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一式重爆撃機(開発1)〜本庄は激怒した〜

またのご訪問ありがとうございます。

はじめましての方もありがとうございます。


PV累計  10,157

ユニーク累計 3,462人


このような拙い文章を楽しんで頂きありがとうございます。


 前回・前々回のネタは実際にその「ブツ」があり、その後の改装ジープやカブの使われ方等歴史上の納得(?)もあり得ることだと無理がない改変(??)を行っているのですが、今回のネタは完全に妄想の作品です。

 ただ、ちゃんとこのような世界になり得ることがあったのです。詳しくはあとがきに書きます。


 では、お楽しみください。


 

『本庄は激怒した。かの無知蒙昧の海軍を取り除かねばと決意した』


 というパロを考えていたが、「走れメロス」は昭和15年の発表であり、無理かぁ~とお皿を洗いながらつぶやいてしまった(笑

 使ったけど…


 ◇          ◇


 船を造りたいのなら、

 男どもを森に集めたり、仕事を割り振って命令したりする必要はない。

 代わりに、彼らに広大で無限な海の存在を説けばいい。

                   サン・テグジュペリ




 陸軍最大の飛行機って何?

 などというクイズを出して正解する人が何パーセントいるだろうか。

 正解は

『92式重爆撃機』

 である。

 なんとB29よりも大きい。

 そんなの知らない

 という人は、ジブ〇の『風立ち〇』(歴史好きな人は見ていることが多いだろう)を思い出すと良い。ドイツで主人公の堀越さんと親友(正確には東大の先輩)の本庄さんが見学した大型機である。名を

 ユンカース G.38(K.51)

 という。ユンカースの全翼機構想を取り入れた設計(三面図を見るとよく分かるだろう。ほぼほぼ主翼である)であり、なおかつかなり厚い翼型を採用しており、取り付け部の翼には乗客席もあり、発動機の調子を直接整えるために中を人間が歩けるほどであった。(翼の中を歩くシーンは『風立ち〇』にも再現されている。そこまでやるか?さすがパヤオ!この機体がよっぽど好きなんだなぁ…という初見の感想。実際、同監督の『未来少年コナ〇』・『風の谷のナウシ〇』に出ている大型機は、この機体とMe323ギガント輸送機をモチーフにしているはず。また、「宮崎駿の雑想ノート」に架空の航空機としてユンカース G.38(K.51)を購入したボストニア王国WP-30重空中戦艦を登場させている)


 当時の日本陸軍は大搭載量と長距離飛行ができる大型機を最初から国産できるはずはないと考えて、三菱にこの機体(本来は旅客機、ドイツ人嘘つかない)の爆撃撃機型であるK.51をライセンス生産を命じ、九二式重爆撃機として採用したのである。

 さて、日本陸軍の爆撃機への本来の考え方は、速度重視である。爆弾搭載量や航続距離(アメリカ軍の双発爆撃・攻撃機と同等ではあるが)を多少犠牲にしてでも、敵の迎撃機を振り切る速度を持つことが第一である。航続距離は陸伝いであるので戦線付近に基地を近づければいい。爆弾は何度も出撃すれば済むことで、敵の航空基地や後方の物資集積場、前線であれば野砲陣地を叩くことが目的であるから小型爆弾を多数ばらまくようにする。(大型爆弾を前線に運べない兵站能力の不備の側面もある)アメリカの重爆よりも爆弾搭載量が半分くらいなのはそのような理由だ。97式重爆・100式重爆・4式重爆などの主たる系統である。

 とすると、先ほどの92式重爆は本来の思想とはかなり外れたものであるのが分かろう。陸軍がこの爆撃機に求めていたのは、シベリア対策と主にフィリピン対策であった。

 大陸を主戦場と考え、対ソ連戦を念頭にするとシベリア鉄道は邪魔である。ソ連の兵站のほとんどはシベリア鉄道を利用する。その鉄道を寸断し、遠くチタやハバロフスクなどの兵站収集地である都市部を攻撃するには、双発の近距離爆撃機では航続力不足であった。(海軍の陸上攻撃機部隊に協力を要請し、借り受ける計画もあった)ちなみに終戦間際の満州進行に際し、ソ連軍はシベリア鉄道が日本軍から攻撃を受け、その能力が低下することを懸念し、

