-朱と交わろうが白であれ- Part 27
気が付いた時ハルサの体は冷たい戦車の装甲の上に転がっていた。何が起こったのか理解できない。咄嗟に衝撃があった自分の左足の太腿を見たハルサは血の気が引いた。すらりとした細く、長い太腿からは血がドクドクと脈と連動して溢れ出している。
……撃たれた。
ルフトジウムの肺を射抜いた狙撃手の事をすっかり忘れていた。
「こんなの――掠めただけっス……!!」
自分に言い聞かせるように叱咤するが、ただのかすり傷で済むはずがなかった。警戒していた間合いより、はるか遠くから届けられた銃弾は、ハルサの体に容赦のない破壊を刻んでいた。大動脈こそ外れてはいたものの、太腿骨は砕き、筋組織は断裂していた。そんな重傷を負っている自覚が無いまま、ハルサは直ぐに立ち上がろうとする。その瞬間アドレナリンすら貫く熱い激痛が全身跳ね上げた。
「――ッ!?」
左脚に焼けた鉄柱を突き刺されたようだった。声にならない声が喉から漏れ、頭の奥で何かが崩れ落ちたような音がした。冷たい地面に打ち付けられた肺が萎み、痛みは過呼吸のようなものを引き起こす。息が出来ない。肺が空気を拒むように震えている。脂汗と共に悲鳴が出そうになるが、ハルサは歯を食いしばって押し殺す。傷口を手で押さえる。命の源が温度を失いながら指の間から零れ落ちていく。痛みで理性を失いかけていた戦闘用獣人の本能が、彼女を揺さぶる。
立て立て立て立て立て。
敵がすぐそばにいる。立たなければ殺される。
血に濡れた瓦礫が滑り、砕けた骨と関節が悲鳴をあげる。無事だと思っている片足に全体重を乗せる。視界がぐにゃりと歪み、白黒に揺らぎ、遠くから響くような耳鳴りが世界の全てになる。
立て立て立て立て立て立て立て立て立て。
アメミットを地面に突き刺し、身体を持ち上げる。その刹那、再び甲高い破裂音が鼓膜を裂く。
「―――?」
残ったの脚が何かに弾かれたように衝撃で跳ね、足裏から大地が消えた気がした。そして彼女の頬は再び冷たい鉄板に擦りつけられる。
「っ…ぁ……ツッ…!」
ずるりと左手がアメミットから滑り落ちそうになる。今度は見なくとも何が起こったのか分かった。もう片方の脚も撃ち抜かれたのだ、と。超高速で動くハルサの脚を射抜いた奴だ。立ち上がろうとする彼女のもう片方の脚を射抜く等造作もなかっただろう。鉄板は煤とブルーブラッドで汚れていて、鉄っぽい味が口の中に広がる。立ち上がろうとしてももう力が入らない。脚が言うことを聞かない。辛うじて無事だった左腕で、アメミットを握る力すら失われていく。
立て立て立て立て立て立て立て立て立て立て立て立て立て立て立て。
立て――!
『ハルにゃん!!
大丈夫かにゃ!?
沢山の敵がそっちに向かってるのにゃ!
迎撃できるのにゃ!?
ルフトジウムの方にも――』
ラプトクィリの声に反応する余裕はもう無い。
「このっ……私を……!」
立ち上がれないという事実が恐怖ではなく、屈辱として襲ってくる。殺すべき相手に刃が届かない。六脚歩行戦車の上で動こうと必死にもがくハルサを馬鹿にするように影が一つ、また一つと周りに増えていく。
「――殺して…るっス…!」
這ってでも全員ぶっ殺してやる。腕に全体重を乗せ、血で濡れた鉄板に爪を立てる。しかし、腕も限界だった。ハルサは僅か十センチにも満たない距離を動くのが限界だった。
『応答をお願いします。
ハルサさん、ルフトジウムさん!!
まだ到着しませんか!?
もうこの位置にいるのも限界です!!
怪しまれ始めていて――』
『そんな状況じゃねーのにゃ!
お前、今すぐ助けに行けにゃ!!』
『えっ!?
いや、僕一人行った所で何も変わりませんよ!?』
『クソっ!
今助けに行くにゃから待ってるのにゃ、ハルにゃん!!』
いつの間にか屈んだ六脚歩行戦車の上に敵兵が登り、動けなくなったハルサを取り囲み始めていた。靴底が砂利を踏みつぶす音がいくつも近づいてくる。ハルサの視界に敵兵が映る。無表情な仮面とヘルメット、濁った迷彩色と肩の“大野田重工”の文字と社章。銃口だけが妙に黒く見えた。
「ッ…くっ…!
