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一式重爆撃機(開発2)〜河野は走り回った〜

いつも拙い作品をお読みいただき、ありがとうございます。


いや~

難産でした。

辻褄を合わすって難しい…

「異世界」に飛んでいきたい思いです( ´艸`)


さて、予定の量産にはちと間に合いませんでしたが、

どうぞお楽しみください。


 

 大丈夫だ、

 心配するな、

 なんとかなる。

             一休宗純


 キ50はアメリカには秘匿する機体番号であり、とりあえず「М12(三菱の昭和12年の機体)」という仮称をつけられ、ボーイング社にもその名が伝えられた。


 1 最大速度 550km/h以上

 2 航続力 通常装備で行動半径2000㎞+余裕2時間

 3 爆弾装備 通常3トン~最大4.5トン(1.5トン爆弾を装備可能)

 4 高高度(7,500m以上)飛行を一時間可能とする

 5 できるだけB17の大きさを基本として、なるべく小さな機体とする

 6 エンジンは社内名「A10」(陸軍名「ハ101」・海軍名「火星」)の過給機を強化し、二速目の全開高度(7200mを予定)を上げたものを利用する


 ことを基本的な構想とした。

 これは陸軍の爆撃機に対する基本的な考えの集約であった。

 すなわち爆撃機がその効果を上げ自己の損害を少なくするためには


 ・速度(戦闘機を振り払う速度)

 ・高高度飛行(戦闘機が到達できない・到達するまでに時間がかかる高度)

 ・武装(追撃した敵機を打ち払う武力)

 ・装甲・防弾(万一敵弾が浴びせられても落とされずに飛べる能力)


という戦闘機に対する優位性をどのようにするかということである。

 特に96式陸攻の登場によって海軍を中心に広がった思想「戦闘機無用論」は陸軍にも影響を与え、敵の戦闘機より速度・高度・武装によって排除できうるというように考えられた。(この後の零戦の20ミリ機銃の搭載や航続力(というより滞空能力)の要求(よく大陸での陸攻への護衛のためと言われているが、海軍が本来重視してたのは空母に対する護衛能力である)や雷電に対する速度の要求などはそれらに対抗するためのものである)

 また、「できるだけ」ということを前提として以下の要望も出されている。


 7 防弾を考慮し、防備のための火器(特に尾部)に配慮する

 8 1,500m以下の滑走路で利・活用できるようにする


 陸軍としては、初体験の外国企業(パートタイムとは言え、影響は受ける)に対する要請であり、まずは最低限、そして追加要求という形で機体への期待を出した。


 場所はボーイング社の近く、シアトルのホテルを一棟借り受け、ボーイング社の社員と三菱の社員が設計台をずらりと並べて仕事を始めた。初期には5名のボーイング社の社員であったが、最大では20名の社員がこの機体に取り組んだ。

 要求を受けてボーイング社の社員は叩き台である初期モデルを10種類出した。以前からの技術を手堅く重視したものから最新の技術をなるべく取り入れた物の中で、三菱(というより陸軍)が採用されたものは、やや新技術を取り入れたプランGであった。A案はほとんどB17の改良案、またJ案はモデル307に採用された与圧室を利用する高高度(10,000m)爆撃機の原型というべきものであり、日本国内で製造できるか…という状況であった。

