もう、我慢しなくていいぞ⑥
ざあっと、柔らかな風が吹いた。
永く暗い冬の終わりを告げる、花の香りを乗せた暖かい春風と共に、もはや聞き慣れてしまった声が降ってくる。
――そう。文字通り、降ってきた。
「ぐえっ」
「あ、ごめん。着地のこと、全然考えてなかった」
俯せのまま転がっていた俺の背中にのし掛かる、突然の衝撃。同時に、ぱきんと、どこかで何かが砕けたような音が聞こえてくる。もしや骨でも折れたかと、嫌な予感が頭をよぎるが、それほど痛みはなかったし、流石にそこまでやわじゃない。
「ありがとな。ユキのために、泣いてくれて」
「……だから、泣いてねぇっての。っつーかどこから湧いてんだお前は、さっさとどけっ」
在里を背中から振り落とすつもりで勢いよく起き上がると、念のため、座り込んだまま背骨の安否を確認する。大丈夫。無事だった。
「……ん?」
はたと気づく、違和感。体が、自由に動ける。
黒い炎の束縛も、負の感情による息苦しさも、いつの間にかすっかり消えてなくなっている。
一体、何が起こったのか。その現象の発端であるシキさんの様子を確認しようと顔を上げた俺の呼吸が――止まる。
何事にも動じない天狐の目が、大きく見開かれていた。
驚愕と、絶望と、憧憬と。そして多分、愛情ってやつが。シキさんの緋色の瞳の中で、それぞれの色を持ち寄りながら絶妙に溶け合っている。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず視線を逸らした俺の視界に、膝をついて娘の頭を優しく撫でる母親の姿が映り込んだ。
「おかあさん……」
「ユキも頑張ったね。大丈夫、もう痛いことはないよ」
ぱきんと、また音がした。瞬間、ユキの体を覆っていた炎が光の粒子へと変化し、そのまま滲むように消えていく。何が起こっているのかわからず唖然とする俺の目が、また新たな異常を捉えてしまった。
在里に正面から張りついている、細長い何か。まるで若草色のマフラーを首に巻いた余りのように垂れ下がっているそれは、よく見れば端のほうに小動物らしき尻尾と後ろ脚がくっついている。だとすると、逆側には頭と前脚があると想像がつくが、在里の肩の後ろへと折れ曲がってしまっているので、俺の位置からは確認できない。けれど、どう見てもそれは――小さなキツネだった。
「お前、本当に……」
「筒井先輩、って呼んだほうがいいかな」
からかうような声音で、申し訳なさそうに眉をひそめながら、在里が面倒くさいことを言い出す。
ああ、本当に。こいつは狐守になったのか。在里が決めたことなら、俺には何も言えない。言ったところで、どうにもならない。――いや、それでもひとつだけ。
「先輩は、やめろ」
「え、残念。おもしろいと思ったのに。……さて」
小さく笑ってから、在里が立ち上がった。迷いのない視線で、遠くにいるただ一人を見つめる。
「ちょっとお父さんとお話してくるね、ユキ」
大きく頷いた白いキツネが、ぴょこんと俺の膝の上へ飛び乗ってきた。それを潰してしまわないように腕で囲いながら、ゆっくりと離れていく在里の背中を見守る。
「はわー、よかった! アリサトさん、ここにいたんスね! 野狐との話が終わったと思ったら急に消えちゃって、ほんっっっとにびっくりしたッス! ひょっとして瞬間移動ってやつッスか? うっは、ちょーかっこいいッス! ね、キューちゃん!」
「きゅー! きゅっきゅっきゅー!」
誰が来たのか雰囲気だけでわかる騒々しさは、もはや尊敬に値する。わざわざ顔を向けて確認するまでもないので、視線は在里に固定したままだ。そんな俺の頭の上に、よく知った重さが戻ってきた。
「なにやってたんだお前は、肝心なときに役に立たねぇな」
「きゅー? きゅ、きゅ」
あの場にキューちゃんがいたとしても、天狐のシキさん相手にどうにかなるとも思えない。なので、これは自己嫌悪の八つ当たりだ。軽く頭を揺らす俺に対して、キューちゃんは生意気にも不満の声を上げてくる。
「エンディング直前で、何とか役者が揃いやしたね。お疲れ様です、皆さん」
すっと、こちらもいつの間にか現れたゲンさんが、スマートに手を差し出してくれる。エスコートを受けた俺は、これまでずっと懇意にしていた地面と、ようやく一定の距離を取ることに成功した。
「あとは、姐さんにお任せしやしょう」
右と左に、金と銀のキツネ。腕の中の白いキツネ。そして、頭の上のオコジョ。
