一式重爆撃機(新たなる流れその2)~私は、信頼に報いなければならぬ~
みなさん
お疲れ様です。
今回も慌てて書き上げたために、ちょっと文章としても不安です(そこ、いつもだろ?って言わない。真実だから…泣くぞ (; ;)ホロホロ)
ではお楽しみください。
翼を持たずに生まれてきたのなら、
翼をはやすためにどんな障害も乗り越えなさい
ココ・シャネル
まだ朝日も見えない早朝、海軍の木更津基地からは一機の二式陸攻が飛び立った。機種転換に伴う最終的な飛行訓練の一環として哨戒飛行を行うこととなっていた。ついでに爆撃訓練も。
東に飛んだ二式陸攻はおよそ1,000キロを三時間ほど飛び、そして右旋回を始める。ちょうどこのあたりに「黒潮部隊」と呼ばれる第五艦隊第二二戦隊(中身は徴用された漁船)が展開しており、哨戒訓練の「的」として使うことを考えていたのである。黒潮部隊は監視艇隊ごとに北から南へと直線上に距離をとって展開しているが、事前の連絡によるとちょうどその日は第二監視艇隊の交替の日であり定位置にはいないかもというのも今回の哨戒訓練には都合がよかった。
「機長、何だか変なんです」
午前6時15分、電測員の一番ヶ瀬二飛曹が困惑を含んだ声で伝える。二飛曹はこの機体に乗り込む際に合流した者の一人で機載電探の世話をしている。元々は通信員であるが、二ヶ月ほど通信学校の木更津分校(機載電探専用の訓練所)で電探の扱いを受け、「Hー7」とか「試製一式空7号無線電信機(海軍はレーダーの隠匿のため無線機と称していた)」と呼ばれるレーダーを載せた二式陸攻に特配されていた。海軍としては二式陸攻全機にレーターを載せようとしていたが、まだ生産は試作状態を抜けたところであり、ぼつぼつと量産を始めたために小隊長機のみに搭載され実地試験を始めようとしていた。
「変って…何だ。ちゃんと伝えてくれ」
明るい性格の二飛曹だからこそ機長の香坂中尉は訝しんだ。
「はい。90海里前方、やや左、漁船のような小型の艦艇ではなく大型の艦艇、それも複数の存在を電探が捉えてます」
おいおい故障じゃないのか?という言葉を喉に押し込む。二飛曹はすでにその答えを用意しているだろう。二飛曹に伝えられた地点に機首を向ける。
「感、高まってます」
二飛曹の報告が全員に伝えられるように電話を切り替えたため、機首部の全員が前方に目をこらす。水平線上に何かしら違和感を感じる。
「発見」
と爆撃手の河内二飛曹が電話越しに叫ぶ。
水平線上に黒い点々が並ぶ。
「この地点に味方艦隊はいないそうです」
通信員も叫ぶ。点々が次第に大きくなる。艦隊だ。
「空母2、巡洋艦5、駆逐艦たぶん8」
「打電しろ。受信連絡が来るまで繰り返せ、出力いっぱいに」
空母の一隻からは黒いごま粒が飛び出ている。護衛の戦闘機だろう。
「ついでだ、訓練を続行する」
全員の息をのむ気配が電話越しに伝わる。機体のあちこちで機銃の試射が始まる。爆撃手が照準器に取り付き、通信員は打電を続ける。
「何を選びますか?」
副操縦員の島内一飛曹が問う。
「もちろん一番でかいのだ。空母を狙うぞ」
爆撃手が続ける。
「了解しました。どちらを?」
「一隻は飛行機を飛ばしているが、もう一隻は飛ばしてない。何か故障か都合が悪いんだろう。そちらにしよう」
「二十五番通常弾(対艦攻撃用)四発です。行きましょう」
機首をその空母に向ける。酸素マスクを用意しつつ機内に告げる。
「上昇する。高空対応せよ」
対艦レーダーのために2,000メートルで飛行していたが、護衛の敵戦闘機対策に数分かかるがとりあえず7,200メートルまで上げる。火星25型エンジンの過給器を変更し快調に回るのを確認する。
敵の戦闘機が食らいつこうとあちこちからこの機を目指して上昇している。まだ2,000メートルは下の空だ。こちらに来るまでまだ4~6分かかるだろう。
「機関士、爆撃後にフルスロットルを使うつもりだが大丈夫か?」
「大丈夫です。四つとも頑張ってくれてます」
