外伝1:第六話「初めての包丁、あるいは盾の休息」
西新の一角、古いビルの中にある「おおの法律事務所」の窓には、夜の帳が下りようとしていた。
デスクに積み上がった書類の山は、律子が独立してからというもの、減る気配がない。相談に訪れるのは、かつての佐野のように、誰にも言えない痛みを抱えた、社会の隙間に生きる人々だ。
「……はい。その『証拠』は、私たちが一緒に作りましょう。まずは、今夜の夕食の記録から始めてください」
電話を切った律子は、眼鏡を外して深く息を吐いた。
組織にいた頃の忙しさとは、質の違う疲労感。けれど、自分の判断ですべての依頼を受け、彼らの「生活」を守るための戦略を練る日々は、これまでにない充実感に満ちていた。
律子が帰宅すると、玄関まで駆けてきたのは小春だった。
だが、今日の小春はいつもと違う。小さな手に、使い古された愛の布巾を握りしめ、鼻の頭に白い粉をつけたまま、誇らしげに胸を張っている。
「律子ママ、おかえり! あのね、今日は小春が『鱗』、取ったんだよ!」
キッチンへ向かうと、そこには少し緊張した面持ちの愛と、シンクの中に置かれた一匹の連子鯛がいた。
三年前、第1話で律子が一人、孤独な戦いとして捌いたあの魚。今、その前には小さな踏み台に乗った小春が、愛から譲り受けた小ぶりの包丁を握って立っていた。
「……小春ちゃんがね、自分もママたちみたいに『作る人』になりたいって言ったの。だから、今日から修行を始めたんだよ」
愛の言葉に、律子はカバンを置くのも忘れ、その光景に見入った。
愛の手が、小春の小さな手に重なる。
包丁の背を使い、尾から頭へと、ゆっくりと鱗を逆なでしていく。
――パチパチ、と。
真珠のような鱗が、キッチンに舞う。
それは、律子がかつて一人で背負っていた「生活の重み」が、愛を経て、今また新しい世代へと解き放たれていく、光の粒のように見えた。
「……痛くない? お魚、痛くないかな?」
「大丈夫よ、小春。……これはね、命をいただくための、大切な準備なの。丁寧に、優しくしてあげれば、お魚はとっても美味しい『力』になってくれるわ」
愛の教え方は、かつての重雄のような厳格さではなく、寄り添うような優しさに満ちていた。
鱗を取り終えた小春が、満足げに自分の手を見つめる。少しだけ生臭くなったその手は、かつて「色、こわい」と泣いていた少女が、世界を自らの手で「調理」し始めた証拠だった。
その夜の食卓は、格別なものになった。
小春が初めて鱗を取り、愛が煮付け、律子が西新のぬか床から取り出した、瑞々しい茄子のぬか漬け。
「……美味しいわ。小春、あなたが鱗を取ってくれたから、皮がこんなに綺麗に炊けているわよ」
律子が一口、身を解して口に運ぶ。
事務所での激務、理不尽な相手との交渉。外の世界は相変わらず険しい。
けれど、このキッチンに戻れば、次世代へと受け継がれていく「生活の技術」がある。
自分が守っているのは、単なる依頼人の権利ではない。いつか小春が、この包丁一本で自分の人生を切り拓いていけるような、そんな「生きる力」なのだと、律子は改めて噛み締めた。
「律子ママ、明日も小春、おて伝いしていい?」
「ええ。……次は、出汁を引く準備を教わりましょうか。……私たちの、大事な魔法の作り方をね」
月十万円。三人暮らし。
事務所の経営を軌道に乗せながらの家計管理は、一筋縄ではいかない。
けれど、小春が鱗を飛ばしたシンクの汚れを拭き取りながら、律子は確信していた。
自分の立ち上げた事務所の名前、「おおの法律事務所」の背後には、この西新のマンションという、揺るぎない「本陣」があるのだと。
西新の夜空には、新月の後の、細いけれど鋭い光を放つ月が昇っていた。
それは、自立し、誰かを守り始めた律子の決意のように、凛として輝いていた。




