覚醒
意識を取り戻した季姫が目を開けると、燈台の灯に照らされて、ぼんやりと公達の姿が浮かび上がる。深草少将かと思い、声を掛ける。
「少将様……?」
「気が付いたか」
返ってきた声は、定省王のものであった。季姫は、燈台の灯を頼りに、自身の身なりを確認する。妓女の装束はそのままに、畳の上に寝かせられ、衾が掛けられていた。
「王侍従殿?ここは……」
「承香殿だ。今宵は、宿直なのでな。お前、無理はするな」
起き上がろうとする季姫を、定省王が制止する。
「申し訳ありません。私は確か……」
「襲芳舎の近くに、倒れていたのだぞ。そんな形で、一体何をしていたのだ、山井」
「そ、それは……その……あ、料紙は、近くに料紙はありませんでしたか」
定省王の問いに、季姫はどう答えるべきか迷い、言葉を失う。自分が何をしていたのか思い出し、舞い終えた後の記憶が一切ないことに気付いた季姫は、慌てて起き上がると、料紙の行方を心配した。
定省王は呆れた様子で、水に濡れた形跡の残る一枚の料紙を、季姫に差し出した。
「料紙?これのことか。何やら、水浸しになった辺りに落ちていたが……」
「ありがとうございます」
料紙を受け取った季姫は、燈台の灯に近付く。書いた和歌のほとんどは、墨が水に溶けて消えていたが、ところどころ、文字が残っている。
ち しら ふぢ は
料紙に残された文字に、季姫は、占いが成功したのか失敗したのか、却って判断を迷うこととなった。今まで、あんな風に、角盥から発せれられた光が、自分に襲いかかってくることなど、無かったのだ。
光はいつも、三日月だろうと満月だろうと、空に浮かぶ月に消える。今日くらい、はっきりと月が出ていれば、例え満月でなくとも、光は月に向かうはずであった。
結果だけ見れば、歌に読み込んだ「みなもと」「たちばな」「の」 の文字は、それぞれ消えており、「ふぢ」だけが残っている。つまり自分は、源、橘、小野ではなく、また養父の枝良とも関わりなく、間違いなく藤原の血をひいていることになる。
そして、それ以外に残った四つの文字「ち」「し」「ら」「は」についても、おそらくは、自身の出生に関わることであろうと、想像できる。
しかし今回、光は月に届かず、自分自身に戻ってきてしまった。これが何を意味するのか、今の季姫には検討のつけようがない。
「そろそろ、質問に答えろ。それは何だ」
料紙を見つめたまま、その意味を考える季姫に、定省王が声を掛ける。季姫は、助けてもらっておいて、この姿の理由も、何をしていたのかも、何も答えていないことに気付く。しかしそれは、軽々しく他人に言えることではない。
少しの逡巡の後、季姫は意を決して、口を開くことにした。定省王と顔を合わせるようになって日は浅いが、彼が、職務に忠実で真面目な人物であると、確信しているからだ。少なくとも、無責任に軽々しく、興味本位で噂を広めるような人物ではないだろう。
「王侍従殿。これからお話することは、ご内密にお願いします。例え相手が、今上であろと、太后様であろうと、若狭であってもです。これを知っているのは、祖母つまり、小野小町の他は、文章生の紀貫之だけです」
そこまで話すと季姫は、心中で『生きている人間の中では』と付け加えた。母の麻名子と少将を入れれば、自分も含めて五人となる。麻名子のことはともかく、少将のことは、貫之さえ知らない上に、この定省王にとっては、祖父に当たる人物である。深草少将という『小町への想い』の存在を明かすには、慎重にならざるを得ない。特に季姫は、彼が合理的な考えの持ち主であると直感したこともあり、少将の存在を、まずは隠すことにした。
「内密にするのは構わんが……文章生の紀貫之?誰だそれは。何故、山井のことを知ってるのだ」
定省王の声に、何故か、不機嫌な色が混ざる。季姫は、定省王が調べた自分の経歴に、貫之の情報がなかったことが、その理由だと考えた。
「紀貫之殿は、母君が内教坊の妓女でした。ですから私は、貫之殿とは兄と妹のように、共に育ったのです。今でも、兄のように思っています」
