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第二章 日本妖怪区(前編)― 沈黙と間の芸術 ―

 日本妖怪区は、笑界の中でも最も古い歴史を持つ地域だとヌラリ翁の話にあった。


 歩いていくうちに景色が変わった。大正時代か昭和初期の日本に迷い込んだような街並みが続く。提灯が揺れ、下駄の音が石畳に響き、どこからともなく三味線の音が漏れ聞こえてくる。


 しかしよく見ると住人はすべて妖怪だった。


 一つ目の行商人が「いらっしゃいませ~」と言いながら豆腐を売り、尻尾の生えた猫娘が縁側で毛繕いをし、首が九十センチほど伸びた女性がのんびり洗濯物を干していた。


 第一の笑石「驚きの石」はこの地域に存在するという。ヌラリ翁の地図によれば、「笑い祭の最高潮に石が姿を現す」と書いてある——ただしその「笑い祭」がどこで開かれているのかの記載が、地図の折り目で消えていた。


 笑いの試練を経て石は現れる。ソラにはその意味がまだ分からなかったが、とにかく進むしかなかった。


       ◆


 最初の事件は、路地の奥で起きた。


 喚き声が聞こえてくる。男二人の声だ。怒鳴り合っているわけではなく、互いにまくし立てるように訴えている。


 ソラが路地を曲がると、漫才の舞台が設営されていた。「御霊Brosごりょうぶろす」という看板が出ており、二体の怨霊が客(近所の妖怪たち)に向かって演じている最中だった。


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No.2

モンスター名:怨霊・御霊Bros

分類:日本妖怪

芸人スタイル:キレ芸漫才師

ストーリー概要:平安時代から続くクレームを現代のM-1グランプリの舞台で炸裂させる怨霊コンビ「御霊Bros」。延々と「あの時の仕打ちが許せん!」と叫び続け、審査員が気づけば千年前の話だった。優勝するもコメントが長すぎてカメラが回り続ける。

見どころ・テーマ:積年の怒りと笑いの紙一重、歴史的恨みの現代化

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 「あのですね! 菅原道真公のこつばい! あん件、やっぱりゆるさんとですよ!」

 「そうたい! 太宰府に流したあん件ばい! 千二百年経ってもまだはらわたが煮えくりかえるとです!」

 「いや、はらわたなかろうもん、わしら!」

 「あ、そうか! それもゆるさんとよ! はらわたまでなくさせた!」


 客席の妖怪たちが爆笑している。


 「でもな!」と一方の怨霊が続けた。「現代はもっとひどいんですよ! SNSで千年前のこと蒸し返されるんですよ! エゴサしたら出てきますやん『道真、太宰府案件』って!」

 「トレンド入りしてたで!」

 「霊的プライバシーの侵害や! 怨霊にも人権あるやろ! いや、あるのかな? もう人やないか!」

 「人やないわ! でもそれも怨むで! 人権失った恨み!」


 笑い声がまた一段大きくなった。


 ソラは路地の端に立って観ていた。内容は理解できる——むしろ非常によく理解できた。平安時代の菅原道真の太宰府左遷事件。その怨念が御霊信仰として現代まで続いていること。そしてそれをSNSと絡めた現代風の表現に昇華させていること。


 知識として「これは笑いを意図した演技であり、歴史的事実をベースに現代の文脈と掛け合わせたメタユーモアの構造を持つ」と分かる。


 しかし笑いたいという感情が、全く湧いてこない。


 なぜ笑えないのか——それは分からない。笑いのメカニズムとしての説明はできる。「期待と裏切り」「文脈の二重性」「仲間内の共有認識」——どれも当てはまる。しかし分かることと、笑うことの間に、何か厚い壁がある。


 「あなた、笑っとらんとですか」


 隣から声がした。


 いつのまにか一人の小柄な女性が立っていた。半透明で、どこかもやもやとした輪郭をしている。生霊のナマコだと、後で知った。


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No.3

モンスター名:生霊・ナマコ

分類:日本妖怪

芸人スタイル:ストーカー系モノマネ

ストーリー概要:ネタの相手本人の目の前で本人のモノマネを披露する生霊芸人・ナマコ。「あなた朝7時に歯磨きしながらつぶやいてましたよね」と完璧再現。本人が爆笑するも後で「なぜ知ってる」と怖くなる。

