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17/50

一式重爆撃機(開発3)〜堀はほくそ笑んだ〜


訪問ありがとうございます。

拙作を楽しんでいただけば幸いです。


前回の投稿日、5月24日には

 PV    829

 ユニーク  218

の記録。今後の励みになります。


さて

また量産に行き着けませんでした( ノД`)シクシク…


量産のための下準備ばかりしてます。


お楽しみください。


 私たちの情熱は、

 火や水のように、良い召使いではあるが

 悪い主人でもある。

                            アイソーポス



 クイズです。(懲りないなぁ~ 笑) 2022年現在

 1位 トルンプ(ドイツ)

 2位 DMG森精機(日本)

 3位 通用技術集団(中国)

 4位 アマダ(日本)

 5位 シューラー(ドイツ)

 さて何の順番でしょうか?関係者はすぐにわかるかも…


 正解は

 世界の工作機械シェアのベスト5

 でした。

 実はベスト10の中に、日本企業が5社(合計約12.5パーセント)入ってます。(ヤマザキマザックは非上場のため売上高が非公表のため含まれておりませんがベスト10に入るかも…)これらのランキングに必ず入る会社、それが

 オークマ

 です。


 キ50の試作機が知多工場で組み立てられ始めたある日、


「話は聞きましたが、それだけの数はさすがに回せませんよ」


「年間出荷数1位の大隈さんでもむりですか?」


 三菱の担当者は不思議そうな顔でそう尋ねた。


「5000台って、納入に10年くらいかかります。他社との取引もありますし」


「うちもアメリカ製の工作機械を買いあさってきましたが、新しく作っている知多工場ではまだまだ足りません。そこでですね…」


 一旦言葉を切り、ぐいっと体ごと前に寄せるとこう提案する。


「建てませんか?工場」


「はぁ~!?そんな簡単に…第一、うちは萩野工場を作ったばかりで…」


「土地のめどはついてます。大口町です。買収交渉は継続中ですが、大隈さんが頷いてくれればすぐにでも整地に入ります。金はうちと川崎さん、愛知飛行機さんが出します。陸軍の上の方にも協力を願ってます」


 明治時代創業の老舗メーカーであるオークマ。元巡査の大隈栄一氏は製麺機を製造・販売することとなるのだが、全国を巡る中で名古屋に拠点を設け大隈麺機商会を興す。東京陸軍砲兵工廠から図面を渡されて、兵器製造用の旋盤や、立て削盤、卓上フライス盤を造ることになり、大隈鐵工所を設立した。開戦直前の1937年には工作機械生産額が国内第1位となったのである。その頃の中京は愛知飛行機・川崎飛行機・三菱飛行機、そしてトヨタなどの工場が次々と新設・増設を重ねており、技術面でも申し分ない大隈鐵工所に受注が集中していたのである。


「特にうちが欲しいのは汎用機ではなく、専用機です。職工の腕一つで仕上がりが変わるのではなく、それこそ素人同然のものが使っても手順通りすれば安定した製品が作れる、それが欲しいのです。」


 富士塚町3丁目(現在の東海テレビの北側)にあった本社工場は、生産数のことを考えると思った以上に狭いものだった。ちょっとした幼稚園くらいの、地方の豪邸の敷地などよりよほど狭いものでしかなかった。

 工作機械は明治維新以降、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスなどといった国よりさまざまな機械が入ってきた。工業化を急ぐ政府によって、工作機械は必須のものであり、大小の会社(企業的工場こうじょうというより家内制的工場こうば規模)が立ったかと思えば消えていく様であった。その中でも、大隈鐵工所や池貝鐵工所などはその技術力を次第に高め、日本の機械産業を支えつつあった。開戦前(二次大戦開戦)あたりから外国産の工作機械が入りにくくなり、池貝鐵工所や大隈鐵工所は頑張りを見せ、昭和15年~昭和20年まで、日本の工場の数倍化、機械生産の数倍化の陰の立役者であった。これは軍需品の会社・工場だけでなく、民生品の会社・工場でもそうである。


「いかがですか?アメリカ製の出来立ての工作機械はいくらでもいじれますよ。大隈さんだってそんな生の情報が欲しいでしょ?」


 経営者であり、また技術者でもあった大隈はじっと考え続けた。



 またまたクイズです(お付き合いください)


 日本で最初に正式に20ミリ機関砲(機銃)を載せた機体は?


