一式重爆撃機(新たなる流れその3)~私は、信頼に報いなければならぬ~
お読みいただきありがとうございます。
最近、いろんなことをはめ込みたいと作品をいじり回しています。以前読んだ本も近くに野積み状態になり、あれ?こんなことが…などという新しいことを知る日々です。おかげで時間ギリギリですけれどね
。
でも皆様には少しでも楽しんでいただきたいと、これからも書いていきます。
ではお楽しみください。
怪物と戦う者は、
その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。
長い間、深淵をのぞきこんでいると、
深淵もまた、君をのぞきこむ。
ニーチェ
海軍は諦めない。
かの2式陸攻に魚雷を搭載することを…
魚雷は、船体の艦側部・艦底部に穴を開けるためのものである。その被害は爆弾の非ではない、一発の魚雷と同程度の損傷を与えるためには少なくとも800~1000㎏の爆弾を少なくとも4~5発当てなければならないだろう。それでも沈没に至らせようとすれば、魚雷の方が確実だ。
日露戦争時、日本海軍の戦艦が旅順港攻撃時に(魚雷ではないが…)機雷に接触し、戦艦「初瀬」と「八島」が撃沈、日本のその頃の年間予算の半分が一日にして吹き飛んだ。戦争のまっただ中である。慌てて世界中に「売ってくれないか?」と打診して、戦艦の数をそろえた。それこそ未だ船台で建造中の戦艦さえ抑えるという、戦時中だからこそできた快挙である。(イタリアで建造中のアルゼンチンの装甲巡洋艦2隻を購入し、「春日」「日進」と名付けられた)その機雷で被った損害を心の底にドロドロとした感情とともに、日本海軍は忘れることができなかった。それは日露戦争を経験した世代(昭和15年に大将・中将と呼ばれる者たち)だけではなく、世代を超えたトラウマというべきものである。
日本の航空魚雷は2種類(正確には3種類)の系統があった。
一つは、「91式45㎝航空魚雷」、もう一つは「94式53㎝酸素航空魚雷」、「94式45㎝酸素航空魚雷」である。
酸素魚雷は遠方からの雷撃を可能としたもので、同じ45㎝のもので1㎞ほど射程が長い。遠距離はいいとして、隠密性はなく投下と同時に回避される可能性が高いこともあって現場からは不評であった。艦政本部のみで開発を決定した経緯などもメンツの都合上許しがたい。
「肉迫攻撃こそ雷撃の醍醐味だ」
という脳筋的な考えが大半の攻撃機パイロットには受け入れがたい魚雷なのである。そしてその頃の航空魚雷の開発・改良における主目的は航空機の性能の向上のために高速での発射、そして高高度での発射を目指していた。しかし2式陸攻を雷撃に使うために、再度、酸素魚雷は改良を始めた。
○直径 53㎝
○全長 7メートル以内(二式陸攻の爆弾倉に納めるため)
○重量 1.5トン前後
○速度 50ノット
○射程 4~5000メートル
○投下時母機高度 80~200メートル
○投下時母機速度 550㎞程度
○頭部炸薬 400㎏
九四式魚雷一型(大型機用)と潜水艦用の九五式魚雷一型(潜水艦用)が開発をしていた艦政本部から航空本部技術部に引きわたされ、基本的に94式1型をもとにした改修が始まった。
酸素魚雷機取り扱いが難しく、空気魚雷のままで53㎝魚雷を仕上げた方が楽なのではないかというもっともな意見が多数寄せられたが、その場合、(計算上ではあるが)魚雷の速度がせいぜい42ノットに過ぎず射程も3000メートル止まりと性能的に難しいとされていた。
すでに航空用91式魚雷は改2の生産が始まっており、技術陣は改3に手を染めていた。とりあえず94式に改2・改3と同等の
「木製の空中姿勢安定板」
「角加速度制御システム(PID制御)」