ち、近寄るなっス…!」
自分ではそう言ったつもりだ。まともな声にならず、喉に血が絡み、掠れた音しか出なかった。ハルサはアメミットを持ち上げ振り回そうとするが、察知した敵兵はすでにアメミットを踏みつけ封じていた。もう逃げ場はない。立ち上がることも出来ない。武器を振り上げるどころか腕を伸ばすことすら難しい。体温が下がっていく。黒く沈んでいく視界の中に、誰かが引きずられて投げ込まれる。
「ルフト…さ…!」
強く跳ねた心臓から出る血がすべて凍って全身を駆けたようだった。両腕を兵士に抑え付けられ、乱雑に連れてこられたのはルフトジウムだった。おそらく抵抗したのだろう。頭を銃底で殴られ、血が滲んでいる。デバウアーは取り上げられており、その両腕には分厚く、麻痺を起こす手錠が付けられている。彼女はまだ意識があるようで、光の消えかけた翡翠色の瞳がハルサを見つけた瞬間揺れる。
「ハル…サ……すま……ねぇ……」
弱く震えながら謝る彼女の姿が、胸の奥を強く締め上げる。
動け、と何度も体に命令したハルサだったがその思いは届かない。両脚から体温が血と共に流れ出していく。力を入れようとすると筋肉が悲鳴をあげる。。
アメミットを動かそうと藻搔く彼女の左腕を敵兵があざ笑うかのように踏みつける。それでもハルサは手を伸ばす。脚も動かず、立ち上がることも出来ず、伸ばした手は傷だらけになり、爪が剥がれてしまっていた。何をしても届かない。残り僅かであろう自分の命が更に縮まる事などもうどうでもよかった。
顔から落ちたモノクルとその飾りも敵兵達に踏まれて無残に砕けていた。マキミからもらった大事な物。それすら目に入らない程、ハルサはルフトジウムを助ける方法を追っていた。
一瞬を覆せるような何かが起こることを強く願ったハルサだったが、祈ることも知らない小さな狼獣人の祈りが神に届くはずもない。冷たく、凍えた体が震えている。ルフトジウムの涙の滲んだ瞳だけが、更に輝度が落ちた暗い視界の中で妙に鮮明になっていく。そんな彼女の瞳を消し去るように銃口が、額へと押し付けられる。
「―――――」
何かをルフトジウムはハルサへと伝え、にかりと微笑んだ。声は聞こえない。ただ唇の動きで分かった。
「ありがとうな」
これで最後、というようにルフトジウムは目を閉じる。
「……!」
残酷な世界はたかが一匹、獣人の命が消えようとしても救いの手を差し伸べることは無い。何も変わらず明日が来る。ハルサとルフトジウムという存在がそこに居たという事実すらすぐに消え去る。
「ル……ジ……さ…!
血反吐と共に声にならない声で彼女の名前を呼ぶ。拳銃を持った兵士の人差し指がゆっくりと引き金へと触れる。
その瞬間、世界が一度深い海の底へと沈んだように静まり返り、動きを止めた。
ハルサの視界が、聴覚が、感覚が崩壊し始める。もう耳鳴りも聞こえない。自らの荒い息遣いも、応援の六脚歩行戦車の地響きも、ハルサを甚振って楽しむ敵兵士の声も、もう何も聞こえない。
「 」
「ご主人…?」
闇の中、どこからかマキミの声が響いた。
「“――――”」
彼の伝えた言葉は、ハルサの中の狼を抑える魔法の言葉。遠い記憶の底から柔らかく浮かび上がる。苦しかった時も、泣きそうになった時も、怒りに我を失った時もハルサを支え、彼女が今ここに存在してもいい理由を与えてくれた言葉。
胸の奥に封じ込め、蓋をし、羽化しないよう抑えつけていた“何か”が静かにゆっくりと殻にヒビを入れる。暖かさでもなく、冷たさでもない。色も匂いもない何かが彼女の中心へとゆっくり流れ込む。
真っ暗だった世界が表情を変える。
色が音が、一つずつ形を取り戻す。
そんな彼女の視界のど真ん中、銃を突き付けられたルフトジウムの震えた呼吸がハルサに届く。
「“――――”」
「ご主人、今はその言葉、守らなくてもいいっスよね」
ハルサの傷がついた首輪が静かに外れ、落ちた。
-朱と交わろうが白であれ- Part 27 End




