一式重爆撃機(新たなる流れその1)~私は、信頼に報いなければならぬ~
みなさま。この文章を選びいただきありがとうございます。
常連の皆さんも初めてのお方もありがとうございます。
さて、今回は思った以上に長くなりました。これでも技術的な部分はまだ半ばという感じです。とりあえず皆さんが考えられる「常識的」(常識ってなんだろ?)なものを採用しました。
ではお楽しみください。
人生における大きな喜びは、
「君にはできない」
と世間が言うことをやってのけることである。
ウォルター・バジョット(経済学者)
「中尉、お客さんです」
研究所本部がある本舎から走ってきた技師がなにかそわそわした感じで呼びかけた。
客?そんな予定あったっけ?」
立川基地にある陸軍航技研の今村和男航技中尉はそうつぶやきながら作業の手を止めた。周囲がざわざわしている。なんだ?目の前に現れた人物の細見の顔にどこかで見たことがあるなあとなどという場違いな感想を持ちながら
「今村です」
と敬礼した。中佐の徽章をつけている。上の階級である。こちらから敬礼するほかない。答礼しながら相手は言う。
「貴官が今村中尉?ゴム付きタンクを作った?」
相手が手を下したのを見て、自分も腕を下す。
「はあ…まあ、中心となったのは私です」
途端に真っ黒に焼けた破顔が目の前に出現した。がばりとばかり両手を出すと、両手で自分の手を握り締める。
「加藤という。貴官のおかげで命拾いした一人だ」
ああ、加藤建夫中佐だ。顔を知っているのも当たり前だ。何度新聞で写真を見たことか…
「日本に帰ってくる機会があったらぜひ会いたいと思っていてな。会議ついでに機種変換で中島まで飛行機を取りに来たものだから、せっかくの機会だ、あいさつに来させてもらったよ。」
加藤中佐の話によると、5月末に駐屯していた飛行場に英軍ブレニム爆撃機1機が来襲。加藤中佐機以下5機が迎撃に飛び上がったものの後上方銃座射撃により落としあぐねベンガル湾の遠方まで追跡、途中2機が被弾し帰還。さらに1機、機体腹部(燃料タンク部)に集中掃射を浴びた。この機体こそが加藤中佐機である。
「いや~相手の射撃は巧みだったよ。ぜひうちに来てほしいくらいだ」
からからと笑う。
「帰ってきたら、整備兵たちが真っ青になってた。隊長、もう二度と乗らんでください!…なんてな」
弾は3発ほど燃料タンクに着弾していたらしい。
「いや、貴官のゴム付きタンクの付いた飛行機を受け取っていて本当に良かった。ガソリン漏れもすぐに止まってくれた。ありがとう」
加藤隼戦闘機隊の活躍に陸軍としても大盤振る舞いで、Ⅱ型以降に搭載が計画されていたもののとりあえずⅠ型につけた試作機的機体6機を優先的に回し、使い勝手を試してもらおうとしたらしい。
面映ゆくも思ったが、あれだけ喜ばれればまんざらではない。
「加藤隊長に礼を言われるなんて…オヤジ、喜んでくれるかなぁ」
今村和男中尉の父親の名は今村均。陸軍中将。
航空機の防弾化・防漏タンクに消極的と言われる日本海軍。しかし、日中戦争での九六式陸攻の大損害には「戦闘機無用論」は吹き飛び、十二試艦戦での航続力強化重点項目の一つとして挙げられた。そして十二試陸攻にも防弾防火の項目が最初は挙げられていた。(「ワンショットライター」として有名であるがこれは自嘲的なものであり、米軍の報告書には落としにくい機体という記述もある)しかし当時、防弾・防漏タンクに積極的になった陸軍でも対7.7mmの防漏タンクが精一杯であった。
ここでキ50の資料が日本に大量に入ってくる。その中には将来ボーイング社の機体に載せる予定のものとして防弾・防漏タンクの資料も概念程度のものではあるが入っていた。その中でも注目されたのは天然ゴムや人造ゴム(ネオプレン)など7層からなる防弾タンクである。タンクに被弾したら流れ出るガソリンに天然ゴムが溶けて糊状となり、同時にふくれあがって破孔をふさぐ仕組みになっていた。(人造ゴムはガソリンで溶けない)
陸軍と海軍の航空関係者は狂喜した。ゴム関係の会社、化学工業・繊維の会社を巻き込み、内張り式の防弾タンクを実用化すべく人造ゴムや耐油樹脂のカネビヤン(金淵紡績(現クラシエ)の人工繊維の商品名)の量産が始まり、スポンジ状のゴムの試作が開始された。