を装備し、高速投下に備えて魚雷全体を強化、特に頭部を強化した。(94式1型改1)地上での試験が加えられ、高度30~120メートルで、ある程度の速度制限下(480㎞以下)においては投下にも十分に使えることができた。(この試験のために長崎の大村飛行場(本来は佐世保所属の航空母艦航空隊の帰還時の基地プラス搭乗員訓練基地)に一式陸攻と2式陸攻のそれぞれ一個小隊を派遣し、早急な実地訓練が行われた)これを改2として三菱の三菱重工と川棚工廠(長崎県)で量産を開始する。
さらに母機の高速対応のために、精密機械である酸素室気室から適切な空気と酸素を出す弁の部分を投下の衝撃から守るために発泡ゴムなどの緩衝材で覆い、また精密鍛造とステンレス鋳物鋼を本体や部品に活用するなど、これまでの速度制限をやめ2式陸攻の最高速度550㎞に対応できるものとした。これが戦時中2式陸攻で一番利用された魚雷の改3の原型である。(後に銀河や陸軍の飛龍にも搭載)ただし、投下高度は海面への斜入角の関係もあり、投下高度範囲は厳密に50〜120 m間と限定されていた。つまり、50メートル以下でも120メートル以上でも魚雷を投下できない、投下しても無駄ということであった。
そのため母機の海面からの高度を正確に測定できなければならない。海軍はもとより陸軍もその地上攻撃のための正確な対地高度を知る術を欲していた。その頃の高度計というのは空盒式と言われる気圧の変化を捉えて大体の高度を知るものであり、海面から或いは地表から何メートルということはパイロットの経験に頼らざるを得なかった。
東芝はかなり早くから今後の航空機に必要なものとして電波高度計に目をつけ開発をしていた。昭和11年より開発を開始、完成は14年。しかし、高度を上げると高度判断が不鮮明になり6000メートル以上では利用できないが、低空度(300メートル以下)はそこそこ正確である。
「東京芝浦電気株式会社八十五年史」には
『昭和14年当社はわが国ではじめて電波高度計の実験に成功した。
これは当時もっとも困難とされていた技術的課題の一つで、着想は各所であったが実験に成功したものはなく著名な学者の中にもその不可能なことを公言する人があったくらいで、外国映画の中にこれをそなえた航空機が出たときにも、これを空想映画であるという意見も出たほどであった。』
と記しその技術力を誇っている。この製品の完成は低空飛行を繰り返して(奇襲的に)敵陣に突っ込むという方策をとる陸軍の注目するところとなり、大規模な飛行実験が行われて、検証と実用試験が繰り返された。海軍も欲しいのは低空での正確な高度測定であるので、高高度での測定を諦め低高度に絞った電波測定として、東芝に声をかけるとともに、より手軽で正確な高度計を欲した。
そこで電波研究会に声がかかるのである。この装置の主たる開発研究には主に東芝と多摩陸軍技術研究所(多摩研とも呼ばれている)が関わってっていたが、それぞれに別の開発もあり、今後の細々とした研究の繰り返しには1部門や一企業では無駄が多いと、大学に声をかけた。手を上げたのは東京大学第二工学部電気工学科である。陸軍は東大の駒場校舎の航空研究所内に駒場研究室を設け、主任の星合正治教授(他の研究所の兼任)、井上均助教授と庄野久男技官が専任として学生を指導する形で、東芝の電波高度計を実戦に向けた改良を加えたのである。もちろん多摩研から5人の技師が、東芝からは3人の研究者・技師が加わっていた。(後に電波研究所所轄になり、海軍側からも5人の技師が加わった)