見どころ・テーマ:観察眼と狂気の境界線、笑いと恐怖の融合

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 「……ネタの構造は理解できますが、笑いの感情が——」


 「あなた、さっき地図を見るとき左手で持って右手でメモしながら、口の端を少しだけ動かして内容を確認してましたよね」


 「……そうかもしれません」


 「あと一昨日、宇宙船の中で歯を磨きながら論文の要旨を声に出してましたよね。『宇宙放射線が腸内細菌叢に与える影響について』って」


 ソラはひやりとした。


 「……なぜ知っているんですか」


 「生霊なので」


 ナマコはさらっと言った。


 「観察が趣味なんです。あなたの場合、笑いの感情スイッチが正面玄関ではなく裏口にあるんじゃないかと思って。外からは見えにくい場所に」


 それは笑いについての話なのか、解剖学についての話なのか、ソラには判断がつかなかった。


 そのとき御霊Brosの漫才が新展開に入った。


 「でもねー! この現代ちゅうのはですね、怒りのエネルギーば生産的な方向に転換できればって思うとですよ!」

 「それどっかで聞いたばい!」

 「さっきそこにおった人間が言いよったとですよ!」

 「どがん人間な?」

 「笑えん天才医師!」

 「あー、あの人か! 確かに! 言いよったたい! さっきつぶやいとったばい!」


 客席が沸いた。ソラが振り返ると、近くにいた妖怪たちが全員こちらを見ていた。


 「……私が言ったことが、ネタになって」


 「それが『驚き』ですよ」とナマコが言った。「予想外の展開。あなたがいることで、この場の笑いのエネルギーが増幅された」


 ソラには笑いの感情はなかった。しかし——何かが、胸のあたりで微かに動いた気がした。


 舞台の端で、何かが淡く光った。


 まだ弱い光だったが——それが第一の笑石「驚きの石」の反応だと、後になって分かった。


       ◆


 ナマコが「もう少し面白いことを言ってやる」と言いながら去り、ソラは路地を出た。


 しばらく歩くと、路地の奥に別のステージがあった。


 続いて出会ったのは、一点集中ツッコミの一つ目小僧・ヒトメと、生霊ナマコのコラボ企画だった。


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No.11

モンスター名:一つ目小僧・ヒトメ

分類:日本妖怪

芸人スタイル:一点集中ツッコミ

ストーリー概要:一つの目が焦点を絞り込み、ボケの核心だけを射貫くツッコミ芸人・ヒトメ。「そこだけ!」という精度の高さで人気爆発。しかし疲れると視野が狭くなりすぎてネタを見失う人間ドラマ。

見どころ・テーマ:集中力と視野の拡張、精度と見落としのジレンマ

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 ナマコがソラに「もう少し付き合ってほしい」と言い、古びた寄席の舞台へと引っ張っていく。


 「断ることはできますか」とソラが聞いた。


 「できないことはないけど、面白くないから来てほしい」とナマコが答えた。


 「……その理由で従う理由はありませんが」


 「でも来るでしょ、あなた」


 ソラは来た。


 舞台の上には既にヒトメが立っていた。一つの目が頭の真ん中にあり、その瞳は針のように細く鋭い。ツッコミ芸人として笑界で名の知れた存在だという。目が一つしかないにもかかわらず、その一つの瞳の焦点の精度は常人の十倍と言われていた。ボケの「核心」だけを見抜き、余分なものを全部切り捨ててツッコむ——それがヒトメのスタイルだ。


 「準備はいいか」とヒトメがナマコに言った。


 「いつでも」とナマコが答えた。


 「当事者に断りは取ったか」とヒトメが言った。


 「取ってない」とナマコが答えた。


 「……それは問題では」とソラが言いかけたが、演目が始まった。


 タイトルは「ソラあるある」だった。


 「朝、船内を歩くとき、廊下の壁に手を当てて振動を確かめながら歩く」


 ソラが固まった。確かにそうだ。船体の異常は微振動から現れることが多いため、歩行中も無意識に壁を確認する癖がある。しかしなぜナマコがそれを——


 「医療端末を見るとき、必ずディスプレイを三センチ傾けて視認する。乱視の補正ではなく、光の反射を避けるため。左手でメモを取りながら同時に行う」


 「……」


 「ご飯を食べながら、食材の栄養成分を頭の中で計算する癖がある。米を見たら炭水化物量、卵を見たらタンパク質量が自動で浮かぶ。だから食事に三十秒以上かかったことがない」


