一式重爆撃機(台湾でフィリピンで…)~これが私の定った運命なのかも知れない~
いつも愛読していただいてありがとうございます。
初めての方「いらっしゃ~い」(片手をほほ近くに添えて…)
この回の投稿で100,000文字を超えます。2ヶ月で100,000…
「小さいことからコツコツと」
西川きよし師匠の言葉でしたか?(はいジーサンです)まぁ世界的な言葉でもありますけれど、自分としてはちょっとした偉業です。(修論もそのくらいになったかな?担当教官から「長い」とおしかりを受けた30代のおもひで…)
また、ユニーク数も5,000を突破しました。
ありがたや、ありがたや。
ではお楽しみください。
真の道は一本の綱の上に通じている。
その綱は空中に張られているのではなく、地面のすぐ上に張ってある。
渡って歩くためよりは、つまずかせるためのものであるらしい
フランツ・カフカ
坂井三郎という人がいる。「大空のサムライ」。自己主張が激しく後輩に暴力をふるうこともあって毀誉褒貶半ばする人でもあるが、太平洋戦争を開戦から終戦まで生き抜いた零戦パイロット(終戦間近に紫電改に乗ったこともある。源田実とは肌が合わなかった)である点だけでも十分に素晴らしい人物である。日本海軍は個人撃墜数を重視していない(本土での空戦期は除く、基本的に攻撃部隊の護衛任務を重視していた)ため、明確な撃墜数は分かっていないが公認撃墜数は28機である。(自称64機)
開戦から二日後、坂井はその日、フィリピンへの攻撃に加わらずに台南基地でのんびりと待機していた。
と、唐突にサイレンがうなる。
「敵機発見」
基地は蜘蛛の子を散らすように整備員や搭乗員が走り回る。
坂井は自機に整備員が取りついているのを見て、誰も他の搭乗員が来ていないことを喜んだ。(このような敵機来襲の時には、他人の機であっても早い者勝ちである。常に最高の整備状態にある飛行長の機体に「ジャク(若手)」が乗っても文句は言われない)飛行帽をかぶり機体にたどり着こうとした。
「回せ」
と怒鳴る。午前中に整備と暖機運転を行っていた機体はすぐにも飛び立つことができる。整備員がプロペラを軽く回してる。キャブレーターにガスを吸わせるためだ。搭乗席に入る、スイッチをひねりカウフラップを全開にする。整備員がエナーシャにクランクを突っ込む。勢いよく回し始める。はずみ車のウォーンという音、十分に遠心力がかかっている。整備員に手で合図をする。
「コンタクト」
と同時に発動機のスイッチをオンにする。パパっパラパラとエンジンが始動する。エナーシャスターターとクランクシャフトの接続用の引き手を整備員が外す。エンジン回転が安定すると、エナーシャとプロペラの軸を直結。するとクォーンという音と共にプロペラが回り始め、次第に勢いよく回り始めた。バーアっとエンジンがうなる。他機の動きを伺い自分の順番を探る。しめた、一番最初だ。
「外せ」
車輪止めの三角に形成された木片のひもを整備員が引く。プロペラのピッチ角を強めにしブレーキを緩めるとスルスルっとすぐさま滑走路に進入し、飛行機を飛ばすべくエンジンをふかす、ブーストいっぱいだ。地上を離れた瞬間に主脚を収める。油圧の引き込み式主脚は右左でその速度が異なる。完全に収まったことは速度の向上でわかる。ぐんぐんと空高く上る中で敵機を探す。空母機か?大型爆撃機か?台湾を攻撃できるのは近づくことができる空母機か、B17しかない。指示は南だが南と東の方角に目を凝らす。
「いた」
