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第3話:一匹狼の正体

【シーン1:「怖い鈴木くん」の噂】


 六月の蒸し暑い朝だった。


 先日の数学の小テストで、病欠明けの田中悟たなか さとるが九十点台を叩き出し、二軍の石田を黙らせた一件は、クラスに小さくない衝撃を与えた。


「あいつ、意外とやるじゃん」


「鈴木と古賀がついてるからかな?」


 休み時間のたびに、そんなヒソヒソ話が聞こえてくる。三人の周りを囲んでいた「見えない壁」は、ほんの少しだけ、薄くなったように見えた。


 けれど、鈴木悠太すずき ゆうたに対する「恐怖の壁」だけは、依然として分厚く、高いままだった。


「おはよう」


 教室の引き戸をガラリと開け、悠太が入ってくる。


 彼は努めて声を低くしすぎないよう、それでいてぶっきらぼうにならないよう、自分なりに気をつけて挨拶をした。


 だが、その瞬間。入り口近くで楽しそうに喋っていた二軍の女子たちが、まるで冷たい水を浴びせられたかのように押し黙った。


「…っ! お、おはよう、ございます」


 引きつった笑顔で一瞬だけ悠太を見上げると、逃げるように自分たちの席へ戻っていった。彼女たちの背中からは「関わりたくない」というオーラが全身から溢れ出している。


 悠太は、浮かせた右手のやり場に困り、そのまま自分の髪をクシャクシャとかいた。


(やっぱり、ダメか)


 自分の座る最後列の席まで歩く間、教室のあちこちで視線が散っていくのがわかる。悠太が通る進路にいる生徒は、申し合わせたように椅子を机に引き寄せ、彼が通りやすいように「道」をあける。それは親切ではなく、猛獣に道を譲るような、怯えからくる行動だった。


 そんな悠太の後ろ姿を見て、わざとらしく鼻を鳴らす者がいた。一軍の芦田翔あしだ しょうだ。


「おいおい、朝から縁起が悪ぃな。死神様のお通りだぜ」


 芦田は、一軍メンバーが集まる楠瑛太くすのき えいたの机の周りで、椅子にふんぞり返りながらニヤニヤと笑っている。


 以前、掃除の時間に悠太に手首を掴まれた恨みを、彼は忘れていなかった。直接立ち向かう勇気はないが、こうして陰で毒づくことでしか、自分のプライドを保てないのだ。


「翔、よせよ」


 リーダーの瑛太がたしなめるが、芦田は止まらない。


「だってよ瑛太、あいつの目つき見たか? 昨日もゲーセンの裏で不良をボコボコにしてたって噂だぜ。関わったら人生終わるって」


 そんな根も葉もないウワサ話に、周囲の二軍メンバーたちも「えっ、マジで?」「怖すぎるんだけど」と小声で同調し始める。ウワサは尾ひれがついて広がり、教室の空気をどんどん毒していく。


 悠太は自分の席に座り、黒板をじっと見つめた。


 慣れている。一年生の時から、ずっとこうだった。


 自分はただ、普通に学校に来て、普通に授業を受けたいだけなのに。自分から何かを仕掛けたことなんて一度もないのに。


 鍛え上げたこの体は、自分と周りを守るための盾だったはずなのに、いつの間にか自分を閉じ込める檻になっていた。


(俺が何を言っても、無駄なんだろうな)


 机の下で、悠太はギュッと拳を握りしめた。


 そんな悠太の隣の席で、田中悟(たなか さとる)が心配そうに視線を送っている。


「鈴木くん。気にしなくていいよ。僕は知ってるから。君が本当は、誰よりも優しいってこと」


 悟の小さな声。さらに、その前で本を読んでいた古賀美紀こが みきも、しおりを挟まずにパタンと本を閉じた。


「噂は、ただのデータ不足。本質を見てない。鈴木くんは、鈴木くん」


 二人の言葉に、悠太の拳の力が少しだけ抜けた。


「ああ。わかってる。ありがとな」


 そんな三人の様子を、教室の前方からじっと見つめている人物がいた。


 クラス委員の森本澪もりもと みおだ。


 彼女は、ボーイッシュな短い髪を指でいじりながら、複雑な表情を浮かべていた。


 澪は正義感が強い。クラスの中で誰かが悪者扱いされたり、孤立したりしている状況が、どうしても許せなかった。


(鈴木くん、芦田たちが言ってること、本当なのかな。でも、田中くんや古賀さんと話してる時は、あんなに穏やかな顔をしてる)