スポンジゴムの量産はすぐに始まったが、日本で技術的に難しい人造ゴム(アメリカでは第一次大戦頃から合成ゴムの研究を行っており、天然ゴムの生産国が集中する南米がドイツ贔屓であることも相まって、天然ゴムが入ってこなくなることを危惧し合成ゴムの量産体制を作っていた)やカネビヤンの量産はなかなか安定しなかった。陸軍の航技研第2部で防弾装備の研究・開発にあたっていた今村中尉は資料を基に天然ゴムをタンク外側に貼った外装式とした。ゴムに加える硫黄の量を減らし対弾性を保ちつつ、被弾してもゴムは割けずにガソリンに触れた部分は溶けて割け目を塞ぐのである。対12.7mm弾なら一連射程度は持ちこたえる能力を持っていた。最初に搭載したのはその完成を待ち望んでいたキ50の増加試作機で、ついで同じ三菱ということもあって百式司偵・97式重爆・99式襲撃機などに搭載されるようになった。対して中島や川崎の飛行機はやや遅れて装着するようになる。(のちに一式重爆は空になったタンクに二酸化炭素を送り込む装置や火が付いたときに二酸化炭素を吹き出す自動消火装置も搭載した)
海軍機であるが、同等のゴム被膜を外装式に張り付ける方法を取り、やはり三菱機である零式艦戦が最初に搭載し、他の会社もそれに追随するのであるが、同じ三菱機である一式陸攻はインタグラル式タンクを採用しているため、外装式よりもカネビヤンでスポンジゴムを包んだ「袋入りゴム」を使用した内張式の燃料タンクの装備を考えていた。しかし前述のようにカネビヤンの生産が安定しないため、翼下面外側に発泡スポンジゴムの厚板を貼った応急仕様でしばらくは我慢する他はなかった。このため、16試陸攻(のちに17試陸攻)は2式陸攻の成功に航続距離を短くし、インテグラルタンクをやめ内張式燃料タンクを載せる仕様とされる。(時速600キロを狙った)
カネビヤンの生産が18年中盤にやっと安定し、内張式の燃料を搭載した機体が、タンク容量が減ることもあってタンクの大型化・増加に伴い設計を変更しなければならないため新型のものから採用されるようになった。
海軍はなやんでいた。
せっかく以前から望んでいた四発大型攻撃機が手に入ろうとしているのに、その攻撃手段が爆弾だけという現状に。
低空での運動性能を望んでも、あれだけの大型機を自由自在に扱える搭乗員を育成するためには、かなりの時間がかかる。そして現在持っている航空魚雷は役に立たない。ならばどうする?あきらめるのは愚者の選択だ。その長大な攻撃・哨戒半径は、一式陸攻で望んでいたとはいえ双発の機体での運営力には限りがある。こちらが望んだとはいえ(大切なことなので二度言った)無理をさせすぎていた。
「試製一式哨戒攻撃機」の存在により、
「一式陸攻の行動半径は今より少なくとも良いのではないか?」
という意見が出始めている。それでなくともどうやら長くなりそうな戦いの中で、搭乗員を生還させるために防御武装の強化や次の型式では燃料タンクの防弾などが検討されている。海軍内部での「一式哨戒攻撃機」の今後の攻撃方法について会議は踊った。
〇魚雷の弾体強化・高速化を狙い、大型の魚雷を検討する。
(生産に支障がないように、45センチ魚雷か51センチ魚雷を基本形とする)
〇戦艦の主砲弾を利用した1,500キロ爆弾(大和型主砲弾)
〇滑空爆弾(無動力のグライダー的な無線誘導爆弾)
〇動力滑空爆弾(動力についてはこれから検討)
海軍は「名古屋航空研究所」に意見を求めた。会議はフォークダンスやワルツ的な踊りから南米的なタンゴの踊りとなり、フェスティバル状態へと陥った。常識的な意見はどこかに吹き飛び、現状では(10年後でさえ)到達不可能なものが提案されたという。現在、残っているわずかな資料によると、どこかの大学研究所が提案した
「視覚されない敵艦に、中途に無人誘導機(誰がその機を操縦する?)を置き、その誘導によって動力滑空爆弾を当てる」
などという30年後のソ連の対艦ミサイルの用法を先取りしたものや、海外のロケット事情にかぶれた若手研究員の
