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第8章 誤解のまま終わるはずだったのに――抱き寄せられて

翌日、気づけば私はバルスの家の前に立っていた。

ちゃんと話さなきゃ、と気合を入れて来たはずなのに、扉を前にした途端、さっきまでの勢いが嘘みたいに消えていく。


どうしても足が止まりそうになる。

緊張で手が冷たい。心臓もおかしなくらいに鳴っている。


それでも、ここで帰ったら、きっとまた言えない。


私はぎゅっと両手を握り、小さく息を吸ってから、意を決して扉を叩いた。


しばらくして扉が開き、現れたバルスは、私の顔を見るなりわずかに目を見開いた。


「……ミドリか?」


驚いたような声のあと、すぐに呆れたように眉を寄せる。


「あのなあ、昨日も言ったけど、一人暮らしの男の部屋に無防備に入るのはあんまりよくないぞ」


ため息混じりの言葉に、一瞬ひるみかける。

けれど、ここで引いたら終わりだ。


「す、少しだけ、その……あの、聞いてもらえないかなって」


必死にそう言うと、バルスはしばらく私を見下ろし、それから小さく息をついた。


「……少しだけ、だからな」


そう言って扉を大きく開け、私を中へ招き入れてくれる。


少しだけホッとして部屋へ入ると、彼は扉を閉めながら振り返った。


「何か飲むか?」


緊張で喉がからからだった私は、言葉にできず、こくりと頷く。


「座っていろ」


短くそう言われ、私はおずおずと椅子に腰かけた。


少しして、彼は冷たいフーリー茶を入れた杯を私の前に置いた。


「ほら」


「ありがとうございます」


「いや」


それだけ言って、彼も私の正面に座る。


まっすぐ向けられる視線に、胸がまた落ち着かなくなる。


フーリー茶を少し飲み、なんとか息を整える。


ここまで来たんだから、言わなきゃ。

そう思うのに、いざ口を開こうとすると、言葉が喉の奥で引っかかる。


「あの、あのね……」


ようやく出た声は、自分でも情けなくなるくらいたどたどしい。


「今度の4月までには、その……こ、心の準備、するから……」


言った瞬間、後悔が胸をよぎる。

もう帰りたい――でも。


「だから、その、あの……私、初めてで、だから、い、いろいろ、段階というか、その……」


だめだ、何を言っているんだろう。


自分でもわけがわからなくなって、とうとう耐えきれず、私は真っ赤になった顔を隠すようにテーブルへ突っ伏した。


恥ずかしい。

恥ずかしすぎる。


部屋の中に落ちた沈黙が、やけに長く感じられる。


しばらくして、頭の上から、いつもより低い声が降ってきた。


「……ミドリ」


その一言だけで、心臓が跳ねる。


「それは……伴侶になってくれるということか?」


その言葉に、私は思わず顔を上げた。


真っ赤になったまま、恐る恐るバルスを見る。


伴侶に、なってくれるって――。


……あれ?


「あ……れ?」


自分でも間の抜けた声が漏れる。


「え……と、1か月前に、その、なるって……私、頷いて……」


言いながら、だんだん不安になってくる。

あれは、そういう意味じゃなかったの?

でも、だって、私はそのつもりで――。


バルスの表情が、見る見るうちに変わっていった。


驚いたように目を見開き、同時に、ぴんと耳が立つ。

次の瞬間には、信じられないものを見るような顔になった。


「……は?」


低く漏れた声に、背筋がぴんと伸びた。


「あ、え、えっと……?」


何かまずいことを言った気がする。


そう思った次の瞬間、体がふっと浮いた。


気づいたときには、私は椅子から抱き上げられ、バルスの腕の中に収まっていた。


「あ、え、ま、バ、バルス? あの、あの!?」


何が起きたのかわからず、声だけが裏返る。


そんな私を抱えたまま、バルスは数歩進み、ソファへ腰を下ろした。

当然のように、その腕の中に私も一緒にいる。


気づけば、完全に囲い込まれていた。


ほぼパニック状態の私の額に、やわらかな感触が落ちる。


それが口づけだと理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。


もう、無理。

心臓が、おかしい。


顔が熱すぎて、呼吸まで変になる。


そんな私を見て、バルスは小さく笑った。


「……これ以上は無理そうだな」


見透かされたような言葉に、余計に心臓が騒ぐ。


なのに、腕の力は少しも緩まない。

むしろ、逃がさないとでも言うみたいに、しっかり抱え込まれていた。


嬉しいのに、恥ずかしくて、でも離れたくなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


やがて、頭を撫でる温かな手の動きに、張りつめていた体から少しずつ力が抜けていった。


どくどくとうるさかった鼓動は早いままなのに、それでもやっぱり、私はバルスのそばが一番安心する。

この世界に来てから、ずっと。


――そう思ったとき、ふと、彼の匂いの中に消毒液の気配が混じっていることに気づいた。


「あ……」


そうだ、怪我。


「ご、ごめんなさい、怪我――」


慌てて体を離そうとした瞬間、ぐっと腕に力がこもる。


再び引き寄せられて、私は逃げるどころか、ますます彼の胸元に閉じ込められる。


「ミドリを抱いていたほうが、怪我が気にならない」


耳元で落ちてきた低い声に、全身がかっと熱くなる。


だめだ、その声は反則だ。


「け、怪我ひどくなっても知りませんからね」


やっとの思いでそう返すと、バルスは少しだけ口元を緩めた。


「ミドリが看病してくれるのだろう?」


意地悪く返されて、言葉に詰まる。


「……考えておきます」


精一杯の負け惜しみみたいにそう言うと、彼はふっと笑った。


「そうか」


低く落ちたその声は、ひどく優しかった。


それからは、ぽつりぽつりと他愛もないことを話した。

何を話したのか、正直あまり覚えていない。


近すぎる距離と、抱きしめられている安心感、好きな人の体温。

それだけで、頭がいっぱいだったから。


でも、不思議と落ち着く。

むしろ、このままでいたいと思ってしまうくらいに。


緊張しすぎて疲れていたのか、それとも安心しきってしまったのか、重くなっていくまぶたをどうしても支えきれない。


だめ、このまま寝るのは――


そう思うのに、意識はゆっくり沈んでいく。


最後に感じたのは、髪を撫でる手のぬくもりだった。


そのまま私は、バルスの腕の中で眠りに落ちた。


――――――――――


バルスは、腕の中で安心しきった表情のまま眠る緑を、じっと見つめていた。


結婚するまでは、最後まで触れないと決めている。

そう決めているはずなのに、こうして無防備に身を預けられると、どうにも複雑な気分になる。


何年も片思いをしてきたのだ。

その反動なのか、自制心など意味がないと思えるほどには、彼女を欲している。


出来れば、もう少しこのままでいたい。

けれど――そういうわけにもいかない。


深く息を吐き、一度目を閉じてから、そっと緑の頬へ唇を寄せる。


触れるか触れないかの、ごくわずかな口づけ。

それだけで、胸の奥がわずかに軋む。


やがて、名残を断ち切るように腕の力を緩め、囲い込んでいた体を静かにソファへ横たえた。


少しだけ視線を落としてから、軽く距離を取る。

それでも完全には離れず、すぐ手が届く位置に腰を下ろした。


気持ちよさそうに眠る緑に、小さく声をかける。


「……ミドリ」


起こすつもりで呼んだはずなのに、その声は思っていたよりもずっと柔らかかった。

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