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第2話:石田の罠と、美紀の真実

【シーン1:格付けの放課後と、歪んだ正論】


 六月の湿った風が、教室のカーテンを重たげに揺らしていた。


期末テストを二週間後に控え、二年B組の空気はいつも以上にピリついている。


 その空気の中心にいるのは、二軍のリーダー格、石田優成(いしだ ゆうせい)だった。彼は自分のデスクに、分厚い進学塾のオリジナル参考書を広げ、周囲に数人の「聴衆」を集めていた。


「結局のところ、勉強っていうのは『効率』と『環境』の掛け算だよ。センスのない人間がいくら泥臭く努力したところで、それは時間の無駄でしかないんだ」


 石田はわざとらしくメガネのブリッジを中指で押し上げ、その視線を斜め前の席へと向けた。そこには、一人で黙々とノートに向かう田中悟(たなか さとる)の背中があった。


 悟は、五月まで体調を崩して休んでいた遅れを取り戻そうと、必死に教科書を読み込んでいた。しかし、彼の手元にあるのは、学校で配られた使い古しのワークだけだ。


 石田は獲物を見つけた蛇のように、ゆっくりと悟の背後に立った。


「おやおや、田中くん。まだそんな初歩的なページで止まっているのかい?」


 石田の通る声が教室に響き、談笑していた一軍のメンバーたちも何事かと視線を向ける。


「あ、石田くん」


「その解き方、去年の入試データでも『非効率的』だと切り捨てられた古いやり方だよ。君みたいに欠席がちで基礎が抜けている人間が、そんな古い武器で戦おうなんて、無謀を通り越して滑稽だね」


 クスクスという忍び笑いが周囲から漏れた。大森大地(おおもり だいち)が「石田先生、厳しいな〜」と茶化し、一軍の芦田翔(あしだ しょう)も遠くから「おい、殺人鬼の連れ! 勉強くらい石田に教わったらどうだ?」と野次を飛ばす。


 悟は、握りしめたシャーペンの先をポキリと折った。言い返したい。けれど、学年トップクラスの成績を持つ石田の言葉は、今の悟にとって「絶対的な正解」のように聞こえてしまう。


「僕、ただ、遅れを取り戻したくて」


「努力の方向が間違っていると言っているんだよ。君のレベルに合わせた、もっと簡単なドリルでも買ってきたらどうだい? まあ、君にプライドというものがあればの話だけど」


 石田が勝ち誇ったように笑ったその瞬間。


 教室の後方の席から「ガタッ」という激しい音が鳴り響いた。

 

 鈴木悠太(すずき ゆうた)が、椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。


 その瞳は、まさに飢えた狼のそれだった。彼がゆっくりと歩き出すだけで、石田の周りにいた生徒たちは、左右に分かれた。悠太の放つ「ガチ」の威圧感は、石田の小賢しい言葉遊びを一瞬で吹き飛ばす。


「おい、石田。お前のその『効率』って言葉、さっきから耳障りなんだよ」


 悠太の低い声が地を這うように響く。石田は一瞬だけ肩を震わせたが、すぐに虚勢を張った。


「な、なんだい鈴木くん。暴力は校則違反だよ。僕を脅しても、君の成績が上がるわけじゃ」


「暴力? 誰がそんなこと言った。俺はただ、お前の教え方が『下手すぎて反吐が出る』って言ってるだけだ」


 悠太は悟のノートを無造作にひったくると、石田の目の前に突き出した。


「俺にはこの数式の意味はわからねえ。だがな、こいつが昨日、誰もいない図書室で三時間、同じページを指でなぞりながら必死に考えてたのは知ってる。石田。お前は塾の教師が吐き出した『答え』をそのまま飲み込んでるだけだろ。自分の頭で三時間悩んだこともねえやつが、他人の努力を笑うな。お前の言葉には、重みが一ミリもねえんだよ」


 石田の顔が、屈辱で真っ赤に染まる。


「何を根拠に! 勉強は結果がすべてだ! 明日の小テストで証明される。僕の効率が正しく、田中の努力が無意味であることをね!」


 石田が叫んだその時、ずっと窓際で本を読んでいた古賀美紀(こが みき)が、しおりを挟んでゆっくりと顔を上げた。


「石田くん。さっきの指摘、間違いだよ」


 美紀の透き通った、けれど氷のように冷たい声が教室を支配した。


「何がだい、古賀さん?」


「あなたが田中に指摘した『非効率な解法』。それ、先週発表された最新の東大入試分析では、最も部分点が取れる『本質的な解法』として再評価されてる。知らないの? あなたが持っているその塾の参考書、データが一年古いよ」


