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笑界(しょうかい)漂流記 ― 朝比奈ソラと愉快な仲間たち ―  作者: 伝説の男前


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1/7

第一章 π光年の彼方で目覚めて

 最初に感じたのは、体の重さだった。


 手足が、鉛のように重い。


 まばたきをするだけで、まぶたが痛かった。


 宇宙船「ホライゾン・ゼフィル号」は地球連邦宇宙探査局が誇る最新鋭の探査艦で、乗組員は五十二名。目的地はケプラー452b系外惑星群——地球から三・一四一五光年の彼方にある星系の調査任務だった。長距離航行を可能にするため、乗組員の大半は航行中に「コールドスリープ」と呼ばれる冬眠状態に入る。体温を摂氏四度まで下げ、代謝を極限まで抑制することで、数百日の旅を数時間の感覚で乗り越える技術だ。


 朝比奈ソラが目覚めたのは、三百十七日ぶりのことだった。


 彼女はゼフィル号の船医を務めており、二十八歳にして外科・宇宙医学・ウイルス学の三分野で博士号を取得した経歴を持つ。IQ一九二。同僚たちからは「歩く医療辞典」と称されることもある。


 コールドスリープからの覚醒直後は、神経系の再起動に時間がかかる。ソラは医師として、自分の体を診るように意識を体の各部に向けた。指が動く。足が動く。視野が定まってきた。


 「覚醒確認。体温三六・四度。脈拍六十三。血圧一一五の七十二。……正常範囲」


 自分に言い聞かせるように、数値を声に出した。


 ゆっくりと上体を起こし、周囲を見た。


 カプセルベッドの並ぶ冬眠室の中に、ソラひとりがいた。


 他のカプセルは——全て、開いていた。


 空だった。


 「……?」


 ソラは立ち上がった。足元がわずかにふらつく——これも覚醒直後の正常反応だ。廊下に出た。誰もいない。ブリッジに向かった。誰もいない。医務室に戻った。誰もいない。


 静寂だけが、船の中に満ちていた。


 「乗組員は五十二名」とソラは言った。誰にでもなく。「全員、どこに——」


 そのとき。


 船体が、震えた。


 ただし、ひとつだけ決定的に欠けているものがあった——それは、ソラが幼少期から持ち続けてきた疑問への答えだ。笑いのセンスである。どこが面白いのか、神経回路のどこを刺激すれば笑いという反応が生まれるのか、二十八年間解けないままだった。


 その問いへの答えが、この旅の先で待っているとは——その時点では、まだ誰も知らなかった。


 その夜、ソラは就寝前のバイタルチェックを終え、自室に戻ろうとしていた。


 そのときだった。


 船体が、震えた。


 最初は微細な振動だった。地震に例えるなら震度一程度の揺れ。しかしそれが数秒で震度五に跳ね上がり、警報音が鳴り響いた。


 「重力波異常! 正面三十度に未観測の重力場を検知!」


 ブリッジから通信が飛んでくる。ソラが廊下に飛び出した瞬間、船体が大きく傾いた。医務室の医療機器が棚から滑り落ち、乗組員たちの怒声と悲鳴が混ざり合う。


 「ブラックホール……?」


 ソラが小窓の外を見ると、空間が歪んでいた。正確には「空間そのもの」が渦を巻いていた。星の光が引き伸ばされ、螺旋を描きながら一点に吸い込まれていく。


 地球から三・一四一五光年。π光年。


 これが最後に確認できた座標だった。


 次の瞬間、ゼフィル号は——そして朝比奈ソラは——完全な暗闇の中に消えた。


       ◆


 最初に感じたのは、音だった。


 笑い声だった。


 くすくすという控えめなものから、げらげらという大爆笑まで、様々な笑いが幾重にも重なって、まるで笑い声でできた川のようにソラの耳に流れ込んでくる。


 次に光。


 目を開けると、空が虹色だった。


 正確には七層に分かれており、一番下が深い紫、その上に藍、青、緑、黄、橙、そして頂点が鮮やかな紅。まるで大気そのものがプリズムで構成されているかのようだった。


 「……ここは」


 ソラは上体を起こした。地面は柔らかく、踏み締めると「ぷぷっ」という奇妙な音がした。草原のようだが、草の先端がわずかに発光している。


 周囲に人影はない。


 ゼフィル号もない。


 乗組員も、誰もいない。


 ソラは立ち上がり、白衣のポケットから携帯端末を取り出した。GPSは機能しない。通信も繋がらない。しかし生命維持に必要な酸素濃度・気圧・気温は、奇跡的に地球とほぼ同じ数値を示していた。