この研究会に参加した学生たちの呼称は1年後「電波報國隊」と呼ぶことになる。本来は東京大学第二工学部電気工学科の研究室に在籍していた学生を称するものであったが、駒場研究室が多摩陸軍技術研究所より上部の電波研究所に所轄が変わり開発研究を進めていたのであるが、所轄が変わって予算がある程度上昇したと言っても、本来の仕事は変わらず、陸軍だけでなく海軍や放送研究所などからの声かけが増えたのであるが、研究が多岐になるにつれ東北大学、京都大学、大阪大学などの電気・電子関係研究室が加わりそれぞれに「電派報国会」を称してそれぞれに課せられた研究・実験活動を続けた。これについては、動員局が大学生に対してこれまで徴兵を免除していたのであるが、戦争の長期化が避けられないと、徴兵免除の停止、学徒出陣の話が検討さているということが陸海軍の研究開発部門を混乱させてしまう。
「日本的平等主義」
つまり、
「大学生だろうがなかろうが、高貴のお生まれであろうがなかろうが、金持ちであろうがなかろうが、国家存亡の時には軍隊の一員になるべき」
という御説御もっともなものである。実は平時であればこの意見は正しい、機会や義務は誰にでも与えるべきである。(結果は別)しかし国家存亡の時には弊害が出る。極端に言えば「医者を最前線の兵隊として使う」ことと「医者だから後方で戦傷者・戦病者の治療に当たらせる」ことのどちらが正しいか?ということである。(実際には召集された場合、それまでの経歴が加味されて部隊配置されることが多い)
この「電波報国会」の大きな役割の一つが陸海軍のそれぞれの研究部で学生を囲い込み、その「学徒動員」によって理系の学生が徴兵(正確には短期の士官訓練(場合によってはそれぞれの各種技能学校での学習を含む)予備士官となることがほとんどであるが…)を免除されることができるということである。(本来は研究室教授の推薦があれば数名のみの免除になることもある)学生は「臨時軍属技師補」として採用され、研究の主任を技術少佐待遇、その他の教授・助教授を技術大尉・中尉待遇とした軍属とされ、棒給(給料)も支払われることになった。(ただこの棒給については個々には渡らず、大学事務内で処理され、研究室の飲食代や測定機器などの購入に消えた)
「電波報国会」には最初、電気・電子関係の工学系が多かったが基礎的研究のために物理学部・理学部が加わり、更には計測結果の集計やソフト面の充実のために数学部関連の研究室も加わった。
完成した低高度用電波高度計は陸軍は「タキ13型」、海軍は「FH-1」とされ、送信機及び受信機は主翼の中に装備、空中線は主翼の下部を反射板として水平に装備された。重量は25㎏と単座機でさえ搭載可能のものであった。波長は88㎝、先端出力は1ワット、測定可能高度15~200m(測定誤差5%)と十分に低空機動の役に立つものであった。
(なお、中高度用のタキ13型、FH-2は、同一波長で先頭電力200w(連続6~10W)、測定可能高度1200~250m。タキ11型の中高度版であり、同一機器で低空度対応の切り替えができた。空ごう式で十分でもあったが、この機器を基本とし、波長を10㎝、パノラマ型表示に変更したものが対地測定レーダーとして陸軍に採用される)
アメリカ海軍はあせっていた。ハワイ真珠湾で戦艦のほとんどを行動不能にされた為にとった「ヒットアンドラン」の作戦行動、空母(1~2)を主力とした巡洋艦・駆逐艦で編成した中規模の艦隊で、敵の手薄なところを狙って攻撃を繰り返すという方法は初期にはうまくいったが、日本本土をB25を空母から発進するという政治色が濃い(政治的意義しかない)作戦に失敗のあげく、その重さの金塊と同等の価値があるはずの空母一隻を失うという結果に頭を抱えた。
「これもルーズベルトに阿った女好きキングが悪い」
