消失
悠介が帰宅したのは二十二時頃だった。
この時間に圭吾がいないということは、普段ならあり得ない。
それは、基本的に自室にこもって勉強してることが多いからだ。
普段から進んで外出することは少ないが、受験シーズンということもありそれに拍車がかかっていた。
そんな彼がいなくなったというのは、如月家にとっては大事態だった。
そうは言っても、コンビニに行ったりその辺を散歩してるのではないかとも思えた。
いくら家にいることが多くても、それくらいなら不思議ではない。
しかし、そんな考えは呆気なく裏切られ、一時間経っても二時間経っても圭吾が帰ってくることはなかった。
母が夕食の準備ができたからと二十時に呼びに行ったところ、その時には既に姿を消していたという。
それを踏まえると、もう四時間も出かけているということになる。
まず第一に、彼が誰にも言葉をかけずにいなくなるということは今まで一度もなかった。
いつもとは異なる点ばかりが、やたらと目に付く。
その時になって、ようやく事の重大性を理解することが出来た。
「悠介は何か心当たりないの……?」
そう尋ねる声は、いつもと違って威勢がない。
その様子からは、困惑や焦燥といったものが見て取れる。
「分からない。そもそも最近あいつと話すことあんまりなかったし。……携帯とかは繋がらないの?」
「それが出来ればこんなことになってないわよ……。だから、今から探しに行こうと思っていたの」
それで玄関にいたのか、と悠介は納得した。
二人は手分けして探そうとしてるらしく、忙しなく議論を交わしている。
もしも、もしも自分が同じことになっていたとしたら、二人はこんなに必死になってくれるだろうか……。
そんな邪な考えが、脳裏を掠めていく。
その後すぐに、そんなことを考えるなんてどうかしてる、と激しく嫌悪することになった。
「俺も行くよ」
「ありがとう。助かるわ」
父は「バイト終わりなのにすまないな」と言って、こちらを気遣ってくれた。
「私も一緒に行きますよ」
会話に夢中になっていると、背後から突然声が上がる。
あまりの出来事に、つい綾乃のことを忘れてしまっていた。
彼女の言葉に反応するのは、もちろん悠介だけだ。
目の前にいる二人に怪しまれないように、悠介は声を潜めて話しかける。
「綾乃さんは家にいてください。もし圭吾が帰ってきてすれ違いになったら大変ですから。あと、何かあったら俺の携帯に電話をかけてください」
「……確かに、それもそうですね。分かりました。そうします」
綾乃は耳元でコソコソと呟いた。
彼女まで声のボリュームを下げる必要は無かったのだが、どうやら自分に釣られてしまったようだった。
「一時間経っても見つからなかったら一度合流しましょう。何かあったら必ず連絡をすること、いい?」
まるで先ほどの会話を聞いていたかのように、母は悠介が発した言葉を繰り返した。
父は無言で頷いている。
返事を求められるように母の視線を受けると、悠介もワンテンポ遅れて「分かった」と返した。
悠介が担当するエリアは、自宅を軸に中学から高校、そしてバイト先周辺だった。
「圭吾ーっ!どこにいるんだー!いるなら返事してくれ!」
大声で弟の名を叫びながら、見慣れた道を走り抜けていく。
いつもと違って、高速で景色が移り変わる。
綾乃と出会って以来、こうして一人で行動するのは久しぶりのことだった。
どれだけ声を出しても、それに応える者は誰もいない。
それどころか、周りに何事だと言わんばかりに憂いの混じった視線を送られてしまった。
もしかしたら、もう帰ってきてるのかもしれない。
そう思って携帯画面を確認しても、いつも通りの淡々とした待ち受け画面が映し出されているだけだ。
探し始めて既に三十分が経っている。
このままでは埒があかない。
何か方法はないかと考えていると、暗くなった画面に苦しそうに表情を歪めている自分と目が合う。
それを見て、咄嗟にあることを思い付いた。
「……そうか、これだ」
慌てた手つきで携帯を操作していく。
目的の物があるか分からなかったが、少ししてそれを見つけることができた。
先ほどとは対照的に、画面には圭吾の落ち着いた表情が映し出された。
藁にもすがる思いで、近くを通りかかった人に声をかける。
「すみません! この子見ませんでしたか?」
