第二部 (十五)
本郷へ戻った真乃とるいは、湯屋でさっぱりした後に、飯屋でそれぞれいつもの二食分近い量の食べ物を胃の腑へ納めた。
それから真乃は新たな刀と脇差を手に入れるため武具屋へ出かけ、るいは真乃のための中食の拵えにかかった。
真乃にしてやれることはそれぐらいだと、るいは真乃の好物を聞き出してかよと共に準備すると言いはった。鴨肉が一番好きな真乃だったが、この時期には手に入らないので、猪の肉と菜を煮た料理を作ることにした。
るいもかよも獣の肉を扱ったことがなかったが、るいは必死の形相で万蔵が買ってきた猪肉に取り組み、かよはその気迫にのまれ、黙々と手伝ったらしい。十人分近く用意しようというのだから、かなりの量だった。
「相手はもう死んでるんだから、どうってことないわよ」
るいのその言葉に、かよは一体どんな目に目に遭ったのか知りたがったが、るいは口を閉ざしたという。
「ごめんなさいね。願かけてるの。全てが終わったら話すわ」
真乃は新しい刀と脇差を差して寮へ戻るとすぐに横になった。一刻半程して目覚めた時には美味しそうな匂いが台所から漂ってきていた。
匂いに釣られて台所の方に出ていくと、るいがどこから借りてきたのか、大きな鍋にいっぱいの煮物を椀に取り分けていた。
万蔵がいそいそとるいから受け取った椀をずらりと並んだ膳に置いていく。
かよは大きな飯櫃から丼に飯を盛り、みねがそれを膳に置いていた。つねは籠り部屋だ。
金創医の治療を受けて晒しを腕や肩に巻いた岩五郎と女形姿に戻った清吉が、板の間の隅に座ってその様子を眺めている。
いつもなから、清吉の化粧の巧さは職人技だと、真乃は感心した。
それぞれが真乃に挨拶の笑顔と会釈を寄越した。
真乃はまず岩五郎と清吉に具合を尋ねた。
「ご心配をおかけしました。某は大した傷ではありません。清吉殿は少し深かったようで、医者の話では運が良かったと」
「違うわよ。あの医者、人を見る目が無いのよねぇ。運じゃありませんての。あたしの技なんだから。咄嗟に交わせるのよ。ウフフ」
「相変わらずの減らず口を聞けて安心したよ」
真乃は二人の前に片胡座で座った。万蔵もそこへやって来た。
「片岡さんとは会えたか?」
真乃の尋ねに万蔵は首を横に振った。
「直には話聞けやせんでした。けど、文をもらってきやした」
万蔵は懐から封書を出して真乃に手渡した。
「首尾は?」
文を読めば書いてあるのだろうが、気の急く真乃は文を開きながら万蔵に尋ねた。
「荷の一部は押さえたそうでやすが、大半を逃したそうでやす」
「それじゃ失敗に近いじゃないか。何故そんなことに……」
「回船の動きから、こちらの動きに気づいたか、向こうで仲間割れがあったからじゃねえかと、片岡さんは考えてらっしゃいやす」
仲間割れと聞いて、真乃の頭に剣鬼が浮かんだ。だが、何かがしっくりこない。そんな単純な話ではないかもしれない。
真乃は片岡の文に目を通していった。
片岡が急いで認めたと思われる金釘流の文には、本多大和守上屋敷とその向かいにある田安様下屋敷を目付方が、伊勢九関係を町方が見張っていた昨夜の町方側の顛末について、簡潔に書いてあった。
昨日の八つ過ぎという間際になって町方は大きな手懸りを掴んだ。一見では何の関わりもないように見えていた山谷堀の船宿、常磐屋の金主が伊勢九の主、九兵衛の又従兄弟であることを突き止めたのだ。
常磐屋の桟橋から小舟が一艘動き出した時、片岡率いる町方の見張りは同じく小舟で後を追った。
小舟は川を下り、やがて佃島の沖に停泊している回船の脇につけた。そこには既に二艘の小舟がいて、ちょうど回船の脇から離れたところだった。
周囲に小舟は町方の三艘しか見当たらなかったため、片岡は直感で一艘目を後輩の同心が乗る小舟に追跡させ、自らの舟は二艘めの小舟を追った。
二艘目の小舟はなんと常磐屋の桟橋へつけた。
小舟からは頬被りした人足によって俵が五つ下ろされ、その荷は全て船宿の土蔵に運び込まれていった。
片岡は直後に荷改めだと常磐屋へ乗り込んだ。
五つの俵からは木綿にくるまれた小振りな樽が出てきた。木綿は隠す目的ではなく、保護のためだったようだ。ひとつを開けてみると、中には白い粉が詰まっていた。
片岡はすぐにその粉末を持って八丁堀の懇意にしている漢方医の元へ走った。
医者の答えは砂糖だった。
片岡はそんなに白い砂糖は長崎から運ばれてくる輸入物しか見たことがなかった。
御大家の家老が大和守家中を隠れ蓑にして行っていたのは砂糖の抜け荷だったのかと、片岡は医者の答えを聞いた直後には思った。
しかしそれにしては小ぶりな樽に粉末で入っているのが珍しい。大抵は分密時の形、円錐形の大きな塊なのだ。薬種問屋はそれを少しずつ崩して小売りしている。
しばらく白い砂糖を見ていた片岡は、三崎の御領内で作ったのではないかと思い始めた。少し舐めてみた。さらりとした甘さがあった。
秘技とされている讃岐御領分内の製造法を三崎藩が盗みだしたのか、新たに製造法を見つけたのか。
讃岐の砂糖より白くて細やかなのだから、薬種問屋も菓子屋も大喜びだろう。