思わず口に出してしまった。B17だ。4,000mくらいだろうか、フィリピンからやってきたのだろう。機首機銃にレバーで弾を込めた。試射のため軽く発射する。数発の12.7ミリ弾が赤いキャンデーみたいに誰もいない中空に伸びていく。エンジンは軽快に回っているため、順調に高度を上げていく。といってもずっと上昇を続けるわけではない。1,000メートル上がれば一息つき、また1,000メートル上がる。階段を上るような形で上昇を続ける。後ろ下空を振り向く。味方の数機が後ろに続いている。軽くバンクし合図を送る。
「ついてこい」
空の要塞を追い払うには一機だけでは足らない。仲間が欲しい。やがて同高度になり、そしてさらに上昇する。まだ味方機はこの高度までやってこない。軽く舌打ちした。一人でやるしかないか…5,000m。酸素瓶を使わないですむ高度だ。たどり着くまで離陸から7分少々、悪くない数字である。機首をB17に向ける。防御の機銃網が薄い機首部を狙う。降下すればよい。速度も乗るし、目標をとらえられるようになる。
安定した射撃ができるようにと、あまり速度を上げないように降下を始めた。光学の照準器にどんどんと迫る。機首機銃を軽く撃つ。届かない。たぶんまだ遠いのだろう。すでに射線には乗っている。あまり機体を動かすことはできない。照準器いっぱいにB17が広がる。また短く射撃する。きらきらとした破片が弾ける。届きはしたようだがその効果は薄い。焦りがあったか。ついに照準器を超えて、B17の機首がレクチルいっぱいになる。
「もうぶつかるしかないのか」
というタイミングで機首機銃の発射レバーをぎゅっと握りしめる。届いた。ジュラルミンの破片や操縦席のガラスがバラバラと崩れ壊れる。20ミリも発射する。60発しかない20ミリ弾丸は数秒間に尽き、残りは12.7ミリだけだ。どの弾丸がその機体に効果を現したのかわからない。しかし、20ミリも12.7ミリもB17の胴体前部に当たり続けた。当たってしまうと思った寸前に零戦を左にひねる。(エンジンのトルクやプロペラの回転方向のせいか右より左の方が零戦を動かしやすい)B17はぐらりと機体が傾く。それでもB17はそのまま飛び去ろうとしていた。基地へ空爆するための爆弾がバラバラとその機体からまき散らされる。まだ海の上である。爆弾は爆発することもなく海の中にその姿を消した。ほっとした。もう我が機はB17よりも千メートル低空に達していた。すでに20ミリはなくなり、12.7ミリも半数を切っていた。B17は旋回し、フィリピン方面へと帰投の道に入っていた。自機もそうだが他機も間に合わないらしい。
「一機、撃破というくらいか…」
B17はすごい。わが軍の「試製一式」はどうなのだろうか。あのくらい落としにくかったらいいのに…
そんなことを何となく考えながら、零戦を帰投させるべく機首を北へと向かわせた。
戦後、坂井はあのB17の結末を知る。
「間違いなく撃墜です」
AP通信社東京支局長のラッセル・ブラインズは僚機の証言など、様々な資料を基に坂井との会談の中で確信的にそう語った。
一式12.7ミリ機銃を搭載した零戦は、以来、様々な方面で活躍することとなる。
坂井は戦後、こう語る。
「末期の長砲身は別にして、あの頃の20ミリ機銃はほとんど役に立たなかった。開戦前の7,7ミリはあの搭載弾薬数はホントにありがたかった。打ちっぱなしでも一分半くらいはうち込めた。20ミリなんかいらないと思っていたが、B17なんかの大型機には役に立った。こっちがぶつかる気合があったら20ミリでも7.7でも効果あったのだけれど、アメリカ軍機相手には12.7ミリの方がうれしかった。単発機ならば10発も当てれば十分に落とせることができた。できれば4丁あればもっと良かったな」