あまりの勢いに驚いたのか、正面から話しかけたにも関わらず身を仰け反られてしまった。
「い、いや。見てないかな」
「ありがとうございます」
立ち止まってる時間はどこにもない。
目的が済んだら用済みと言わんばかりに、悠介は半ば相手の言葉に被せるように対応した。
その後も道行く人に同じことを繰り返しても、結果は何一つとして変わらなかった。
やはり、何かに巻き込まれてしまったのではないか。
ふと、そんな考えに支配された。
不安や絶望感だけがジリジリと押し寄せてくる。
小一時間走り続けて、体力もとっくに限界を迎えている。
それでも次こそはと信じ、悠介は再び走り始めた。
「どう、だった……?」
息を切らしながら尋ねると、二人は静かに首を横に振った。
どうやら、自分たちの頑張りは報われなかったらしい。
もしやと思い家に入っても、彼が姿を現わすことはない。
どうしてこんなことになってしまったのか、訳が分からなかった。
それは母も同じだったようで、しきりに半泣きで「圭吾」と呟き続けている。
その傍で、背中をさすり続ける父。
ここまで弱っている母を見るのは初めてかもしれない。
一旦二人を置いて自室に戻ると、綾乃が心配した様子で出迎えてくれた。
「どうでしたか?」
「ダメでした。かなり探し回ったはずなんですけど、まるで反応がありませんでした……」
「こんな時間まで帰ってこないというのは、やはり何かあると考えて間違いないです。……こんなことを言いたくはありませんが、覚悟をしておかなければいけないかもしれません」
それが何に対してなのかということは、彼女は明確にはしなかった。
しかし、悠介には一つだけ思い当たる節があった。
それは、以前綾乃が誘拐されそうになったことがあるという話だった。
今回のことも、そうなっている可能性は否定しきれない。
いや、もしかしたらすでに……。
浮かび上がる最悪なビジョンを、頭の中から消し去る。
何かあってからでは遅い。
そう考えた悠介は、両親にある提案をするために再び
リビングへと戻った。
部屋に入ると、二人は先ほどと何も変わらない状況で固まっていた。
少し離れたところから見る背中は、いつもよりも一回り小さく見える。
「……あのさ、警察に捜索願を出さない? 多分、俺たちだけじゃ解決出来ないと思うんだ」
声をかけると、父だけが顔をこちらに向けた。
「私も同じことを考えていたところだ。今すぐにでも行こう。……母さん、辛いかもしれないけど、一緒に来てもらっていいかな?」
話しかける父の姿は、いつもの硬い雰囲気とは違って優しさに満ち溢れている。
母は首をコクコクと首を縦に振った。
出ては入ってを繰り返してるのに、父はまるで疲れた様子を見せない。
やはり一家を支えるというのは並大抵なことではないのだと、今更ながら実感した。
「俺も行った方がいいかな?」
「いや、悠介は家にいなさい。夏休みとはいえ、もう時間も遅い。それに今日は疲れているだろう?」
「まあ、そうだけど……」
「それに、私たちがいない間に圭吾が帰ってきたら困るからね」
やはり、綾乃との会話を聞かれていたのだろうか。
母と同様に、父までもが同じ言葉を繰り返した。
少しして、二人は再び出て行ってしまった。
どうやら今度は車を使うことにしたらしい。
エンジン音が遠ざかっていくことを確認すると、眠気が一気に襲いかかってきた。
チラリと時計を見ると、二時を過ぎていた。
こんな時間まで起きてることはほとんどなく、悠介は自身に起きた変化を簡単に受け入れられた。
それに抗うことは許されず、悠介は一瞬にして眠りに落ちた。
明け方になって眼が覚めると、なぜか毛布がかけられていた。
腕のあたりに何やら柔らかい感触を感じる。
その正体を確かめようと目線だけ動かすと、額を押し付けるようにして綾乃が眠っていた。
この毛布は彼女の仕業だと気付くのに、それほど時間は要さなかった。
以前も似たようなことがあったからだ。
「ありがとうございます。綾乃さん」
自然な流れで彼女の頭を撫でると、気持ちよかったのか微かに身をよじらせた。
起きてしまっただろうか。
そう思ったものの、結局彼女はスヤスヤと寝息を立て続けるだけだった。
完全に夜が明けると、両親は疲弊した面持ちで帰宅した。
父と目が合うと、彼は一言だけ「大丈夫だ」と言った。
その様子を見るに、どうやら捜索願は受理されたようだった。




