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第二部 (十六)

 

 暮れ六つに剣鬼が指定した河岸に赴いたのは、真乃だけではなかった。るいと万蔵がついてきた。

 立会人は、まずは岩五郎が行くと名乗りを上げたのを、怪我を理由にして真乃は突っぱねた。

 次にるいが自分は万が一負けた時の人質なのだから、行かないわけにいかない、立会人としても適任だと言いはった。

 そうなると、るいの面倒を見てもらう人間も必要になる。そこで「それじゃ、あっしが」と万蔵がすかさず名乗り出た。

 出かける直前の真乃達に、茅場河岸で斬られた侍は田中理十郎だったという知らせが嘉兵衛親分の下っ引きによってもたらされた。

 真乃はその事実を受け止めただけだった。

 ――どういうことか考えるのは剣鬼を倒した後だ。


 河岸に着いたのは鐘が鳴るかなり前だったが、剣鬼は既に到着して川面を眺めていた。立会人だと紹介したのは、村越平左衛門という、剣鬼と同年代の侍だった。

 剣鬼は自身の名前も役目も言わなかった。

「お主の名を聞いていない。名乗られよ」

 とうとう真乃が尋ねた。

「そうだったか。私の名は志水豊之進。本多大和守御用人、山岸十太夫家中のものだ」

 やはりこの男が志水豊之進だったかと、真乃の頭の中で様々なことが収まるべきところへ収まっていった。


 またしても豊之進は不思議な目を真乃に向けた。

 真乃は落ち着かない気分になるのを押さえ、冷ややかにその目を見返した。

 そもそもの悪事への加担もさることながら、いくら上からの命令でも、何も知らなかった松三郎を自らの手で斬殺したことが真乃には許せないでいた。

 ――松三郎はこいつに心底惚れていたのだ。こいつの真意に気づいても逃げ出さなかった。その気持ちをこいつはとことん利用したのだ。殺さずに乗り切る方法があったはずだ!

 死に顔しか見ていない松三郎だったが、るいへの手紙が、そこに短く吐露されていた覚悟と潔さが、真乃の心に深く染みていた。


「私が勝てばおるいさんの命を狙わないという証しを見せていただこう」

 豊之進が立会人の村越に目配せした。村越は懐から封書を取り出して広げた。

「御覧のとおり、本多家中の在府の御家老、御用人、二名の署名がござる」

「その二つの署名が本物かどうかわからないのが難点だな。なにより大和守様御家中だけではないのだから。おるいさんの命を欲しがっているのは。むしろ某御大家の御家老の方が熱心なのではないかね?」

 真乃には今の豊之進が大和守家中の意向を背負っているとは思えなかった。真意を少しでも見抜きたいと思っていた。

 村越の顔がひきつった。豊之進は変わらず無表情の能面だ。

「こちらの条件としては、その書面と三つの問いに答えていただこう。問いの答えが身を守るのに役立つからだ。抜け荷を言い出したのは某御大家の御家老だろうが、伊勢九とはそれ以前から繋がりがあったのではないか」

「そ、そこまで……」

 村越が言い掛けるのを豊之進が手で制した。

「四年前に三崎の御領分に杢左衛門(もくざえもん)という男が現れ、御国家老を説得して砂糖の生産を目指し、竹黍ちくとう栽培をやり始めた。しかしこれまでのところ売りに出せる程には成功していない。その試みにもそれなりに金がかかったが、資金調達までやってのけたその男は伊勢九の回し者だった」

「なるほど。事前に縄をかけておいたわけだ」

「御国家老の話を真に受けた我が上様を諌めたのが既に隠居しておられた工藤様だった。そうして、あの騒ぎだ」

「工藤殿が大和守様の眼前で斬られたのは、そのせいだったのか……そうした経緯を聞いて振り返れば、あの騒ぎも仕掛けられた罠だったのかもしれないな。よりによって田安御門で酔っぱらいが絡んできた出来事だ」