坂井ほどではない若手の搭乗員は敵機に効果がある12.7ミリを好んだ。20ミリ機銃が長砲身になっても12.7ミリであたりをつけて20ミリでとどめを刺す射撃法が海軍の零戦搭乗員にとって主流となったのである。特に「マ弾」が海軍でも配布されるようになった戦争中期以降、12.7ミリでも米軍の双発機(さすがに四発機はかなり困難であった)を十分に堕とすことが可能となった点、珊瑚海を囲むラバウルを起点とする航空戦でアメリカ軍の被害は増加の傾向になるのである。ガダルカナル島は失ったが、ニューギニア方面の航空戦では陸海軍とも粘りを見せて、地上戦をフォローし輸送船の護衛にも威力を見せた。
ルソン島への日本陸軍の上陸作戦は、島の北方方面に集中し、航空基地が壊滅状態になった後も日本陸海軍のマニラ周辺の航空基地への爆撃機の攻撃によってアメリカ陸軍も後方へと避難した(マッカーサーとその側近はB17を代表する航空戦力で日本の基地を叩き、もしも上陸戦になった場合は水際戦を行う予定となっていたが、以前のオレンジプランでは内陸部に導き殲滅するものであった。日本軍の航空能力を低く見ていたために、先祖返り的な戦略をとらざるを得なかった)ために思っていた以上にスムーズに進めることができた。
「無人の野を行くが如し」
上陸を防げないと判断した米軍はルソン島においてはマニラを無防備都市として放棄するとともにバターン半島部とコレヒドール要塞地帯に守りを固めた。
ルソン島北部の航空基地を占拠した日本軍は早速飛行場を使えるようにし、台湾に展開していた日本陸軍の航空戦隊は次々とルソン島へと移動していった。
「こんなに楽な戦いは初めてだ。大陸よりも楽かもしれん」
などとのんきに言っていた歩兵部隊は、のちに米軍が守るバターン半島で散々な目にあうこととなる。後方で戦線を作り上げたアメリカ兵にしてもフィリピンの現地兵にしても勝つことは無理にしても負けない戦いを続けていた。
「我々が頑張っていれば、アメリカ軍は必ず救援に来る」
そうマッカーサー元帥(ちなみにその時点で「アメリカ国元帥」ではなく「フィリピン国元帥」である)は米軍全体に訴えた。マッカーサーにとってフィリピンは親子2代にわたった「権利行使」の国であった。(ルーズベルト大統領に大統領選のライバルと目されたためにフィリピンに行かされたという見解もある。それにしても「大統領」と「国家元帥」を比べてフィリピンに唯諾々と赴任した時点で、マッカーサーの考えていた「英雄」の位置づけが分かる。またケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、マニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬(アメリカでは法律違反)という破格の条件に目がくらんだという話もある)
マッカーサーの思惑はどうあれ、ハワイ空襲の影響下、フィリピンはアメリカにとっては放棄すべき土地であった。(もちろん国会対策上そんなことはおくびにも出せないが…)
フィリピンに進行した陸軍爆撃隊はアメリカ軍の主要な基地と思われる地点への爆撃を続けた。そして一式重爆撃機は、その投下するための爆弾を待っていた。陸軍が以前から持っている500キロ爆弾、作り上げたばかりの1トン爆弾と、海軍が対艦攻撃の要として開発した800キロ爆弾である。陸軍に割り当てられた輸送船の中でも優秀船を優先的に回し、三回戦分の爆弾と燃料が揃ったのは正月を過ぎた13日であった。それまで一式重爆は250キロの爆弾を8発、もしくは500キロ爆弾を4発搭載し、マニラ放棄の後米軍が阻止線を構築しつつあるバターン半島を目指して爆撃を行っていた。野戦重砲も砲列を並べ、バターン半島へとその砲弾を送り込んでいた。しかしコレヒドール要塞の存在はバターン半島の米軍・フィリピン軍を奮い立たせ、一進一退の攻防戦か続き、生半可な攻撃は戦意を振るわせるだけであった。