「上空に静止人工衛星を飛ばし(方法については明記されていない)敵艦の動きをリアルタイムに受けて、それに伴って誘導のロケット弾を当てる」
などという現在でも通用する攻撃手段(ただし「試製一式哨戒攻撃機」である必要は一切ない)を提案したものさえいる。この若手研究者は戦後のロケット(ミサイルではない)研究の一人者として大浦・種子島に一生をささげたとされている。
そんな研究バカ(良いことだ)の提案の中で数年のうちに実現できるものとして次のような意見が採用された。
〇爆撃照準器の改良
〇反跳爆弾
〇誘導滑空爆弾
〇長距離高速魚雷
〇自律式爆弾 など
爆撃照準器はフィリピン戦においてアメリカの「ノルディン照準器」(アメリカの軍秘のものであり台湾空襲を行ったB17はわざわざ旧式の照準器に乗せ換えていたほどであった)を陸軍が鹵獲したB25より手に入れており、日本光学に調査とコピー準備を命じていた。すでに日本においても同じような研究(ジャイロ安定器・自動投下装置・自動航行操縦装置・左右爆撃装置 など)がそれぞれに進んでいたこともあって比較的早く戦力化できるものと考えられていた。(実際には、2年ほどかかり、ほとんど手作り状態であったが…)結局量産できないために「ノルディン照準器」フルコピーは諦められ、その計算機とこれまで日本で培ってきた技術(左右爆撃装置・自動操縦装置など)を組み合わせた十型照準器が20年より量産されることになる。
実際に早期に開発できたのは、海軍が深山用に予定していた大型化での工作精度を高めた「13試製照準器」(量産がなされなかった「試製96式照準器」に準じ爆弾の自動投下が可能であり、目的の艦が変速した場合、またある程度の機体の動きにも対応している)と、陸軍のすでにできていた映像式の「九九式水平爆撃照準器」にジャイロ安定器(アメリカ式にポンプ駆動式からモーター駆動式となった)、自動投下装置を組み込んだⅡ型が17年後半より日本光学と富岡光学でわずかずつ量産された。(これらの照準器はイギリスの「T14照準器」に構造的には別であるが、よく似た思想で作られている。)さらには
反跳爆弾とは、海面をスキップするように弾体の強度を増し尾翼などをスキップしやすい形状に改めたものである。実験の結果、魚雷よりも速度があり船舶攻撃には効果があるものと判断されたが、思ったよりも到達距離が伸びずわざわざ4発機を使う必要性が薄いものであり、その後は対艦・対船攻撃の手段が水平爆撃・急降下爆撃(99軽爆)しかなかった陸軍の爆撃機での艦船攻撃に利用された。
内閣技術院はその下部組織として陸海民学の科学技術の一体化を図るべく、陸海技術運用委員会を開催した。これは、名古屋航空研究所が航空技術を主にしているのと比べ、今後の戦争に備えて新しい武器全般(航空機も含むが…)やそれに伴う技術の情報交流のために設けられたものである。その委員会に属している海軍軍人が東芝を訪ねてきた。
「この検知装置を作れと?」
東芝の技師は困惑していた。
「そう、できるだけ早く」
海軍技術士官の谷恵吉郎中佐と名乗った人物は、東芝ならばできることを確信した口ぶりであった。
「なぜこのことを知ったのですか?」
「海軍もいろいろと情報を集めている。そう私のように特許局の出願窓口とかね」
ボロメータ型赤外線検知装置に対する新しい実用化方法を特許局に出したのは1か月くらい前だった。谷中佐は以前特許局の審査官を兼任していた時期があり、今でもそこに顔が利いているのである。
「新しい兵器は、新しい発想でないとできないものですよ」
そういいながら谷中佐はずいと姿勢を前向きにして
「東芝ならば、私たちの要求に十分に応えることができる。そう信じているのですよ」
と言われると、東芝の技師は頷くことしかできなかった。否定することはできない。特許局に出した「ボロメータ型赤外線検知装置に対する新しい実用化方法」という内容は東芝が単独で考案したわけではなく、実際にはアメリカのGE社が基本的に開発したものであることを知られるわけにはいかない。
「自社が自ら開発し、特許申請をしたもの」