 「それは……職業上の習慣であって——」


 「でも」とナマコが静かに言った。「今朝、笑界の朝ごはんを食べたとき、最初に出てきた言葉は栄養成分じゃなかった」


 「……」


 「『美味しい』だった。数値より先に、感覚が来た。あなたの中で、何かが変わり始めてる」


 静寂が落ちた。


 客席がどっと沸いた。ヒトメが一歩前に出て、鋭く言い放った。


 「それだけ見てりゃ分かる! あんた自身より、あんたの変化をナマコが一番よく知ってる——それが一番面白いんや!」


 ソラは何も言えなかった。


 「観察する側の人間が、観察される側になる笑い」——それが「共感」の笑いへの第一歩だと、ソラはぼんやりと感じていた。そしてもうひとつ——「美味しい」と最初に思ったことを、自分では気づいていなかった事実が、少し——胸の奥を、温めた。


       ◆


 その夕方、死霊コント師・ネクロと鬼芸人・キンタの舞台に遭遇した。


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No.4

モンスター名:死霊コント師・ネクロ

分類:日本妖怪

芸人スタイル:無言コント師

ストーリー概要:喋らない、動かない、リアクションしない。それが死霊コント師ネクロの芸風。相方が全力でボケを繰り出すも死霊は微動だにしない。観客はやがて「なぜ笑えるんだ」と混乱しながら爆笑する。

見どころ・テーマ:「何もしない」という究極の芸、虚無の美学

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 というより、巻き込まれた。


 路地を抜けた先に、小さな広場があった。特設の簡易舞台が組まれており、近所の妖怪たちが十数体、地べたに座って舞台を眺めている。


 鬼芸人・キンタは二メートル半の巨体に、太鼓のような腕を持つ芸人で、ツッコミ専門だという。問題は「力加減ができない」ことで、ツッコむたびに相方が吹き飛ぶため、相方探しに苦労していた。


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No.6

モンスター名:鬼芸人・キンタ

分類:日本妖怪

芸人スタイル:ツッコミ専門漫才師

ストーリー概要:ツッコミが強すぎて相方が毎回吹き飛ぶ。鬼芸人・キンタが伝説の漫才師を目指す中、相方探しに奔走する物語。最終的に頑丈なゴーレムをパートナーにしてM-1決勝へ。

見どころ・テーマ:力加減と絆、暴力とユーモアの共存

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 そのキンタが現在組んでいる相方が、死霊コント師・ネクロだった。


 ネクロは——動かなかった。完全に。


 立っている。呼吸しているかも怪しい。目を開けているが、瞬きもしない。白衣に近い色の薄い着物を着ており、肌は青白く、手足は細い。死霊という説明がなければ、重篤な患者が誤ってここに迷い込んだと診断しかねない外見だった。


 ソラは端から観察した。「死後硬直の状態に似ているが、立位を保持しているため筋緊張は残存している。これは……」


 キンタが全力でボケた。


 「俺はな! 千年以上鬼やっとるんやで! それで今の時代どうや! スマホてなんやねん! 鬼も使うんかいな! 使わんわいな! そんなん使ったら鬼が廃業やがな! 角あるのにAirPods入らへんし、ほんまどないなっとんねん!」


 客席がそれなりに笑った。しかしネクロは微動だにしない。


 「聞いとるか!」


 ネクロは動かない。


 「……聞いとらんやないか!」


 またツッコみ。今度は少し大きく叫んだ。


 ネクロは——ほんの少しだけ、風圧で後ろに傾いた。


 客席が爆笑した。「傾いただけ」がキンタの渾身のツッコミへの返答として成立した瞬間だった。ソラはその反応を見て「なぜ傾くだけで笑いが成立するのか」を考えた。予測——期待——裏切り。あれだけの大声を出して「傾くだけ」という返答の落差。最小の反応が最大のツッコミに対する答えになるという非対称性。


 「……それが面白いのか」とソラはつぶやいた。声に出したつもりはなかった。


 「お! 人間やないか!」とキンタの目が光った。「ちょうどええわ! ネクロへのツッコミが伝わっとるか、人間に判定してもらおか!」


 「私は医師なので——」


 「腐敗防止処置の観点から、この存在の舞台活動を継続することは——」


 「そこちゃうがな!」


 ソラが吹き飛んだ。


 物理的に一メートル半ほど横に飛び、草の上に着地した。全身で受け止めたが痛みはほぼない——宇宙船勤務で鍛えた体幹が生きた。ゆっくり立ち上がり、白衣の草を払いながら「腹部への衝撃は想定内。頭部・脊椎への異常なし」と自己チェックした。