 もちろん零戦ではありません。


 正解は…92式重爆撃機です。(これもかい?って言わないでね)


 94式旋回機関砲


 という名称です。92式重爆撃機の上方銃座に載せられていました。驚きのエリコン20ミリ機関砲AL型です。(99式2号機銃の元となったFFL型の先行品)



「うちに回してもらえないだろうか?いや数はとりあえずそれほどいらないが…」


「そんなに頭を下げられて頼まれても困ります。確かにエリコン社の技術員も手伝ってくれて、ノックダウンから国産品を作り始めてますが…」


 陸軍航空研究所の高官からの訴えに堀悌吉は困惑した。


「確かに陸軍でも20ミリ機関砲は用意できるが、ものになるかどうか…エリコンの方が軽いし、発射速度が間違いないだろう。生産も始まっているし…こちらはコピーが失敗した…」


 陸軍は94式旋回機関砲を国産しようとしたが、バネの問題(正確にはバネの素材であるピアノ線製造)があって国産をあきらめざるを得なかった。

 100式重爆撃機のために陸軍はテ1という20ミリ旋回機関砲を開発しつつあった。陸軍が慣れているホッチキス系の98式高射機関砲を改良したものである。そこに海軍がエリコン社から正式に技術指導を受けてライセンス生産することになったのを聞いて、こうやって大日本兵器の取締役となった堀を訪ねてきたのである。ノックダウン製造は昭和12年4月から、エリコン社技術団の生産指導を2年間にわたって受け、スイス・ドイツから機械器具・治具工具を購入し素材も供給され、当時の日本で最高の設備・技術を持った兵器製作所となった。昭和14年7月より兵器製造に必要な工作機械を生産するため隣接地の「湘南工機工場」が稼働を開始した。


「うちは海軍の会社なのですけれどね」


 堀悌吉は「神様の傑作の一つ 堀の頭脳」とも言われ、明日の連合艦隊司令長官、未来の海軍大臣とも噂されていた人物だ。しかし、ワシントン・ロンドン海軍軍縮会議後、逆恨みのような艦隊派からの攻撃を受け下野したのである。(周囲からそそのかされた伏見宮博恭王がすべて悪い)その後は、日本飛行機(川崎飛行機の子会社)・浦賀船渠、そして浦賀船渠から独立した大日本兵器の社長・取締役を兼任していたのである。さらに言えば、陸軍との交流を軍人時代より積極的に続けておりこの高官とも個人的には親しかったのである。


「海軍を説得するためには、いくつか陸軍にも譲歩していただけないかと…」


 しばらく目を閉じて黙考した後、堀は提案した。


 〇 海軍側からエリコンFFL式(のちに2号銃と命名)の固定・旋回の機関砲を生産し陸軍側に必要数を渡す。必要であれば陸軍用の生産ラインを置く。

 〇 陸軍側からホ103(のちの一式12.7ミリ機関砲)及び、マ弾(102・103)を生産し海軍側に必要数を渡す。必要であれば製造ラインを設ける。

 〇 今後の航空機用機関銃・砲についての開発研究・製造研究に対して、連絡会を置く。

 〇 キ50を海軍側に必要数渡す。(生産設備を持つ三菱への交渉を含む)


 海軍は軽い1号銃(エリコンFF型)にとりあえず集中しており、陸軍が望んでいる2号銃(FL型、必要であればより強力なFFS型も)を作るためのラインは湘南工機工場の存在もあって新たに設置・増産が可能であった。


 1か月後、思ったよりも早い陸軍の反応に堀は朗らかな顔で


「わかりました。早急に用意します」


 堀は他意のない笑顔で応えた。

 大日本兵器はすでにあの相談以降準備を始めていたのである。


 これら、三菱だけでは仕方がない問題も緩やかながら次第に解決に向かい、キ50の1号機の試験飛行は始まったのである。

 機器が揃っていないものは未搭載のまま、キ50は舗装も新しい知多飛行場の滑走路を地上走行で機体の各所を確認しながら数往復した。そして軽く飛び立ってはすぐに着地する動作を繰り返して昇降舵・補助舵・フラップ・主脚側脚の具合を見た。確認後はできるだけ調整を行う。