 澪の胸の中に、小さな疑問が芽生えていた。


 そしてその疑問が、放課後の土手で起きる「ある事件」によって、確信へと変わることになる。


 教室に予鈴のチャイムが響き渡る。


【シーン2:放課後の土手にて】


 放課後。クラス委員の森本澪もりもと みおは、先生に頼まれた委員会の資料を職員室へ届け終え、少し重い足取りで校門を出た。


「はぁ、疲れた」


 澪は短く切った髪を指でかき上げ、大きく伸びをした。駅へと続く土手沿いの道は、部活帰りの生徒や買い物帰りの主婦たちが通り過ぎていく、いつもの平和な景色のはずだった。


 けれど、土手の階段の下、人通りの少ない河川敷に近い場所で、異様な空気が漂っているのに気づき、澪は思わず足を止めた。


「おい、ボウズ。いいもん持ってんじゃねえか?」


 ガラの悪い、低い笑い声。見ると、制服を着た高校生らしき三人組が、一人の小学生の男の子を囲んでいた。


「やだ! これ、誕生日に買ってもらったんだ! 返して!」


 男の子は泣きじゃくりながら、抱えていたおもちゃのロボットを取り返そうと必死に手を伸ばしている。しかし、体格のいい高校生たちは、おもちゃを頭の上に掲げて、まるで犬をからかうように笑っていた。


「いいじゃねえか、ちょっと貸せよ。それとも、痛い目見たいか?」


 一人が男の子の肩を乱暴に小突く。男の子は尻餅をついた。


 澪の心臓が激しく脈打つ。


(どうしよう。助けなきゃ。でも、相手は三人だし、すごく強そう)


 正義感の強い澪だったが、いざ目の前で暴力的な光景を目の当たりにすると、足がすくんで動けない。周囲の大人たちは、関わりたくないのか、足早に通り過ぎていく。


 その時だった。


「おい。ガキをいじめて、何が楽しいんだよ」


頭上から、冷たく、重い声が降ってきた。


 澪がハッとして見上げると、土手の上に一人の少年が立っていた。逆光になって顔はよく見えない。けれど、その独特の威圧感のあるシルエットで、澪はすぐに気づいた。


「鈴木くん?」


 鈴木悠太すずき ゆうたは、カバンを肩にかけ直すと、ゆっくりとした足取りで階段を降りてきた。一歩、また一歩と近づくたびに、地面を揺らすような重厚な気配が広がる。


「あ? なんだお前。中学生かよ。変な正義感出さねえで、さっさと消えろ」


 リーダー格の高校生が、悠太を威嚇するように睨みつける。


 悠太は何も答えない。ただ、前髪の隙間から、凍りつくような鋭い視線で高校生たちの目を見据えた。


「そのおもちゃを置け。そして、その子に謝れ」


「はっ、笑わせんな! お前ら、やっちまえ!」


 高校生の一人が、しびれを切らしたように悠太に飛びかかった。大きく振りかぶった右拳が、悠太の顔面に迫る。


 澪は思わず悲鳴を上げそうになり、両手で口を塞いだ。


 しかし、次の瞬間。


 悠太の姿が、ふっと消えたように見えた。


 最短距離の動きで攻撃をかわした悠太は、流れるような動作で相手の懐に潜り込み、その右腕を掴んだ。


「加減が下手なんだよ、俺は」


 悠太がグイッと手首をひねり、同時に足を払う。


「ぐわぁぁぁっ!?」


 大柄な高校生が、まるで紙切れのように宙を舞い、地面に叩きつけられた。空手の技を応用した、無駄のない制圧術だった。


「こ、こいつ、マジかよ!」


 残りの二人がひるむ。悠太は立ち上がった相手を追わず、ただ静かに構えを解かずにそこに立っている。その姿は、教室で見せる「怖い鈴木くん」ではなく、仲間や弱者を守るために盾となる「静かな騎士」のように見えた。


