明日、デートするぞ⑥
最初は、誰の声かわからなかった。
それほどに、決意の込もった一言だった。
この二音に乗せられた重みを、俺は受け止めなければいけない。「ひょえッス!」とかいう奇声もすぐ近くで上がったような気がするが、そっちのほうは聞こえないふりをする。っつーか、マジでうるさいなこのひと。
「ちゃんとおめかししとけよ。明日の朝、迎えに来る」
「うん!」
可動域の一番上から一番下まで使う勢いで首を縦に振り、再び俺を見上げたユキの顔は明るい。柔らかな光を受けて輝く瞳が、力強い。大丈夫だ。これなら。
くるりと軽やかにターンを決め、元気に駆け出すユキの後ろ姿を見送ってから、俺は色々な思いをごちゃ混ぜにした、深くて長い息を吐き出した。
「スーくん積極的ッス! かっこいいッス!」
「……どーも。そういう訳なんで、よろしくお願いします。お疲れ様でした」
「送っていきますぜ、スーさん。もう夜も遅い」
「いや、大丈夫です。バスもまだあるし……なんというか、ちょっと歩きたいんで」
「そうッスよね! デートのお誘いなんて、スーくんの人生において一度でもあるかどうかわからないような大偉業を成し遂げたあとッスもんね! ひとりになって頭とか冷やしたいッスよね! わかるッス!」
「さりげない罵倒やめてください」
一気に増した疲労感を背負って旅館を出ようと振り返れば、その反動で頭の上からキューちゃんが滑り落ちてきた。やけに静かだと思ったら寝てたのか、こいつは。
割といつものことなので、難なくキャッチして、そのまま水筒の中に詰め込んでおく。
「……あ、そうだ」
どうやら見送ってくれるらしい二人のキツネに向けて、俺は駄目押しの釘刺しに取り掛かる。
「シキさんには内緒にしててください。大事な愛娘が、どこぞの馬の骨の狐守なんかとデートしてるなんて知られたら、大変なことになるんで」
「言わないッス! ぜええええぇっっったい言わないッス! というか怖くて言えないッス! オレっちは若い二人の味方ッスよ! ゲンさんも!」
「――えぇ、そうですね」
何かを含んだようなゲンさんの台詞と視線が気になるが、この場で追求されないのなら、それでいい。明日の一日だけでも自由に動ける時間が確保できるなら、それ以外のことはそのときに考えるだけだ。
降って湧いたようなポジティブ思考に笑いながら、俺は旅館こしあんを後にする。ほんの少しだけ、身体が軽くなったような気がした。
美観地区を抜けると、途端に日常の風景が戻ってきた。音が、光が、色が、匂いが、グラデーションのように彩度を落としながら切り替わっていく。暗く静かなバス停への道すがら、俺は今までのことと、これからのことについて考える。
勢いでユキの母親を探すことになってしまったが、ほぼユキの嗅覚くらいしか当てがない。そして、シキさんは遅くとも、あさっての夜には帰ってくるだろう。その間に、せめてユキの鼻を頼りにしなくてもよくなるほどの大きな手がかりを掴みたい。
狐し庵のスタッフからシキさんへの口止めはできた。何かを察したらしいゲンさんには不安が残るが、とりあえずは大丈夫だと信じてみる。
ほかに、シキさんへ情報が漏れる可能性があるとすれば――。
「あ」
誰もいない停留所に辿り着いたタイミングで、とある人物を思い出した俺は、慌てて携帯を取り出した。レインを立ち上げた瞬間、まさにその相手から通知が来る。
『やあ!』
デフォルメされたキツネが、そう言って元気よく前脚を上げているスタンプが表示される。送信者名――クーちゃん。
『やっぱり見てたんですか』
『うん!』
この世の中で起きていることのほとんどを知っているらしい、カミサマに近い存在のキツネ――空狐のクーちゃんには、俺の行動などお見通しらしい。キツネがこっくりと頷くスタンプが、コンマ一秒で表示される。
『ユキの母親を探すってこと』
『シキさんには言ってないですよね』
『ないよ!』
『エライ?』
顔の前で罰印をつくるキツネのスタンプが返ってきたことに、とりあえず安堵する。どうやらクーちゃんは、俺たちの行動を静観してくれるつもりでいるらしい。大きな目をうるうるさせながら首を傾げている二つ目のスタンプに、とりあえずの感謝を込めて『エライです』と返せば、すぐに大喜びで踊るキツネのイラストが表示された。
『ユキのお母さんは、本当に生きてるんですか?』
特に答えを期待しているわけではなかったが、クーちゃんと繋がっている今、ものは試しと聞いてみる。案の定『どうかな?』という、ふわっとした返答で流されてしまった。
『ユキがお母さんに会ったっていう場所は?』
『わかんない!』
いや、わかんない訳ないだろ。教える気がないだけだろ。
何か少しでもヒントが得られればと思ったが、どうやらこの空狐は真面目に答える気はないらしい。はあっと深く溜息をついたところで、新しく通知が届く。
『あきらめないで!』
「うるせー!」
完全におちょくってきてる相手にイラッとしながらも、なけなしの根気を振り絞ってもう少しだけ頑張ってみる。
『ユキが行ったお墓は?』
『足高公園墓地』
「お」
思わず声が漏れた。この問いには、ちゃんと答えてくれるらしい。珍しく、スタンプではなく文字できちんと地名が綴られていた。見覚えはなかったので、記憶するために、じっとその形を見つめる。
『ファイト!』
すぐに、二本足で立ったキツネがチアリーダーのようにボンボンを振り回しているスタンプが届く。
そうか、いつもふざけているように見えるが、ちゃんとこいつも応援してくれてるのか。腹を立てたことに若干の罪悪感を覚えながら、動画のように動き続けているそのキツネをしみじみと眺める。キツネは踊りながらくるくる回ると、最終的に俺にお尻を振って舌を出した。
「やっぱからかってるな、お前!」
『キャー!』
思わず携帯の画面に怒りをぶちまけた俺は、慌てて辺りを見回した。幸いと言うべきか、相変わらず人気はない。そして、バスも来ない。
『もうちょっと!』
『あそんで!』
『こたえるよ!』
こいつは一体何種類のスタンプを使い分けてるんだ。次々と送られてくる、全く違うキツネたちを眺めながら、どうでもいい感想が頭に浮かぶ。しばらく考えてから、ずっと頭の片隅にあった疑問を入力した。
『もしもユキのお母さんに会えたとして』
『ユキのことはわかるんですか?』
二人目……という言い方は、少し語弊があるか。ユキを産んだ本当の母親の、おそらくは生まれ変わりである女性。ユキが桜並木で見掛けたというその女性と、結局ユキは会うことができなかった。だから、わからない。
前世の記憶なんてものが存在するのか?
魂が同じでも、そこに記憶がなければ、それは全くの別人になるんじゃないか?
自分のことを覚えていない母親とユキを会わせることは、会わせないよりもよっぽど酷なことじゃないのか?
『きみは』
空狐の答えは、文字だった。
スタンプではないという事実に、思わず身が引き締まる。携帯を握る手に、自然と力が込もる。
『どうしたい?』
どう思う。ではなく。どうしたい。
――どうしたい? そんなの決まってる。
ユキが母親を探しに行くと言った。なら、会わせてやる。それだけだ。
ふと顔を上げた先に、ようやくやって来たバスのヘッドライトが見えた。