 このプランGから5種類のデザインが出され、これらの案から最終的に

「ブランG―5」

 が

「М12」

 の基本設計へと移された。このために費やされた期間は3週間。

 その検討・決定に携わった三菱側は

 武田次郎三菱重工業本社営業課長

 と

 河野文彦三菱重工業航空部設計課長

 であった。

 最終的に決定権を持っていたのはこの二人であったのでかなり苦悩を重ねていた。


 デザインが決まった時点で、日本の三菱側は大江工場の片隅で実物大の木製模型を作成した。とりあえず外観のみを突貫工事状態で…


「思った以上にでかいなぁ」

「97式の2倍くらいあるんじゃないか?」

「ホントにこんなのが飛ぶのか?」


 などという意見が大半であった。


 陸軍のお偉いさんは馴染みの河野課長に

「これ大丈夫か?」

 と不安げに尋ねた。河野は

「これでダメならば、日本でもドイツでもできませんよ」

 ドイツ側とののらりくらりとした交渉を思い出したのか、ふっと笑った。

「しかし…」

 不安げな響きに、陸軍航空研究所の職員は耳を傾ける。


「1機や2機はさほど問題が生じないでしょうが、それ以上の量産には不安があります」


「部品の問題か?エンジンの問題か?」


 焦る研究所所員に対して、河野は首を傾けながらこう言う。


「牛や馬がどのくらい必要かと…」


 当時三菱による生産のほぼ全部は名古屋の大江工場であった。われわれ現代の人間にとっては飛行機が組み立てられたらそのまま隣接する飛行場から飛んでいくイメージがあるが、信じられないことに当時名古屋付近には飛行場がなかったのである。(セントレアは2005年、その前の名古屋空港(現名古屋県営空港)は陸軍が小牧飛行場として1942年に作った。その前といえば名古屋仮国際空港という名称で名古屋港埋立地10号地(現在のららぽーと名古屋みなとアクスル付近(行ったことないけれど…))に作られた民間空港があった(戦中に三菱や愛知飛行機が使っていたという話もあり)が、これまた開港は1941年である)

 ではどうするか。岐阜県の各務原空港にわざわざ三菱の大江工場から運び、そこで再度組み立てる。(例の『風立ち〇』でも、その様子は描かれている。牛車が大きすぎるが…)

 距離は50km弱。

 大江工場で作った機体を牛車・馬車・トラックで運ぶのである。(例の『風立ち〇』でも、その様子は描かれている。牛車が大きすぎるが…)

 双発機の場合、1機運ぶのに4頭の牛、2頭の馬、2台のトラックが必要だったと言われている。各務原まで最低24時間。場所によっては人力で台車を運んだ。風が強い時には運べない。丸2日以上かかった時もあったようだ。

「最先端の飛行機をひと昔以上前の」非能率で非合理な方法に頼っていた。


「どうにかなりませんかね?」


「三菱としてはどうしたい?」


「飛行場です。この機体ならばたぶん2,000mくらいの」


「大江のほうに?」


「それが一番ですが、無理ですよ。土地がありません。埋め立てるとしたら10年単位の時間がかかります。上の方は知多の方を考えてます。大府町に組み立て工場と滑走路を。」


「ならば…」


「はい。良かったら…」


 陸軍としては否応もなかった。少しでも早く解消するために、陸軍中央部に掛け合い(けつを叩くとも言う)土地の収得に入った。整地には近隣の町民だけでなく、歩兵・工兵部隊を動員し、また東京都などが持つ数少ない土木機械を借り受けた。

 三菱も地元を中心とした土木会社・建設会社に声をかけた。1年後には整地が終わり、2000メートルの主滑走路とそれに交差する1000メートルの補助滑走路は厚さ50センチのコンクリート舗装がなされた。(その頃海軍はアスファルト舗装で、陸軍はコンクリート舗装をしていた)

 整地が終わった場所に組み立て工場を建設するのだが、双発機以上の大型機の最終工場は四発爆撃機や将来それ以上の大きさの機体を考慮した柱の配置などで現在の目から見ても大きなものとなっていた。生産ラインは4本。(陸軍用2本・海軍用2本)8000台を上回る工作機械が備えつけられ、最大月産120機。またそれとは別に2本のラインを設けることを考えられていた。(うち一本はキ50用と考えていた)社員寮(独身・家族用)や病院・保育園も設置(近くに町営の尋常小学校(国民学校)が設営された)され、将来的には部品工場、エンジン工場を設け、一貫製造を考えていた。そのために用地はかなり広大であり、ボーイング社のシアトル工場を目指して(日本としては広大であるが、アメリカ目線でいうと…)建設を行った。工場内を定期的に路線巡回するバスさえ導入されていた。