という表の言い訳がどのくらい通用するか…東芝としては固唾を飲んで見守るしかなかった。(その頃東芝は毎日のように特許申請を行い、自社の特許利益を守ろうとしていた。ただその大半はGE社が開発したものを日本での特許権を日本側が取る前に唾をつけているようなものであった。)
「やらざるを得ない」
東芝の社内会議ではそのような結論を出した。
「やるからには、精一杯のものを」
東芝はアメリカGE社の資本がかなり入っており、陸海軍は技術流出を恐れ軍事部門では電波機器関係以外あまり付き合いがなかった。せいぜいが民間用に作り上げたものを軍事用に転換する程度で、(排気ガスタービンやジェットエンジンの開発に携わる石川島芝浦タービンは東芝と石川島重工業の合弁会社ではあったが)今回のように「新兵器」のしかも重要部品を担わせるなどは思ってもみなかったものである。しかし顧問の八木秀次博士(のちに2代目内閣技術院総裁となる)と谷恵吉郎中佐の強い支持もあり、またない袖は振れぬとばかり赤外線探知機の開発を依頼したのである。
東芝は自社や下請けの研究職・技師を他に影響がない範囲で招集し、陸海軍の技術廠・航空技術研究所や中島飛行機の技師、八木博士などに相談して東北大などの大学生を動員する形で開発研究会を立ち上げた。
「ケ号(〇ケとも)爆弾」「ケ号吸着爆弾」
の始まりである。
弾頭部にある赤外線探知装置によって、目標物の熱源を探り探知範囲内で一番大きな熱源を持つもの(つまり大型艦)に向かって油圧式の操舵装置で爆弾本体を操舵する自己ホーミング型の爆弾であった。
開発は思った以上に計画通りに運び、試作爆弾は6か月後には一式重爆を使い、浜名湖にて第一回投下テストが行われた。誘導装置自体は順調に動作したものの操縦装置がうまく作動せず実験自体は失敗に終わった。しかし、その後の投下テストでは個体差はあるものの静止目標に直撃、あるいは至近弾となる。また動的目標にもきちんと追尾して3分の1近くが目標付近に達したこともあり、量産が決定した。
ただ、現状ではこの爆弾(約1.2t)を搭載できるのは双発機以上の大型機であり、実際にはその重さから一式重爆(2式大攻)での攻撃が適切と考えられていた。
本来の対艦水平爆撃は隊長機に合わせその中隊が一斉に投網のように爆弾を落とし、その中の数発が敵艦に当たればいいというものであったが、この爆弾であれば3分の1の確率で当たる可能性が出てくるのだから、小隊3機がそれぞれ2発を投下すれば2発は当たる期待ができるのである。まともな対艦兵器を持たない陸軍だけでなく、海軍も驚喜した。しかも設定される投下高度は8,000~10,000メートル。艦艇が持つ対空砲火の効果外であり、米海軍戦闘機も活動が鈍くなる高度である。
その後、精度を高めるための研究を続け、また陸海軍の要望もあって小型化(1トン以内)と大型化(1.5t爆弾を利用)さえも開発の道へと続いたのである。
対して、名古屋航空研究所を中心として任せられたのは「誘導滑空爆弾」である。陸軍航空技術研究所の大森丈夫航技少佐と小笠満治少佐が提案した親子飛行機構想をもとに、
「イ号誘導弾」
と呼ばれる計画が陸軍航空本部を中心として名古屋航は妨害空研究所で進められた。ここで重要になるのはその誘導方法である。
〇 目標を目視でとらえ、母機で無線誘導で操作する。
〇 特定の電波を母機より目的艦に当て続けて誘導する。(レーターホーミング方式)
〇 敵艦の対空砲火を音源として自律的に誘導する(砲火の衝撃波によって生じる3 - 5ヘルツの音響高調波を搭載されたマイクロフォンで捉えて進入方向を決定する衝撃感応ホーミング装置)
〇 「ケ号」と同様に熱感知装置によって自律的に誘導する
などの方法が検討された。まずは飛翔体を作ることが優先され、無線誘導の甲型(大型・800㎏爆弾・三菱担当)と乙型(小型・300㎏爆弾・川崎担当)を制作した。使い捨て前提の機体であるので、アルミやジュラルミンなどの軽金属ではなく、木材(主翼)や鉄構造材・トタン(機体)が多用された。動力いずれもダブルベース火薬の固体燃料ロケットであるが、本来のねらいであるドイツの情報を得て液体ロケットを研究しつつあった。
