Chapter-5
「それは」
磯崎も、すぐにはことばが出なかった。
「大したことないんだろ?うん。実際大したことないと思う。でも先輩としてのメンツってものがある。入部したら長い付き合いだ、後輩に借りがあるなんて嫌なんだよ。これは別に悪事じゃない。探偵は悪事以外何でもやるって、サイトに書いてあったじゃないか。おまえがやったことにしてくれよ」
先輩は目をそらしながら、けれども開き直ったように言った。僕はもう、我慢ができなかった。
「何の義理があってそんなことしなきゃいけないんですか。そんな依頼間違ってる。磯崎、そんなの受ける必要ない」
これまでずっと大人しく黙っていた僕がいきなり立ち上がって言ったので、先輩は目を白黒させた。しばらく口をぱくぱくした挙句言う。「き、金魚の糞は黙ってろ」
「金魚の糞で悪かったですね。馬鹿馬鹿しくてやってられないよこんなこと。磯崎、そんな依頼を受けるって言うなら、僕はもう君の助手なんてやめてやるから……っ」
その時だった。
がらりと扉が開き、「失礼します!」と爽やかな声が飛び込んできた。
「すみません、一年生の白鳥ですが……」
色素の薄い栗色の髪に、やけにつるんとした顔つき。声のイメージよりもやや幼い、かわいらしい風貌をしている。ちょうど真正面に磯崎の姿を捉えた白鳥ゆうきくんは、「あ」と小さく声をもらし、立ち尽くした。
「磯崎くん……」
それこそ、あんな放送事故、本人は忘れている可能性もあったわけだけど。白鳥くんは充分覚えていたようだった。その顔に、気まずさが広がった。
「あ、ええと。取り込み中すみません。その、この前見せたノート、僕、置いて帰っちゃったみたいで……」
おずおずと続けられた白鳥くんのことばに、今度は宮山先輩がびくりと反応する。むっとふてくされたような顔をして、誰からも視線をはずして黙り込む。その先輩の態度に、白鳥くんはますます戸惑って困り果てたのか、思わず救いを求めるように僕の顔を見た。けれど僕にだってどうしようもない。
「あ、ええと、またにします……」
状況に耐えかねて、白鳥くんはその場から退きかけた。
その時だった。
磯崎は勢いよく立ち上がると、
「ごめんなさい白鳥くん!」
まるで舞台俳優かというほどの大声でそう言った。両手をつき、テーブルに頭をぶつけんばかりにがばっと頭を下げ、勢いよく頭を上げると、シミのついたノートを引っ掴んでだだっとテーブルを回る。入り口のところに行き、表彰状みたいに両手でノートを持ち、白鳥くんに突きだした。
「ごめんなさい白鳥くん!これが白鳥くんのノートとはまったく知りませんでした!事故でした!不注意でした!すんません!」
でかい磯崎が立ちはだかり、ぶんぶんと頭を上げたり下げたりした。白鳥くんはやや後ずさりながらノートを受け取る。
「ところで白鳥くん、中二の時のお昼の放送で、僕のことを胡散臭いって言いましたよね!そうなんですよ、僕はまったく胡散臭いんですよ!自分でもそう思いますよ!だから白鳥くんがそう思っているからといって僕はこれっぽっちも恨みに思ったりはしてないんですよ!本当ですよ!気に病むことなんて全然ないんですよ!聴いてた人も、そのとおりだ、って思った人はきっとたくさんいますから!でも逆に白鳥くんがあの放送でイメージ下げたかもしれなくて、僕はそれを心配してたんですよ!ああ、そうですよ、こういうこと言うから胡散臭いんですよ!ともかく僕は、あのことについてはまったく気にしてないんですよ!あんまりいうとそれはそれで嘘くさいですけど!これは本当に本当ですよ!それはそうと白鳥くん、このノートだけど、ちょっと茶色くなってるけど、気になるかなあ!?白くだったらできますよ、漂白剤で!でもそうすると罫線消えて、あと紙がちょっとごわごわになるけれど!どうかなあ!?」
大音量のまま怒涛の勢いで言われて、白鳥くんはえ、あ、とうろたえつつ、
「あ、その……大丈夫です」
とだけ何とか答えた。