 よく試験飛行と言うと、滑走路をするすると走り出して空に飛びあがる風景を想像するが、特に試作1号機の場合は、それまでに様々な作業があり、それらによって不具合をできるだけ取り除き間違いなく飛ぶようにすることが大切である。

 そしてついに飛び上がる日が来たのである。

 ハ101Ⅱ(火星15型に相当)の生産が間に合わず、量産型のハ101(火星11型に相当)を搭載した試作機は、前例のない大型機の開発ではあるものの、基本設計が適切であったのか、大きな問題もなく飛び立つことができた。大きな…のはないものの、細かな点での改善点が洗い出された。特に電気系統はここまで取り入れたことがなかったこともあって、急遽無線機などでこれまでも付き合いのある日本無線電気以外にも、民間品中心の日立・東芝などの技術者を呼び寄せて、全面的な解決のためには増加試験機1号機(試作機3号機に当たる)以下を待たねばならなかった。また早期のハ101Ⅱの搭載が待たれた。

 これらの改善点を受けて、1号機への改修と共に2号機への改修が進んだ。(大掛かりになるものは2号機が先行的に行った)そして1か月後に2号機が飛び立った。


 既に増加試作機として五機の発注を済ませた陸軍であったが、このキ50に関して、三菱一社、飛行機会社一社では解決策を満たせないことや技術面の伝達などに懸念を示していた。


「陸軍から、このような要望が出てます」


 堀は井上匡四郎を訪ね、こう言葉を始めた。


「で、私に何をさせたいのか?海軍への橋渡しか?」


「海軍は、私のつてを使って説得します。なに、同じような悩みは聞いたこともありますから、賛同してくるでしょう」


「じぁ、君がやればそれでおしまいだろう?」


 冷たい言葉である。堀はそれを当然のように受け流して、次のように続ける。


「私は調整はしますが、顔が必要です。政府にも陸軍にも海軍にも、そして民間企業にも納得させるための顔が」


「顔か…」


「海軍を追放同然になった私では、一企業や一部門に対してごたごたできるのが精一杯です。しかし先生ならば…」


「皆を黙らせることができる…と」


 破顔一笑。

 井上匡四郎は、工学博士であり、貴族院子爵議員でもある。京都帝国大学教授、東京帝大教授、海軍政務次官を歴任し、現在鉄道相として内閣の一員となっていた。


「先生が他人に優れているのは専門にとどまらず技術に明るく、新技術に理解があることです。それは私だけでなく周囲のものも知っています。影響力があって頭が柔らかい…私はそんな先生を頼らざるを得ないのです」


「なるほどね…じゃ、私は陸海軍と企業を取りまとめればいいのかい?」


 前向きに話を続ける状況となった。


「いやいや、そのレベルでは足りません。陸海軍というより、内閣・政府主導の研究団体を作りたいのです。大学などの協力も必要です。陸軍とか海軍とかのメンツは関係ありません。飛行機関係の企業をまとめるのは、私が調節役となります。」


「大学や陸海軍の航空関係をまとめ、馬鹿げた壁を取り払うのが私の役割か…えらくでかいことを考えるなぁ、堀君は…」


「我が国の航空機開発を世界に追いつかせるためには、科学・工学技術に関する力を集中させる必要があるのです。それでもアメリカの企業には追い付かないかもしれません」


 堀のことばにさもあろうと井上は深くうなずく。


「兵は神速を貴ぶ、とも言います。政府側の立ち上げを待っていられませんので、すぐさま企業側は発足させます。もう数社には協力を受諾させてます。民間の方が小回りが利くので…」