「機長、複数の受信連絡ありました。木更津から『万難ヲ廃シ此レヲ攻撃セヨ』。督戦命令でました」
「了解。爆撃手、そろそろ爆撃ルートに乗るぞ」
「了解です。最終数値、お願いします。」
頭の中で情報を整理する。この近くに展開する訓練中の二式陸攻はもう一機、しかし合流までには1時間以上はかかる。ならば単独でも攻撃するのが正解だ。
勘違いされやすいが、低空爆撃と高空爆撃とでは命中率はさほど関係ない。きちんとした高度・速度・偏差などを考慮すれば高空であるといえども当たる時には当たるし低空であっても当たらない。副操縦士が爆撃手に数値を伝えている間にあとすることはないかと頭を経巡らせていた。
胴体下部と尾部の機銃が激しく射撃されているのが伝わる。どうやら敵機が取り付いているようだ。しかし、爆撃のためには飛行航路は変更できない。
「ヨークタウン級空母、捕らえました」
爆撃手が伝える。私からは前方斜め下に見える。よくよく観察すると双発の機体が見える。そしてその中の一機が飛び立とうとしていた。
「死んでなかったのか…」
唖然とした。故障か不具合があって飛行機を飛ばさなかったのではなかったのだ。勘違いした。双発機を飛ばすために戦闘機などが搭載されていなかったのだろう。空母から双発機を飛ばすなんて…そんなことを考える米軍に気持ち悪さとともにそれだけのことを成し遂げる実行力…侮ってはいけないんだ。奇策だ、奇策だからこそ効果があるだろう。実際に我々も敵に会うはずはないと高をくくっていた。だからこそそんな奇策を成功させてはならない。
「河内、いくぞ」
艦隊は最初3列に並んで縦列で進んでいたようだが飛行機を飛ばすために空母が変針し、バラバラになりつつあった。それでもこちらの攻撃から空母を守ろうと駆逐艦が空母の横に慌てて移動し、その高射砲を打ち上げ始めた。
二式陸攻は斜め後ろから空母に近づく。真後ろからじわじわと近づく。さて、今更爆撃コースを変えて変針する時間はない。敵戦闘機は二式陸攻の後ろにまた着こうとしていた。
「ヨーソロー、ヨーソロー」
河内の抑揚をつけた声が耳に届く。時間が止まったかのような気分だ。
「テー」
河内の声と同時に、1tあまりの搭載物が機体を離れ、ふぅわりと上昇する。舵を押さえ込みながら左に傾けスロットルを全開、プロペラのピッチ角を急にする。
「命中弾1、至近弾2、当たりました、当たりましたよ」
尾部銃座から連絡が来る。このまだなれ切れていない機体では信じられない命中率だ。機体を傾け戦果を確認する。一隻の空母が黒煙をもうもうと上げている。時折飛行甲板で飛行機が燃えているのだろう、爆発が起こっている。速度が落ちよたよたと進んでいて、それを周囲の駆逐艦が空母の右に左につこうとしていた。一発の爆弾が?たぶん甲板上の双発機が誘爆しているのだ。
「通信兵、連絡。空母1に爆撃。多分…中波。双発機一機の発艦を確認」
大破という言葉を発せなかった。甲板上の被害だけならば中波が妥当だろう。しばらくは9,000メートルより高い位置で大きく旋回しながら観測を続けた。艦隊は転進し東の方へと急いでいた。しかし空母が一隻、被害を受けて這うような速度でまだ黒煙を上げながら進んでおりその周囲を駆逐艦が二隻寄り添うように守っていた。他の艦艇はそれを置いて速度を増していく。機体の高度を通常の4,000メートルに戻す。酸素瓶はもう空になっていた。位置情報は何度も繰り返した。確認の連絡は来たが、それ以外の反応は今のところない。
爆撃以来1時間半は旋回を繰り返しただろうか。空母の激しい黒煙は次第に収まり、白い煙が細くたなびいている。しかし2~4ノットだろうか、速度はほとんど変わっていない。船体もやや傾いていた。突然、別の機の到着連絡が来た。同じように他の空域で哨戒訓練をしていた同じ隊の機体だ。そしてその機から爆弾が離れる。一発が当たったようだ。甲板のエレベーターが火を噴いている。せっかく鎮火した空母はまた黒煙を上げ始めた。燃料切れの時間だ。攻撃の際の激しい機体運動に僚機よりはガソリンを消費したらしい。心残りではあるが僚機にバンクの合図をして基地への帰り道を急いだ。