 「酸素濃度二十一パーセント。気圧一・○一気圧。気温二十二度。……生存可能環境」


 医師としての習慣で、まず状況を数値化する。パニックにならないのがソラの強みだった——いや、もしかすると笑えないのと同じ理由で感情の振り幅が小さいだけかもしれないが、今はどちらでもよかった。


 遠くに建物の影が見えた。


 提灯の光が揺れている。


 どこか——和風の、寄席のような建物だった。


 それ以外に、目につくものは何もなかった。


 草原はどこまでも続き、虹色の空が広がり、発光する草の先端が風に揺れている。静かだった——いや、静かではなかった。よく耳を澄ますと、遠くから音が聞こえてくる。


 笑い声だ。


 複数の、様々な種類の笑い声が混じり合って、距離のある川の音のように届いてくる。


 ソラは建物に向かって歩き始めた。草原を横切るのに十分ほどかかった。歩きながら、ソラは手帳を取り出して現状をまとめた。


 「状況:未知の空間に単独で存在。宇宙船・乗組員の所在不明。空気・温度・重力は地球に近似。建物(和風)あり。笑い声あり。敵意の有無不明」


 書くことで、頭が整理される。外科医として術前カンファレンスをするときと同じだ——感情を括弧に入れて、事実だけを並べる。


 近づくにつれ、建物の輪郭が鮮明になった。


       ◆


 近づいてみると、それは確かに「寄席」だった。


 単なる「それらしい建物」ではなく、明らかに長い歴史を持つ寄席だと一目で分かった。くすんだ朱塗りの柱は風雨に削られて節がむき出しになっており、竹簾の暖簾は色褪せているが丁寧に補修されている。石畳の入り口には何代もの下駄の跡が刻まれ、軒先の提灯には油のすすが積もっていた。


 そして入り口の上に掲げられた大きな看板には「笑界寄席 本日大入」と書かれている。


 「笑界」という文字をソラは一度確認した。手帳に書き写した。


 扉の隙間から笑い声が漏れていた。先ほど遠くから聞こえていたものより、ずっと豊かで、複雑で、重層的な笑いだった。一種類ではない。高い声、低い声、「ひゃっ」と短く弾ける笑いと「ぐはははは」と腹の底から転がるような笑いが、混然と重なっている。


 入り口の横に、手書きの張り紙があった。


 「入場無料。ただし、笑える者も笑えない者も、ここに来た者はみな等しく客である」


 変わった文句だとソラは思った。「笑えない者も」という一文が、わざわざ書き添えてある。


 ソラは逡巡した。


 医師としての判断は「安全を確認してから行動せよ」だ。しかしここには確認すべき仲間もおらず、情報を得るには中に入るしかない。外には何もなく、中には何かある。論理的帰結として——そして、あの張り紙が何となく背中を押した気がして——ソラは暖簾をくぐった。


 中に入った瞬間、数十の視線がソラに集まった。


 観客は……モンスターだった。


 鬼がいた。河童がいた。猫又がいた。そのほか、ソラには名前の分からない異形の存在たちが、ぎゅうぎゅう詰めで座布団に座り、舞台を見つめていた。


 舞台の上には——何もいなかった。


 いや、正確には「いた」。


 真っ白な着物を着た、半透明の女性が、ただそこに立っていた。


 観客のモンスターたちは爆笑している。げらげらと、ひーひーと、「もうやめてくれ腹が痛い」と床を叩いている。しかし舞台の上の女性は何もしていない。喋らない。動かない。ただ立っているだけだ。


 ソラには全く意味が分からなかった。


 「……ただ立っているだけでは?」


 思わずつぶやいた言葉が、静寂の中に落ちた。


 次の瞬間、観客のモンスターたちが、今までの三倍の音量で笑い出した。


 「ぎゃははは! 人間が来た! 人間が正直なこと言った!」

 「『ただ立っているだけ』! そうそう、それが最高なんだよ!」

 「この人間、センスある! 呼んだわけじゃないのに!」


 舞台の上の女性——幽霊のシズカ——が、ゆっくりとソラのほうを向いた。視線が合う。透き通った目だった。


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No.1

モンスター名:幽霊・シズカ

分類:日本妖怪

芸人スタイル:ピン芸人(間芸)

