明日、デートするぞ⑤
「ユキちゃああん、スーくうううん、おかえりなさいッス! あ~あ~あ~、よかったッス!!」
元砂糖問屋を改装した旅館こしあんの風情ある引き戸は、俺たちが辿り着いたときには既に開け放たれていた。ユキと二人でこっそり中を覗くと、奥から両手をめいっぱい広げたノルさんが歓喜の声を上げながら突進してくる。当然のように俺は反射で避けたが、ユキはといえば大人しくキューちゃんごと抱き潰されながら「ごめんなさい」と、もごもごしながら謝った。
「スーくんと一緒なら安心だとは思ってたんスけどね! 万が一、そうじゃなかったらって考えたら血の気が引いたッス!」
「旦那が不在のときに、お嬢に何かあったら、あたしらはお詫びに指を詰めなきゃなんねぇすからね」
「うひ!」
極道じみた物騒な台詞を、低音ボイスで吐息のようにささやかれてしまったら、一般ピープルの俺なんぞは恐怖に凍り付くしかない。
慌てて振り返れば、そこには予想どおりの姿があった。厨房の中では鉢巻きに覆われている短い銀髪が、橙色の街灯を混ぜた不思議な色合いで輝く。なぜか夜でもサングラスをかけた作務衣の男性は、まぎれもなく狐し庵のキッチンを担うひとで、先程はそれはそれはおいしいまかないを作ってくれた。
「ゲンさん……それ、やめてくださいっていつも言ってるんですけどっ、怖いから!」
「はっはっは。いや、すいやせん。スーさんの反応がおもしろくて、つい」
無駄にいい声で笑いながら、俺の肩を長い指でとんとんと叩く。「入り口で固まっているのもなんなんで、中にお入りなせぇ」と、そのまま背中をぐいぐい押されて半ば強制的に連れ込まれた。
もう何度も訪れているが、その度に圧倒されてしまう。一介の高校生が足を踏み入れるには二十年は早い、あまりにも格式の高すぎる旅館だ。
土間とエントランスロビーを兼ねた空間に四人が入っても、まだ果てしないほどの余裕がある。随所に絶妙に配置された調度品は、素人目に見ても相当な値打ち物だとわかるので、絶対に――たとえユキが無造作にぺたぺた触ろうとも、ゲンさんに「何を壊したところで誰も構いやしやせん」と言われていても、俺は絶対に触らないと決めていた。
昔はごくごく普通の人間の客を泊めていたこともあると聞いたが、今は狐し庵のスタッフと、キツネの関係者くらいしか立ち寄らない。そんな厳かで静謐な空間の中、ゲンさんの低い声が響く。
「さあ、お嬢。お風呂に入って、今日はもうゆっくりお休みなせぇ」
「……ん」
心配をかけてしまったという申し訳なさか、あるいはやはり、先程の話を気にしているのか。すっかり沈み込んでしまっているユキは、頭を重そうに振りながら俺を探し、目の前までゆっくりとやってきた。
「キューちゃん、ありがとう」
「……おう」
名残を惜しむように、最後にぎゅっと強く抱き締めたキューちゃんを、俺に向けて優しく掲げる。ユキの言っていた、お母さんの匂いとやらが少し気になり、受け取ったキューちゃんの腹の辺りを嗅いでみるが、特に何も引っかからない。きゅ、と嬉しそうにするキツネにいらっとしたので、そのまま額をぐりぐりと押し付けてから、頭の上に追いやった。
「スーちゃんも、ありがとね」
「……」
礼を言われる覚えのない俺に、精一杯の笑顔を残して、ユキはゆっくり踵を返した。そうして、ゲンさんに付き添われながら、自分の部屋へと向かっていく。こちらを振り返る素振りなど、全く見せずに。
――いいのか?
このままでいいのか?
何も言わないで。何もしないで。
俺は本当に、それでいいのか?
「なんスかなんスかなんなんスか! こんな時間まで、二人でデートでもしてたんスか! は~、若いっていいッスね!」
「酔っ払った親戚のおじさんですか。そんなポップでライトな話じゃない――」
だるい絡み方をしてきたノルさんを、適当にあしらおうとしたところで。
――はたと、気付く。
「ユキ」
呼びかけた相手の足が、止まった。
ゲンさんと一緒に首だけ振り向いたユキが、俺を見て目を瞬く。
今の俺はどんな顔をしてるんだ。
生まれてから一度も言ったことがない台詞を、これから口にしようとするときの人間は、一体どんな顔をするんだ。
この状況で、そんな呑気な発想が出てくる自分がおかしくて、笑えた。
「明日、デートするぞ」
「え?」
「ひゃッス!」
いや、なんであんたのほうが女の子みたいな声を出してるんですか、ノルさん。視界の隅で、はわわわわとか言いながら口元に握り拳を当てるのもやめろ、気が散る。
「でででででーとってでーとッスか!? あのデートッスか!?」
「ノルさんが六秒くらい前に言ってた、そのデートですよ。っつーか、自分で言い出したくせに、なんでそんなに動揺してるんですか」
「だってぇ! ホントにそうだとは思ってなかったッスから! え、やだぁ、ちょっ、えっ、ほんとにぃ?」
女子高生みたいにはしゃぐ大学生のことは、ひとまず意識の外に追いやるとして、俺はただ、じっとユキの反応を窺う。
当たり前だが、これは額面通りの誘いじゃない。ユキは俺の意図に、まだ気付いていないのだろう。小首を傾げながら、こちらの様子を確認している。
「デートって、どこにいくの?」
「そりゃ、カフェとか美術館とか、この辺りには楽しめる所がたくさんあるだろ。あとは……崖の上とか学校とかトンネルとか樹海とか」
「!」
この台詞で、おそらくユキは理解した。大きな目を真ん丸に見開いて、穴が開きそうなほど強く俺を見つめてくる。
およそデートスポットには成り得ない行先の羅列に潜ませた、キューちゃんがユキの母親の匂いをつけてきた可能性がある唯一の場所。本命は、それだ。そして目的も、そこにある。
「く~! 異性交遊に不慣れな男子高校生感が出てて初々しいッスね、スーくん! ここら辺なら他にもいいとこいっぱいあるッスよ? 岡山駅周辺なら岡山城とか池田動物園とかどうッスか? ホワイトタイガーのサンちゃんがめちゃくちゃ可愛いんス!」
ちくしょー、楽しそうッス! 羨ましいッス! と、なぜかひとりで盛り上がってひとりでぶち切れているノルさんは、放っておく。
「お前が行きたくないなら、行かない」
「……」
「俺は、どっちでもいい」
「行ってくればいいッス! 明日はお店もお休みだし、たまにはユキちゃんも外で思いっきり遊んでくるべきッスよ! ね、ゲンさん!」
視線を床に落として沈黙を続けるユキを見守っていたゲンさんが、ノルさんの言葉を受けて俺のいる方向へ顔を巡らせた。サングラスの黒いレンズが邪魔をしていて見えないが、その目はひょっとしたらユキを困らせている俺を咎めているのかもしれない。
少なくとも、これがデートの申し込みではないということを、ゲンさんには見抜かれている気がする。主君に忠実なゲンさんに、ユキの母親を捜索することがバレれば、ほぼ確実にシキさんに伝わってしまうだろう。ひやりと、冷たい何かが這うような感覚に、背筋が震えた。
この場での誘いは、危険な賭けだったか? 俺の言動は浅はかだったか?
――それでも。
「いく」