「お鉄道がなければおトラックを使えばいいじゃない」

とばかり、各方面から大量のトラックで兵站を支えた。

 そしてこの機の主目的はフィリピンである。日本陸軍は仮想敵国の一つとしてアメリカを取り上げていたが、その頃、日本に一番近いアメリカ軍駐留地はフィリピンにあった。(ハワイは基地としてまだ十分に整備されていなかった)島であるので上陸作戦を考え、上陸戦用の機材(小発・大発・神州丸など、中国戦線でも必要なものと考えられていた)を揃え、またその時に上陸支援として航空戦力を台湾から飛ばすこととなっていた。ただ、航続距離が短い陸軍の重爆ではルソン島の北半分くらいしかエアカバーできなかった。(戦闘機は…聞こえない、(∩゜д゜)アーアー)フィリピンに侵攻する際に陸軍が最大の障害と考えていたのはルソン島の南部、マニラ湾の入り口に位置するコレヒドール島要塞である。米ス戦争によってフィリピンを占領したアメリカ軍はスペイン統治下に要塞が築かれたこの島の価値をよく知っており、20~30センチクラスの大砲を多数備えて当時としては近代的な要塞を築き上げた。(ちなみに使われたコンクリートは浅野セメント製)前記のようにマニラ湾をふさぐ形で位置するこの要塞は戦艦クラスでないと攻略が難しいものとされていた。しかもかなりの被害覚悟で。日本海軍としては日米の戦端が開かれた場合、押し寄せる米艦隊をマリアナ沖で迎撃する構想であるので、戦艦を一隻たりとも派遣することはできない。

 ならば陸軍が戦艦を建造・運営する?

 日本陸軍はアメリカ軍基地を台湾から長距離爆撃できる機体を考えた。台湾南部の航空基地よりコレヒドール要塞に飛び、1トン爆弾(構想だけ)を浴びせ帰り着く。そのための航続距離であり、搭載量だった。

 そのために用意された92式重爆であったが、できたのはいいけれどその時には既に旧式な飛行機(この30年代は日々飛行機の技術が進んでいたため)で、配備された時点で速度が遅く運動性能が低いために陸軍としても初期計画の6機を完成させた時点で興味を失っていた。また陸軍が秘密にしておきたかったために

「幻の飛行機」

扱い。そして活躍の時は訪れず、

『秘密兵器は秘密のまま、いつの間にか消えていった』

という言葉が似つかわしい兵器なのであった。



「うちが受けたんですか?」


「とりあえず、うちには経験がある」


「しかし、よりにもよって…」


「金を出すのが正義なんだよ」


 92式重爆の後継機として陸軍より三菱に発注があったのは97重爆が正式採用された12年のことであった。三菱と中島の競作となった今回の重爆撃機試作であるが、三菱の機体が採用されたものの、陸軍からの要望でエンジンを中島製のものにしたり、外見を中島の機体に寄せたり…と三菱としては再設計するしかなく量産体制の遅れを生ずるなど忸怩たる思いであった。(その後の満州事変以降に伴う爆撃機の量産が遅れ更新に遅れが生じ「イ号爆撃機」をイタリアより大量に購入する羽目になった。イ号爆撃機は外観はそこそこ新しいものの性能的には前時代的で故障が頻発する割に交換部品が少なく、97式重爆の量産が始まるとすぐに姿を消す)陸軍としては両社に仕事を振り分けることでそれぞれに恩を着せようとする小狡い思想でしかなく、三菱・中島両社に気持ちの負担を強いる結果となった。

「いじめる側はすぐに忘れるが、いじめられる側は死ぬまで忘れない」

そんな言葉がよくわかる事例である。

 陸軍も悪いと思ったのか、中島飛行機には次期の双発重爆を一社独占で割り当てた。(三菱側が断ったこともあるが、後の「100式重爆・呑龍」がそれだ)そして三菱には92式4発重爆後続機の開発を命じた。しかも92式重爆と同じく外国の飛行機をもとに。