 また部品輸送のための専用引込線を設け、大府駅までのおよそ3.5kmをつなぐ。丘陵地帯で傾斜が急の為、2.5kmのスイッチバックを設けた。

 突貫工事に続く突貫工事で、とりあえずの基本工事(飛行場と組み立て整備工場のみ)に20か月、全体の完成までに30か月。

 キ50の試作機組み立てに何とか間に合ったのである。


 話は多少さかのぼる。

 シアトルに派遣された三菱の技師たち(最大50名の時があった)はボーイング社設計士の基本設計を受けて、強度計算と細部設計を中心に行っていた。夕方になるとボーイング社の設計士が訪れて、その日の設計結果に赤線を入れられ再設計を続けていた。三菱の社員の中にはある程度英語を駆使することができるものもいたが、技術的な翻訳の齟齬を防ぐためにボーイング社の設計士に一人ずつ通訳が付いていた。


「あいつ、いつの間に?!」


「やっかみはやめとけ。悲しくなる…」


 と伽陀の涙を流す一部の社員たち。通訳は基本、日本人や日系米人(二世が多かった)の男性がほとんどであったが、中には若い女性も存在していた。社員の中には時間を割きにさいて、そんな女性と仲良くなった者もいた。(結局、アメリカで結婚して日本に連れ帰った)

 そんなエピソードもある。


 設計図は週に一度、複写したものが日本へと送られ、次々と部品として製作された。中には設計の変更もあったが、三菱としてはあまり気にせずに新しい設計から部品を製造した。設計図以外にも、新品・中古にかかわらず工作機械が送られ、特に切り出し用のダイスや切削用のドリル歯など、金属加工刃物部品の数が必要量の数倍届くこととなった。これは大府工場用のものが多かったが、日本でも工作機械の製作会社は数を増やしていたので、どうにか間に合う目安が付いていた。しかし、どちらかと言えば日本製とアメリカ製の違いが「製作刃物」であることを工場関係者は見抜いており、これらの購入に三菱商社は全力を注いでいた。(合金、冶金の歴史が浅いことがそのころの日本の弱さでもある)

 しかし、日本への輸出は次第にアメリカ政府が制限を加えつつあったのがその頃でもある。日中関係の悪化もだが、このままでは日本の生産力が増大し、アメリカの経済的な敵となりえるという恐れである。そこで、三菱がとった手段はボーイング社が購入して日本に渡すという迂回の手段であった。ボーイング社が航空機製造のための機械や部品を購入することは別に問題でも何でもない。余剰(立場的に)のものを売り払うだけである。アメリカ政府はそのからくりにすぐに圧力をかけたが、ボーイング社は三菱との『М12』の契約を盾にしてこの圧力をけることとなる。(法律的には何の問題もない)企業として、最近のアメリカ政府の共産主義への傾倒(組合活動などでの一部社員の貴族化などぞっとする)、武力を背後にした経済圏の拡大(中国に工場を立てられるほど政治が安定していない。それより労働力が安く、一般教育が済んでいる日本に工場を立てて中国に輸出した方がまし。フォードやGМなどはそんな考え方)などは許せないものであった。経済は技術や商品の優位性によって健全に(?)広げていくという考え方であった。それどころか、アメリカの自社・他企業が開発中・開発済みの与圧室、動力銃座や合成ゴムを使った燃料タンクのセルフシーリングの情報なども日本側に流した。


 ボーイング社はパートタイム中の社員にけしかける。


「良い機体を日本に渡せ」


 日本のボーイング社への謝礼は「きん」であった。

 現在の三大国際流通通貨の一つである「円」であるが、戦前の「円」の価値は信じられないほど低かった。(たぶん、ドル・ポンド・マルクなどより低く、5位~6位くらいの位置にあった。そのためか、ドイツとの様々な取引は満州の大豆輸出が担っていたのは有名である)その低い円を支えていたのは、ほとんど知られていないがアメリカの銀行での「金保管」による為替の保証である。どのくらいかは今ではよく分かっていないが新鋭戦艦数隻を含む一個艦隊分だとも言われている。昔も今も「黄金の国ジパング」である。アメリカは日本との開戦に先駆けてアメリカ国内の日本資産をすべて差し押さえ、日本人・日系人の強制収容を行った。(もちろんそれらの人々の財産はすべて没収された。同じ同盟国のドイツ系・イタリア系は野放しであるのに…。「黄禍論(実際には日本人排除)極まれり」)