ストーリー概要:深夜の寄席に現れた幽霊・シズカは、舞台に立ち何も喋らない。ただ佇む。観客は最初は戸惑うが、やがてその「間」に笑いを見出す。プロデューサーが彼女を全国ツアーに引っ張り出そうとするが、彼女は「舞台の外は怖い」と消えてしまう。

見どころ・テーマ:存在するだけで笑いが生まれる「沈黙の芸術」と孤独

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 シズカはそっと、舞台を降りた。


 そして誰にも聞こえないほどの小声で、ソラの耳元に囁いた。


 「あなた、笑いが全く分からないのに舞台に立てる。……それ自体が、一番の芸よ」


 ソラは返す言葉が見つからなかった。


       ◆



 「おお、おお、地球から来た珍客じゃ」


 寄席の出口近くに、いつのまにか老人がいた。


 何の変哲もない小柄な老人に見えたが——よく考えると、誰もこの老人を「招いた」様子がない。寄席の客でもなく、従業員でもなく、ただ「そこにいた」。本人の登場を誰も認識していないのに、いつの間にか存在している。まるで空気のように、あるいは寄席の柱のように、最初からそこにあった気がしてしまう。


 老人は着物の裾を直しながら、ソラに向かってにこにこと笑いかけた。


 「ヌラリ翁と申す。まあそこに座りなさい。長い話になるぞ」


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No.12

モンスター名:ぬらりひょん・ヌラリ翁

分類:日本妖怪

芸人スタイル:楽屋ベテラン芸人

ストーリー概要:誰も呼んでいないのに楽屋に自然といる妖怪大御所・ヌラリ翁。後輩に無限の人生訓を語り続け、気づけば主役より存在感を放つ。テレビに映っていないのに視聴者に記憶される不思議なベテラン伝説。

見どころ・テーマ:経験値と存在感、見えない影響力

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 ぬらりひょんのヌラリ翁だと、ソラはすぐに理解した。見た目には普通の老人だが、妖怪の中でも「総大将」と呼ばれる存在だという知識が、どこかの本で読んだ記憶と一致する。招かれてもいないのに人の家に上がり込み、それでいて誰にも違和感を抱かせない——それがぬらりひょんの本質だ。確かに今、誰もこの老人の存在に疑問を呈していなかった。寄席の主人も、河童の観客も、幽霊のシズカでさえ、当然のようにヌラリ翁がそこにいることを受け入れていた。


 医師として初診の患者を観察するように、ソラはヌラリ翁を見た。


 年齢は——判断がつかない。八十代にも見えるし、それ以上にも見える。顔のしわは深いが、目だけが異様に若い。切れ長の目に宿る光は、長い時間を見てきた者だけが持つ、静かな鋭さを帯びていた。


 「……失礼ですが、あなたは誰に招かれましたか」


 ソラが聞いた。


 「誰にも」とヌラリ翁はあっさり言った。「わしはいつも、いるべきと思う場所におる。それだけじゃ」


 「……それは侵入では」


 「人聞きが悪い。存在しているだけじゃよ」


 ヌラリ翁はそう言って、どこからともなく湯飲みを取り出した。何もなかった畳の上に、いつのまにか小さな卓袱台が出現しており、急須と湯飲みが二客並んでいた。


 「座りなさい」


 「……なぜあなたの言う通りに」


 「まあ、座りなさい」


 ソラは座った。なぜ座ったのか、後から考えても分からなかった。


         *


 ヌラリ翁の隣には、小さな子供のような存在が座っていた。


 七歳くらいの女の子に見えるが、半透明で、踏み入れた廊下の木目が透けて見える。着物は淡い水色で、髪を二つに結んでいる。音もなくそこにいた。ヌラリ翁が紹介するまで、ソラはその存在に気付いていなかった——というより、気付いていたのに意識が滑っていたような、奇妙な感覚があった。


 「ザシ子だ。座敷童子じゃよ。気にしなくていい」とヌラリ翁が言う。


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No.9

モンスター名:座敷童子・ザシ子

分類:日本妖怪

芸人スタイル:福の神芸人

ストーリー概要:客席を歩き回るだけで運気を上げる座敷童子・ザシ子。彼女が来た劇場は翌日から全員の仕事が好転。しかし本人は全くウケない芸しかできない。それでも満員御礼が続くという謎の現象。