 石田の息が止まった。


「そ、そんなはずは、この塾は業界最大手で…」


「情報の更新が止まってる。楠くんたちに媚びを売ってノートを作る暇があるなら、もっと広範な文献を読んだら? 視野の狭い勉強は、いつか毒になるよ」


 美紀はそれだけ言うと、興味を失ったように再び本へと目を落とした。


 教室内には、今度は石田を嘲笑するような、奇妙な沈黙が流れた。

 

 石田は何も言い返せず、震える手で参考書を掴むと、逃げるように自分の席へ戻っていった。


 悠太は、呆然としている悟の頭を、乱暴に、けれど温かくポンと叩いた。


「田中。ノート続けろ。わからねえところは、俺じゃなくてあっちの古賀に聞け」


 悟の瞳に、小さな、けれど消えない火が灯った。


 圏外と呼ばれた三人の間に、初めて「信頼」という名の境界線が引かれた瞬間だった。


【シーン2:図書室の聖域と、秘密の特訓】


 放課後の図書室。オレンジ色の西日が、古い書棚の背表紙を琥珀色に染めていた。


ここは2年B組のどの派閥も踏み込んでこない、静寂だけが支配する「聖域」だ。


 窓際の大きなテーブルに、悠太、悟、美紀の三人は向かい合っていた。


「あの、二人とも。本当に、さっきはありがとう。僕のせいで、二人にまで嫌な思いをさせちゃって」


 悟が申し訳なさそうに、消え入りそうな声で頭を下げる。彼の手元にある数学のノートは、石田に指摘された箇所が、何度も消しゴムで擦られたせいで薄汚れていた。


 悠太は、図書室の椅子にはあまりに大きすぎる体を窮屈そうに折り曲げ、腕を組んで鼻で笑った。


「謝るな。石田のあのツラ、見たか? 鳩が豆鉄砲食らったような顔しやがって。飯がうまいぜ」


 悠太の言葉は乱暴だが、そこには悟を責める色は微塵もなかった。


「田中。これ、読んで」


 美紀が、自分の鞄から一冊の分厚い本を取り出した。学校の図書室には置いていない、専門的な数学の解説書だ。


「石田くんが言っていたのは、ただの『パターン暗記』。それは、数字が少し変わるだけで崩れる、砂の城。あなたがやろうとしていたのは、論理の組み立て。時間はかかるけど、一度覚えれば、一生忘れない」


 美紀は感情を殺したまま、スッとペンを走らせた。彼女が描く図解は、教科書のどれよりも簡潔で、そして美しかった。


「石田くんの武器は、一年前の錆びた剣。あなたの武器は、これから磨き上げる原石。どっちが強いか、明日のテストで見せればいい」


「僕に、できるかな?」


 悟が不安げに呟く。すると、悠太が力強く机を叩いた。


「できる。お前は毎日、誰よりも早く教室に来て、誰も見てねえところで教科書を開いてる。その『根性』は、他の連中にも、あの石田にもねえ。俺が保証する」


 悠太の真っ直ぐな言葉に、悟の胸の奥で、今まで感じたことのない熱い何かが込み上げてきた。病弱で、休みがちで、いつも誰かの後ろを歩いてきた自分。そんな自分を、クラスで一番恐れられている男が「保証する」と言ってくれた。


「やる。僕、やってみるよ! 石田くんに、ううん、自分自身に勝ちたいんだ」


 悟がペンを握り直す。その瞳からは、もう迷いが消えていた。


「よし。特訓開始。まずは、この十問を。時間は、私が計る」


 美紀がストップウォッチを起動させる。ピッと、冷たくも前向きな音が図書室に響いた。


 悠太は、勉強を教えることはできない。けれど、彼は離れた席に座り、まるで番犬のように図書室の入り口に意識を向けていた。


 静寂の中で、カリカリと鉛筆が走る音だけが続く。

 窓の外では、一番星が静かに輝き始めていた。


【シーン3:運命の小テスト】


 翌朝、2年B組の教室は、いつもとは違う緊張感に包まれていた。


 登校してくる生徒たちの視線が、自然と教室の「空白地帯」に集まる。そこには、昨日と変わらず静かに席に座る鈴木悠太(すずき ゆうた)田中悟(たなか さとる)、そして古賀美紀(こが みき)の姿があった。