 客席が今日一番の爆笑に包まれた。


 「白衣のまま草を払ってる!」「しかも落ち着いてる!」「自分の体を診断してる!」


 地面から完全に起き上がったソラが舞台の端を見ると、小さな光があった。


 驚きの石が、さっきより確実に明るく輝いていた。キンタが「あ」と言った。ネクロが——ほんの僅かだけ——顔の向きを、その光の方向に変えた。


       ◆


 翌日は水の音で目が覚めた。


 笑界の川はゆったりと流れていた。


 川幅は地球の中規模河川ほどで、水は透明度が高く、底の石まで鮮明に見える。その川底が、薄く光っていた。砂の代わりに光る粒が堆積しているように見える。笑素の結晶だろうかとソラは記録した。光の強さは一定ではなく、岸辺の寄席から笑い声が上がるたびに川底の輝きが増す。笑素の分布と笑いの発生源が相関している——この観察をソラは手帳に三行書いた。


 川沿いに設置された屋外ステージに、河童芸人・カッパ太郎がいた。


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No.7

モンスター名:河童芸人・カッパ太郎

分類:日本妖怪

芸人スタイル:水中スタント芸人

ストーリー概要:川底スタジオを開設した河童芸人・カッパ太郎。全てのロケを水中で敢行するが、ゲストは全員溺れかける。唯一完泳したのが人魚だったというオチで視聴率急上昇。

見どころ・テーマ:環境適応の笑い、水中というハンディとの格闘

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 「おー! 人間だば! ちょうどよがったぁ! 一緒さロゲやらいん!」


 カッパ太郎は左手にかっぱ巻きを持ったまま話しかけてきた。海苔の香りが漂う。


 「ロケ」


 「川底スタジオがらの中継するやづだ! いづもゲストが全員おぼれがけになるんだけど、今日の予定だったゲストがキャンセルになってしまって——」とカッパ太郎はかっぱ巻きをひとかじりして続けた。


 「私は泳げますが、医師なのでロケには——」


 「泳げるなら問題ねぇ! 医師ならおぼれでも自分で対処できる! 最高のゲストだ!」とまたかっぱ巻きをかじった。


 「その論理は破綻しています」


 「んだば決まりだ!」


 水に投げ込まれた。


 宣言通り、カッパ太郎が腕を掴んで川に放り込んだ。水温は体温より低く、最初の一秒で全身が引き締まった。しかしパニックにはならない——ソラは宇宙船勤務に必要な遊泳訓練を修了しており、突然の入水にも対応できる。


 問題はカッパ太郎のペースだった。


 川底を這うように潜り、水中カメラに向かってコメントを続けるカッパ太郎の速度は、ソラの遊泳能力の三倍以上だった。泡の中でカッパ太郎が「今日のゲストはこちらだ!」と言っているのが、音としては聞こえないが口の動きで分かった。右手は水中カメラを向けながら、左手にはなぜかまだかっぱ巻きを持っていた。


 カメラがソラに向く。


 ソラは水中で、できる限り冷静に言った。「笑えない人間の医師です。正確には笑いの感情トリガーが——」


 「ぶくぶくぶく!」


 台詞の後半が全部泡になった。それはそうだ、水中で喋れるわけがない。分かっていたはずなのに喋ろうとした自分が、ソラには珍しく「やや不合理だった」と感じられた。


 浮上した。水面に顔を出して深呼吸する。三度の呼吸で酸素を回復し、また潜る。


 カッパ太郎がジェスチャーで「こっち来い」と言っている。ソラは潜って後に続いた。川底に、小さな囲いがあった。水中スタジオだった。透明なドームのような構造で、中に空気の層がある。


 「ようこそ川底スタジオさ!」とカッパ太郎が元気よく言った。水中にもかかわらず、かっぱ巻きを持ったままだった。水の中でもかっぱ巻きの形が崩れていない——河童の魔法だろうか。


 「……これは密閉構造ですか。酸素の供給経路は」


 「河童の魔法だ!」


 「……それは医学的に——」


 「笑えない医師が川底で医学ば語る! 最高だべ!」とかっぱ巻きをひとかじりした。


 ソラは「最高かどうかは判断保留です」と言ったが、その言葉が岸でモニターを見ていた妖怪たちに爆笑をもたらしたことを、ソラはその時点では知らなかった。


 ロケは三十分続いた。


 カッパ太郎が川底の生物を紹介するたびにソラが医学的名称を言い、カッパ太郎が「それ何語や」と突っ込み、ソラが「ラテン語です」と答え、カッパ太郎が「笑界にラテン語通じると思うか!」と叫ぶ。その繰り返しが、岸では大好評だったらしい。