「私も今ではそう思っている。証しとなるものは何もないがな。そうして我らの側の対処が不味かったのも事実だ」

「ほう。反省すべきは反省しているのだな。二つ目は、真壁勝之助殿を水死にみせかけて殺害したのは誰かだ。お主か?」

「……違う。我らではない。おそらくは銀蔵とその仲間だ」

「ぎんぞう?」

「お主が本郷で倒した男だ」

「あの忍びあがりのような男は『ぎんぞう』といったのか……」

 真乃は一昨日の出来事を思い返した。随分前に起こった出来事のように感じた。


「三つ目は?」

 豊之進の方から尋ねてきた。

「二月近く前に何があったのか、だ。それが真壁勝之助殿が内藤家から暇を取り、おるいさんの命が狙われ、松三郎をお主が斬った訳だと、私は思っている」

 真乃の言葉に豊之進は表情を全く変えなかった。

「残念ながら、私には答えられない問いだ。二月前に何があったかは知らぬ。勝之助は知っていたようだ」

「それ故に殺された?」

「内藤家から暇を取り、市中へ出たことが一番の理由だろう」

 真乃は豊之進の顔を見つめた。傍目には睨んでいると見えたかもしれない。

 豊之進が何を企んでいるとしても、今聞いた答えに偽りはないと感じた。

 豊之進が知らないということは、二月近く前に起きたことは御大家の家老の身辺で起きたということだ。例え発覚しても大和守と伊勢九の企みで終わると思っていたところが、自身に目付方の目が向いていることに気づいて慌てた……

 ――あの叶屋での会合が御大家家老の唯一の油断だったのかもしれない。そう考え、真壁勝之助も殺害した……

 真乃は決断した。

「今の答えは有益だ。この度の果たし合い、受けて立つ。何を合図に始めるのだ?鐘か」

 真乃の果たし合いそのものへの質しに豊之進は初めて表情を変えた。薄く笑みを浮かべた。

「そうするか。最後の鐘で始めよう」

「承知した」

 真乃は頷いて踵を返した。鐘が鳴り始めるにはまだ少し時がある。


 振り向いた真乃が目にしたのは、胸元で両手を握りしめるるいとその横で手拭いを握りしめている万蔵だった。

 二人の目は心配だと訴えていた。万蔵も豊之進の只ならない雰囲気にいつもの軽口を叩けないようだ。

「大丈夫だ。私を信じてくれ」

 真乃は二人にだけ聞こえるよう声を落として言った。

「ええ、信じますとも。青井様はいつかあたしの小間物屋の用心棒をしなきゃいけないんです。こんな所で倒されちゃ困るんです!」

 るいが両手を握りしめたまま、真乃の目を見つめて言った。

 真乃はこの時、ふっと、るいがいつか開くつもりの小間物屋の用心棒に自分を雇いたいと言ったのは、あまり先のことを考えていない自分への気遣いだったのかもしれないと思った。そんなことではいけないなどと言わず、前方に広がる闇の中に彼女なりに仄かな灯りをともそうとしたのかもしれない。もしもそうなら……

 ――ひとの心を開かせるのが実にうまいじゃないか。

 その言葉はもっと穏やかな時と場所でるいにかけたいと、真乃は思った。


 果たし合いはやると決まった時から駆け引きが始まっている。真乃の敬愛する師匠の教えだ。鐘が鳴るまでのこの場所での過ごし方も、果たし合いの結果を左右するのだ。

 この時点で後から来た真乃は不利な位置を選ばされていた。豊之進が西端に立っていたからだ。眩しくはないだろうが、残照を背にした豊之進の表情が読みにくい。しかしその程度なら挽回できる。真乃はそう信じた。

 真乃は刀を外して手に持ち、河岸に無造作に置かれていた桶をひっくり返して腰かけた。

 辺りを眺める。橙色から赤へと変化していく空が美しい。

 明日も晴れだなと真乃は空を見上げた。烏が山へ向かって頭上を横切っていく。師匠の言葉が次々と頭に浮かぶ。


 焦るな。慌てるな。相手を焦らせろ。慌てさせろ。冷静でいる限り、お前は相手の動きを読める。相手が焦ればさらに読みやすくなる。自分に有利な場ができるまで、待つのだ。そうしてお前から仕掛ける。「仕掛け」は刀を振るうこととは限らない。わかるな。


 ――わかりますとも。

 真乃は目を閉じた。汀の音が鮮明に聞こえる。先程までは夕凪の無風だったのが、少しずつ風が吹いてきた。

 遠くで鐘が鳴った。

 続いてこの近くの横川の時の鐘が鳴り始めた。まずは捨て鐘三つ。続いて始めは長く、徐々に短く六つの鐘が鳴る。鳴り終わるにはもう少し時がかかる。

 真乃は立ち上がり、刀を帯に差した。ゆっくりと川面から豊之進がいる方へ向きを変える。

 豊之進も真乃の方に向いた。この時二人の間は五間以上離れていた。


「だ、駄目だ。き、緊張しすぎて手も足も震えてきやがった……」

「しっかりしてよ、万蔵さん。あたし達がしっかりしてないと、青井様が思いきって戦えないじゃないの!大丈夫よ。青井様は勝つわ。きっと勝つ」

「お、おるいさんもつえぇんだな」

 万蔵とるいのやり取りが、ゆっくりと歩を進める真乃の耳に届いた。

 男達は案外と女の心の強さを知らないらしい。男が仕切る世に女と生まれたが故の、周りの見る目、扱いに鍛えられた肝の据わり方がある。そんな強さを隠してか弱い振りをするのも男優先の世を生き抜くための女の知恵かもしれない。