太平洋艦隊の首脳陣の意見は一致していた。大統領は失敗した作戦をないものとしたかったようだが、日本からの情報(ラジオ放送)を受けたアメリカ内の新聞が広めてしまい、議会対策にかなりの時間が費やされてしまった。
「そもそも日本との戦争は必要であったのか?」
という意見こそまだほとんど聞かないが、大統領の戦争指揮には疑問が醸され始めるのであった。また海軍トップのキング大将はこの失敗を太平洋艦隊になすりつける気満々であるので始末に負えない。さすがに太平洋艦隊司令部の入れ替えは真珠湾の責任を取らせるために四ヶ月前に行っているので難しい。情報参謀のエドウィン・レイトン大佐を更迭するという話にはミニッツ司令長官はかみついた。
「太平洋東側までも日本に任せる気か?」
「ヒットアンドラン」の作戦は中止の憂き目に遭い、中・南太平洋日本軍占領の島々は米海軍からは放置されることとなった。そのため、日本海軍の航空機による哨戒線は広がりを見せ、水上機から次第に航空機基地化が進み、一式陸攻・2式陸攻が配備されるようなる。このためにますます米艦隊の西太平洋での行動範囲が狭まり、ハワイを主基地とした潜水艦の行動に制限がなされるようになるのてある。(オーストリアを潜水艦の母港とする計画もインドネシアなどの東南アジア地区の哨戒範囲を一式重爆・97式重爆が引き受けていたために困難になりつつあった)
そんな中、日本陸海軍は協力してニューギニア島のポートモレスビー攻略に乗り込んだのである。上陸部隊は陸軍、護衛部隊は海軍との区分であったが
「うちも使え」
とばかり一式重爆の独立中隊が名乗りを上げた。すでにラバウルには2式陸攻の4個小隊(16機)が配備されていたが、それに対抗するかのような参加希望である。フィリピン戦は終わっており、東南アジアの戦いもシンガポール陥落によって山場を超えていた。このあとは双発重爆や軽爆で十分に対応が可能である。時折戦線奥地の敵本拠地・資材集積地と思われる場所に強行偵察を行い、嫌がらせ的な爆撃を繰り返してはいた。損害もあるがそれ以上に敵の作戦行動の妨げになっているなど十分な戦果をあげていた、ただ陸軍としては2式重爆のこれまでの活躍・戦果を考えると更に「華々しい手柄」が欲しいのである。
このあたりは陸海軍の広報活動合戦とも言える。シンガポール陥落、パレンバン空挺部隊以降、海軍に水をあけられていると思い込んでいるのであった。特につい最近の米空母撃沈(ではないが…沈没したことは間違いない)という海軍側の戦果に陸軍広報部としても焦りかあった。
ラバウルは天然の良港である。陸軍機はその航続力の短さもあって、ポートモレスビー攻略戦のためにニューギニア島北側・東側の飛行場に進出することが多かったが、一式重爆撃機はラバウルに根拠地を置いた。行動半径の広さもあったが、各種大型爆弾を日本から輸送・搬入するにはラバウルが最適であったことが大きかった。しかも2式陸攻がすでに進出しているので、融通も利きやすい。3個の独立重爆中隊(36機)がラバウルに着いたのは上陸作戦10日前であった。
次の日より、ポートモレスビー攻撃部隊と、洋上哨戒・攻撃訓練とに分かれた一式重爆機部隊であるが、この一式重爆はこれまでの戦訓の中でいくつかの改修がなされていた。そのなかでも大規模なものとして、一つは小型爆弾の搭載増加である。シンガポール陥落以降、大型の爆弾を利用することはなかなかなく小型爆弾での出撃が進む中、
「この機体ならば4トン載せられるよね?」