「心をへし折るしかないだろう」
その日は2月10日。一式重爆はついにその牙をコレヒドール要塞へと向けた。要塞を無力化し、バターン半島の米軍を孤立化させようという狙いだった。集結した一式重爆の数は3個独立重爆中隊32機(攻撃に参加した予備機を含む)。陸軍としても正念場としてその日に間に合う全力を挙げた布陣であった。事前に何度も航空偵察がなされ、写真をもとにした地図が描かれた。攻撃計画は念入りに作成され、特に要塞砲と司令部らしき部分、弾薬庫らしき部分への攻撃を優先させていた。
32機はそれぞれに1トン爆弾・800キロ爆弾を2発ずつ抱えて要塞へと旅立った。そして、爆弾はそれぞれに遅延式と時限式雷管(通常は触発式)を備えた。高度は6,000メートル。敵の対空砲火の影響が少なくなる高度であり、激しい砲撃もたまに機体を遠くから軽く揺らす程度でその爆発の効果は搭乗員に蚊や蝿のように鬱陶しがられる他は、空の空気を濁らせ照準を曇らせる黒煙くらいであった。
爆弾の投下は小隊(3~4機)ごとに進行方向と目標が定められていた。その日、第一小隊の2番機で爆撃員の飯森軍曹は88式3型爆撃照準眼鏡を覗いていた。この機体専用の爆撃照準器が開発中とはうわさに聞いたが、未だ姿を現していないためにこの見慣れた88式を使っている。バターン半島への爆撃を何度か繰り返し、この機の日本工学製の照準器のクセは何となく理解していた。機長の松本少尉が伝える。
「爆撃経路に乗るぞ」
まだコレヒドール要塞はその視野には見えない。水平飛行が続く中、気泡が照準器の真ん中にとどまるようにする。事前に風向き、高度、速度、偏流角などは照準器に入力した。
「そのまま願います」
喉にあるマイクのスイッチを押しながら答える。機内有線(電話と言われていた)がダメな場合に備え、伝声管も用意する。しばらくすると目標が照準器上方に入り始める。照準線の縦軸に沿うよう操縦席に「ちょい右、コンマ5度」と指示を行う。軽く右に機体が動く。遂に照準の真ん中、気泡の中央に目標が入る。「時計発動」と伝えると同時に時計のスイッチを入れる。目標は照準器のプリズムが動き、照準線縦軸にそって上方へと移動する。機体は完全な直線移動を始める。少しのずれが大事になる。対空砲火の狙いが正しくなる瞬間である。飯森軍曹は照準器を覗きながらつぶやく。
「そのまま、そのまま…」
じわじわと目標が気泡の方にと近づき、照準器の真ん中に移動する。後方より対空砲の爆発のための揺れが伝わる。
「投下」
小さくつぶやき、投下スイッチを押す。爆弾は投下された。機体が100メートル単位で跳ね上がる。
「帰るぞ」
機長が機内に伝え、エンジンがうなりを上げつつ旋回を始める。
「爆弾、目標をとらえました」
下方銃座の熊本兵曹が怒鳴るような声で伝える。うるさくもうれしい報告だ。
その日の我が小隊の戦果は、要塞の弾薬庫の中の一つを潰した模様だった。他の小隊の顔なじみから
「すげぇ爆発だったぞ。こっちの爆撃の邪魔だったくらいだ、あの黒煙は」
と興奮気味に肩をたたかれた。これもうれしい痛みだった。
このコレヒドール要塞への3回の爆撃は第二中隊隊長機に映画カメラと撮影員が乗り組み、後日、編集され各地の映画館で上映された。撮影者は水盃を関係者と共に交わしたという。
『カバリオ島、フライル島を控えてマニラ湾の入り口に難攻不落と伝えられた鉄の島コレヒドール。昭和17年5月7日、もろくも潰る。バターン半島・コレヒドール要塞に逃げ込んだ米比連合軍を悠々にらんでいた我が軍は、敵が頼む鉄壁の陣にまず正確無比な爆撃を加える。(中略)その爆発から生じた黒煙は天空に達した。
