明日、デートするぞ①
半分寝ているユキの手を引きながら、ようやく倉敷川を臨むメインストリートまでやってきた。
昼間は観光客を乗せて大活躍している川舟の姿はなく、柳並木の影と街灯の淡い光が水面で静かに揺れている。初夏とは思えないほど涼しい風が、どこかの店先の香ばしい匂いを運んでくるが、既に極上の料理で存分に胃袋を満たしている俺に、その誘いは通じない。
ゲンさんが用意してくれたまかないは、今日も文句のつけようがなかった。この為にバイトを続けているといっても過言ではないかもしれない。
全員で欠片も残さず食べ尽くし、食後のお茶とお菓子をまったり楽しんでいたが、そこで再びユキを目がけて眠気が襲いかかってきた。湯呑みを持ったまま、うつらうつらと船を漕ぐ様子を見かねたゲンさんに「お嬢を旅館まで送っていってもらえやすか」と頼まれ、今に至る。
どうせ帰り道でもあるので、断る理由が見つからない。そもそも、いつものことでもある。古民家カフェ狐し庵のキツネたちは、もれなく旅館こしあんに住んでいるが、ゲンさんとノルさんは店の片付けが残っているため、少しだけ帰りが遅くなる。そのため、ユキを送り届ける役目は、だいたい俺が請け負っていた。もはや、バイトの仕事のひとつともいえる。
「ユキ、起きてるか」
「うん、おきてる……おきてるよ……」
「ユキ、寝てるか」
「……うん、ユキ、ちゃんとねてるよぉ」
ちゃんと寝てるらしい。なるほど、今日はこの辺りが限界のようだ。
狐し庵のある本町通りから、倉敷川に架かる今橋の袂まで。なんてことはない距離だが、もはやほとんど夢の中にいる今のユキの歩数として換算すると、その頑張りの程が窺える。自然と、俺はその場にしゃがみ込んだ。
「ほら」
「あい」
ユキも慣れたもので、俺の意図をすぐに理解して背中に覆い被さってきた。温かくて柔らかい重みが、しっかり乗っていることを確認してから、よいしょと気合いを入れて立ち上がる。
「落ちるなよ。寝ててもいいから、ちゃんと掴まっとけ」
「……はーい。もう、おかわりはいりませぇん……」
「遠慮すんな、もらっておけ」
控えめな寝言に思わず笑ってしまってから、ユキの手を引いていたときと変わらないペースで歩く。このまましばらく川沿いに進めば、旅館こしあんは目の前だ。
太陽の元で眩しく輝いていた白壁の街並みが、今は柔らかな人工の光に照らされていた。有名なデザイナーが手掛けた美観地区の夜間景観照明は、ちょうど観光客の波が引いた今ごろから本領を発揮する。
歴史ある建物が、ようやく取り戻した静寂とともに眠りにつく。そんな僅かな休息を優しく彩る、幻想的なライトアップ。
その中を、一人だったら考えられないような速度で通り過ぎていく。この時間を、俺は少しだけ気に入っているのかもしれなかった。
――なんて、悠長に物思いにふけていられるはずもなく。
たまに古民家カフェで手伝いをしている健気で可愛い少女、という名目で通っている背中のお荷物は、この辺りではちょっとしたアイドルだ。さっきから「あらユキちゃん、おねむかい?」とか「優しいお兄ちゃんでよかったね」などと、店じまい中の店員に声をかけられる。
当の本人は、すっかり眠ってしまっているので、それに応えるのは当然ながら俺の役目だ。どうも、なんて適当で万能な返事をしつつ、急ぎ旅館へ足を進める。
彼らから十分に距離を置いたところで立ち止まり、意識のないユキを背負い直すと、きゅ、という聞き慣れた声がした。
「お前が起きるのかよ、キューちゃん」
「きゅ!」
学校で在里で別れて以降、俺のバイト中はずっと水筒の中で眠っていたキューちゃんが、ここにきて目を覚ます。