最初の発射実験は無動力・無誘導であり、甲型は97式ではぎりぎりの重さであったためキ67の試作機を用いて(乙型は99式軽爆)爆弾本体の飛行特性が調べられた。2回目は動力(固体燃料ロケット)の試験、それ以降は無線操縦装置を備えて実施される。飛行体は目視による無線操縦に従い左旋回右旋回を繰り返し目標地点付近に着弾した。乙型も同様に順調な開発を続けたが、ある日、神奈川県の真鶴海岸での投下試験の際、無線機の不調のため突然操縦不能に陥り、熱海温泉老舗「玉の井旅館」の女湯に墜落し、女中1人(澤木あさ様)が死亡、浴客1人が負傷、旅館も全焼。
「私(石田新様 当時朝日新聞社熱海支局勤務)は当時付近を歩いていた、怪物が体当たりの瞬間を目撃したが、轟音と共にたちまち黒煙に包まれ、アッという間に焼失した、木造三階建、800坪什器一切焼盡した。」
熱海新聞 昭和43年より
このことから「エロ爆弾」とも内部で呼ばれるようになったことは有名である。
この無線操縦については、戦前から陸海軍とも実験を進めていたが陸軍の無線操縦は「長山号」という。(有線操縦のものは「遠隔操縦器材い号」と呼ばれる)ただ地上を二次元走行するものであり、飛行機などの三次元飛行するものには使えなかった。対して海軍は94式三座水上偵察機を利用した無線による遠距離操縦及び自動離陸装置・自動着水装置などを開発しており(価格が高すぎて採用はされていない)その簡易版ではないが高角砲射撃訓練のために「一式標的機」という双フロートを持つ無線操縦できる水上機を作製した。
その経験を生かす形でイ号誘導弾の操縦装置が作られたのであるが、6個のジャイロによって直進と水平を保ち、操作員がジョイスティック状のいわゆる操縦管を操作し、左右に曲がっても操作を切ると再び元の進路に復帰する。基本的に左右に並行移動するものであった。飛行体には簡易な電波高度計が設置され次第に降下する飛行体は水面上5~8メートル(つまり大型艦の艦舷の高さ)で水平飛行に達した場合に高度を保つようになっていた。また35~48MHzと45~58MHzの周波数体が割り当てられ、最大で6機のイ号を操縦することが可能であり、同時発射数は1個~2個小隊6機までと定められていた。
突入最終時の速度は600km前後(ロケット加速時は400㎞前後)。射程は甲型で8~10㎞(高度7,000m時)・乙型で5~6㎞。(液体ロケットエンジンの場合、この1~2割増しの計画)イ号の操縦のために目的艦より4km余りの地点まで近づく必要はあったが、敵艦上空を低空を通り過ぎることもある雷撃などに比べればかなり安全と言えた。(なお、発射機と操縦機を別にする案も考えられていた)
海軍は
「空中魚雷だ」
とばかり航空研究所の人員や資金・資材など積極的に支援を行い早期の実戦化に努めた。
他の自律型イ号誘導弾は並行的に研究開発が進められていたが、まだ1年はかかるものと甲型・乙型の量産がまずは始まった。飛翔体自体は簡易な工作であるので計画された数字はすぐに突破されたが、誘導装置の数がなかなか揃わず、できた途端に請われて南方へと送られることが多かった。それだけ米軍の艦艇に脅威を感じる前線が多かったことがあげられる。また、この有翼形状と誘導できる数に限りがあるため、一機に複数の搭載は諦められ、一式重爆(2式陸攻)のために1.5.t爆弾を内包する乙型(2.3t)が早期に開発(甲型の拡大版)された。
イ号誘導弾の初陣は、ニューギニア近くの米軍輸送船に対するもので、3機のイ号乙型が99式軽爆より発射され、一隻沈没・一隻中破という損害を与えた。ただ、通常装備よりかなり重く、短時間とはいえ誘導のために水平飛行を続ける必要があるため敵戦闘機の護衛がいる際には艦船への攻撃は陸軍としては控えていた。対して海軍は同じように単独での攻撃は控えていたが、味方戦闘機の護衛がいる際には積極的に攻撃を続けた。以前より防御兵器を強化しインテグラルタンクのゴム被膜・装甲板をつけているとはいえ一式陸攻には1.5tの甲型は重く、単なる爆弾・魚雷攻撃より戦果を挙げたと判断されたものの損害も多かった。
いかがだったでしょうか?