 次の鐘が最後だ。


 真乃は豊之進との間合いがおよそ三間になる位置で歩を止めた。

 豊之進も立ち止まった。

 豊之進の目は冬の空のようだった。自分もあんな目をしているのかもしれないと真乃は思った。

 時を告げる六つめの鐘が鳴った。


 対峙した二人は同時に履いていた草履を後ろへ飛ばし、刀を抜いた。

 双方とも正眼に構えた。そのままどちらも動かない。

 真乃は豊之進が見せる僅かな動きも見逃すまいと、気を研ぎ澄ませていた。読み遅れは命取りだ。そうして相手に自分の動きを読ませないつもりでいた。どちらも同じことを考えているはずだった。

 静かに時が流れていく。

 双方が気を漲らせたまま全く動かない状態が長く続いた。見ている方が息苦しくなったことだろう。

 ……と、豊之進が右へ、真乃から見て左へ動く気配をみせた。

 思わず真乃は右へ動いた。

 だがそれは豊之進の仕掛けた罠だった。真乃が右へ動き掛けるやいなや、身体も切っ先も左へ向けてきた。

 真乃は瞬時の判断でそのまま右回りに駆け出し、豊之進に背を向けて東へと走った。

 背中に殺気が迫る。


 真乃は途中で川沿いに進路を変えた。刀を持つ手が相手側、向こうは空手をこちら側にする狙いだった。その間に豊之進は追い付いてきた。

 荷揚場の両端を二人の侍が抜き身を携えた姿で駆け抜ける。

 途中にある狭い水路は一跳びで越え、二人は走り続けた。

 その間にも静かに駆け引きは行われている。

 河岸の行き止まりが間もなく現れる。そこで勝負を決する。真乃はそう考えていた。

 その先は火除け地でもある広場だ。西へ行くよりは閑散としているだろうが、この時刻でもそれなりの人が集まっているに違いない。衆目に刃物沙汰を晒したくはない。

 予想していたことだが、豊之進は相当鍛えている。瞬発力、膂力では明らかに真乃は不利だ。

 だが持久戦に持ち込めば瞬発力も鈍ってくる。真乃に勝利の芽が出てくる。体力、持久力に関してはかなり自信がある真乃なのだ。


 河岸の終点が近づいてくる。

 大八車が一台河岸に残されていた。

 真乃は豊之進より僅かに先を走っていた。

 ――今だ!