気狐と呼ばれるこのキツネは、その名の通り、ほとんど気体のような存在だ。明らかに体のサイズよりも小さな水筒に入り込めるし、水筒の蓋が閉まっている状態でも煙のようにするりと抜け出してしまう。
だから、今日もいつの間にか消えてしまっていたキューちゃんを探して、校内を駆け回る羽目になったわけで。
「猛省しろよな、キューちゃん。お前のせいで、俺は天ヶ瀬高校一年五組の変人、なんていう御大層な肩書きをぶら下げながら学校生活を送ってるんだからな」
「きゅ」
確かに、毎日のように校内で何かを探して走り回る男子高校生なんていう、世にも怪しすぎる奴がいたら、俺だって距離を置きたい。それはわかる。
ただ、奴らは真面目に怖がることも癪に障るらしい。変人というラベルを貼り付けて、安全圏からビーカー越しにおもしろおかしく観察していよう、と。おそらくは、そういうことなんだろう。
まあ、下手に接触しようとしてこないだけ、ありがたい。陰口だけなら、お好きにどうぞ。人間に期待することは、もうとっくにやめている。
――だが、例外というものは、どこにでも発生するらしい。
在里颯真。
あのとき、あいつは何を言いかけたんだ。
レインのアドレスを教えてくれ、と。そんなこと、今までに何度も言い出す切っ掛けはあったはずなのに、なぜあのタイミングで。
どんなときでも穏やかな雰囲気を崩さないあいつの、何かを言いかけたときの、あんな不安そうな顔は、初めて見た。
「きゅ!」
「あ、こら。言ったそばから、うろちょろするな」
俺の腰の辺りに巻き付くのにも飽きたのか、はたまた背中の上のユキを見つけたからか。おそらくは両方の動機で、キューちゃんがそそくさと移動を開始する。俺の腕がふさがっているのをいいことに、何の遠慮もなく体をよじ登り、首の後ろに回り込んで、寝ているユキにちょっかいを出し始めた。
「起こすなよ、キューちゃん。寝てるなら寝てるで、そのまま部屋に寝かせてくればいいだけなんだから」
何度もこうしてユキを家に送ってきたが、そのたびに「もっとあそんで」と帰宅を阻まれ、お茶を煎れさせられている。さすがに、眠りながら俺を引き止めるような真似はできないだろう。だから起こしてくれるな、という俺の切なる願いは、速攻で打ち砕かれることになる。
「っ、おかあさんっ!!」
「きゅ!!」
「うおっ!」
背負っていた奴が急に暴れ出すと、ここまで簡単に体勢が崩れるものなのか――。
スローモーションのように傾く視界の中、俺は帰宅部の象徴たる脆弱な体幹を呪いながらも、何とか踏み止まろうと頑張る。が、背中にあった軽い重みが、僅かな反動を残して消失したことに気付くと、逆らうのをやめて素直に地面に転がった。
「スーちゃん!」と、慌てて俺を呼ぶ声が、少し離れた位置から近付いてくる。予想通り、倒れる俺を下敷きにするまいと、キツネの羨ましい身体能力を駆使して離脱してくれていたユキが、キューちゃんを腕に抱えたまま心配そうに俺を覗き込んできた。
「スーちゃん、だいじょうぶっ? ごめんね、ごめんね、ユキびっくりしちゃって」
「ああ、俺もびっくりした。なんだ、寝言か? ――悪い夢でも見たか」
俺の問い掛けに、もともと大きな目を零れそうなほど見開いてから、ユキはふるふると首を振った。ユキの母親のことは、ゲンさんやノルさんから、なんとなくの事情を聞いていた。幼いユキが夢の中で母親を恋しがったとしても、なにもおかしくない。
「ちがうの。……あのね、あのね」
「おう」
ユキは自分の気持ちを言葉として外に出す速度が、とてもゆっくりだ。だから俺も、その間に体を起こして立ち上がり、服の砂埃を払いながら、のんびり待つ。
「キューちゃんから、おかあさんのにおいがするの」
「…………は?」
「きゅ?」