木更津に帰ると整備員など基地総出で迎えてくれた。燃料はギリギリだった。駐機場に着いたとたんエンジンは息を切らすようにその動きを止めた。
「おめでとうございます。」
口々に喜色を帯びた顔で祝いを述べてくれる。
「やったな、一番槍。沈没したらしいぞ、あの空母」
中隊長も興奮している。僚機の2回目の爆撃後、空母は沈没したらしい。たった二発で…空母はすさまじい攻撃力を持つが、その反面、脆い。特に甲板に飛行機を並べた出撃寸前はそうだ。たまたまなのである。我々の幸運というより、あの空母に小さな不幸が重なっただけだ。
数日後、我が飛行隊に2通の「感状」が届けられた。
一つは横須賀飛行隊からである。例の双発機を発見撃墜したということへの感謝が述べられていた。我々の報告により哨戒機や戦闘機を予想進路上に展開し、進路千葉沖で補足した敵機(B25)を数機の戦闘機で落とすことができたという話であった。
もう一つは第五艦隊からであった。その日まで哨戒線を広げたあと、帰投中の第二二戦隊第二監視艇隊の船(第二十三日東丸)を結果的に助けたという話であった。第二十三日東丸は帰投中米艦隊付近にあり、
午前6時30分「敵艦上機ラシキ機体三機見ユ針路南西」
午前6時45分「敵空母一隻見ユ」
午前6時50分「敵空母二、駆逐艦三見ユ、北緯三十六度…」
と続けざまに打電し、我々からの「敵艦隊発見」の報を裏付けてくれ、遠くの僚機をすぐさま呼び寄せることにつながったのである。そしてこちらの機の攻撃により、船に近づいていた米爆撃機が翼を翻し、たった8ノット程度の特設哨戒船(大型漁船、100トン程度の船に7.7.㎜機銃(ルイス式(92式)機銃)を二丁ほど載せただけの船)は命拾いしたということであった。
敵艦を攻撃成功したことはうれしい。それは間違いないが、同胞の命を間接的ではあるが救えたことにむずがゆくもうれしく感じ、その日一日、ポカポカするような朗らかな気持ちに包まれていた。
この一年ちょっと前の話に遡る。
「なに?この期に及んで、君たちは海軍だの陸軍だのと言うのか?」
「将官」と呼ばれる陸官軍の上層部は年甲斐もなくびくりと身体を震わせた。
「諸君ら言うことも分かる。我々の中にもそのような馬鹿な発言をする者がいることも事実だ。しかし…」
「あと数年で敗戦を迎える国で、陸軍と海軍とが生き残ることはできるだろうか?前の戦争のときに敗戦したドイツがそのような状況に陥ったか、知らんとはいわせんぞ」
「敗戦」という言葉を軍人は嫌う。その言葉をあえて言い放った井上匡四郎は、別の席ならば間違いなく弾劾される人物であったろう。しかし、その立場は総理大臣直属の技術院総裁である。そのあたりの大臣と言われる地位よりも立場は上だ。
「どうも官僚とか軍隊とかは、上に行けば行くほど、組織の利権、自分自身の利益を優先させて国のことはどうなろうと関係がなくなってくるのではないか…どう思う?」
井上総裁は久しぶりに吠えた。普段は温厚と言われる井上総裁ではあるが、こと研究に対しては容赦しない姿勢で学生たちを指導していた。そんな昔のことを覚えている者はここにはほとんどいない。その気概に飲まれるばかりであった。
「総裁、皆さんもよくよく分かっておられますよ」
八木秀次博士がやんわりと井上総裁に告げ、周囲を静かに見渡す。
「皆さん。総裁がわざわざ言われていないことですが、我が国の弱電(家電・電子機器・電器機器関連を以前はそう言っていた)の人材が少ないのです。大学の学生数を見ればそれが分かります。そしてその少ない学生が皆さんのところと民間に分けられる。組織ごとにすればほんのわずかな人数です。そしてその組織内でも研究者や技師がそれぞれの研究ごとに分けられる。」
一言一言をゆっくりと、そしてはっきりと伝えた。
「ドップラー式でもエコー式でもパルス式でもいい。それは内部の研究の成果だ。しかし、それをそれぞれの組織に分かれて基礎から研究していけば、どれだけの無駄が生ずると思うんだ?」