という重量のことは気にしても、体積のことや搭載方法のことをあまり気にしない人物(しかもそれなりの高官)。実際に爆弾搭載ラックの取り付け方を変更することで60㎏~100㎏爆弾を20発搭載する正規の状態から、30発搭載する形となった。(ただし爆弾倉に渡す道板が取り付けられず、機体前部より後部への移動ができない)それでも納得しない場合に備えてラック自体をシングルカラム方式(一列に並べる)よりダブルカラム方式(二列に並べる)にすることでラック自体を大型にするという極限に陥った技術者の底力を見る方式もあったが、爆弾誘爆の危険性が高く試製だけで終わった。
もう一つは対艦レーダーの搭載である。全機搭載は目指していたが、この時点で「タキ1号2型」を搭載していたのは中隊長機・小隊長機であるが、ラバウルに派遣された「タキ1号2型」の改良版である「タキ1号3型」も含まれており、これにはAFC(周波数自動制御)が新たに付け加えられていた。これは機器内部の温度など環境変化が周波数のずれの原因になり、レーダー手は送信側と受信側を微妙に調整しないと「感度なし」どころか「感なし」の状態に陥るのである。初期のベテランならばその機器の癖を知る中で調整できるのであるが、それを自動でできることで経験の少ないレーダー手にも利活用ができるものになった。更には電源系統がこれまでの150Hzだが400Hzに変更されている。周波数が高ければコンバータが小型軽量になり、全体の重量自体も軽くなるのである。これらの改良によってレーダー自体の安定性が高くなり、以前に比べても正確に表示することになった。
艦隊・船団が出発すると陸軍はその上空を守る役割を果たすようになった。艦隊上空をレーダー搭載機が旋回し、前方をその他の小隊機複数が哨戒する形を作り、夜間はレーダー搭載機2機が船団の前方・側方(珊瑚海側)に展開させていた。海軍側は4個哨戒小隊を時間・空域で区切り哨戒・索敵を行っていた。(日本にあるレーダー搭載機のほとんどがこの時ラバウルにあった)つまり海軍側が攻めの体制、陸軍側が守りの体制となったのである。そして今回の作戦のために実験的に一式重爆・二式陸攻の航空隊は陸海軍の壁を取り払って通信を行う決まりとなり周波数が割り当てられていた。(本来であればそれぞれの航空隊所属の司令部に連絡が届き、別の部隊に通達するのは司令部ごとに任せられている)
4日朝、ツラギに米軍の空襲が始まった。損害も出たが、日本海軍は米海軍の存在を知り、2式陸攻半数(他に97式大艇・一式陸攻)に哨戒・索敵を命じた。しかしなかなか捕捉できずにいた。
5日、二式陸攻は哨戒・索敵に夜明け前に飛び立ったが、その半数を攻撃に回し待機させた。中には53㎝酸素魚雷2本を搭載した機体もあった。
午前8時過ぎ、陸軍が守っている攻略部隊にB-17爆撃機2機が飛来した。機載レーダーで発見した(対艦レーダーではあるが、メートル波でもあって対空レーダーとしても機能できた。大型単機で60㎞余で探知可能)早速海軍艦隊に連絡するとともに前方に展開していた2機の一式重爆を呼び寄せB-17に対して対空戦闘を挑むことになる。B17の進路を防ぎ、互いに決め手のない戦闘は10分ほど続いた。そのころになると祥鳳からの戦闘機も加わり、B17は爆弾を捨て去り逃げていくこととなる。陸軍航空隊は戦闘機を呼び寄せて、この時間を守りきることを決意した。まず1個中隊の隼戦隊が呼び寄せられた。
そしてまた1時間後に1個中隊、それぞれが3時間上空を守るように配備された。B17の連絡を受けた米空母部隊は波状的に攻撃隊を届ける。一式重爆は発見した敵機の様子を海軍側に伝達した。祥鳳は6機の戦闘機を出し、巧みな操艦で損害を出さなかった。そして陸軍戦闘機も
「敵戦闘機は相手するな」
と、爆撃機・攻撃機に集中した防御を張った。攻撃は午前9時過ぎが一番激しく、米軍機は30機を超えた。対して零戦・96式艦戦16機と隼18機とほぼ同数で迎撃した。結果、祥鳳のみが魚雷1本爆弾1個を受け、中破となる。陸軍は船団を守り抜いたのである。