俺たちはひとつになって、とある夫婦の邂逅に立ち会う。
こちらを見ていたはずのシキさんの視線は、再び正面に戻されてしまった。
在里に差し向かうでもなく、かといって背を向けるわけでもない。そのちょうど中間という半端な状態は、シキさんの中の迷いをそのまま表しているかのようだった。
俺の位置からは、そんなシキさんを遮るように在里の後ろ姿が見えているので、さっきは隠れていてわからなかった黄緑色のキツネの顔が確認できた。眠っているのか、その目は閉じられていたものの、前脚はしっかりと在里の肩に抱きついている。そんなキツネの背中を片手で大事そうに支えつつ、シキさんまであと数歩というところまで来て、在里が止まった。
「久しぶり、シキ」
シキさんは何も答えない。顔を向けようともしない。
完全に無視を決め込むつもりなのだろうか。けれど、その作戦は無謀としか言い様がない。数ヶ月程度しか付き合いのない俺にだって、いや、俺だからこそわかる。 なぜなら、在里颯真という奴は――スポーツ万能なのだ。
「っ」
まるでバスケットボールの完璧なディフェンスのように、在里がシキさんの正面に素早く回り込んだ。俺も何度も帰宅を阻まれた経験がある、恐ろしいスキル。流石のシキさんも驚いたに違いない。表情こそ変わらないものの、ほんの僅かに肩が上がった瞬間を、俺は見逃さなかった。
「シキ、こっち見て」
「…………」
在里が移動してくれたお陰で、向かい合う二人の横顔がよく見える。いいカメラワークだなと、もう傍観することしかできない俺は、呑気にもプロデューサー気取りだ。
けれど、やはりシキさんは手強い。何かを堪えるように在里の足元へと視線を落とし、しまいには瞼のシャッターまで下ろしてしまった。頑なに自分を拒み続けるシキさんを見て、ふむ、と在里は何か考え込む仕草をする。天下の天狐を目の前にしながらの、あのマイペースっぷり。在里は、どこまでも在里だ。
「この姿の俺は自分の妻だった女性とは関係ないとか、もう嫌いになったから顔も見たくない、っていうんだったら、そのままでもいいけど」
ぐっと、シキさんの口元が歪むのが、はっきりと見えた。しばらくの逡巡の後、目を閉じることで生まれていた眉間の皺が、ゆっくりと消えていく。
ようやく、夫婦の視線が絡んだ。
百年以上の時を経て、ようやく。
青白い光が、二人の輪郭を縁取ってまばゆく輝く。気がつかなかった。今日の月はこんなに明るかったのか。
夏に差し掛かった夜とは思えないほど涼しく清らかな風は、在里の野狐――いや、気狐による祝福なのかもしれない。世界の透明度が何段階も増したかのような錯覚を覚えて、息をすることさえ躊躇ってしまう。
しばらく、誰も何も言わなかった。長くもあり、短くもあった静寂は、やがて夫の言葉で終わりを迎える。
「……過去形に、するな」
「ふふ」
どこか拗ねたような響きを帯びた反論に、在里が笑う。
シキさんは、在里の魂そのものを、妻そのひとだと認識して、今も変わらず想い続けているんだろう。何度生まれ変わり、何度姿を変えようと、変わることなく――。
「……いや、大好きじゃん」
「大好きなんですよ。ベタ惚れなんです」
誇らしげなゲンさんの言葉が、ひどく嬉しそうだったから。つられて、俺の口角も上がってしまう。
「ユキが、いい子に育ってくれた。ちゃんと、お父さんとして頑張ってくれたんだね」
「……狐守の言葉を聞いただろう。おれに、父親の資格はない」
まさかの名指しと、まさかの内容。俺の、もう既に思い出したくもない恥ずかしい叫びは、意外にもシキさんのメンタルにダメージを与えていたらしい。
「筒井は、そういう意味で言ったんじゃないと思うけど――あ、筒井数だよ。スーちゃんって呼んであげると飛び上がって喜ぶから、覚えてあげてね」
マジで余計なことしか言わないな、あいつ。そりゃ飛び上がるだろ、恐怖で。
ちらりと横目で窺ってくる在里に向けて、俺は最大限にしかめた顔の近くで拳を握ってやる。
「あなたが、ユキや俺のことを考えてくれたのはわかってるよ。それはユキにも、ちゃんと伝わってるはずだ」
俺の腹の辺りでユキが何度も頷く姿が、まるでそういうおもちゃのように見えて、思わず三人と一匹で笑ってしまった。
在里が降ってきてから、場の雰囲気が一変したのがわかる。シキさんの軟化が理由であることは明白だが、そうさせているのは間違いなく、在里の――天狐の伴侶の魂だった。