「私にやらせてください」


本庄季郎は設計部部長に必死に食い下がった。


「国産でできます。間違いなく」


設計課長は椅子に座ったまま腕を組み


「いや君には12試があるだろう?」


正論である。

 後に一式陸攻となる機体の海軍とのやり取りの中でやっと基本構想ができあがりその設計を始めたばかりであった。


「アレをもとに4発にするだけのことです。拡大版と考えれば、十分に対応できます」


12試陸上攻撃機の海軍側からの要望に、本庄は4発案をたびたび提案していた。しかし海軍はこれに耳をかさなかった。


「おいおい、既にお偉いさんが三菱商社のつてを使って渡米している。陸軍もその意向だ」


「じゃあ、私も渡米します。いいでしょ?」


「馬鹿か君は。12試はどうする?」


部長は声を荒げた。本庄は本気だ、机にかじりつく。


「アメリカでも、船の中でも図面は引けます」


「おいおい設計部の半数を連れて行く気か?あきれたやつだな、何人になると思ってる?それに兼任の者はどうする?」


無理を言っていることは本庄もわかっていた。しかし納得できないでいるのだ。


「よし、こうしよう。とりあえず日本に送られた図面はすべて君にも見せる。優先的にだ。それで手を打て」


この機体にかかわる主要な人物は渡米する。とすれば、日本で真っ先に見る機会を与えられたわけである。ここが落としどころか…そう本庄は腹を収めた。


 その頃、渡米した三菱重工の重役と仲介に当たった三菱商会、そして日本陸軍と日本大使館のお歴々が訪ねたのは、ボーイング社であった。


「それでは、時間外に仕事を頼んでも大丈夫だと?」


「時間外ならば、我が社には無関係です。仕事を終えた後や、休みの日に社員が何をしてたとしてもボーイング社としてはプライベートに口をはさむことはありません。文句を言うのはワイフや子供たちでしょう」


とにこやかな対応を見せた。


「ただ、彼らの仕事ぶりや機体の出来上がりなどを我が社に文句を言われても困ります」


 その頃のボーイング社は民間機の競争ではモデル247がダグラス社のDC―2、DC―3に大差をつけられ、また挽回を狙って自主制作したモデル299は何とかアメリカ陸軍に採用されB―17と名付けられたがあまりに高価であったため予算の関係から少数の要求に終わっていたので、かなり苦しい経営状態にあった。その頃ボーイング社が開発していたのは世界で最初に与圧室を装備したモデル307や少数の試験的な爆撃機、そんな中で日本からの提案である。渡りに船。自社の社員に仕事を与えることができる。しかもボーイング社としては社員の紹介料だけでなく、部品を調達するだけで差額が得られる。そしてB―17から数年経つ中で新しい技術・理論なども出ている。それを自社の資金ではなく日本の資金でそれを試すことができる。ボーイング社としては「益」しかない。

 三菱側としては、Bー17に興味を持っていた。その航続力と爆弾搭載能力、強靭な機体。もしもボーイングが米軍ではなく日本軍に提案しても採用されただろうと思われる。ただ、三菱としては将来のことを考え単なる完成品を求めるのではなく、機体への要求を出すことができ、設計に最初から携わることもできる。こと大型機の経験が少ない中で大型機に慣れているボーイング社の手法などを学ぶこともできる。しかも最新の技術・理論である。4発機の設計など経験がない中では国産化はあまりに危険である。本庄が言うようにできないことはないだろう。本庄は天才ではないだろうが、秀才であり、貪欲であり、努力の人であり、そしてチームとしての設計陣をうまくまとめることができる人物である。しかし陸軍としては、会社としてはボーイング社を選んだ。それなりに金銭を使うが、三菱にとっても「益」が多い。

 ではアメリカ政府はどうか。他の大手の航空機会社に対してボーイング社が劣勢になっていることは分かっている。放置することはアメリカ西部の「票田」を失うことにつながりかねない。但し軍需費を増やすことは議会対策上できない。いわゆるニューディール政策は、政府が宣伝するほどには経済的には広がりを見せていなかった。大恐慌以来の経済的な復活はニューディール政策とは無関係とまでは言わないが、投入されたドルと比較すればさほど効果を上げていなかった。(結局第二次大戦にアメリカが参加以前に戦時物資を渡したり、直接介入したがったりすることに繋がっていく)どちらかと言えば、他国との貿易が回復・拡大したことによる効果の方がまだましである。

アメリカは飢えていた。

 また、その頃の日米関係はそれなりに良好であった。アメリカの経済が立てなおるにつれて日本との輸出入が増加、様々なアメリカ企業が日本進出に意欲を燃やしていた。(日米関係がおかしくなった原因の一つに、ルーズベルト大統領の個人的な幼少期の中国暮らしと蒋介石(正確にはロビー活動を続ける夫人の宋美齢)とのつながりを上げる意見も多い。戦後の中国の共産党支配や東西冷戦の引き金となったとするアメリカの歴史学者もいる。曰く「日本との戦争は間違った戦争であった」と)

 アメリカとの武器取引に関して、正式採用されたものは議会の承認を得なければならない。(これは現在も同じで、ロッキードのF-22が海外輸出できない理由である)ただし、正式採用されていないものは民間のものほどではないが機密のもの以外はかなり自由で、政府の許可のみが必要である。(ノースロップのYF-23はこれら機密情報をたてにどこからも要求されていないが、要求されても困る)そしてすでに日本だけでなく様々な前例がある。米政府としては完成品を渡すのではなく「図面のみ」のものであり、種々な部品や工作機械などを別個に購入する(つまりは日本からの金銭のバラマキであるが、米政府はうまくコントロールできる、票につながると思っていた)こととなっている今回の計画を渋る必要はなかった。