見どころ・テーマ:福と笑いの非相関、存在価値とは何か

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 ザシ子は何も言わなかった。ただソラの隣にちょこんと座り直し、小さな手を膝の上で揃えて、正面を向いた。


 しかしその瞬間から、寄席の中の空気が少し変わった。


 暖かくなった——というより、「あるべき温度に戻った」という感覚だった。さっき廊下で盛大に転んだ観客の河童が、ふと立ち上がって「あ、急に仕事が決まった気がする」と言い出した。隅で眠っていた猫又が「そういえば今日、財布を落としてなかった」と気づいて喜んでいる。笑いが絶えない空間が、さらに豊かな何かで満たされていく。


 「……プラセボ効果の一種か、あるいは環境的な要因によるセロトニン分泌の変化か」とソラは考えた。「いや、この場合は集合的な感情状態が——」


 「難しいことを考えるより、茶でも飲みなさい」


 ヌラリ翁が湯飲みをソラの前に押した。


 緑茶だった。笑界の茶葉なのか、香りがわずかに甘く、飲むと喉の奥がほんのり温かくなった。薬効成分の分析を始めようとして、ソラはやめた。


 「ここはどこですか。私は朝比奈ソラ、宇宙船ホライゾン・ゼフィル号の船医です。ブラックホールに吸い込まれ——乗組員が五十二名いたはずなのですが、現在確認できているのは私一人で、医療的にも——」


 「知っておる、知っておる」


 ヌラリ翁は口をひげで覆いながら、ゆっくりと茶を飲んだ。


 「全部知っておる。宇宙船も、ブラックホールも、乗組員のことも」


 「ならばなぜ——」


 「焦るな。話には順序というものがある。医師ならば診察の手順があるじゃろ。いきなり切り開くより、まず話を聞く」


 ソラは口をつぐんだ。


 「ここは『笑界しょうかい』。笑いが世界を動かす、もうひとつの宇宙じゃ」


         *


 ヌラリ翁の語りは、長かった。


 非常に長かった。


 しかしその長さが苦にならなかったのは、語られる内容が驚くほど論理的で、かつ正確だったからだ。ソラはメモを取りながら聞いた。そしてしばしば確認のために質問を挟んだが、ヌラリ翁はどの質問にも即答した。曖昧な返答が一度もなかった。長い時間を生きた存在の記憶は、確かに精度が違う。


 「笑素しょうそとは、笑いによって生産されるエネルギーです。それが世界を動かす」


 「そうじゃ。お前さんの世界でいえば、電気のようなものじゃな。見えないが確かにある。なければ灯りがつかず、機械が動かず、暖もとれない」


 「発電所に相当する施設はありますか」


 「笑い小屋、つまりこのような寄席じゃな。高座で芸人がネタをやり、客が笑う。その瞬間に笑素が空気に溶け出す。寄席ひとつで一晩に、この街全体の明かりをまかなえるほどの笑素が生まれる」


 「エネルギー変換効率はどの程度ですか」


 「……お前さん、本当に面白い質問をするのう」とヌラリ翁は言った。「他の者は誰もそんなことを聞かん」


 「答えは分かりますか」


 「分からん。測ったことがない」


 「ならば研究の余地がありますね」


 ソラはそう言って手帳に書いた。ヌラリ翁が「ふっ」と小さく笑った。その笑い方が、からかいではなく純粋な愉快さによるものだとソラは判断した。


 話は続いた。


 笑界の地理について。日本妖怪区、西洋モンスター区、悪魔区、怪獣区という大きな四つの地区と、それぞれの特色。笑界の歴史について——この世界が生まれたのはいつか、最初の芸人は誰だったか。笑素の循環について——笑いで生まれたエネルギーがどう世界に分配されるか。