その頃、相手がなかなか捕捉できない中、遂に日本空母部隊と米空母部隊は互いにその牙を相手に向けていた。結果として日本海軍は陸上機を含む航空機90機以上を失い、翔鶴が中破、駆逐艦一隻沈没、他損傷艦数艦という損害を受けた。戦果はこの時点で日本海軍は把握していなかったが、空母2(レキシントン・ヨークタウン)沈没・駆逐艦1沈没・給油艦1沈没であった。
これに2式陸攻が関わったのは米艦隊が発見されたあとである。(残念ながら2式陸攻の索敵線に引っかからなかった)天候はあまりよくなかったものの午前9時過ぎにラバウルを待機していた2個小隊8機が爆弾や魚雷を抱えて発進した。この出撃については命令系統の違いにより発進が危ぶまれた。陸上飛行部隊のそれまでの損害が甚だしかったこともあって、その日の出撃を断っていたのである。もちろん天候不良もあるが…
「これでいかなければ何のために日本からやってきたのか分かりません」
という必死の訴えと、実は2式陸攻部隊の命令系統自体、直接は第十一航空艦隊の塚原二四三中将にあり、しぶしぶながらこの方面の陸上飛行部隊の第二十五航空戦隊司令官山田定義少将は黙認する形で出撃させた。
味方空母機が敵艦隊に突入した頃に上空に達した二式陸攻4機は高高度より水平爆撃をねらって繰り返し旋回を続けた。一番のタイミングは相手が損傷している時である。もちろん上空より空母機に対して誘導電波を出し続けていた。この部隊は放置されていたのは、F4Fは高空能力に乏しく7,000メートル上空の機体に十分には対抗することができず、また最高速度も二式陸攻の方が速かったため追撃できなかったのである。この部隊に対応するよりも日本空母機に対応しなければならない時間であったこともある。
この部隊が動き始めたのは味方空母機の攻撃が一段落した頃であった。レキシントンと思われる空母が最大でも20ノット出せず、やや船体が傾いているのを狙い、そのとき腹に抱えていた八十番通常(対艦)爆弾を8発投下した。至近弾3、命中1の戦果であり、ヨークタウンは爆発を起こした。(船体内のガソリン爆発とされている)なお、噂話ではあるが、ケ号誘導弾が使われたという話がある。そして当たったのはそれであるという。(噂では強引に試作中のケ号を奪うような形で持って行ったと言われているが、公式にケ号が使われたのは、ガダルカナルを巡る戦いからであるので噂話にしか過ぎない)偵察・観察のために4機のうち1機を残し、帰投することとなった。その1機が、遠くで旋回している雷撃機隊(長崎重工・川棚工廠の魚雷開発のために大村基地に派遣されていた小隊であった)を呼び寄せた。上空にはたまたま米戦闘機一機も見当たらなかった。遠くより100メートルの高度でじわじわと近づく2式陸攻に気づいたのは距離10㎞を少々超えた頃であった。米軍のレーダーはこの時IFF(味方識別機)を使用中で、同一電波帯を使うレーダーは混線を避けるために止められていた。思いがけない攻撃だったのだろうが、すぐさま激しく高射砲、機関銃が撃ち出される。ほとんどがこの時飛行機の後方で爆発の花を咲かせ、見込みの速度の遅さが如実に表れていた。距離4,000メートル前後で魚雷は拘束ワイヤーが爆薬によって外され爆弾倉より撃ち出された。8本の魚雷はややいびつながら扇形を作って走ろうとしていた。正常に働いた魚雷は7本、1本は冷走のまま海の底へと沈んでいった。2式陸攻のうち一機は上空をパスしようとした際、翼に高射砲の直撃(爆発はしなかった)を受けてそのまま反対側を航行中の巡洋艦に体当たりをした。艦橋にぶつかり機内に残ったガソリンをまき散らされた巡洋艦は炎上を続け戦列を離れていったが、艦橋の操舵室が損傷したのか舵が固定され大きく海面を旋回し始めた。