 その時、発足したのが「名古屋航空研究所」という陸海軍(正式には堀だが)が提案したものであった。準備会には名古屋近郊の航空会社(三菱・愛知・川崎のちに関東方面の立川・中島・昭和も参加)の現場の部長・課長クラスが集い、技術交流などを行うこととなった。半年後に井上匡四郎が新設の内閣技術院総裁となり、その所管として援助・支援を受けることとなる。これらの行政側の支援もあり、単に航空機会社の連絡会ではなく、素材・工作機械・電気電子・油圧などの会社や、東大・東北大・京大・大阪大・名古屋大などの大学や各地に点在する工業専門学校(のちに大学の工学部になったところが多い)などもかかわりを深く持つこととなる。

 これらの良い点は、これまでの一企業内、あるいはその子会社、関連する会社や大学という狭い世界でのやり取りに終わらず、これまで取引も関係もなかった会社・学校との付き合いもスムーズに行えるようになったことである。つまり、飛行機開発という核を中心に、軍と産業界、大学が連携した研究ネットワークが築かれたのである。

「任せとけば、必要なものは何でも作ってしまう」

 というように陸海軍からは思われていた民間会社であるが、人という研究開発リソースには限りがあり、自分にとって必要と思われるものが優先されるのは仕方がないものである。それを

「〇〇という部分に使う△△のような性質を持つ□□の素材はないか?」

 と尋ねれば、すでに研究・開発してしまっている学校・会社がいればそれと取引し、また、研究途中であったり同じような部分でつまずいたりする学校・会社があれば、共同開発や資金調達を伝える。会社としても新しい取引先ができたり大手から共同開発に誘われることは会社の名を上げ大きくなるきっかけとみていた。また大学としては研究会や企業から研究費が入り、今まで我慢していた機材や素材をふんだんに手に入れることができ中には学生の就職先の一つとしてのつてを得られると喜んでいた。時には、

「うちに任せて」

 とばかりに合金関連の微妙な比率を変えつつその性質を測定する単純作業の繰り返しによるデータ取りを引き受け、学生総動員で24時間作業という力業で早期にデータをまとめ上げるという教授もいた。それによって電気炉を含めた新しい機材と材料をうまくせしめたのである。

 準備会が開かれて三か月後、今後半年に一回ずつ開かれる本会議の大一回目が催された。出された提案は以下の通り。

「機体構造関係」では、高高度飛行用与圧胴体の構造・前車輪式降着装置・降着装置の強度試験法などが出され、「エンジン関係」では、排気タービン過給機・空気取り入れ部の形状・発動機架の振動など、そして「機体生産技術関係」では電気点溶接の利用・引張プレス等による加工・機体部品の鋳物利用などが提案された。(他にも「艤装関係」・「武装関連」・「電子・電子機器関連」などの部門からも課題の提出がなされた)

 これらを受けて会社ごと(必要があれば複数社)に研究を続けるのであるが、隔週の係り毎の小連絡会、月一の大(部内)連絡会には企業や陸海軍・大学の若手や中堅の技術者が集い、名古屋の本部、また横浜の大日本兵器の工場内に設けられた関東分室で、東大の航空研究所などが主体となって、研究の情報や意見の交換など情報の共有を行った。

 この研究組織はさまざまな場面でその成果を出したが、わかりやすい例としては排気タービン過給機であろう。排気タービンについては三菱・中島・日立・石川島などが別々に研究・開発を進めていたが、熱設計や中間冷却などの取り回し、高熱にさらされるタービンブレードの冶金・鍛錬関係など、どの企業でも同じような悩みを抱えていた。そこで、アメリカのGEの情報を持つ東芝・石川島が研究の核となり、他の排気タービン開発会社や大学、金属・冶金関係の企業、鍛造・鍛錬関連の企業を巻き込んで一つ一つ問題を潰していき、昭和18年には実用機を飛ばすことができるようになった。

 ただ、途中から排気タービンは双発機などの高高度巡航に都合がいいものの、戦闘機のような瞬間的に高高度でエンジンのスロットルを激しく操作して機動する迎撃任務などには向いていないと気づき、2段3速などの多段スーパーチャージャーの研究に向いたり、ターボエンジンの研究に向いたりと分岐し排気タービンにおおよその見通しがついた後、発展的に分散していった。

