彼の居酒屋にて
「よう、すっかり慣れたな」
姉の車で店先まで送ってもらうと、 店先で友人が声を掛けてきた。
偶然、はち合わせたのだ。
ここ最近、毎週とはいかないが、月に何度かこの店で、この友人と、その嫁さんと三人で一杯やるのがおなじみとなっている。
座る場所もいつも一緒。
カウンター席の一番奥のコーナーに3人座る。
何の変哲もない、どこにでもある居酒屋なのだが、何故か異常に居心地が良いのである。
さらに地元の農園や港で取れた野菜や魚をふんだんに使った創作料理はどれも絶品である。
いつも新作を作っては、我々でその反応を試している。
お陰で、ときに「しらすプリン」なる珍妙なものまで試されたこともあったが、おおむね、どれも美味しい。
もっとも、3人の中で一番の酒豪は友人の嫁さんらしい。
が、ここまで車で来なくちゃいけないが為、嫁さんはいつも呑まずにいる。
何だか少し申し訳ない。
また、いつもの席へ、と思って店に入ったがめずらしく、というか初めて座敷席に通された。
どうやらカウンター席は他の客で埋まっているようだ。
まぁ、今の僕には問題ない。
「なんだか普通に見えているみたいだな」
すんなり座敷席に座る僕を見て友人は驚く。
「音の反射とか、あと記憶と想像で案外なんとかなるもんだよ」
昨年の暮れ、失明してからこのかたあれやこれやの試行錯誤の末、最近ではどうやらようやく身の回りのことくらいはこなせるようになってきた。
最初は、視界の一部がぼんやりとぼやける程度だったものが、徐々にその範囲を広げ、さらにぼんやりどころか一部の範囲についてはまったく見えなくなってきたことに気づいたのが昨年の春。
視神経の病気とかやらで、一度失った視力もはや回復不能だと告げられたのがその夏。
その時点では、もはや時遅しで、あとは完全に見えなくなるのをまつばかりであった。
そして、ついに歳の暮れに完全に光を失った。
そして、現在に至る。
「それに最近、何だかいろんなものが見える気もする」
いつもの親父さんじゃなく、その息子らしき人が運んできてくれた、真っ白な太刀魚の真黒イカスミ煮込み、とやらをいとも容易く箸でつまみ上げてみる。
「おお!」
「すごい~」
感心する友人とその嫁。
別に手品ではない。
慣れと習慣である。
ここの親父さんの料理は、大概小鉢で運ばれてくる。
そして、一口大の大きさの切り身が3つ、小鉢の真ん中に綺麗に揃えて盛りつけてある。
だから、小鉢さえつかめばあとはおのずと、そこに切り身があるだろう位置に箸を移動させるだけなのである。
座敷席に座るのも結局は同じ要領である。
座敷には二つテーブルがあることは、目が見えた頃の記憶でしっていた。
おおよそのレイアウトも。
どうやら家族連れらしい先客が占拠しているだろう入り口付近のテーブルを避け、奥側のテーブルの当たりを慎重に進む。
あとは、ここ最近の経験から、多分こんな造りだろうと予測した場所で案の定、座布団らしきものが足に当たったのでそこに座ったまでのこと。
人間とは慣れる生き物だ。
どんな幸せだって、毎日続けば慣れて何も感じられなくなると同様に、
どんな困難な状況も結局慣れてしまえば何とかなってしまうものなのである。
結局、歳を取ると言うことは慣れるということなんだろう。
こうやって何もかもにも慣れ切ってしまって、何の感動も哀しみも感じられなくなっていくんだろう。
決して、絶望しているわけではないが、さりとて、輝く未来がこの先に待っているなどという楽観主義者にもなれない。
僕の所作に驚き、手を叩いて喜ぶ友人達を余所に、僕はどこか冷めた気持ちでもあったのは否めない。
なんかのフランス映画で、小学生くらいの子供が
「セ・ラ・ビ」
なんて生意気に呟いていたが、将にそんな心境である。
・・・これが人生さ