「兄か、なるほど。それで、内密にしなければならないこととは?」
いざ、自身の秘密を明かそうとすると、季姫には、やはり躊躇いが生じる。それでも、ここまで話した以上、本題に入らざるを得ない。
「歌占です」
「歌占?」
歌占とは、和歌を使った占いである。一般的に、巫や巫女が、弓につけた和歌を引くことで神意を伝える方法が知られている。
しかし、季姫の方法は、それとは異なる。
「はい。まず、占いたい内容を和歌にしたためます、月の出ている夜、和歌を書いた料紙を水に浮かべて、その周囲で舞を舞うのです。そうすると、不要な文字だけが洗い流されて、結果を示す文字だけが、料紙に残るのです」
一通りの説明を終えた季姫は、緊張と不安が綯い交ぜになった面持ちで定省王を見つめ、相手の反応を待った。
幼い頃から、ごく自然に季姫の力を知る貫之や、元々自身が歌占の力を持つ小町、そしてその存在自体が例外である深草少将以外の人物に、改めてこの話をするのは、初めてのことであった。
定省王は、しばらく季姫の顔を見つめ、いかにも得心したといった表情を見せた。
「なるほど。小町殿は、和歌の名手であられた方。雨乞いの瑞奇を起こされたという話もある。そなたは、小町殿に和歌の不思議を習ったというわけか」
かつて小町は、神泉苑で雨乞いの歌を詠んだ言われており、その歌は広く知られている。小町が歌を詠むと、それまで日照り続きであったというのに、雨が降り出したという。
しかし季姫が小町にそれを尋ねても、そんな昔のことはとうに忘れたと言って、相手にしなかった。少将に尋ねても、小町が何も言わないのならば、自分から話すことはないと、ただ笑っただけであったのだ。
ちはやぶる 神もみまさば 立ち騒ぎ 天の戸川の 樋口開けたまへ
これがその、小町が詠んだ雨乞いの歌である。
「ただ、祖母とは方法が異なります。祖母は、短冊に書いた歌を星に捧げ、それを水で洗います。私の場合は、祖母と同じ方法では、結果が出ないのです。内教坊で育ったからなのか、それとも、元々の血筋なのかはわかりませんが、月の夜に舞うことで、占いの結果が顕れます」
季姫の舞は、麻名子が内教坊で修練していた、女楽や踏歌とも異なり、また本来、豊明節会で舞われる五節舞とも異なる。動きの基礎は同じだが、速度が全く違う。
季姫が、自身の歌占の力を知ったのは、ほんの偶然からであった。
元々は幼い頃、母の舞を見よう見まねで真似、戯れていただけであった。そこに、元服前であった、幼名を阿古といった貫之が、自作の和歌を見せにきた。和歌の書かれた料紙は、ふとした表紙に風に飛ばされ、水の張られた角盥に落ちた。季姫は、一度始めた舞を途中でやめることができず舞い続け、その間に阿古は、角盥からどうにか料紙を取り出した。しかしそこには、貫之が詠んだ歌は残されておらず、ただ、ちょうど歌に使われていた文字のうちの二つ、「よ」と「し」がだけが、残っていたのだ。
それを貫之は、歌への評価だと理解し、喜んだ。
この顛末を知った麻名子が小町に相談し、初めて季姫は、小町と対面することになった。季姫が、歌占の力を持っていると確信した小町は、麻名子に、本格的に舞を教えるように指示した。妓女になるためではなく、歌占のためにである。
だから麻名子は、季姫が基本の動きや型を身につけた後は、ある程度自由に舞うように言ったのだ。朝廷の行事で舞うのであれば、それぞれに決まりの舞があり、速度があり、管弦の調べに合わせ、他の妓女と動きを揃え、全くその通りに、舞うことが求められる。しかし歌占は、個人の感性に頼む部分が多い。
季姫は、自由に舞を楽しむうち、決まりの舞にはない「速さ」という表現を見出した。それも、舞い始めはゆっくり動き、徐々に速度を増していく舞を身につけたのだ。
その後、小町の元で暮らすようになると、小町を真似て、夜に歌占を行った。そうして季姫は、自分は星に捧げる小町とは違い、月のある夜、それも満月に近ければ近いほど、自分の歌占の効果が出ることを知った。