「本気でやるなら、次は腕を折る。どうする?」


 悠太の声には怒りも興奮もなかった。ただ、事実を淡々と告げるその冷静さが、逆に圧倒的な恐怖となって不良たちに襲いかかった。


「ば、化け物かよ! 行くぞ、退散だ!」


 不良たちは、小学生のロボットを放り出し、転がるようにして逃げていった。


 静かになった河川敷。


 悠太は、ゆっくりとおもちゃを拾い上げると、膝をついて泣いている男の子の前に、静かにしゃがみ込んだ。


「ほら。これ、大事なんだろ。一人で家まで帰れるか?」


 悠太は、大きな手で不器用に男の子の頭を撫でた。その指先は驚くほど優しく、声も、教室で聞くときよりずっと穏やかだった。


「あ、う、うん。お兄ちゃん、ありがとう!」


 男の子は涙を拭いて笑顔になると、何度も振り返りながら走っていった。


 悠太はその背中を見送ると、ふぅ、と深い溜息をついて、自分の拳をじっと見つめた。


(また、力を使っちまったな。これじゃ、芦田のウワサと同じか)


 自嘲気味に笑い、立ち上がろうとした悠太。その時、後ろから足音が聞こえた。


「鈴木くん」


 澪が、震える声で呼びかけた。


 悠太が驚いて振り向くと、そこには驚きと感動が入り混じったような表情の澪が立っていた。


「森本。見てたのか」


「うん。凄かった。鈴木くん、あの子を助けたんだね」


 悠太は、バツが悪そうに顔をそむけた。


「別に。あいつらが、気に入らなかっただけだ。暴力使ったのは事実だしな」


 悠太はそれだけ言うと、逃げるように歩き出した。


 けれど、澪はその背中を見つめながら、確信していた。


(違う。鈴木くんは、みんなが言っているような「怖い人」なんかじゃない。本当は、誰よりも不器用で、誰よりも優しい人なんだ)


 沈みかけた夕日が、悠太の背中を長く、逞しく照らしていた。


 一軍のリーダーである瑛太にも、ヤンチャな芦田にもない、本物の「強さ」を、澪は知ってしまった。


 この日から、クラス委員・森本澪の心の中で、何かが決定的に変わり始めていた。


【シーン3:ギャップの衝撃】


 翌朝、二年B組の教室は、いつも通りの喧騒に包まれていた。


 窓際では一軍の女子たちが新作のコスメについて声を弾ませ、入り口付近では芦田たちが「昨日の放課後のゲーセン、マジで熱かったな」と、自分たちの世界に浸っている。


 鈴木悠太すずき ゆうたは、いつもより少しだけ肩をすぼめて教室に入った。昨日の土手での出来事が、もし他校の生徒から学校に伝わっていたら、また「暴力沙汰」として問題になるかもしれない。そんな不安が、彼の鋭い目元に影を落としていた。


 自分の席に座り、カバンから教科書を取り出す悠太。その様子を、数メートル離れた席からじっと見つめている視線があった。クラス委員の森本澪もりもと みおだ。


 澪は、昨夜ほとんど眠れなかった。


 自分の目で見た、悠太の本当の姿。子供を助けた時の、あの不器用で優しい笑顔。それが頭から離れず、一方で、今この教室で悠太に向けられている冷たい視線や、芦田が吐き散らす悪口が、昨日まで以上に許せなくなっていたのだ。


(私が、何とかしなきゃ。クラス委員として。ううん、一人の人間として)


