母
夜。星の寝所の前に控えながら、貴子はうつらうつらしていた。
「紫芳」
誰、その名前で呼ぶのは?
ふっと目を上げると、優しいまなざしと出会った。
「おか……あさん」
粗末な身なりだが、美しいと若ければ言われただろう柔らかな面差し。彼女はそっと貴子の手を取って、はらはらと涙を落とした。
「なぜ泣くの? やっと会えたのに」
「十四年間、あなたを見守って来ました。あなたが恐ろしいことを考えていたのも知っていました。あなたはその愛らしい姿を復讐にお使いになるという。私はただ、世を忍ぶためにそのお姿でお育てしましたのに」
「お母さん、今更何を言うのです」
「いいですか、けっしてお父様の名も、お母様の名も告げてはなりませんよ。このまま過ごすのです」
「いいえ」
貴子は強く首を横に振る。
「父の残したこの刀で、必ず王の首を」
そこまで言って、彼は目を覚ました。
「おかあさん?」
ああ、そうだ、あの人は先年なくなったのだった。それでも今、こうして心配して現れるとは。
「ごめん、おかあさん。心配かける生き方をして」
ぎゅっと、母の触れた手をもう一方の手で押さえ、彼は嗚咽した。いつも優しかった母に、もう一度会いたいと願っていたのである。少しも年老いていなかった母の姿にほっとしつつ、恋咽ぶ。
「どうしたの?」
かたんと、寝所の戸が開く。漏れた明かりが線となって貴子の横顔を照らした。
「泣いているの?」
星である。寝間着の彼女は、目をこすりながら歩いて出てくると、貴子の横にちょこんと腰を落とした。
「月がきれいね。ふるさとを思い出しちゃうかしら」
「母が」
言いかけて、貴子は「いえ」とだまった。その横顔を、星は無言で見つめていた。
月が中空にさしかかった頃だろうか、彼女はゆっくりと話しだした。
「わたくしの母は奴婢出身でした。しかし富山兄さまと私をただ一人産んだ女人でした。ほかの父の女人は子どもすら産まなかったのに」
「なぜですか」
「母は頭が良かったのです」
「まさか、どこかで」
「間男がいたと噂するものもありました。でも、父はそうでないことをよく知っていましたし、母を愛していました。母はただ、一人の薬師にかかったのです」
「薬師?」
「行為のあとは逆立ちをするとか、そういったことですけれど、子をつくる努力をしたのです」
「初めて聞きます、そんな」
「町医者でしたから、名は文献に残っていませんが、女性であったとのことです」
「優秀な人に身分も性別もない、と」
「そうです、貴子。私は本当に、そう思っているの」
どきりとする貴子を置いて、星は立ち上がった。「寒いわ」
「私は中に入ります。お前ももう、下がりなさい」
「お休みなさいませ」
扉が閉まる。
何か、見透かされたようだった。
そしてなぜか、星の母を救った町医者という女性が気にかかるのだった。