 石田優成(いしだ ゆうせい)は、自分の席で猛烈な勢いで参考書をめくっていた。昨日の屈辱が、彼のプライドを激しく逆なでしている。


「フン、昨日あんな大口を叩いたんだ。せいぜい恥をかかないように頑張ることだね」


 石田は悟の方を一度も向かずに吐き捨てたが、その指先はわずかに震えていた。


 一軍のリーダー、楠瑛太(くすのき えいた)は、教室の後ろで腕を組んでその様子を眺めていた。


「面白くなってきたな」


 隣でヤンチャな芦田翔(あしだ しょう)が「どうせ田中の点数なんて、赤点ギリギリだって」と鼻で笑うが、瑛太は何も答えなかった。ただ、いつもより背筋を伸ばして前を見つめる悟の背中に、昨日までにはなかった「芯」のようなものを感じていた。


 一限目のチャイムが鳴り、数学の教師が入ってくる。


「はい、席に着け。昨日言った通り、20分の小テストを行う。このテストは成績に大きく響くから、しっかり取り組むように」


 プリントが配られる。裏返された紙が、バサバサと教室中に響く。


「…始め」


 その合図とともに、教室は静寂に支配された。聞こえるのは、一斉に走り出した鉛筆の音だけだ。


 悟は、深く息を吐いて問題を眺めた。


(わかる。解けるぞ)


 昨日、美紀が教えてくれた「本質的な考え方」が、暗闇を照らす光のように頭の中に広がっていく。石田が「効率」と呼んだ、ただのパターン暗記では太刀打ちできないような、ひねった応用問題。けれど、今の悟には、その問題が何を求めているのかが手に取るようにわかった。


 美紀が言っていた。「数字に惑わされないで。構造を見て」


 悠太が言っていた。「お前の根性は、俺が保証する」


 カリカリ、という悟の鉛筆の音は、迷いがなく、力強い。


 一方、数席離れた場所では、石田の動きが止まっていた。


(なんだ、この問題は? 塾のテキストには、こんなパターン載っていなかった! くそ、計算が合わない!)

 石田の額から、大粒の汗が滴り落ちる。彼は必死に記憶の引き出しを開けようとするが、そこにあるのは「答え」だけで、「考え方」ではなかった。


 悠太は、白紙に近いテスト用紙を前に、悠然と椅子にもたれかかっていた。彼は最初からこの勝負に参加していない。けれど、必死にペンを動かす悟の横顔を、まるで見守る騎士のような鋭い眼差しで見つめ続けていた。


「そこまで。筆記用具を置け」


 教師の声とともに、20分間の戦いが終わった。


 答案が回収される際、石田は悟の解答欄が最後まで埋まっているのを、信じられないという表情で凝視した。


 休み時間。採点を終えた教師が、答案を手に戻ってきた。


「今回のテストは非常に難易度が高かった。平均点は42点だ。だが、驚くべきことに、90点を超えた生徒が二人いる」


 クラス中がざわめいた。一人は当然、石田だろう。もう一人は瑛太か、それとも。


「石田、95点。さすがだな」


 石田が、ふう、と深く安堵の息をつく。周りの二軍メンバーが「さすが石田!」と拍手を送る。石田は再びメガネを押し上げ、得意げに悠太たちを振り返った。


「見たかい? これが『効率』の結果だよ」


 しかし、教師の言葉はまだ続いていた。


「そしてもう一人。田中、92点だ。特に入試レベルの最終問題に正解したのは、田中だけだった。素晴らしい成長だぞ」


 その瞬間、教室から音が消えた。


 一軍の村田悠亜(むらた ゆあ)が「えっ、マジ?」と絶句し、石田の顔からは、先ほどまでの血色が瞬時に失われた。


「ありえない。そんなの、何かの間違いだ!」


 石田が立ち上がり、叫んだ。


「僕があんなに時間をかけて対策した問題を、あんな欠席ばかりの勉強も遅れているはずの田中が解けるわけがない!」


 その様子を後ろで見ていた一軍の瑛太が、口を開いた。


「石田、もうやめろ。点数ではお前の勝ちかもしれないけど、伸び率で見れば田中の圧勝だ。正直、驚いたよ。田中、よくやったな」


 一軍のリーダーに認められ、クラス中がどよめく。石田は顔を青くして、逃げるようにその場を去った。


「やった。僕、できたんだ」


 悟が震える手でテスト用紙を握りしめる。


「ああ。言ったろ、お前はできるって」


 悠太が悟の肩を力強く叩き、美紀は小さく「ナイス」と呟いた。


 二軍の秀才を退けた3人の噂は、瞬く間にクラス中に広がった。


 彼らはもう、ただの「圏外」ではなかった。



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