そして井上総裁は自分の権限を発動し、一つの研究会を立ち上げた。
さて、他に誰もいなくなった総裁室で
「匡四郎さん、なかなかの名演技でしたよ」
「ちゃんと怒っているように見えたかい?」
ふふんという鼻歌の音が聞こえるような
「ええ。少なくとも研究会反対派はこれで表立っては反対できません」
電波研究会はこのような裏事情もあって、研究者・技師主導のものと位置づけられた。
これまでわずかな人数で陸海軍の要求の元、製品開発・設計をなされ、それぞれに関連企業がそれに該当する部品の研究と製造のみに力が注がれるだけで、その特定の部分の設計や製造に関わる研究者や企業はそれが完成された製品の中でどのように使用されるかについての情報をいっさい与えられておらず、実際の用途への知識の不足から改良する提案もできないままであった。
このような事例として上げられるのは海軍の「艦艇用無線電話」である。新型と称される無線電話は雑音が多く聞き取れないこともしばしばで「使えん」と文句ばかり言われていたと開発者の話にあるが、その原因の一つは使われている真空管やトランスが古すぎることにあった。同時期に民間に統一仕様(製造はそれぞれの会社に任せられ同一回路での製造とされたが、次第に不具合を改善するために回路自体もそれぞれに工夫されている。かなり業界から不評であったが優先的な真空管の提供などが始まり粗悪品が排除された)として出されていたラジオ(放送局型受信機)の方が新しい真空管を採用し、安定した音声を出していたと言われている。(よく戦中ドラマなどでのラジオからガサガサ音が流されるが音声レコードを直接流したレコードの雑音である場合が多い)軍用には「枯れた技術」というにしても部品メーカーとの連携が出されていない証拠である。
この電波研究所はいわゆる「レーダー(用語統一のために一般的な名称として本文章内ではこれを用いる)」の開発研究のためのものであるが、その関連として無線電話・電信、無線誘導などの開発にも携わることになった。開発研究は
¡地上用
○ 艦艇用
○ 航空機用
で大きく分かれ、それぞれに対艦艇(潜水艦も含む)・対航空機の哨戒見張りを優先的にし、その後戦訓の中から対航空機高度と味方誘導・敵味方判別(いわゆるIFF)、更には射撃照準用(対空・対艦)が研究対象となった。
この研究会は海軍の技術研究所四部と陸軍の技術研究所多摩学校がそれぞれの柱となっていたが、顧問に岡部金次郎博士・八木秀次博士・宇田新太郎博士などを置き東北大学・東京大学・京都大学などのそれぞれの弱電関連の学生を動員するだけでなく、日本放送協会の放送研究所を加え、逓信省・商工省の若手を増やした。民間は日本無線・精密工業・東芝などの陸海軍に関わりがある会社ばかりでなく、その子会社・下請けなどから研究・開発に長けた者が集められる結果となる。これは「品質の向上」を第一に、「最低限の統一様式」、つまり、遅々として進まない日本標準規格(旧JES)の電子・電器機器への普及を民間に広げる計画を含めていた。
日本がレーダーを知ったのはフランスの客船「ノルマンディー号」に搭載された氷山警戒用の電波探知機(探信儀)であるとされている。あるいは電離層に対する国際的な実験(電離層に電波を当ててその反射を見る)の中での発見発表の場という説もある。(知っていると周知されているとは異なる)
陸軍と海軍はそれぞれに電波を利用した測定器の研究を始めたのであるが、陸軍は「ドップラー式」後に「パルス式」、海軍は最初「エコー式」後に「パルス式」に改めて研究を進めていた。電波研究会はそれぞれが同じ会社に部品を発注し、それぞれの軍に供給するための部品開発(さほど差はないものの独自の企画・規格にこだわっていた)の無駄を取り外す結果となった。
ここでは航空機用の対艦艇索敵・哨戒レーダーに絞った話を続ける。