 しかし、ターボ過給機で培われた基礎的な研究はその後の多段スーパーチャージャーやターボエンジンにかなりの影響を与え、開発自体は早くから進めていたものの耐熱材料や高速回転に耐え得るベアリング、吸気・排気の流路などの研究が済んでいることもあって、名古屋航空研究所に依頼が舞い込んだ時には、皆が寄ってたかって実用化を進めることになった。


 その第1回目の本会議が行われた同日、キ50の増加試作機1号機が初飛行を迎えた。

 試作1号機・2号機の試験・検査の結果を受け、こまごまとした改修を経、知多工場の第5ライン(第一ラインは97式重爆・МC輸送機、第二ラインは100式司偵、第三・四ラインは一式陸攻(予定))を通過した1号機である。高空飛行を考慮したハ101Ⅱを載せ、動力銃座もすべて規定通りに設置させられた実用試験機である。


「やっとですね」


「うん、やっと一区切りだ」


 とりあえずやっとだ…河野課長はすっきりとした顔で応えた。

 これからの5機の増加試作機は、主翼の翼形や翼面積、尾翼の翼形・取付位置がそれぞれに小さく異なりその中で最適な量産機の形が決定するが、増加試作機自身も実戦投入が考慮されている。またまだ


「これからが勝負だ」


 と、河野はつぶやきながらも、着々と進むことにかすかな喜びを感じていた。


いかがだったでしょうか?


工作機械の話は、開戦後も工場が次々とでき、生産量が倍々ゲーム状態で増えていた話を聞いたときに、工作機械はどうしてた?と調べた時に、2つの会社の名が挙がったのですよね。「池貝鐵工所」と「大隈鐵工所」。池貝鐵工所を調べていくと、なんとこの工場が誉エンジンの専用工作機械を作ってたり、四軸自動旋盤を作ってたり…しめた。これは使える…と思ったものの、場所が…愛知まで来てくれるだろうか…と最終手段としておき、大隈鐵工所を調べていくうちに、名古屋だし、国内生産数1位だし…とこちらを採用することにしました。(創業者の出身地は〇〇…はい関係ありません 笑)

しかし主要な工作機械(今回は金属部品製造機械でしたが、電子部品なども)を日本が席巻している姿は、戦前の人の反省に基づいてますよね。ありがたいことです。

99式20ミリ機銃の話は、94式旋回機関砲の国産化ができなかった話で、もう少ししたら海軍が製造を始めるのだから、共同製造すれば良かったのでは?という単純な発想からです。(決して堀様を出したかったからではありません ホントだよ( ´艸`))でもDB601のこともあるから、無理かなぁ~(陸軍機が99式20ミリ機銃を搭載試験した話をどっかで聞いたことがあるから無理ではないかも。あ、松本良男氏の「秘めたる戦記」(個人的には好き)ではないですからね。別の本です)ホ103とマ弾についての話は次話に譲ります。

名古屋航空研究所。本当は昭和18年の発足です。民間主導に重きを置いて3年くらい早く作り、ちょっと風呂敷を広げさせてもらいました。ところがあまり資料が残ってないので、ほとんどはこちらの妄想(理想かもしれません)です。

この存在がなかったら、やっぱり東京大学の航空研究所を柱に研究組織を作ったと思います。飛行機に対する基礎的な研究を続け、長距離記録機「航研機」、高高度実験機「ロ式B型」、高速研究機「研三」など(A-26・キ77にも関わった)の研究機を設計。

ここと企業・軍部が起協力した世界も面白いかもしれません。ただ、東大航空研究所は軍部と距離を置いてるところがあり、アドバイスや基礎研究的なものには応えてはいますが、実戦に直接結びつくことがあまりないのです。その為、研究所と企業・軍部との折衝を行う組織が必要となるでしょうね。


さて、次回はやっと量産・初陣になるはずです。


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ではでは。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 地味では有るが超重要な基礎の積み上げが最高です。 [気になる点] 陸海軍の壁が取っ払えるならばこの日本はもっと良い舵取り出来そうな(苦笑 [一言] って事でこの作品終了後の超大規模時間犯罪…
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