 ソラはメモを取り続けた。


 その間、ザシ子はずっと黙って座っていた。


 一度だけ、ソラはザシ子を見た。ザシ子も、ソラを見ていた。半透明の目が、ただ静かにこちらを見つめていた。何も言わない。何も求めない。ただそこにいる。


 「あの子は……いつからここにいるんですか」とソラがヌラリ翁に聞いた。


 「さあのう。わしが来たときにはおった」


 「座敷童子は家に宿る存在だと聞いています。寄席に宿ることもあるんですか」


 「人が集まり、笑いが生まれる場所であれば、どこにでも現れる。家でなくともよい」


 「なぜここに今夜現れたんでしょう」


 ヌラリ翁が少し間を置いた。


 「……さあ」と言ったが、その「さあ」は「知らない」という意味ではなく「言わない」という意味に聞こえた。


 ソラはザシ子に直接聞くことにした。


 「なぜここに?」


 ザシ子は答えなかった。ただ、ソラを見たまま、小さく首を傾げた。


 それだけだった。


 しかし寄席の隅で「なんか今日、調子がいいな」と言っていた一つ目の行商人が、その瞬間「そうだ、明日の仕事の段取りを思い出した」と立ち上がった。


 「……因果関係は不明ですが」とソラはつぶやいた。「相関はあるように見えます」


 「難しく考えすぎじゃよ」とヌラリ翁が言った。「ザシ子がそこにいれば、物事が少しうまく回る。それだけのことじゃ。なぜかは、誰も分からんし、分からなくてもいい」


 「分からなくてもいい、とは」


 「お前さんは医師じゃろ。患者が回復した理由が百パーセント解明できないことはないか」


 「……あります」


 「それでも、回復したという事実は変わらんじゃろ」


 ソラは返す言葉を考えてから、「……そうですね」と言った。


         *


 「では、地球に帰るにはどうすれば」


 ソラが核心を問うと、ヌラリ翁は懐から古びた地図を取り出した。折り目だらけの、昭和のロードマップのような——というか、実際に昭和っぽい印刷物だった。カラー印刷だが退色が激しく、地名の文字がところどころ滲んでいる。


 「七つの笑石しょうせきを集めることじゃ」


 七つの笑石。


 笑界の各地に眠る伝説の宝石で、それぞれが異なる笑いの感情——「驚き」「共感」「皮肉」「無意味」「恐怖」「感動」「沈黙」——を結晶化したものだという。七つ揃えることで「笑界のブラックホール」が開き、元の宇宙への帰還ゲートが出現する。