すでに海軍では14年から海軍航空技術本部の有坂磐雄中佐が中心となって開発を始めており、電波研究会の下部組織として編成が変わり、陸軍側からも多摩研究所や日本無線三佐保忠之技師などが開発に加わった。
16年5月に海軍側の設計・製作である先行開発機の「H6」を 九七式飛行艇 に搭載し実験を重ねたのであるが、新たに加わった技師・研究員が回路や真空管・トランスを見直して8月に完成する。これが 仮称1式空7号無線電信機、通称「H-7」(あるいは「空7」)である。(制式採用は17年、生産性・整備性・安定性を目指して改良を加えて「2式8号無線電信機」となった・陸軍側の呼称は「タキ1号2型」)
この装置は、量産のために採用された標準セットで、海上の艦船の検知に使用された。
使用する電波の波長は2m、いわゆるメートル波で尖頭電力出力は10kW。使用されるアンテナは機首部に2本、胴体左右部に各1本の八木アンテナ(送信受信共用のアンテナ)が固定され、アンテナ選択のために本体部に手動またはモータ駆動のアンテナスイッチが設けられ、通常使うモーター駆動は約40秒で完全な一巡サイクル(左、前方、右、前方)を行っていた。これにより360度全周を探ることはできないが、280度程度の探索角度を持つ。探知距離は高度2,000メートルにて、小型単艦50キロ、浮上潜水艦15キロ、大型単艦100キロ、艦隊・船団150キロというものであったが、実用的には3分の2程度のもののされていた。
航空機用のレーダーは性能だけが問題とされた訳ではなく、その重さも重要なものだった。
できれば100㎏までに抑えたい。無理ならば150㎏に…結局は筐体一つで120㎏に抑えられた。交流発電機を別の筐体(レーダー本体への振動を防ぐため)に収めていたが、二式陸攻では余力の電力があり、コンバーターを通して機体の電力を利用した。スコープはAスコープで、そのため電測員の腕次第で哨戒距離が伸びることがあったようである。また大型機の場合、哨戒の時間も長く通信員が交代要員として任命される場合が多かった。
制式採用される以前から2式8号無線電信機」(タキ1号2型)は日本無線・川西などで量産が開始され、陸海軍とも主に双発機以上の大型機に先行搭載された。
改良は量産が始まったとともに大きく二つに分かれて行く。一つは小型化である。とりあえず2座以上であれば、単発の爆撃機や攻撃機に載せることができるものの、今以上に小型化・軽量化が望まれた。特に海軍では索敵・哨戒に水上偵察機を多用しており搭乗員を圧迫するほどの大きさは望まれていなかった。そこで、操作・表示筐体とレーダー本体の筐体の二つにし、電測員の席には操作・筐体を設置してレーダー本体の筐体を胴体内に備えるという、無線機と同じ設置方法をとる形をとる8号2型がまずは生産された。
もう一つの改良は8号の改善案である。実は8号は3000メートル以上の高度をとるとコロナ放電のために不具合が生じたり、6000メートルを超えると海面からの反射が激しくなり判別がつきにくくなったり、目的艦より2000メートル以内になると敵艦と波との区別がつかなくなったりした。また生産当初のそのような細々としたことを部品一つ一つから選択・改善して、3型・4型などを量産ラインが崩れないようにしていったのである。
更には根本的な改良が加われたのが9号(タキ1号9型)・10号(タキ1号10型)と呼ばれるものである。9号はメートル波より短いセンチ波(10センチ)を活用したもので、小型マグネトロンをこのレーダーのために日本無線が新たに開発する必要があり試作は18年春、配備は19年初頭にずれ込んだが、火器管制用に設計されていないので、範囲や方位角に対する高い精度を得る必要がなく、配備自体は順調に進んだ。八木アンテナをやめパラボラ反射鏡を備えたダイポールアンテナを採用した。(一式重爆・2式陸攻では機首下部にこぶのような形で備えた)そのために哨戒角は前方を中心に220度となった。そして表示方法がパノラマ方式(PPI方式の日本の呼称)になった。この表示方法については、すべてのレーダーの表記方式として活用できるため、研究会の中でも大きなプロジェクトとされた。桂井誠之助海軍技術少佐を中心に海軍を中心とした技術関係の士官、放送技研の高柳健次郎技師・石橋俊男技師、日本無線・東芝の技師などが集められ、場合によっては別部門での研究を重ねていた研究者・技師が集まってくるという、一時期はこの研究会分科が電波研究所の中心となったとも言われる。