かつてアメリカ-スペイン戦争の直後、アギナルド将軍が3年有余にわたってアメリカに執拗な抵抗を試みたと言われる天然の要害に加えて、鋭意力を尽くした近代的陣地構築は、眼前に見る14インチの巨砲は無論のこと、おびただしい火器に武装され、まこと鉄の島の名を与うるにふさわしく、尽忠無比の皇軍ならずして誰がこの無力化をのぞみえたでありましょうか。地下にはさながら、ひとつの町があり、我が痛爆を恐れたアメリカ兵がここに潜み、かしこに慄き、我が爆弾に傷ついた身をもまた養っていたのでありました。(後略)』
日本ニュース 第102号(1942年2月25日)
3回の日本爆撃機の攻撃が終わった後、ジャングル内に積載していた爆弾はほぼなくなった。そして要塞の火器は大型のものがほとんど残っていなかった。弾薬庫も3か所が爆発し、上陸阻止のためのトーチカも、空をにらむ高射砲もその数を半数以下にしていた。
夕方、身を置いた要塞の被害報告を聞いていたマッカーサー元帥は司令部の要員にこう言われた。
「元帥、大統領から『オーストラリアまで引き上げろ』と指示が出ています」
マッカーサーは口元をぐっと引き締めた。
「負けを認めろと?私に?」
「元帥が生きておられる限り負けはありません。フィリピンを放棄するだけです。一時的に…」
マッカーサー自身もフィリピンは放棄せざるを得ないまで追い込まれていることを理解していた。アメリカのアジア艦隊は軍港を空爆されその機能をほぼ失い、すでにフィリピンから逃げ出した。他国との連携を図り東南アジアの安寧を図るという話であるが逃げ出したことには違いない。
バターン半島には未だ20,000を超える兵がおり、フィリピン全体では100,000人以上が抵抗を続けている。しかし、この要塞がこのざまでは補給すら難しいだろう。1か月持つかどうか。補給だけではない。フィリピンの米軍にとってこの要塞は「難攻不落」という心のよりどころである。もし日本軍が明日上陸しても阻止することすら無理である。
「わかった。引き上げよう」
苦渋の判断である。
「アイシャルリターン」
その深夜、コレヒドール要塞から家族と側近、そしてフィリピンのケソン大統領を連れて二隻の魚雷艇に乗って脱出した。十万を超える米兵、フィリピン兵を残して…後日、フィリピン政府から50万ドルがマッカーサーの個人口座に振り込まれた。
それから一か月、日本軍は野戦重砲と爆撃機の攻撃を続け、半島部と要塞への無理な進撃を行わないままであった。すでに大型爆弾がなくなったものの一式重爆はその攻撃に加わり続け、60 kg爆弾20発を一斉にばらまいていく爆撃方法(中には無理をして60 kg爆弾40発を搭載するときもあった)をとっていた。この攻撃は広い範囲のジャングルを吹き飛ばし、多数の負傷者を出すことにつながり、アメリカ軍にとっては戦死者よりも負傷者が増加する自軍に負担が多いものであった。
「生き殺し」
そんな言葉が似つかわしい昔ながらの城攻撃戦のありさまである。
マッカーサーの後任の司令官に就いていたウェーンライト中将はフィリピンの抵抗が事実上機能していないことを判断し、降伏を申し入れた。こうしてフィリピン戦は終了した。既に米軍はこのとき食料が欠乏し、マラリア、デング熱や赤痢が蔓延している状態であった。
「ダグアウト・タグ(マッカーサーの愛称)、隠れてないで出ておいで・・・大統領に知らせておくれ・・・兵隊たちは飢え死にしそうだよ・・・ジャップは三人・・・おれたちは十万、大将が逃げたから飢え死になのさ」
フィリピン陥落後の、米軍の捕虜が歌った歌である。
いかがだったでしょうか?