 「各笑石の保管場所は地図に載っていますか」


 「おおよそはな」とヌラリ翁は地図を広げた。しかし地図の折り目がちょうど要所にかかっており、いくつかの地名が読み取れなかった。


 「……なぜこんなに折り目が」


 「長く持ちすぎたせいじゃな。何百年か前にもらった地図なんじゃ」


 「更新はしていないんですか」


 「面倒じゃて」


 ソラは内心で「医療記録をこの方式で管理したら患者が死ぬ」と思ったが、口には出さなかった。


 「ただし」とヌラリ翁は続けた。「各地の芸人たちが笑石を厳重に保管しておる。笑いの試練を乗り越えなければ、彼らは笑石を手放さん」


 「試練」


 「そう。笑わせるか、笑わされるか、笑いを理解するか——形は様々じゃが、笑いに関係する試練じゃ」


 「具体的には」


 「それはやってみなければ分からん。試練は芸人ごとに違う。同じ試練は存在しない」


 ソラは手帳に「試練=個別対応、事前対策不可」と書いた。


 ヌラリ翁がそのメモを見て、「……備えようとしとるのか」と言った。


 「できる準備はしておきたい」


 「笑いの試練に、準備は効かんぞ」


 「では覚悟だけ」


 「覚悟か」とヌラリ翁は少し目を細めた。「お前さんは見かけによらず、なかなか肝が据わっておるな」


 「外科医は手術室で覚悟を決める習慣があります。準備が万全でも、そうでなくても、始まったら前に進むしかない。それは同じです」


 ヌラリ翁が、少し長い間を置いた。


 「……いい言葉じゃ」


 ソラは一拍置いた。


 「……私は笑いのセンスが、ほぼゼロです」


 「知っとる」


 「それでも試練を乗り越えられますか」


 「さあのう」とヌラリ翁は言った。「乗り越えた者を、わしは見てきた。乗り越えられなかった者も見た。ただひとつ言えることがある」


 「何ですか」


 「笑いが分からない者が、笑いの何かを発見することがある。最初から分かっている者より、深いところまで辿り着くことがある」


 「それは——どういう意味ですか」


 ヌラリ翁はお茶を一口飲んだ。急須の中身がいつまでたっても減らない気がした。


 「地図で言えばじゃな、道を知っている旅人は最短距離を行く。しかし道を知らない旅人は、遠回りをして、道を知っている者が素通りした景色を見る。笑いも同じじゃ」


 「遠回りの方が良いということですか」


 「良い悪いではない。ただ——お前さんの旅は、おそらく普通の旅にはならん。それだけじゃ」


 ソラはその言葉をメモした。


 「じゃからこそ、面白い旅になると思うてな。わしはずっとここで見ておるよ」


 「見ているとは、どこから」


 「どこからでも」とヌラリ翁は言った。「わしはどこにでもおる。誰も気づかんだけで」


 ぬらりひょんらしい答えだと、ソラは思った。


         *


 ザシ子が、ソラの隣でにこっと笑った。


 唐突だった。それまで無表情に近かった半透明の少女が、突然、花が開くような笑顔を見せた。


 理由が分からなかった。ヌラリ翁が面白いことを言ったわけでもない。ソラが何かをしたわけでもない。ただ、ザシ子がそのタイミングで笑った。


 その笑顔を見た寄席中のモンスターが、なぜか全員、一拍おいて笑い出した。


 内容のある笑いではなかった。何かのオチに反応したわけでも、誰かのボケを受けたわけでもない。ただザシ子が笑ったから、全員が笑った。笑いが笑いを呼んだ——それだけのことだった。


 ソラはその現象を観察した。


 「笑いの伝播。感情の同調。……でも起点がザシ子の笑顔だとすれば、そこに笑いの原因となる情報は何もない。純粋に——存在が、笑いを生んだ?」


 「難しいことを考えておるな」とヌラリ翁が笑いながら言った。


 「笑いのトリガーが不明なのは医学的に興味深い現象です」


 「お前さんにとっては全部そうじゃろ。興味深い現象、ばかりじゃ」


 「……はい」


 「それでいい」とヌラリ翁は言った。「理解しようとする目を、失わないでくれ。それがお前さんの旅の武器じゃ」


 寄席の笑いはまだ続いていた。何が面白いのかは分からないまま、モンスターたちが笑い合っている。


 ソラだけが、ひとり、静かに地図を眺めていた。


 折り目で消えた地名を手帳に書き写しながら、読み取れる部分だけを丁寧に整理した。不完全な地図でも、持っていないよりはいい。不完全な情報でも、記録すれば武器になる——それが医師として積み重ねてきた習慣だった。


 「一つ聞いてもいいですか」とソラは地図を見ながら言った。


 「なんじゃ」


 「乗組員たちは——生きていますか」


 笑い声が満ちる寄席の中で、その問いだけが静かに落ちた。


 ヌラリ翁は少し間を置いた。


 「……分からん」と言った。「わしには分からない。しかしこの笑界に来た者が、死んだという話は聞いたことがない」


 「それは根拠になりますか」


 「なるとは言えん。ならないとも言えん」


 「……分かりました」


 ソラは地図の続きを書き写した。


 手が、一瞬だけ止まった。


 それだけだった。



       ◆


 翌朝(笑界にも朝はある——ただし空の虹色が一段明るくなるだけで、太陽は一つではなく三つある)、ソラは目を覚ました。


 寄席の座布団の上で眠っていた。いつの間に眠ったのか、記憶がない。冬眠からの覚醒直後だったため、神経系がまだ本調子でなかったのかもしれない。珍しいことだった——ソラは普段、眠る時刻と覚醒する時刻を自分でコントロールできる人間だったから。


 三つの太陽が、それぞれ微妙に異なる角度から光を注いでいた。ソラはそれを見て、影が三方向に伸びることを確認し、「この世界の時刻概念は地球と根本的に異なる可能性がある」と手帳に記した。


 地図によると、第一の笑石「驚きの石」は「日本妖怪区」と呼ばれる地域の笑い祭に関係しているらしい。


 ソラは地図を広げ、ヌラリ翁から聞いた情報と照合した。日本妖怪区は北東の方角。徒歩でおおよそ半日かかる見込みだという。その間に何があるか——地図は「妖怪の寄席が点在する」と書いているが、折り目のせいで詳細が読めない箇所がいくつかある。


 「準備するものは——」とソラは考えた。「食料、水、医療品。現地で調達できるか不明。手帳、筆記具は持っている。地図は複製できないため、主要な情報を手帳に写す必要がある」