 そのような「きん」の一部を使うことを日本政府は許可した。このまま日米の関係が悪化すればどうなるのかを知っていたからだ。(在米日本大使館の職員はそのうちどうにかなるだろうと今も昔ものーてんきなものである。外務省めー(# ゜Д゜))ちなみに開戦前に凍結された「金」(開戦に先立って行使されたのは、その半分でも使うと日本の戦争継続力が2年は伸びるだろうと恐れたため)は、戦後そのままアメリカの国庫に入っている。よく「アメリカは賠償金を求めなかった」などという意見を見るが、実際には没収した日本国家と企業・個人の資産はほぼ返されていない。(日系人の強制収容さえ、戦後30年以上たってから公開・保障のテーブルに着いた)442部隊などの日系人部隊の決死的働きは、戦後解放された日系人の地位回復にはほとんど価値がなかった。なにせアメリカ政府としては都合が悪かったからである。解放された日系人が荒野から開拓した自分の家と畑に行ったら、既に別人(白人)が住んでいて呆然としたという。アメリカめー(# ゜Д゜)

 対して日本はアメリカ企業などの資産こそ凍結・制限されたが、一切没収していない。陸軍・海軍の圧力もあったようだが(工場自体もそうだが、その技術など)日本政府は一切耳を貸していない。それどころか生産などで利益を上げ工場を拡張し、株の配当やパテント料などをきちんと払うために貯めていた企業も多かった。



「なるほどね。こんなふうに処理するのかぁ」


 12試陸攻に取り組む傍ら、本庄はアメリカからの荷物が届くたびにいそいそと訪ねていった。


「面白いですか?」


 係の何気ない一言に、


「面白いというより細部へのこだわり方の違いかな?」

「ほら、ここここ」


 と、主脚の電動機を指さす。


「このモーター、かなりでかいんだよね。いやパワーの割には小さいか…たぶんうちがしたらこの半分以下で大丈夫、というかそんなパワーは本来必要ないんだ」


「へぇ~」


「たぶん5~10秒で上げ下げできるのだから、焼き切れない時間で大電流を流せばいいって考えているんだろうね。うちならば一時間回しっぱなしでも焼き切れないのを使うよ。それか手堅く油圧にするだろうね」


 部品製造に関して、日本では手に入りにくいものはアメリカ駐在員に頼んだ。これら機体用の電線製造やバネ製造(正確にはピアノ線など)の冶金・焼き入れ加工のための機器などはその代表的なものであった。1か月後に次々と製造機械と大量の素材が届いた。


 木製模型に続いて0号機(強度確認用)が製造され、その結果はまたアメリカへと送られた。改善された設計図がその度に送られてくる。3週間くらいの間は開くが、三菱としては手すきの設計士やベテラン職工の協力があって、思った以上にスムーズに進んだ。

 そして4か月後(最初期から渡米した社員は5か月後)、アメリカで残務処理をしている社員以外は、その作業を終わり帰国した。苦労を共にした日米の技術者たちは肩を叩きあって喜んだ。


「これかぁ~」


 出迎えたのは、2度目に新造された実物大木製模型と0号機であった。


「うまく収まっているな」


「そりゃ、そんなふうに作ったんだから」


 幾つかの部品は本物が使われている。図面通りだから、そこの部分に収まるのは当然であると普通は考えるが、あまりにきっちりなので部品が入らなかったり動作部分の動きを十分に考えていなかったりと手作業に近い改修を行う必要があった。