 そう、今回の計画は以下のようなものである。


 1 ボーイング社の設計者を複数パートタイムジョブとして雇い、日本側の設計者とともに機体の設計に携わる。

 2 出来上がった図面はすべて三菱側のものとし、製造権も同様。

 3 設計図は週に一度、複写したものを船にて日本に送る。

 4 日本に送られた図面をもとに、実物大の木製模型(形状や視界、機内配置機器等の確認のため)と0号機(強度確認のため)、試作機のための部品作りを同時進行で行う。

 5 アメリカで必要かつ調達可能な部品・機器・工作機械はこれを最大限購入する。

 6 期間は3ヶ月~最大5か月を考える。

 7 設計・滞在費・渡航費・部品・機器・工作機械等の経費は、15万ドルを基本と考え、20万ドルを上限とする。



 かくして

 キ50

 はその歩みを始めた。



いかがだったでしょうか?


実はこの元ネタは、「丸メカニック 一式陸攻」(ジーさん 笑)の巻末にあったコラム記事からのものです。三菱がボーイング社の設計士を時間外で雇い入れて設計図を引かせようとした計画があったのです。けっこう交渉はうまくいっていたのですが、立ち消えになりました。たぶん他の会社のロビー活動の影響を受けた議員辺りからの突っ込みとか、盧溝橋事件からのアメリカ政府の圧力とか、裏ではいろいろあったのでしょうね。実現してたらどんな機体になっていたろうか?と、妄想が捗って仕方がなかった思ひ出…。

 海軍機ではなく、陸軍機にしたのは92式重爆の後継機を考えたかったからです。ちょうどその頃、ドイツユンカース社のJu 90を爆撃機に設計し直して(それこそJu 89ではないかい 思わず関西弁が出てしまった 笑)国産化しようという計画があったのです。まぁ、設計自体が30年中ごろまでの中途半端な感じで航続力がかなり不足してますし実現しても、だいぶ改設計しなけりゃならなかったでしょうね。ちなみに三菱はその後、フォッケウルフ社のFw 200にも手を伸ばし、5機の注文を行ったのですが、購入計画はキャンセルされました。こちらも実現したとしても元々が民間輸送機であるので機体構造が弱く、防御力もないに等しいので太平洋方面で活躍するとは思えない機体でした。

 本庄さんとか本庄さんとか本庄さん、の存在が頭にあったからではありません。(絶対に十二試陸攻を放り投げて「俺にやらせろ」と言い出したはず)ちなみに私が本庄さんのことを知ったのは「人力飛行機」のテレビ番組でした。(しみじみ…)


 さて『キ50』という機体ですが、本来はキ49(100式重爆)との競作機として三菱に割り振られた機体番号です。三菱はその頃97重爆改善のために忙しく断ったのですが、改めてキ50は陸軍航空技術研究所から航続力を重視した(計画通りならば、行動半径が3,500 km + 余裕2時間、8000㎞を超えることを考えていた)遠距離爆撃機を作ることを要請されました。もちろん計画は立ち消えになったのですが、この「三菱」+「遠距離爆撃機」というキ50は結構当てはまっているのでは?年度的にもぴったりだし。( ´艸`)

ちなみに先ほどのユンカース社からの購入・改設計が検討されていたJu 90こそがキ50(キ90という説もあり)であるという説もあります。こっちの方が92式爆撃機の後続としてふさわしいかもしれませんが、これもユンカース社から忙しいと断られました( ノД`)シクシク…。やっぱり国産でできるものは国産しないと立場が弱いですね。(FXとか)


 ここで15万ドルの話が出てますが、深山の元となったダグラス DC-4Eの輸入価格が10万ドル(製造権を含むのかどうなのかは分かりません)だったという記憶がありまして、それを踏まえてます。


 さて次回は、キ50の試作・量産体制の話になる予定です。

 かなり難産になってますが、なんとか水曜日には間に合うようにします。



 ではでは。


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― 新着の感想 ―
[良い点] >正解する人が何パーセントいるだろうか。 正解しましたw 雑草ノートで初めて知ったんですがね。 あの飛行機終戦時に所沢で現存してたそうで、 他の諸々と一緒にスクラップにしちゃったんだろうな…
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