 三十分かけて地図の読み取れる部分を全て書き写してから、ソラは立ち上がった。


 出発しようとしたとき、寄席の奥から声がした。


 「待って」


 振り返ると、そこに誰かいた。


 半透明で、肌の色がやや青みがかっている。着物は七五三のような柄だが、体の輪郭が微妙にぼやけており、後ろの壁が薄く透けて見える。年齢は三十代くらいに見えるが、目の周りに深い疲労の影がある。


 亡霊のレイコだと名乗った。


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No.5

モンスター名:亡霊クリエイター・レイコ

分類:日本妖怪

芸人スタイル:過去映像コント作家

ストーリー概要:消えた昭和の娯楽番組の映像を蒐集し、独自編集でコントを作り上げる亡霊クリエイター・レイコ。だが使用する映像は全て著作権不明。テレビ局の法務部と霊界を行き来するロードムービー。

見どころ・テーマ:過去と現在が交差するメディア論、著作権と亡霊

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 「あなたに笑界の歴史を教えてあげる。映像があるから」


 どこからともなく映写機が現れた——古い、ゼンマイ式のフィルム映写機だ。レイコが慣れた手つきでリールをセットし、スイッチを入れると、寄席の白壁に映像が映し出された。


 昭和の映像だった。ブラウン管テレビ特有の画質で、色がにじみ、フレームの端が少し歪んでいる。白黒のコント番組のオープニングテーマが流れ始めた。


 笑界の始まりが語られていた。


 かつてこの世界は笑いなき世界だった。万物が機能してはいたが、活気がなく、空の色が今より一段薄く、植物は育つが花をつけなかった。そこに最初の芸人が現れた——一体の妖怪が、仲間たちを前に、転んでみせた。それだけのことだった。しかし見ていた仲間たちが、初めて「笑い」という反応を示した。その瞬間、世界が一段明るくなった——これが笑素が生まれた瞬間だと、ナレーターが語る。


 続いて芸人たちの歴史が語られる。笑素の発見、寄席の建設、笑界の区割り。日本妖怪区が最初に形成され、西洋モンスター区、悪魔区、怪獣区の順に開拓されていった歴史。


 「これは……非常に興味深い」とソラは言った。「笑いがエネルギー源として世界を支えるなら、笑いの生産性を高めることが世界全体の問題になる。医療における健康維持と同じ構造だ」


 「そう」とレイコが頷いた。「笑素が減ると世界が暗くなる。戦争や争いで笑いが失われた時代があって、その時期は笑界全体が灰色になったと記録されてる」


 「笑いの喪失が環境の悪化に直結する……」


 「それだけじゃない。笑素が枯渇すると、この世界の生き物は眠れなくなる。食物が育たなくなる。水が濁る。だから芸人はここで最も重要な存在なの」


 ソラは手帳にメモし続けた。


 映像はさらに続いた。笑石の発見の記録——七つの石がそれぞれの場所で発見されたときの映像が、ドキュメンタリー形式で編集されている。笑界の七区それぞれで石が光る瞬間が映し出され——


 ぷつり、と映像が切れた。


 壁が真っ白になった。


 「……続きは?」


 「法務部が通してから」


 「……法務部」


 「著作権が不明な映像ばかり使ってるから。笑界の古い映像って、誰が権利を持ってるか分からないものが多くて。霊界と法務部を行き来してるの。笑界の法務部が霊界の著作権法をどう解釈するかで係争中で……」


 「それはいつ解決しますか」


 「霊界時間で言うと、早くて三百年後かな」


 「……三百年」


 「気長に待って」


 レイコは申し訳なさそうもなく——むしろ慣れた様子で——映写機とともに消えた。


 ソラはしばらくブランクになった壁を見つめた。


 「笑石発見の記録の、続き」とソラは手帳に書いた。「三百年後に確認すること」


 それから地図を手に取った。


 日本妖怪区。北東の方角。


 寄席の扉を開けると、三つの太陽が朝の光を降り注いでいた。発光する草原が広がり、遠くに山並みが見える。どこかから三味線の音が聞こえてくる。


 朝比奈ソラの、笑界漂流が始まった。


 今の時点で彼女には分かっていなかった——この旅が、「笑いが全く分からない」という欠点を最大の武器に変えていく物語であることを。乗組員たちへの想いが、旅の核心になっていくことも。そして笑えない医師が、いつか本物の笑顔を見せる日が来ることも。


 ただ一つ分かっていたのは——前に進むしかない、ということだけだった。

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