そのために艦隊はその形を大きく崩さざるを得なかった。ヨークタウンは魚雷を避けようとその巨体を傾け始めた。それがいけなかった。1本は船体後部の釜室を直撃したのである。大量の海水が釜室・機関室を襲う。もう1本、今度は艦首下部を吹き飛ばした。すでに魚雷を1本受けており、そのゆがみからの浸水が応急処理によってとどまっていたのだが再び始まった。ヨークタウンの浸水を止める術はなかった。命中しなかった魚雷は5本、うち1本は2㎞以上離れて後続していた巡洋艦を傾けた。ホークタウンが沈没するまで、最後の一機はその場にとどまり続けた。
機動部隊が引き上げ、攻略部隊にMO作戦の延期(「中止」の日本的言い方)が伝えられ日米互いに多数の損害・死者を出した作戦はこうして終わった。(開戦に間に合わなかったエンタープライズは2隻の空母沈没の報を受けてハワイに引き返した)
日本海軍は、珊瑚海海戦について報告書をまとめたが、それは生かされることなく倉庫の棚に入れられただけであった。しかし、陸軍と2式陸攻部隊については別である。電波研究会での「集まり」という形をとったものの、参加者に今回の海戦を自らの体験として語らせ、どうすればもっとよかったかという視点での話し合いがなされた。次の戦いのために。その場で特に連絡体制の系統と拡充の必要が訴えられた。
○試しにでもした「陸海軍の連絡の自由化」を方面作戦だけでもできないか。
○せっかく見つけても基地への連絡であり、飛行機から航空機への連絡方法はどうするか。
○その際に「命令」なのか「指示」なのか。そしてその否定に対する対応。
など、単に連絡・情報を伝える体制を作るだけではすまないということにある。
「早めに知れてよかったのだろうな」
と参加者の一人がつぶやいた。別の命令系統にある部隊に「命令」する権利はない。一つの船、一つの部隊ならば何の問題もない。上司に対して命令はできなくてもそれとなく指示・指摘することは違反ではないし、奨励されている場合さえある。けれど、航空機は10分以内に「命令」を伝える必要があり、命令を伝えるのは下士官で受けるのは士官という場合も出るだろうことは、今回の戦訓の中でも読み取れるものだ。しかも別の部隊にだ。
「さて、とうするか?」
一人では何もできない。しかしその輪が広がっていけば…上に伝える内容、周囲に伝える内容、そして知人に知らせる内容…
「今日も徹夜だな」
苦笑しながら彼は席を立った。
いかがだったでしょうか?
魚雷…空気魚雷か電気魚雷か、はたまた酸素魚雷か…といろいろ悩んでしまいました。空気魚雷が一番楽なのですが(実際作ろうとしてました。連山用の53㎝2トン魚雷)過酸化水素水を使うかな?(ワルターかよ?ドイツからいつ来る?)などと妄想を続けまして今回このような経過としました。
電波高度計は東芝が開発を結構早くから進めていたのは知っていましたが、現実でも陸海軍の電波高度計はこれが元になっていますよね。数値は少しいじってますが…
で今回の大ネタは「電波報国会」です。いろんな研究開発現場に大学生をかり出したという話はこれまでも出していましたが、そんな会があるなんて…といろいろ調べてもあまり資料がありません。ちょっとでっち上げたところもありますがほぼこんな様子だったみたいです。ネタとしてもおいしい(笑)ので、もう一回出すかも知れません。
しかし、予定ではこの回くらいで「終戦」、次回が「戦後(YS11)」と考えてましたが、こんなに長くなるなんて…これも
「キングが悪い」
としておきます(笑)
最後に、この作品は皆様の評価とブックマークと感想によって支えられてます。よかったらお願いします。
ではでは。。