今回は書き損じていた開戦当時の2つのエピソードを時系列で繰り広げました。
坂井三郎様は中一のみぎりに「大空のサムライ」を読んで、単なる機械であった零戦が息をしたものになったものとして感じられ、その後戦記好き人間になったきっかけとなるものです。(「丸」・「航空ファン」・「航空情報」、ついでに「モデルアート」をむさぼるようになったきっかけですね)「あれは嘘ばかりだ」という批判も知っていますし「初期の楽な戦いばかり語る老害」扱いも戦後のあれこれも知ってますが、「太平洋戦争かく語りき」という点でも、戦った旧米兵に日本軍を改めて認めさせた点でも優れた文章だと思います。(東映の「大空のサムライ」を映画館で観た人、手を挙げて!!ジーサン仲間ですね 笑)本文に出ているAP通信社東京支局長のラッセル・ブラインズと会談した際に、坂井様は「戦犯になる」恐れもありかなりびくびくしてたようですが、意気投合し「大空のサムライ」執筆のきっかけとなったみたいです。私にとっては親戚のめんどくさいおじさん、人間的には近くにいてほしくないけれど言動は気になる人物です。
ホントは、坂井様の上司、「大空の貴公子」笹井醇一様をどこかで使いたいのですけれど…エピソードのいろいろ、かっこよすぎます。理想的な上司!!!!!(改めて知ったのですが笹井様はかの大西瀧治郎様の親戚筋なのですねぇ。海軍って狭いわぁ)誰か書いてくれないかなぁ~伝記、え?自分で書け?無理無理無理無理無理無理無理無理無理(ジョジョ風に一気に言いましょう 藁)かの素晴らしさを伝えることはできません。
コレヒドール要塞への爆撃は、この一式重爆を書き始めた時からどうしても入れたかった部分です。コンクリートの天蓋を穿ち、要塞の弾薬庫を爆発させる場面が最初からイメ―ジされていました。その為に1トン爆弾を用意したようなものです。
これからこの機体をどう生かすか…はイメージできてますが、どうしても大和主砲弾の1.5トン弾(すでに未開の兵器ですけれど)以外の新兵器(今のところ、固定目標と移動目標対応の二種類)を用意しないといけないので(次話のネタですが分かった人は間違いなく武器オタクです)…さてどうなることか…まぁ楽しみながら書いていこうと思ってます。
マッカーサー元帥にはちょっと辛辣な感じでまとめました。でもこの人の話をまとめようとすると事実を並べただけでもそうなるのですよね。GHQでの行動も「日本愛」の部分もあるのですが、ただこの人の「日本愛」は観戦武官であった日露戦争時の時点で止まっているのですよ。間違いなく「武装放棄・農耕国家」まで日本を落とし込もうとしたGHQ(大学出たての共産主義にかぶれた理想主義の若手)の総元締めです。「バターン死の行進」の責任は本間大将(どう考えても素晴らしい人物)ではなく、てめえのせいだ!!戦犯に祭り上げたのは自分が逃亡したことを糊塗するためだろ?(またまた老人性怒り 笑)
あ、「共産主義」自体は否定しませんよ。少なくとも小学生高学年より中学校時代までは素晴らしい思想だと思ってました。今でも素晴らしい思想だと思ってます。思想だけは…(実現は「欲がある人間」の集団には難しい)チャーチルの言葉(人間は最低だけれど、この言葉だけは肯定します)を思い出します。
「二十歳までに共産主義にかぶれない者は情熱が足りないが、二十歳を過ぎて共産主義にかぶれている者は知能が足りない」
まあ、チャーチルがそんなことは言ってないという話ですが…( ´艸`)
少なくともイギリスという国を守るために手を変え品を変え、言葉巧みに時にはだましを交えた姿勢は本来の政治家の在り方と思います。(人間的には最悪ですが、現在の日本の政治家に欲しい資質です。まあ侯爵ですから、国が亡んだら何の権利もなくなる恐れがあったのでしょうね。世界平和より人権問題より移民問題よりまずは日本の日本人の安全・経済・権利保障だろ?)個人的には友人はあっても、国家間には友人はないのです。(マスコミ、分かっている?個人と集団は別なのだよ)戦後に「イギリスが落ちぶれたのはてめーのせいだ」とばかりに選挙に負けたのもイギリスらしい民主主義です。
最後に、
前回の文章に対して多大なる支援、ありがとうございます。
ブックマーク・評価、そしてそれに伴う「歴史部門 日間42位」(やっぱりランクインするとPVが伸びますなぁ~ 他人事…ではないな ( ´艸`))
このような拙い文章にありがたいものです。励みになります。
よかったら感想もいただけたら幸いです。
ではでは。