「1年後には飛ばす」


 河野設計課長は言い切った。


「ここまでできているのだから、あとは細部の設計をしていくだけだ」


「課長、その細部が難しいのでは?」


「それに、今までとは違う工作方法や新機材もあります。他社に協力をお願いするだけでもかなりの手間です」


「浦島太郎か?日本で始められるものはすでに始めてる。住金(住友金属工業、零戦の超々ジュラルミンで有名)との協力も取り付けている。君たちは図面を完成させればいい。細事は他のものに任せろ。完成は1年後、大府の工場の最初の一機になる」


 こうして「A12」は「キ50」として準備を始めた。



 キ50の全体的なデザインはB17とは似ておらず、のちのB29の小型版とも捉えられ、もしくはドイツのHe 277を単尾翼にしたものと言う人もいる。(尾翼はモデル307を参考にしている)

 機体は全金属モノコック。全体的に厚板構造を取り入れ工作数の減少、翼表面の平滑化を狙っていた。

 胴体はほぼ円形で、爆弾倉後部より尾部銃座に向けてなだらかに絞り込む。主脚は機体重量を支えられるようにダブルタイヤとして胴体内に完全に収まる。機種部は上方にやや膨らんでいて、乗員のほとんどを機種部に集中する。また操縦席をプロペラの前方に置きプロペラによる側方視界を遮らないようとした。武装は機首機銃以外、電動の動力銃座としその頃アメリカの主流となりつつあるCal.50 AN/M2二連装を考慮していた。動力銃座は胴体上部に二基、下部に一基、尾部に一基設けられている。(機首銃座もCal.50 AN/M2を考慮されている)

 主翼は内側エンジンのナセルにシングルタイヤの側脚を完全に納められるようにした。高い揚力を持たせ抗力を小さくすることを目標に、翼形は高高度で薄い空気をうまくとらえられるように高アスペクト比で細長く、2段の上反角を持ちやや 緩いテーパーを持った中央翼と緩めのテーパーを 持った翼端部分から成っていた。(グライダーの翼形を考えるとよく分かる。He 177・He 277の翼形に似ている)外側のエンジンナセルの傍から外翼が始まるが、生産にも配慮したもとなっていた。翼断面も前方に厚めのものを使い、高高度飛行性・高速飛行性を主としたバランスの取れたものが採用されている。



「きれいだよなぁ」


 と、見学に訪れた堀越(零戦設計者)と久保(100式司偵設計者・堀越の後輩)は感嘆を上げた。

 堀越はこのようなダブルテーパー(緩い上方への逆ガルを考えるといい)翼をできれは自分の機体に採用したい(9試艦戦の試作機は逆ガル、烈風は緩いダブルテーパー)というくらい好みであった。


「これ、できたらうちのなんかいらないのでは?」


 と久保が疑問を呈する。(後年、この機体を護衛するためのキ83を設計する羽目に陥るとは思わずに…)


「さすがにそれはないだろう。使える飛行場が少なすぎるし」


 と堀越は苦笑いを浮かべ、ぽつりと、


「しかし、世界は遠いなぁ。追いついたと思ったら、突き放されている」


 そうつぶやいた。



 四つのエンジンナセルは余裕をもっており、将来ターボ過給機・中間冷却器を搭載することも考えられていた。また動力銃座等の電力のため、エンジン自体に付いている発電機とともに、内側エンジンそれぞれに発電機を設けられていた。プロペラは高空を飛ぶために直径を最大限大きくし、幅広のブレードを採用した。(ハミルトン系)

 乗員は主操縦員・副操縦員・機内動力員・航法員・爆撃員・機関銃手(機長が主操縦員を兼任しない場合は機長席が設けられている)が機首に集中配備され、爆弾倉の前部隔壁に防弾の装甲板が設置されている。この防弾装甲板は機体構造の一部となっている。爆弾倉はB17と同様、機体上部に爆弾の大きさ・種類毎に設置されるラックをウィンチで吊り下げて搭載する形になっていた。また爆弾倉には増槽をつけることができる。