 川から上がったとき、ソラの濡れた白衣に、小さな何かが貼り付いていた。


 光る石のかけらだった。


 まだ欠片に過ぎない。しかし確かに——「驚きの石」の成分だった。透明で、内側に小さな光の粒が揺れている。持ち上げると、ひんやりと冷たかった。


 カッパ太郎がにやっと笑った。かっぱ巻きを最後のひとかじりで食べ終えた。


 「人間が全力で水中でしゃべろうとする姿、笑界始まって以来の珍事だ。石が反応するわけだべ」


 「……笑いの試練は、笑えることではなく、全力で取り組むことが条件なんですか」


 「さあな。でもあんたは今日、全力だったど思うよ」


 「溺れかけました」


 「それが全力だ」


 カッパ太郎はそう言って、ポケットから新しいかっぱ巻きを取り出し(どこに入っていたのか)、一口かじってから川に飛び込んだ。川底がまた少し輝いた。


       ◆


 その夜、偶然にもキンタと同じ宿になった。


 笑界の宿は地球の旅籠に似た造りで、狭い廊下を挟んで部屋が並んでいる。食事は共用の囲炉裏端で取る形式だ。ソラが夕飯を食べていると、向かいにキンタが座った。二メートル半の体が座ると、それだけで食卓が圧迫感に包まれる。


 「あんた、今日吹き飛ばしてすまんかった」とキンタが言った。


 「骨格・内臓ともに異常なし。問題ありません」


 「……医師らしい謝罪の受け取り方やな」


 しばらく無言で飯を食った。笑界の飯は、米に似た穀物と、野菜に似た何かと、汁物で構成されていた。味は地球の食事に近いが、全体的に甘みがある。


 「あなたはなぜ漫才を続けるんですか」とソラが箸を置いて聞いた。


 「……いきなりやな」とキンタが言った。


 「食事中の方が答えやすいと思いまして。緊張が緩む傾向があります」


 「医師の聞き込み技法か」


 「問診の基本です」


 キンタはしばらく飯を食い続けた。急かさずに待った。患者が答えるまで待つ——それがソラの問診のスタイルだった。


 「好きやからに決まっとるがな」とキンタがやがて言った。「もう、それだけやで。笑わせるのが好きやねん」


 「漫才が? それともツッコミが?」


 「ツッコむことが、というより——誰かのボケを受け取ることが、好きなんかもしれん」


 「受け取る?」


 「ボケって、投げかけやん。相手が何か変なことを言う、やる。それを俺が受け取って、返す。その往復が好きや。力が強すぎて毎回相方が吹き飛ぶのは——本当は、嫌やねん」


 ソラは箸を持ったまま、少し考えた。


 「力加減を覚えることは難しいですか」


 「できひんことはないと思う。でも全力で受け取らんと、受け取った気がせえへんねん。中途半端なツッコミは、相手のボケを中途半端に受け取ることと同じや気がして」


 「……それは」とソラが言った。「外科の縫合と似ています」


 「縫合?」


 「傷を閉じるとき、力が弱すぎると縫合不全が起きる。強すぎると組織を傷める。ちょうどいい力加減が必要で——でもそれは、患者の組織の状態に合わせて毎回変わる。相手に合わせる力加減です」


 キンタが「……相手に合わせる力加減」と繰り返した。


 「相方の体に合わせた力でツッコめば、吹き飛ばずに済むかもしれません。頑丈な相方を探すより、先に試してみる価値はあります」


 「……お前、医師のくせに漫才のアドバイスができるんか」


 「医師は身体と感情の両方を診ます。今の話は両方入ってました」


 キンタはしばらく黙った。


 それから「まあええか」と言って、笑った。


 大きな笑い声だった——声量だけで椀の汁が少し揺れた。しかしその笑顔を見たとき、ソラの中で何かがまた微かに動いた。


 この旅で何度か感じてきた、胸のあたりの微かな動き。笑えているわけではない。でも確かに何かが、反応している。


 「笑顔というものは、作り出すものではなく、何かに反応して出てくるものなのか」とソラは後で手帳に記録した。


 それは医師としての観察だったが——実は自分自身への問いでもあった。笑えない自分が、誰かの笑顔に反応している。その事実が、ソラには少し——不思議に感じられた。


 今夜の出来事を日誌にまとめてから、ソラは窓の外を眺めた。


 三つの月が並んで浮かんでいた。笑界の夜は静かで、どこかから三味線の音が流れてきた。地球の三味線とは少し音色が違うが、似ていた。


 乗組員たちは今、どこにいるだろうか。


 田中看護師は。副長は。コックの山田は。


 ソラはその問いを、手帳には書かなかった。書くと、夜眠れなくなる気がしたから。


 代わりに「三つの月の光度比較:左1・中0.8・右1.2(目視推定)」と書いた。


 それが、ソラなりの、夜の過ごし方だった。

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