ただ、この店の料理には、いつも驚かせる何かがある。
実際に見えはしないが、色とりどりの野菜やソースをふんだんに使った創作料理には、文字通り目を見張るものがある。
ある意味、それだけが今の僕にとって唯一の楽しみであったのかもしれない。
この友人は、保育園のころからの友人であった。
小学生のときの武勇伝やら、高校の同級生がこのまえ離婚しただの、いつものたわいのない会話を肴にビールを飲んでいると、また息子さんが一品もってきた。
「スズキの酒蒸しの、ええっと、ん? と、ときわ・・常盤ソース掛けです」
「ときわ?」
即座に嫁さんが尋ねる。
彼女はなかなか料理にはうるさい。
親父さんの創作料理を一番楽しんでいるのは彼女かもしれない。
「えぇえ、すみません。良く分からないんんですが、父から渡されたメモにそう書いてあります。」
あまり料理には詳しくなさそうな息子がドギマギ応える。
「見た目は、よくあるグリーンソースみたいね。バジルとパセリ、あとはオリーブオイルかしら。」
「ええ、多分・・・」
グリーンソース自体がよくわからない息子がどぎまぎしているのが手に取るようにわかる。
それにしても今日は、ときわなるものを二度も聞いた。
近頃、TVかなんかで流行ってんのだろうか?
「もしかして、そのソース、ちょっと青みがかった深緑じゃ?」
夕方の虹の記憶を頼りに尋ねてみる。
「ん~? そうでもない。ん?常盤って色の名前なの?」
違うらしい。はて?
「あれ?なんだろ・・・ちょっと松葉の香りがする・・・」
料理にうるさいい嫁さんは、鼻も効く。
「松葉?・・・確かに言われてみれば、ほのかに松葉の香りがするね」
確かに感じる。ほのかな松葉の香り・・・
三保ノ松原、とはいかないまでも、ここらへんの海岸沿い一帯は、防風林の意味もあり延々と続く松林が一つの風物となっている。
格別美しいわけでもない。
ただ当然のように、産まれてこのかた、その松林の風景が僕の中にあった。
僕は、松の木が風に揺れる音や、ほのかに香る松葉の香りで育ってきたのだ。
輝かしいとはいえないが、それでもかけがえのない、故郷の香りなのだ。
「常盤って松のことかな?」
再び嫁さんの鋭い質問。
友人によると、ここで気に入った料理は、たまに自宅でも試すのだそうだ。
「あ、でも常盤って色の名前なんだったら、松葉の色が常盤色なのかな?」
なかなか良いひらめきだ。
青みがかった深緑・・・確かに松葉の色だ。
じゃ、なんで松葉色ソースじゃないんだろ?
「松葉の色を、常盤色なんてさ・・・」
友人がにやにやして話に加わる。
「親父さん洒落ているねぇ。さては若い女でもできた? 常磐御前的な」
常盤御前・・・平家物語の?
冗談半分に友人が息子さんをからかうと、
「ま、まさか・・・ 多分、親父の場合、色鉛筆からですよ」
ちょっとだけあわてながらも、真面目に応える息子。
僕は、何故かドキっとした。
「色鉛筆?」
ピンとこない友人。
「ええ、一か月くらい前に買いに行かされたんですが、確か、48色入りかなんか」
さらにもう一度、ドキっとした。
「それが?」
「最初、適当に買っていったら、『取り変えて来い!』って突っ返されちゃいまして。
何でも、箱と一緒に色の名前やらその説明やらが書いてある冊子が入っているのがあって、それじゃなきゃダメだって」
鼓動が高鳴る・・・色の名前、冊子・・・
「なんかそれ見て一生懸命色の名前とか使い方とか覚えていましたよ。」
「親父さん、絵でも書くの?」
「いへいへ、見たことありませんよ。絵描くとこなんて。
言われてみれば、なんで色鉛筆なんか・・・」
今さら不思議がる息子も息子だが、僕には、なんだかもやもやした想いが、記憶がこみ上げてきていた。
暫くの沈黙の後、
「・・・あっ」
僕と、その息子が、小さな驚きの声を上げたのは同時だった。
つづく