 後部隔壁の後ろには、機銃手3名分の席が設けられ、トイレ・ギャレー(湯沸かし程度)・簡易ベッドも設置されている。なお、爆弾倉には取り外し式の通路板があり、前部席と後部席との行き来ができる。


 諸元は次の通り。(カッコ内はB17G)

 •全長:22.93 m (22.8m)

 •全幅:33.24 m (31.64m)

 •全高:7.20 m(5.82m)

 •主翼面積:142.00㎡ (131.92m2)

 •プロペラ:定速4枚・直径:4.00 m(定速3枚・直径:3.53m)

 •自重量:17.8t(16.3t)


 設計のメートル化、それに伴う部品などの製造などで1年の約束は果たせなかったが、キ50は三菱航空機知多工場(正確には建設が一番進んでいた整備工場(現在の東海市立富木島小学校の敷地にほぼ一致)で組み立てられた)の一番機として飛び立ったのである。


いかがだったでしょうか?

今回の難産の理由は、工場です。

というか、飛行場ですね。


 どこで試作機飛ばそう…え?戦前って名古屋に飛行場ないの?(知ってたけど…)じゃあどこ?

ということで「知多工場」を5年前倒しで作ってしまいました。

 いや「知多工場」のことは何となく耳にしてました。戦後すぐに地元の人を飛行機に乗せて周回飛行した…というエピソードがあって、どこのこと?ってことで調べていたのですよね。なんとも面白い話だなぁ~などとのんきに考えてました。改めて調べたのですが、三菱って、なんであの埋め立て地に航空関係の主力工場を置きっぱなしなんでしょう??現在でも…です。開発はそこでもいいけれど、製造は別に作れよ!と突っ込みたい思いです。知多工場を作るために地元のほぼボランティアと朝鮮半島人(他意はない)の工夫がめちゃくちゃ頑張ってます。戦後すぐに地元民を乗せて周回飛行した三菱社員の思いは(どう考えても逸脱してるけれど)わかります。


 「牛で零戦を運んでいた」話は、堀越様の名著『零戦』にも出てますが、私が初めて知ったのは『ホモ・ウォラント』(┌(^ p ^)┐ホモォではありません)という漫画です。(いったいどのくらいの人が知っているのか…知ってる人はジーサン♬イエーイ(*´∀`)人(´∀`*)ナカーマ♬)タイムトラベラーの主人公が飛行機の歴史を見ていくという内容ですが、その中の「ゼロ戦その2」の表紙で夜中に牛車に載せられた分解状態の零戦が運ばれている姿があります。(現在kindleで購入可、ステキな時代になりました)

 「きん」の話は飛行機以外の資料で知ったものです。「半分も使われたら、負けてしまう」と、開戦以前に封印したという話ですが、実際、これ自体が既に開戦宣告なんですよ。アメリカ側からの。よくアメリカは「開戦宣告以前に日本は攻撃した」とか宣ってますが、それに先立ってこれをしているという点で…ハルノートより、こっちの方が重大だと考えのは私だけでしょうか?(アメリカのエロい人、ぜひ教えてください)

脚のモーターの話はB17か、B29を調査した日本側技術者が書いていたものを利用しました。どこで読んだのか忘れた(老人性痴ほう症 笑)のですが、アメリカの技術的割り切りにビックリするなり感心するなりしたそうです。

 キ50のデザインイメージは 

 ( ミニB29 + He 277 ) ÷ 2

あたりを考えました。ちなみに諸元は連山を基本に全幅(つまり翼の長さ)を長めにしてます。He 277を基本にしようかと考えましたが、翼が長すぎます。(全幅が全長の倍近い)だから、B29の比率を加味してます。

唐突に久保様が出てますが、この人の100式司偵やキ83、個人的にスタイルが大好きです。特に側面やや上から見た姿が…タマラン(つд`)=зハァ…

(どっかで使えないかと、いつも考えてます。F7Fみたいに双発艦上戦闘機とか…信濃に載せたいなぁ…)


 次回は、量産とそれに伴うエピソード的な話を二~四つ入れ込みたいと思ってます。


 ではでは。。。


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