「それはよかった!じゃあ先輩、白鳥くん、僕はこれで失礼しますよ!沙原くん、行こう!!」
本当に、まるで舞台のセリフみたいにやけに響く声でそう言うと、磯崎はそのまま振り向きもせず廊下に出て行った。僕は慌てて立ち上がり、あっけにとられた宮山先輩と白鳥くんにとりあえず頭を下げつつ磯崎を追いかけた。
「磯崎!」
僕の呼びかけに振り向いた磯崎の顔に、僕はぎくりとした。
その目はひどく冷やかで、よそよそしかった。彫像のように整った顔立ちの磯崎がそういう目をすると、まるでまったく意思の疎通ができない高位の生き物みたいに感じられる。
磯崎は僕を一瞥すると、黙ったままでまた歩き出した。感情がまるで掴めない。僕は必死で頭を巡らせると、どうにか言った。
「あの、ごめん」
磯崎が足を止める。
「さっきはちょっと言い過ぎたかもしれない。ちょっとでしゃばりすぎた。助手として」
僕は言った。磯崎は表情を変えず、静かな目でじっと僕を見下ろしていた。
「あの」
僕がさらに何か言わなきゃとことばを探していると、
「君はまだ、僕の助手か?」
唐突に磯崎が訊ねた。
え、と僕は一瞬質問の意味がわからず、問い返した。
「君はまだ、僕の助手か?」
磯崎は、辛抱強い大人のように同じことばを繰り返した。
「うん。そのつもりだけど」
僕はようやく答えた。
その途端、
「はあ~~~~~~~~~~~~~」
長い息を吐きながら、ぱりっとした背筋が崩れ落ちるかのようにへなへなと、磯崎はその場にしゃがみこんだ。膝に置いた手に頭を突っ伏して呟く。「よかったあああ」
「磯崎?」
「よかった。僕はもう、君が助手をやめてしまうかと思った。あんな!あんなくだらない依頼で!でもさっきあの場では、もうああするしかないと思って!ああ、もう、ともかく、よかった!」
足元の床をごんごん拳で叩いている。僕はあっけに取られてその磯崎を見下ろしていた。
「……君でも言うんだね」
僕は言った。
「なんだ?」
「『くだらない依頼』とか」
磯崎はしゃがみこんだまま僕を見上げ、ちょっとだけ「しまった」という顔をした。が、顔を僕に向けたままちょっとだけ口をへの字にし、「くだらないものはくだらないさ」
とぼそっと言った。
が、次の瞬間。
「しかし!」
握りこぶしを上に振り上げ、磯崎は勢いよく立ち上がった。
「この磯崎、探偵磯崎、磯崎めぐる、どんな依頼でも、誠心誠意、全力投球尽力させていただきますよ!」
いつもの張りのある声だ。
「誰に言ってるのさ」
僕は少し笑いながら言った。ちょうど例のカップ自販機の前だったので、僕はアイスのカフェオレを、磯崎はコーラを買い、隅のベンチに二人並んで腰かける。
「しかしだな、沙原くん。今回のことで僕は改めて思い知ったよ。探偵に必要不可欠なものは何かということを」
コーラのカップを傾けながら磯崎が言った。
「なにそれ」
「助手だよ。理解者だ。君はわかってくれる。僕のために怒ってくれる。だから僕は何でもできるし、どんな理不尽だって怖くない」
澄んだ目に、今は温かな光を宿して磯崎は言う。
何を言ってるんだ、と僕は思う。
僕は磯崎のことをいつもまるで理解できないし、僕の怒りは単に理不尽に対してであって、別に磯崎を思ってのことじゃない。だいたい、面と向かって本人に、よくもまあそんな恥ずかしいことを言えるものだ。まったく馬鹿じゃなかろうか。
「馬鹿みたいだなあ」
僕は言った。
「なんだ?」
「理不尽なことばかりなのに。なんで探偵なんてやるの?」
カフェオレの柔らかな甘みを感じながら、僕は訊ねる。僕は磯崎についてわからないことだらけだ。けれどこの問いに磯崎がどう答えるかだけは、百%の自信がある。
「ふふふ。なぜならば」
磯崎は、やけに愉しげな顔をしながら妙にいい声で言う。
「なぜなら僕は、生まれながらに探偵だからだ」
あはは、馬鹿だ。
僕はたまらず笑い出し、その隣で磯崎も、横を向いて笑っていた。
出口から覗く景色はまだ明るく、遠い運動場から、運動部のかけ声がかすかに風に乗って届いていた。