 決断は勘に近かった。

 真乃は大八車の車輪脇の荷台に右側へ向きを変えながら飛び上がった。足を置いた瞬間にまた蹴る。板が動かないよう下向きになっている車輪脇を蹴ったが、十分な高さが出た。

 一瞬で間を詰め、真乃は豊之進へ斬り下ろした。

 真乃の驚いたことに、豊之進は後ろへ引かなかった。向こうも間を詰めてきた。鎬同士がぶつかる。

 着地した真乃がすぐに振り向きながら斜め下から斬り上げる。豊之進の中段からの薙ぎをガチッと受け止めた。

 いや、受け止めてしまった。押し合いでは真乃の分が悪い。

 真乃の刀は相手の力と刃の固さに刃こぼれし、真乃自身は豊之進の押す力に後ろへ弾き飛ばされた。

 背中から倒れこむのを真乃はそのまま後転に変えた。

「くそっ!」

 真乃の中に豊之進を恐れるどころか、さらに「倒してやる」という気が膨らんだ。

 後転から前向きに屈んだところで相手の二手を鎬で弾く。

 元結が緩んだらしく、髪の毛が顔の回りにはらはらと落ちてくる。真乃はそれを払いもせず即座に立ち上がり、飛び退きながら刀を構えた。


 すぐに三手がくると思ったのに、弾かれた刀を素早く八相に構え直したところで豊之進が動きを止めた。驚いた目で真乃を見つめている。

 真乃は川風が舞っているのに気づいた。ほつれた髪が頬にまとわりつく。鬱陶しくて刀の構えは解かずに右肘で髪を後ろへやる。

 豊之進が夢から覚めたように二度、三度瞬きした。

 真乃はその隙に大きく踏み込んで突きを入れた。

 豊之進もすぐさま突きを入れてきた。

 互いに鎬を当てて切り落としに入ろうとした。

 どちらの刀も上手く切り落とせず、鎬で弾いた形になった。


 その瞬間、真乃の目に豊之進の右の脇が開いて見えた。

 気づいたとほぼ同時に真乃は肘を曲げた。弾かれて反れた刀を引き寄せながら、右肘を相手の脇に入れて動きを封じ、身体ごと豊之進にぶつけていった。

 ぶつかった瞬間に左で握った刃を相手の脇腹に押し付け、体重をかけて渾身の力で引く。利き腕ではないから、力任せだった。最後まで引ききる。腹圧に負けず深く斬りつけた手応えがあった。

 豊之進が振り下ろそうとして真乃の右腕に阻まれた刀の柄頭が背中にゴンと当たった。

 豊之進が倒れこんでくる。

 真乃は跪きながら身体全体で豊之進を支え、横へと流した。上にのしかかられては真乃も怪我をしかねない。豊之進より小柄ゆえに真乃が取った手だったが、一つ間違えば真乃の方が潰されかねない賭けだった。


 豊之進の左手が後ろから真乃の左肩に置かれていた。真乃は腹立たしい気持ちでその手を払った。

 地面に横たわった豊之進の唇が動いた。

「何故だ……何故……さっきあんなに……松……」

「松三郎があんたを迎えにきたんだろう。行き先はあんたが地獄で松三郎は涅槃だと思うが、ひよっとしたら、優しいあの子はあんたを地獄から引き上げてくれるかもしれないぞ」

 真乃はするすると言葉が出たことに自分で驚いた。日頃は幽霊も化け物も信じていないのだ。

 豊之進の左手が真乃の顔へと伸びてきた。

 避けようとしたが、風が真正面から吹き付けてきて、つい目を伏せた。

 豊之進の左手が真乃の頬に触れた。優しく包むように触れてきた。

「お前なら本気で愛せたよ……」

 嘘だ!

 真乃はそう思った。

 左手が頬から離れていった。

 その右手は最後まで刀を握っていた。

 もうどこも見ていない豊之進の目を真乃は閉じ、手を合わせた。立ち上がる気にならなかった。


 これまでに刃を交えた中でも一、二を争う強い剣士だった。無傷で勝てたのが不思議だ。しかし、これで本当に終わったかどうかはわからない。

 そう思いながら、ふと下を見ると、袴の半分近くが豊之進の腹から流れた血で赤く染まっていた。

 ――月水の初め頃に対処し損ねたみたいだ。

 真乃は笑い出したくなった。その時、後ろからるいの涙声が聞こえた。


「青井様、よかった。ご無事で……ありがとうございます。ありがとうございます!松三郎とあたしのために、ここまで……それだけじゃないかもしれませんけど、お礼を言わせてくださいまし」

「松三郎が助太刀してくれたのかもしれない」

 真乃は振り向かずに言った。

「松三郎が?」

 るいが息絶えた豊之進の横に現れた。

「最後に刃を交える直前、豊之進の動きが一瞬止まったのだ。驚いたような顔をしてな。事切れる前に呟くように言った言葉からは、どういうわけか、私が松三郎に見えたらしい」

「ええ、あたしにもそう見えた時がありました。びっくりしましたわ。風が吹いて青井様のお顔に髪がまとわりついた時に、その雰囲気が松三郎と似てましたの」

 真乃は驚いてるいの顔を見た。

「日頃はどこも似ていないのにか?」

 るいは頷いた。

「あたしだけかと思ったんですけど、このお方にもそう見えたのなら、松三郎がこのお方を連れにきたのかもしれませんわね」

「私はこの男が自分の本当の気持ちに気づかないか、気づかない振りをしていたから見た幻だろうと思ったのだが……」

「え?」

 真乃はるいから豊之進の亡骸に視線を移して言葉を続けた。

「この男もいつの間にか松三郎を好いていたのだと思う。だがそれを認めたくなかった」

「そんな……そんなこと……」

 るいもまた豊之進の亡骸に顔を向けた。

「最後にこの男は『お前なら本気で愛せたよ』と抜かしたが、それなら私を松三郎に見間違うわけがない。松三郎を本気で愛せなかったのなら、それはこの男が自分の気持ちに正直ではなかったからだ」

