスのボーファイターを利用したものだけてあり、その速度と高空戦闘力は一式重爆に対して有効な攻撃が果たせないでいた。
対して一式重爆は対航空機基地用に陸海軍共同で作られた「2式四十五粍撒布弾」(海軍名称「二式十番二十一号爆弾一型」)と呼ばれる一種のクラスター爆弾を活用する。これは「タ103」(弾頭径45 ㎜弾量約1㎏の成形炸薬弾で、弾尾に安定翼と信管をつけている)を84発内蔵した100 kg弾で、投下された後空中でバラバラと広がり高度にもよるが一発あたり100メートル~200メートル半径の範囲に「タ103」がばらまかれる形となる。「タ103」は60mmの装甲を貫き、また航空機に当たった場合50㎝の穴を開ける威力を持っている。800メートルの滑走路を持つ飛行場を2個小隊8機の一式重爆が襲い、奇襲ではあるものの240発の爆弾を投下、修理不能な全・半損機18機、燃料保管庫2カ所、爆弾保管庫1カ所、本部棟・格納庫・兵舎等全損、対空陣地半数、トラック等の車両半数撃破という損害を与え、飛行場再開に一ヶ月以上かったとされる。また他の飛行場も攻撃目標とされ、連合軍は一時期、作戦行動をとった後に航空機を後方基地に移動させる方法をとっていた。夜間に避難し、朝方に前線航空基地に移動した後、日本軍への攻撃を行い、そしてそのまま後方基地に避難する、非効率な方法ではあるが、それだけこの一式重爆の飛行場攻撃を恐れたのである。本来は大型機への空中投下によって撃墜する構想も持たれていたが、当てるのにはかなりの技能が必要であり、対地攻撃(飛行場や車両部隊襲撃)に多用された。散布界の広いタ弾は効果的な兵器であり、100㎏という軽量なものであるので単発機にも搭載が可能であり、実際、隼を戦闘爆撃機のように使い、第64戦隊の戦隊長を務めた宮辺英夫少佐は、連合軍飛行場に対し早朝奇襲攻撃を行い、地上駐機中の大型機複数撃破の戦果を報告。他の部隊の屠龍複戦も前線付近で戦車やトラックなど数十輌を破壊・炎上させる戦果を挙げていた。
対する連合軍の航空部隊は、機数だけは揃いつつあったが、以上のように被害を恐れる余りに非効率な運営を強いられただけでなく、イギリスのビルマ方面空軍部と応援に来たアメリカ航空隊との主導権争い、そして輸送機に対する双方の不満が高まり、バラバラに行動をとっていたことは否めない。アメリカは輸送機を「援蒋ルート」に使いたがり、イギリスはインド防御・ビルマ侵攻のためには必要不可欠なものと考えていた。この認識のずれはインド方面軍の米英の確執を生むこととなり、この解決のためにはアメリカ本土とイギリス本土の直接交渉と半年以上の時間が必要であった。
そしてその連合軍の時間的な空転期間は、日本軍に有利に働くこととなる。
「インパール作戦」
である。どう言葉を補って言っても「失敗」の作戦であり、日本陸軍の「汚点」とも言うべきものである。この作戦の失敗によって、
「下手をすれば十万単位の損害が出た」
ものと戦後の日英の戦史家は評する。
ただ、このような日本側の航空攻撃の優勢(数的には連合軍側が勝っていたが、日本軍の執拗な航空基地への攻撃による非効率な運営と米英間の連絡の不十分とによって日本側がやや優勢な状態が続く)と米英の確執によるスムーズな作戦行動がとれなかったことにより、地上戦では補給不足でインパールを攻略できなかったものの、その後の英側追撃戦の不徹底によって(輸送機をそちらに回せなかったことによる補給関連の不備が大きい)日本陸軍を壊滅状態に追い込めず、日本軍は航空戦力の傘の下、現地の指揮官が適切に指示し、見事な撤退作戦を行った。そしてそのような撤退戦を指揮した指揮官はビルマに帰って早々、他の戦域に『定期移動』された上、終戦まで冷や飯を食う状況に陥った。もちろん、上部の指揮官にはほとんど叱責はなかった。
戦後のことであるが、当時「陸軍中央から派遣された参謀」と称するある人物は、ビルマ方面の士官・下士官・兵からの総スカンを受け(ある人物からボコボコに殴られたという話もある)、国会議員への出馬も失敗になったと言われている。また、『上部の指揮官』は退官後、訪れる人もなく静かな(寂しい)戦後を送ることとなる。その葬儀にもその頃の部下のほとんどは無視した。家族葬同様な葬儀であった。
かくしてインド・ビルマ方面はまた国境線を挟んで不安定ながらも拮抗状態が続くことになった。
いかがだったでしょうか?
個人的には
○ガ島
○ニューギニア戦線
○インパール作戦
での無残すぎる「戦死・戦病者・餓死者」を、前話と合わせて少なくするための話にしたのですが…もしかして、この程度では無理かなぁ~~と…悩みが多いですね。
今回の軸となるのが、
一式重爆Ⅲ型(まだ制式採用されてませんが…)への道(排気タービン過給機と機械式スーパーチャージャー過給器の比較)
連合軍の指揮関係の確執(ある程度あったのは事実ですが、歴史的にはなんとかイギリス軍主体となったようです)
そして「散布弾」(収束爆弾と言うのが現代的かな?)の存在です。この「散布弾」は戦争末期にかなり活躍したようですが、あまり知られていない(現在、対空爆弾としての方が知られているみたいですが、あまり使い勝手は良くなかったようです)ので、せっかくなので出しました。末期の中国での関東方面での活躍もあります。
しかし、技術関係の話はかなり楽しく話を進められますが、現実の戦史が絡むとどの時点で変更しようかと悩みますね。次は中部太平洋の諸島攻防戦にどのうよに二式陸攻わ絡ませるのかを悩んでます。もういっさい飛ばして末期の話にしようか…と悩んでます。
まぁ、そんな悩みも楽しいのですけれどね。でもいつ終わるのか?次のネタ(多分ヘリかなぁ~~~)が頭をよぎり
「さっさと終わらせろよ」
と囁きます。
『そう囁くのよ、私のゴーストが…』
(ネタを知っている人は ナ・カ・マ~~ 笑)
(いつもの…)最後に、この文章は皆さんの評価・感想・ブックマークによって支えられてます。良かったらどうぞ!
ではでは。
(ナウシカの冒頭を見ながら…「また村が一つ死んだ…」)




