第1話 処刑人の心の声が、うるさい
「最後に、言い残すことは」
処刑人は私の手を取った。
その瞬間、低い声が頭の中へ流れ込んだ。
〈絶対に死なせない〉
黒い斧。雨を含んだ処刑台。私の足首を縛る縄。
声の持主は、その斧を持つ男だった。
〈まだ間に合う。箱を開けろ。頼む、間に合ってくれ〉
私には、間に合わないことが一つあった。
たった今、前世を思い出してしまったのだ。
日本で小さな書店に勤めていた。二十八歳。閉店後、歩道へ突っ込んできた車の光が、最後の記憶だった。
今の私はミラ・アルゼン、二十二歳。
そして、前世で読んだ小説の、二話目で死ぬ悪役令嬢だった。
手に入れたのは第一巻だけ。事件の裏側も、この男の事情も、私は知らない。
聖女を殺したとして婚約を破棄され、雨の中で首を落とされる。処刑人カイ・レイヴンは、斧を拭って立ち去る。
それだけの人物。
そのはずなのに。
〈震えている。手が冷たい。あの夜の君は、誰にでも毛布を配っていたのに〉
「……声が」
思わず漏らすと、男の灰色の目が動いた。
口は、閉じたままだった。
私の右手には、裸の左手が触れている。彼の手袋は台の端に置かれていた。縄で擦れた手首を確かめるために、外したらしい。
私が手を引くと、声が途切れた。
息を吐く。
幻聴ではない。触れたときだけ聞こえるのだ。
台の下で、元婚約者が言った。
「ミラ。せめて最後は、アルマに詫びろ」
第二王子オスカー。
半月前まで、この人の隣で一生を過ごすつもりだった。
「私は殺していません」
ずっと言ってきた言葉を、もう一度言う。
彼は目を伏せた。
「まだ、そんなことを」
その声より、何も言わない処刑人の手のほうが、私を信じていた。
カイが、役人へ向き直った。
「最終照合を行う。原証の箱を」
「神殿が認証済みだ」
「受刑者と執行官には、原物を確かめる権利がある。執行記録の第四項だ」
声は淡々としていた。
剣を抜くのでも、王子へ殴りかかるのでもない。
この男は、私を助けるために手続きを進めている。
木箱が運ばれた。
聖女の死を証明する、銀の花留め。神殿の特別な裁判では、遺体の代わりに、本人の登録済み聖印を照合することがある。
私は、箱の中を見た。
五枚の花弁。白い石。裏へ回った留め針。
それが、小説の挿絵とは違う方向を向いていた。
けれど本ではなく、今世の記憶が先に動いた。
幼いころ、母に教わった作法。
祝福の花は、留め針を胸側へ向ける。本人の署名は、その内側だ。
「裏返っています」
「取り出すときに動いたのだろう」
「留め針が取りつけ直されています。署名を見せてください」
役人の指が止まった。
カイが、私へ目を向ける。
私は彼の手を、こちらから取った。
〈そのまま。君の言葉で言ってくれ。俺には、まだ言えない〉
まだ、の意味は分からない。
それでも、私は箱を指した。
「私を殺す前に、それが誰の物か確かめてください」
針を外すと、薄い銀板に小さな文字が現れた。
アルマの名ではなかった。
「フローラ・セル」
カイが読み上げた。
どこかで椅子が倒れた。
王子が立ち上がる。役人が箱へ手を伸ばす。
カイは蓋を閉め、封の番号を記録した。
「本人照合に不一致。十二時間、執行を停止する」
「お前の判断で王命を止めるのか!」
「不一致のまま執行する権限は、私にはない」
斧が、地面へ置かれた。
それから彼は、私の縄を緩めた。
〈生きている。まだ、生きている〉
泣きたくなったのは、その安堵が私より深かったからだ。
この人は、誰なのだろう。
私を殺すはずだった人が、どうして、私の命をこんなに喜んでいるのだろう。
処刑台を降りるとき、脚が崩れた。
カイが膝をつき、私を支える。
「歩けるか」
「少し、待ってください」
「待つ」
〈一生でも。今は、そんなことを言って怖がらせるな〉
口には出ていない。
私は、泣きそうなまま、彼の顔を見た。
無表情だった。
まったく、信用できないほどの無表情だった。