「そうなのかしら……あたしにはそうは……」

 それぎりるいは黙り、豊之進の亡骸から真乃の顔にゆっくりと目を移した。暫くじっと真乃を見つめてきた。頭の中では色々考えているような顔つきだった。それからまた豊之進の亡骸に顔を向けた。再び真乃に向けられた顔はすっきりしていた。

「青井様、小柄(こづか)をお貸しくださいな」

「どうするのだ?」

 真乃は小柄を抜いてその柄をるいに向けながら言った。

「お髪を松三郎のお墓に埋めたいと思って。生きてる者の勝手な思いかもしれませんけど、あの世では、どのような形であれ、二人が仲良く過ごせますようにと……」


「おるいさんは優しいな」

 るいが跪いて豊之進の髷を少し切り取り、懐紙に包んで大事そうに懐に入れるのを見守りながら、真乃が言った。

「何を仰るんですか。本当にお優しいのは青井様ですわよ」

「こうして人を斬り殺したのにか?」

 その言葉に、るいはさっと真乃の方を向いた。

 真乃は自分の袴に目をやった。

「ご覧の通りだ。しかも血の染まり方がまずいよ。そうは思わないか?」

 るいは真乃の視線を追って袴に目をやった。笑い出すと思っていたのに、真乃の予想に反してるいの目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ始めた。緊張が一気に解けたせいかもしれない。

 果たし合いを見守るのは、時として当事者より辛いのだと師匠が言っていたのを真乃は思い出した。

 ぽろぽろ涙を溢しながら、るいは我慢できないというように膝を進めて真乃に抱きついてきた。戸惑う真乃に耳元でこう言った。

「ええ、お優しい方です。勝ってもちっとも嬉しそうではないんですもの。このお方をお斬りになったことを一番悲しんでいらっしゃいます」

 るいの言葉に真乃ははっとした。

 頭には師匠の「自分を大切にするのだぞ」が浮かんでいた。

 その真意がやっと分かったのだ。頭でわかったのではなく、心で、いや、全身で理解できたと真乃は感じた。


 ――相手に刃を向ける時、()()()()()()()()()()()のだ。


 自ら選んだ剣の道だ。割り切っているつもりだ。だが強い相手ほど余裕がなく相手の命を奪ってしまう。

 罪人であっても、命を奪ってしまった時、心の何処かで何かが傷つく。心を持つ人である限り、全くの無傷ではいられない。

 そして、それは剣術に限らないのだ。

 何故その深い意味にこれまで気がつかなかったのかと真乃は悔やんだ。

 ――豊之進はそのことに気づいていたろうか?いや、気づいていたなら、松三郎を殺めはしなかったろう。そのうえ、おそらく幼馴染みの田中理十郎も手にかけている……


 ひとつ大きな壁を乗り越えた気がしている真乃の耳に、るいの涙声なのに明るい口調が聞こえてきた。

「お袴、日が暮れてしまえばわかりませんし、気になるのでしたら、あたしが前を歩いて隠してあげます。帰ったら、新しいお袴を縫ってさしあげますね。青井様は何も気になさることありませんわよ」

 真乃は今まで気づいていなかった身体中の凝りが解けていくのを感じた。


 何も気にすることはない。

 るいは今日のことだけを念頭に言ったのだろう。だがその言葉がなんと真乃の心に響いたことか。

 これまでそう言ってくれた者は真乃の周りにいなかった。弱みを見せることができなかった。そんなことをすれば揶揄される。剣術より裁縫をしろ、嫁にいけと言われる。

 真乃にとっては、自分らしく生きることが決して容易くはない。

 松三郎がるいを姉のように慕ったのは、誰をもあるがままに受け入れ、その人の良い所を認める、この度量だったのだろう。

 はじめは詮索好きだと思ったが、るいの詮索はその人を理解するための素直な質しなのだ。

 今は松三郎がるいを姉のように慕ったことが真乃にはよくわかる。

 その不思議な包容力に身を任せるように、真乃はるいの肩に頭を乗せた。

 剣術に打ち込むようになってからは母親にも甘えなかった真乃である。口元が緩む。

 ――母親代わりになる年じゃないと怒るだろうな。


「あ~あ。とうとうこうなっちまったよ。無理ねぇけどさ。大貫屋の旦那にも相模屋さんにも、片岡様にも黙ってやすがね。けど、ほら、通りがかりの人がじろじろ見てやすよぉ。集まってきてやすよぉ」





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