酔越し
雨上がりの夜空。紺色の雲間から星屑が顔を覗いていた。
あの時見た月は果たしてどこに消えてしまったのかと、考える日々。
夕日は沈み、明けゆく空の下で、君と交わしたたった1つの約束は果たして今も存在しているのだろうか、この想いは今でも届いているのだろうか。そればかりを考える日々。
僕と君で築いた2人の軌跡はきっと終わりを告げる。真夜中の走者は終点まで走り抜ける。
雨に濡れた環状線。水溜まりの世界に映るのは、輝くネオンの光だけだった。
【1】
僕が6歳の時。一番の友達が死んだ。
当時の僕は交通事故の意味をロクに理解していなかった。だから友達がいなくなった時、意味が分からずにいた。
胸に穴が空いたような虚無。食べた物も、テレビの情報も、人の笑い話も、すっかりその穴から抜けてしまっていた。
どうして死んだのか分からなかったから、泣けもしない。一番の友達の葬儀で、遺影が目の前で佇んでも悲しいと感じる事すら出来ずにいた。
友達が死んで、1週間もすれば学校も教室もすっかり元に戻っている。誰もが笑っていて、誰かが泣いている。
ただそこに友達の姿が無いだけ。ランドセルが無くて、道具箱が無くて、体操着が無くて、席が無くなっているだけで何も変わりは無い。
妙な歪み。でもその歪みすら当たり前になるように日常に感化される。
奇妙な感覚に全身が襲われている最中に、友達の言葉を思い出した。
それは友達が僕の目の前からいなくなる前日に遺した言葉。
何でもない手紙の話だ。手紙というものはどこにでも、誰にでも届いて自分の伝えたい事を相手に伝える事ができる魔法の紙だって。
見えない糸で繋がる僕達は少しの事では切れない。無くなる事のない関係は強く光り輝く。
その話を思い出した時、僕はいなくなった友達に手紙を送ろうと思った。大人達は声を揃えて「お友達は空に行った」と言っていたから、手紙を空に飛ばせば良いのだろう、そう思っていた。
当時は郵便局なんて詳しくは知らなかったから。ただポストじゃ届けられないくらいに遠い場所に友達はいるって事だけは分かっていた。
だから自分で書いた手紙を送ろうと思った。変に凝った内容を書いた訳じゃない。
普段の日常を。昼の給食は何を食べただとか、放課後は何をして遊んだとか。そんな当たり前の事を。
そうそう、君は夜空が大好きでよく僕と一緒に天体観測をしていたっけ。博識な君は地球よりも大きな星は沢山あるって言っていて。
当時の僕は難しすぎてよく分からなかったけれど、君が冥王星って星が一番好きだと言うことは分かった。
大人達は君が「空に行った」と言う。君は「冥王星が好きだ」と言う。なら僕はこの手紙を冥王星に送れば良いだけだ。
あまりにも単純で浅はかな回答。でも幼い頃の僕にはそれが精一杯の答えだったから。
自分で書いた手紙を紙飛行機に折る。そうして空に飛ばせばきっと冥王星まで届くと信じて止まなかった。
紙飛行機を折っている途中で、君の表情を夢想すると共に思い出す。
そう言えば君はどうして「冥王星」が好きなのだろう、と。
そして思い出した。冥王星は太陽系の中で太陽から一番遠い星で、太陽の周りの星と比べてもあまりにも小さい星だと。
正直言っていらない星。人間が太陽系で唯一訪れた事の無い星。でも、その星でも太陽の光を受けて目一杯輝いているって。−230度の凍てつく大気の中で、誰かに認めてもらいたくて必死に光っている。
そんなひたむきな星だから好きだって。
よく分からなかったけれど、とにかく冥王星が好きだったのだろう。
紙飛行機を折り終わった僕は真夜中の学校に忍び込んで、屋上から空に向けてそれを飛ばそうとしていた。
凍えるくらいに肌寒い夜。グラウンドのぬかるんだ土に霜が降っていた。
暗く染まる世界。僕は右手に紙飛行機を持って空を仰いだ。そうして、冥王星の光ってヤツを探してみた。
でも空には数え切れないくらいの星が散りばめられていて、どれが冥王星だか見当もつかない。
君に教えてもらった「オリオン座」が辛うじて分かった。同時に君に星の事について聞けなくなってしまったんだと否応なく理解して、初めて悲しく、寂しく感じた。
指先に掴まれた僕の精一杯の言葉も、果たしていなくなった君に届くのかどうか、疑わしく思っていた時。
追い風が僕を追い越して右手の指先の言葉を掬い取って奪い去ってしまった。
僕は声を上げる隙もなく、柵から身を乗り出して手紙を掴もうとする。でもその手は届く事はなく、空に高く昇って行ってしまった。
僕の掃き溜めを作らせないかのようなその行為に、何も言えずにいた。
【2】
あの日から沢山の歳月が過ぎた。
すっかり変わり果てた町並みを見渡す。久しぶりに帰ってきた故郷も故郷らしく感じなくなっていた。
歩道橋の上で、相変わらず僕は空を仰いでいる。6歳の頃に一人で誓った約束の中はまだ続いているのかと。
今日は君の誕生日だからケーキも買ってきた。
沢山の歳月を経て、知識は広がった分、心は狭くなった。
大人になる事を否定しているわけじゃない、ただ子どもの頃に出来た事が出来なくなっている事に腹立たしく感じるだけ。
今ではあの時の手紙は無意味だって分かっている。だけれどそれ以上に事実を認めたくなかった。
雨上がりの濡れた鉄柵の上に両腕を乗せる。闇を吸収した鉄柵に火照った体はひんやりと冷まされて気持ち良く感じる。
空を仰いでみてもやっぱり冥王星は見えずに、辛うじて「さそり座」がどこにあるのかが分かるだけだった。
そういえば、数年程前の話だけれど、冥王星が太陽系から外された。
誰かに知ってもらいたくてひたむきに光っていた星も、結局誰にも知ってもらえずに終わった。
今の冥王星が昔の君のように思えて仕方なくて。
流れ星が流れる。逃げるなよ。消えるなよ。
遠くへ行ってしまった君。もう会うこともない親友。
望郷は虚しく、その標は意味をなさずにいる。
過ぎゆく光。引きずった過去の音も段々と消え失せて行く。
ああ、この想いが届けよ。手を伸ばした指先が冥王星の光で焼け焦げろよ。
気が遠くなるほどに時は重なった。それでも叶わなかった。
誰にも届かない、昨日も今日も明日も。
本当に約束は守られているのだろうか。
もう意味なんか無くなってこうやって宵を越す。
そうやって自暴自棄になっていると、後頭部にコツンと。
何かが刺さった。不意に地面に落ちたそれを拾い上げてみると。
紙飛行機。瞬時に心臓が跳ねた。
あまりにも予想外だったから。でもその予想外を予想していた自分がいる。
揺れる心を必死に抑えて紙飛行機を開いてみる。
紙飛行機には何かが書かれていて。見覚えのある字、記憶の螺旋を辿るように。暗くてよくは見えないけれど。
あ、でも。もうじき光は差すだろう。
だってほら。
朝が来た。