問題は採算が取れる程の量を生産できるかどうかと、製造法を御領分内で見つけられたかどうかだが、隠しているということは、後ろぐらいことがあるということだ。いずれにせよ、今後、伊瀬九の取り調べで判明することだろう。
残りの二艘はどちらも常磐屋には来ず、最初に回船を離れた小舟は、後を追った同心の染田によると、茅場河岸の東端に着岸した。しかし荷は下ろさず、乗っていた町人髷の三人の男は三々五々、散っていった。
直後に思わぬ騒ぎが起こった。
舟に残っていた二人の侍が舟から飛び降り、刀を抜いて向き合ったのだ。
染田は思いがけない展開にすぐには動けなかった。二人とも大柄でかなりの遣い手と見えたうえに、仲間割れなら裏切った方に加勢したいところだが、どちらが裏切った側なのか分からなかったからだ。
暫時見合った二人が交差した。
その一瞬で決着はついた。
倒れていく相手をちらと見返っただけで、勝った侍は闇に消えた。
染田は追いかけたが見失った。
殺された侍は身許のわかる物は何も身につけていなかった。
舟を調べても何も出てこなかった。囮だったのかもしれない。
常磐屋から出た小舟は中洲で姿を眩ました。小舟は途中で葦の繁る中洲の間を抜けたのだが、追っ手が中洲の間を通り抜けた時には何処にも見当たらなかった。
状況からは中洲のすぐ下流にある御大家の広大な下屋敷へ入ったとしか考えられないが、確証を得ることはできなかった。
御大家を見張っていたはずの目付方が何か掴んでいることを願うのみだった。
回船は三艘の小舟に荷を移しかえただけで、新たに二艘の小舟が近づいたのは無視して沖へ出ていった。
二艘のうちの一艘は町方が常磐屋同様に見張っていた伊勢九の寮から追いかけてきた小舟だったのだが、その小舟に乗っていた同心の早田は小舟ではなく、回船を追いかけた。船の喫水線の状態から、まだ何らかの荷を積んでいると思えたからだ。
暗闇の中、少しでも船を特定しようと早田は粘った。
沖へ出た船は北へ向かう進路をとった。
小舟で夜の沖合の荒波の中を追うのは無理だった。
後から来た二艘の戻り先を追えばよかったかもしれない、茅場河岸で斬られた侍の身許がわかったらすぐに知らせると片岡は文を結んでいた。
――砂糖か。しかも讃岐、阿波の白砂糖よりも白い砂糖とは……
真乃は神保家で口にした落雁と練り切りを思い浮かべた。そうして練り切りの上の文字だけでなく、練り切りそのものも半左衛門が真乃に与えた手懸りだったのだと悟った。
ひょっとしてと思わないでもなかったが、日頃口にしている砂糖は今や国内で賄えるだけに、危ない橋を渡ってまで抜け荷に手を出すとは思わなかったのだ。
しかし考えてみれば、なかなか手に入らないとなると、余計に欲しがる人がいる。そうした人物は大抵金持ちだ。
自身の領分内で生産した白砂糖ならば隠す必要がないから、やはり抜け荷だろう。小振りな樽というのは、抜け荷を御領分内の生産と偽ろうとしたのかと、真乃は考えた。
寛政期に公儀は砂糖の国内生産を促進するため、入手していた唐由来の製造法を公にしている。
しかし何度も分蜜する製造の手間もさることながら、肝心の甘蔗が温暖な気候でないと生育しないため、今のところ利益を上げられるほど成功しているのは薩摩と讃岐、阿波くらいだった。
その一方で需要の高まりと阿蘭駝船の来航停止による輸入量の激減で、出島砂糖や雪白砂糖と呼ばれる、国内で生産していない真っ白に近い砂糖の価格は五年前から高止まりしていた。昨年からは一斤(600g)八匁以上(300年後の20,000円近く)もしている。
長崎会所を通した正規の手順で輸入品を手に入れるには、落札する手間と手数料を支払わないといけない上に、掛物が砂糖は十割もかかる。それら一切を省けるのだから、抜け荷による利益は確かに大変大きい。
真乃は暗澹たる気持ちになった。
藩と藩主の不始末の穴埋めに、三崎藩は根来家老と伊勢九の抜け荷の誘いに乗ったのだ。借金に苦しむ彼らは乗らざるを得なかったのだろう。
しかし、どう考えても連中のやり方が真乃には疑問だった。
三崎の御領分で生産したと偽ろうとしていたのならば、堂々と三崎からの荷だと昼間に荷をおろせばよかったと真乃は思った。例え荷改めがあったとしても、漸く砂糖の生産に成功したのだと言い張れば、その場でそれを否定できる役人はいないはずである。それとも、目付の追及は領内の動きまで把握していたのか。そのうえで計画を遂行したならば、自殺行為とも言える。
――内藤家老の覚悟を思わせる「準備」という言葉は、そういうことだったのか?
抜け荷発覚は最悪の場合、藩の取り潰しである。藩主は首謀者ではないという証を見せられれば蟄居で済むかもしれないが、それは代わりに家中の誰かの首が飛ぶことを意味する。それも一つでは済まない。
下屋敷で耳にした「御家老お一人が」が真乃の頭に甦った。きさの顔が浮かんだ。
大藩ならまだしも、一万石の小藩が家老や用人だけでこのような大事を進められるはずはないのだが、これまでも配下の独断による所業と、配下の首だけが飛んで藩主は転封や蟄居ですんだ例が複数ある。そして忠臣ほど御家のため、藩士とその家族のために犠牲となることを受け入れるのだ。
真乃には祈ることしかできなかった。せめて正しい御裁きが行われるようにと。




