歌占
その日は一晩を小町の邸で過ごして、季姫は翌朝、後宮に戻った。予定より早い戻りに、三条からは、期待を込めた様子で定国に会った結果を聞かれたが、定国が何も話してくれなかったことと、もう少し調べたい旨を伝えた。
三条は、すぐには納得しなかったものの、確証を得たら報告するという季姫の言葉に、最終的には頷き、事件のことではなく、日常の仕事を指示すると、高子の元へ向かった。
一日の仕事を終え、季姫はぼんやりと鏡を見つめる。少将が小町の元へと通うために使われるものだが、普通に鏡としても使っているものだ。
――季姫は、実の両親のこと、知りたくなった?
少将が、檜扇から現れる。
「これだけ、いろんな人に言われると、気になりますね」
――小町殿も、何か知ってそうだったね
元はといえば、独り身で恋人もなかった麻名子に、まだ赤子であった季姫を預けたのは、小町であったという。小町自身は、季姫に何も言わないが、いつ頃であったか、麻名子が産みの母でないことを知った季姫は、どうして自分を育ててくれたのか、麻名子に尋ねたことがあるのだ。「小町叔母様に、頼まれたからよ」そう言って軽やかに笑った母の顔を、季姫は、今でも鮮明に思い出すことができた。
「多分、そうだと思います。でも、お祖母様は何も仰ってくださいませんでした」
――世の中、知らない方がいいこともあるからね
「でも、もし私が知らなければいけない時がきたら、お祖母様もお話くださると思います」
小町と暮らした間、季姫は様々な質問を投げかけた。和歌のこと、内裏や後宮の暮らし……しかし小町は、その時々で、季姫が本当に必要とすることしか、話さなかった。
和歌については、幼い頃から厳しく教えられた。
しかし後宮や内裏のことは……物語を読んで憧れを持った幼い頃の季姫は、かつて後宮にいたという小町に、あれこれと尋ねた。物語に書かれたことは本当なのか、実際はどんな暮らしで、どれだけ煌びやかで美しい場所であったのか……しかし、どれだけ尋ねても、決して話そうとはしなかったのだ。しかし、季姫の元に、女房仕えの話が来た時、それが一変した。もちろん、裳着を終えた季姫が、幼い憧れを抱くだけの少女ではなくなっていたこともあるだろう。しかし小町は、今まで語ることのなかった後宮での暮らしや出来事、果ては自身が後宮を追われることとなった話まで、余すこと無く、季姫に伝えた。それは今、季姫がこうして後宮で働くにあたり、大きな力となっている。
だから季姫は、今は駄目でも、きっといつか小町が、実の父母について話す時が来ると、確信している。
――そうだね。それにしても……まさかあの子が、定省が君の出生を気にするなんてね
元は仁明帝の一部である少将にとって、定省王は孫に当たる。見た目だけなら、三十をいくつか過ぎた公達の表情に、孫を慈しむ祖父の顔が現れる。
「始めは、どういう風の吹き回しかと思いました。私の動きを怪しんでいたから、警戒して調べるうちに、興味が沸いたのかと」
――でも、違った?
「今上と、密かに益殿の事件についてお話されていたとき、何故か、私の話になって……顔がどうとか、生まれがどうとか」
――定省には、心当たりでもあるのかな。それでわざわざ……
しかし、今の季姫にそれを確かめる術はない。
「王侍従殿は、興味本位で、軽々しく個人の事情に介入する御方ではないと、お見受けしました。そんな暇人には見えませんから。かといって、これ以上あの方に、変に興味を持たれたくはないんですよね……若狭にも、変な誤解されたくないし」
――だから、彼女のことは大丈夫だって
「いっそのこと、占ってみようかな」
――ここで?小町殿の邸か、せいぜい枝良殿の邸でしか、やったことないよね。内裏だけど、大丈夫?
「一応、内教坊にいた頃には……それに、お祖母様のご様子では、反対されると思いますし。失敗して元々です」
――そこまで言うなら……でも、僕は一応止めたからね
墨を擦り、料紙を左手に持つ。右手で筆をとると、しばらく悩んだ末に、一首の和歌を書き付けた。
たらちねの おやのみなもと しらしめせ ふぢたちばなか のはなさへしる
(垂乳根の 親の源 知らしめせ 藤橘か 野花さへ知る)
「こんな感じでしょうか」
季姫は、恐る恐る料紙を少将に見せる。これから季姫が行おうとする歌占は、歌の出来次第で、その効果が異なるのだ。
――小町殿なら、厳しく言うだろうけど……まあ、いいんじゃない。歌の意味としては、どうか、実の両親のことを教えてください、自分が藤か橘なのか、それとも野に咲く花でさえ、自分が何者か知ってるというのに……ってところかな?源、藤原、橘、小野の四つの姓が入ってるしね。やってみる価値はあると思うよ?
少将の言葉に、季姫は胸をなで下ろした。
少将の生前、仁明帝自身の歌はさほど伝わっていないものの、その周囲には小町を始め、和歌の名手が集まっていた。だから、少将の和歌に対する審美眼は、厳しく、信頼できる。その少将が悪くないというのだから、平均以上の出来だと言えるのだ。
「そうですね。試してみなければ、わかりませんよね」
日が落ちてから、一刻ほど後に、月が出た。立待の月である。
妓女の装束に着替えた季姫は、やや欠けを見せ始めた月の明かりを頼りに、水を張った角盥を持って、外を歩いた。宣耀殿から北へ向かい、西に曲がって貞観殿の近くを通る。主のいない登華殿の辺りまで来ると、周囲に、人の気配を全く感じない。
少し開けた場所を見つけ、中央に角盥を置く。
懐から歌を書き付けた料紙を取り出し、角盥の水に沈める。
そこから、何歩か下がって距離を取った。
十分な距離ができたところで、季姫は、月に向かって手を合わせる。
そうして、右手に持った舞楽用に誂えた檜扇を広げると、頭上に掲げて舞を舞い始めた。
いつしか、深草少将が現れ、季姫にしか聞こえない音色の笛を吹く。
季姫の舞と少将の笛は、徐々に速度を増していき、その動きが激しくなる。そうして、これ以上は速度が上がらない限界に達すると、舞と笛の両方が、同時にぴたりと止まる。
その瞬間、角盥が割れて水が溢れ、大きな光が発せられた。光は、何かに弾かれるようにして、季姫に降り注ぐ。光に撃たれた季姫はその場に倒れ、そのまま意識を失った。