楽しんでいただきましたか?
加藤中佐様(戦死後特進で少将)を死なせたくなかったのです。少なくとも戦争初期では…加藤機の墜落原因は、燃料タンク被弾とコントロール・ワイヤーの切断、あるいはパイロットへの被弾という3つの説があります。ここでは燃料タンクへの被弾を採用させていただきました。
今村和男航技中尉様、名は以前より知ってましたが今回改めて調べると、なんと今村中将様(「陸軍の良心」ですよ。戦犯にした連合軍は間違いなく鬼畜)のご長男。やっぱり世間って狭いですね。この防漏タンク普及によって、前線から感激の「電報」が届いたという話を膨らませていただきました。幾ばくかの命が救われたというのは史実です。
今回挙げた「兵器」は開発途中や開発はしたものの間に合わなかったもの、つまり日本でもなんとかなったかなぁ~と思えるものを優先させてます。
照準器なのですが、本文にある「99式照準器」。なんとメルカリで5,000,000円余りで出品されてました。(かの松本零士様なら買ったかも?)ただ色々調べていく中で陸軍のものなのか海軍のものなのかよくわからん状態に陥ってます。(四式重爆には載せたみたいですが…飛龍って、魚雷載せたり陸軍の中ではちょっと異色なんですよ)また例の「ノルディン照準器」のコピー、なぜか4式(Ⅰ型とⅡ型(改良版))とか十型(改良版)とかいろいろと名前が付いていて(製造所が違うのかも?)混乱状態です。ちなみにキ74には十型照準器が搭載されていたようです。これ以上は『アジ歴』などを老眼の目で見ていくしかないかもしれません。(さすがにつらい…)
は!もしかして「四式十型?」…(「10」の表記も少数あり)
ケ号吸着爆弾はどうしても出さないといけません。(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪ソニーが戦後にできないからです。ウィキペディアでも「海軍の技術中尉だった盛田昭夫と(東芝の子会社)測定器の技術者だった井深大は研究会(ケ号開発研究会です)で知己を得て、戦後にソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立することとなる」と書かれてます。
谷恵吉郎中佐と聞いて、あの人だな、と言える人はかなりの海軍通か武器オタクです。開戦前にイギリスの情報(どうも特許関連の公報らしいです)を聞き「電波による索敵」を訴え却下された方です。いわゆる「闇夜に提灯」です。まぁそう言ったとされる方も「赤外線探知」を訴えていたので完全に無知な方ではないようですが、少なくともこれによって1年以上開発が遅れたのは間違いありませんね。(このころの技術開発スピードから言えばそれだけでもかなりの開きになりますね)それでなくとも電波関係の技術者が少ないのに…(アメリカのレーダーは英国の先行研究をもらい無駄なことをしなくてもよかった点ますます有利です)
なお、レーダー関連は次の部かなぁ~
東芝ですが、ホント戦争後半は技術開発の牽引役(レーダー・排気タービン・ターボジェットなどはその一部)の一つです。戦争前半、開戦前から本格的に開発に携わっていたなら違う歴史がありえるほどです。(東芝がそこまで付き合うかと言えば…ちと分かりません)
最後にい号誘導弾は、終戦間際のあだ花のような存在ですね。対艦ミサイルの走りともいうべき存在です。神風するくらいならば…と何か悲しくなりますね。決して「エロ爆弾」に惹かれたためではありません。ただこの機のために亡くなられた澤木あさ様の死を無駄にしたくない思いで少々活躍の場を設けさせていただきました。
ここまで書いて、え?アレは?という声が聞こえてきます。(耳鳴りではないはず)
次はそのアレの開発と、今回出した兵器の中で活躍の場を出していないものがあることに気づき(痴呆症?)…ということで次の回も開発マシマシの話になる予定です。
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ではでは。