 澪は、ギュッと拳を握りしめると、椅子を鳴らして立ち上がった。


 彼女が向かったのは、一軍のキラキラした輪でも、先生のいる教壇でもなかった。一番後ろの、誰も近づこうとしない「空白地帯」。悠太の席だ。


 教室中の視線が、一点に集まった。


「え、森本さん、あんなとこ行って何すんの?」


「喧嘩の注意かな? 鈴木くん、また何かしたのかも」


 ヒソヒソという囁き声が広がる中、澪は悠太の机の前に立った。


 悠太は、驚いて顔を上げた。前髪の隙間から覗く鋭い瞳が、戸惑いに揺れている。


「森本。何か用か?」


 悠太の低い声が響いた瞬間、周囲の二軍女子たちが「ヒッ」と短く息を呑んだ。


 けれど、澪は一歩も引かなかった。それどころか、彼女はクラス中に聞こえるような、明るくハキハキとした声でこう言ったのだ。


「おはよう、鈴木くん! 今日、日直一緒だよね。さっき先生から連絡事項聞いてきたから、一緒に確認してくれる?」


 教室が、水を打ったように静まり返った。


 一軍のリーダー、楠瑛太くすのき えいたさえも、持っていたペンを止めて驚きの表情を見せている。


「えっ?」


 悠太は、自分の耳を疑った。


自分から話し掛けてくるクラスメイトがいたこと、そして、何より「おはよう」と、普通に挨拶をされたことだ。


「ほら、鈴木くん、そんな怖い顔しないで。ノート、ここに置いておくから後で見ておいてね。あ、それと」


 澪は、少しだけ声を落として、けれど確かな笑顔で付け加えた。


「昨日は、本当にお疲れ様。かっこよかったよ」


 その言葉は、まるで魔法のように悠太の心に染み渡った。


 悠太は真っ赤になり、慌てて顔をそむけた。


「ああ。わかった」


 ぶっきらぼうな返事だったが、そこには拒絶のトーンは一切なかった。


 この光景を見て、一番面白くない顔をしたのは芦田だった。


「おいおい、澪! お前、頭おかしくなったのか? なんで殺人鬼なんかと仲良くしてんだよ、危ねーだろ!」


 芦田の声が教室に響く。いつもなら、この芦田の言葉にみんなが同調し、悠太を嘲笑う流れになるはずだった。


 だが、今日は違った。


「芦田くん。鈴木くんは殺人鬼じゃないよ」


 澪が、毅然とした態度で芦田に向き直った。


「私は、鈴木くんの『本当の強さ』をちゃんと知ってる。見た目だけで人を判断するのは、もうやめない? それ、すごくカッコ悪いよ」


 一軍の中心メンバーであり、クラスの誰からも信頼されている澪の言葉。


 その言葉には、芦田の暴力的な言葉よりもずっと重い「価値」があった。


 芦田は顔を真っ赤にして口をパクパクさせたが、澪の真っ直ぐな瞳に気圧され、「チッ、勝手にしろよ」と毒づくのが精一杯だった。


 その様子を隣の席で見ていた田中悟たなか さとるが、自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。


「よかったね、鈴木くん」


 さらに、前の席の古賀美紀こが みきも、本を少しだけ下げて口を開いた。


「森本さん、見る目ある。…データ、修正。鈴木くんの味方、一人増加」


 悠太は、まだ心臓がバクバクと鳴っているのを感じていた。


 たった一人の理解者が現れただけで、いつもと同じはずの教室の景色が、まるで別の場所のように明るく見えた。


 自分が鍛えてきたこの「力」が、誰かに認められた。恐怖ではなく、安心として受け入れられた。その事実が、悠太の凍りついていた心をゆっくりと溶かしていく。


 一軍リーダーの楠瑛太は、そんな悠太と澪を遠くから見つめ、ふっと小さく微笑んだ。


「なんか、面白くなってきたな」


 壁はまだ高い。けれど、その壁の向こう側から、こちら側に手を貸してくれる存在が現れた。


 「圏外」の三人が始めた小さな火が、ついに「カーストの中心」にいる一人の心を動かしたのだ。

 

 ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴る。


 悠太は、自分でも気づかないうちに、背筋を少しだけ伸ばしていた。


 もはや自分は、一人ではないのだから。



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