そして特に注目されていたのが山中電機の望月冨昉研究員であった。この人物はすでにPPI表示に対する特許を申請中であり、電波に対する造詣が深く、近接信管やスーパーヘテロダイン式の受信機の改良などの特許・実用新案が大量にあり、様々な部門でも専門家に助言を与えられる知識。経験ともに豊富な人物であった。
このPPI方式は海軍の藤波恒雄技術大尉が総体としてのエレクトロメカニカルの部分を担当し、設計自体は日本無線設計部がまとめていき、斎藤技術大尉と高木技手、木下幸次郎研究員が、顧問に高柳健次郎博士(放送技研)、菊池正士教授(大阪大学)そして民間ではあるが望月冨昉研究員を置き、開発にいそしむこととなった。結果として18年春に試作機を完成でき、18年夏には試験開始、12月には生産を開始できた。これまで機械的なスイッチでのアンテナ変更を、ダンボール式アンテナでは電子的なアンテナ変更を行い、PPIの表示の中では走査線が左右に振れて敵の存在を輝点で表すこととなった。これまでのAスコープは電測員の腕による索敵能力の差が現れる(同じ敵発見であってもその波形微妙な差で艦隊の艦数ばかりではなくその艦の種類を当てることができたという)ものであるが、その差を縮める発明とも言われた。そして戦争末期になんとか間に合った10号は9号の改良版であり、9号と並び南方からの船団護衛や日本近海の対潜作戦に活躍するのであった。なお、9号の小型化軽量化版が9号2型とされ、単座の戦闘機にさえ搭載可能で、特に海軍は彩雲に搭載されて索敵を行い、陸軍は99式襲撃機に搭載されて近海の対潜作戦に勤しむこととなる。
お楽しみいただけたでしょうか?
今回、まとめるのは結構大変でした。
ドーリットルでの「黒潮部隊」を是非書きたいし、レーダー開発のことも書きたい。でも資料は山のように(中には全く資料がないものも含む)あるのでその取捨選択に苦労しました。
日本のレーダー開発については、「遅れている」と一言で言えればいいのですが、調べれば調べるほどその転換点がいくつもあります。谷中佐様?いやいや単にそれだけではないのですよ。陸軍もその時期にやらかしてますし…谷中佐様にしても、その1年たたない間に海軍はレーダー開発を決めていたり…「開発する」「開発しない」。。。たぶんバラバラになっていたのではないかと思います。別の機会になるとは思いますが、1935~1941あたりを是非時系列にまとめてみたいものです。(そう言えば、東芝が「電波高度計」の開発を始めるのが1936年あたりです。陸海軍ともに必要なものという意識で応援してたりしますので、広義の電波兵器自体には理解があったりします)それぞれに別々のことをして、大学の研究室や民間の研究員・技師を取り合っているような状態なのですから、そりゃあ、研究が進まないわけだ。現実世界ではやっとこさっとこ19年に総力を挙げて開発研究会ができるわけですが、ドイツみたいに16年に15000人体制(それでも米英の開発には対抗できていませんが…)ができていれば、ちょっとだけ変わった世界を見ることができたかも…(あ、ネタバレだ 笑)と思えてなりません。
望月冨昉様は、レーダーのことを調べていくとけっこう顔を出すお方です。詳しくは別ネタで言いたいことが多々あります。今回の一式重爆ではもうないかな?でも覚えておいて損はありません。日本が一時電子大国になったきっかけともいえます。
なんだかまとまりが悪いのですが…
この文章は、皆様の評価・感想・ブックマークに支えられています。
よかったらお願いします。
ではでは。。。




