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落星物語  作者: 間々 ようこ
旅程
7/42

「それはずいぶん、危ない話だね」

 いつの間にかあいていた戸の隙間から、一匹の黒猫がするりと入って来た。

 猫?

 訝しがる貴子の横を、猫はとことこ通って目もくれない。そして、ナーゴと泣いて星に額を寄せた。

「お兄様の猫だわ」

「よくわかったね」

 戸が音もなく開く。

 彼専門の女官が開けたのだと貴子は気づく。なるほど、位が高い人間らしいと見当をつけ、頭を下げる。

「新しい女官見習いだね?」

 はい、と声を上げる前だった。

「おれの女になれ!」

 と抱きすくめられた。げんなりして声も出ない。貴子は男である。以前からこういう事態はたびたびあったが、いつも気分が悪いのを訴えてごまかしてしまうのであった。今までも、それでばれたことなどなかった。

「きみ、男くさいね」

 ぎくりとして貴子は目を見開いた。

「恋人がいるのかい?」

 目を覗き込まれる。相手のまんまるの猫のような目が、まぶしいほど底抜けに輝いている。

「いえ、あのう」

「ああ、そうか、龍平昌か。噂には聞いていたが」

「え、ええ??」

「じゃあ、龍平昌に死んでもらうか」

「え」

 こともなげに言う男を、星が笑ってたしなめる。

「なにをおっしゃいますやら、富山兄さま。いくら中君(チュンクン=内大臣)の高官にあるにしても、あの者も科挙を主席で通った男です。王の大事な臣を、いかにお兄様でも、横暴です」

「だが王の女である女官を恋人にするなど、内府の内吏にあるまじき行為だよ」

「その恋人を奪おうというお兄様だって、非道ですわ」

 腹の底を確かめあうかのような冗談の言い方に、貴子は心底驚いていた。貴子の知っている兄弟とは違うのだ。兄弟というのは、もっと打ち解けて慈愛に満ちているものかとばかり思っていたが。

「王妃さまがおっしゃるのだ、諦めよう」

 富山はうさんくさく大きなため息をつくと、貴子を部屋の隅に移動させて、自身が星の前に座った。紫の衣を着た彼は、二十代中頃に見える。その若さで中君とは、余程優秀なのであろうか。

「王妃さまにはご機嫌麗しく」

「挨拶はけっこう」

「は。では用向きを。皇王様より王妃さまへのお言葉を頂戴しました」

「まあ」

 ぱっと星の顔色が玉のように輝いて変わる。

「して、して?」

「はい、後宮の改築が早ければあと三月で終わるとのこと。女官も多く見つかったよし、選別の必要すら出て参ったと」

「なるほど、それはこちらでいたしましょう」

「お願い出来ますか」

「仮宮も人が増えすぎました。宿坊ごとに人を選らせます」

「基準などはお任せいたしましょう」

 それだけ言うと、富山は下がっていった。そのとき、明鈴がそっとあとをついていくのを貴子は横目で見ていた。


 池のほとりを歩いていく富山は、水面に映る影が自分のほかにもう一つあることに気づいていた。茂みの所まで来ると、彼は踊りを踊るかのように軽やかに振り返り、口笛を吹いた。

「なんですか、おじょうさん」

「初めまして、わたくし、明鈴と申します」

 明鈴は震えながら叫ぶと、富山の前に身を投げ出した。

「お願いでございます、わたくしを富山さまの女にしてください」

「ほう?」

「わたくしはどうしてもこの仮宮に残り、宮中に上がりたいのです。ご配慮をいただきたいのです」

「ふうん」

 富山は明鈴を立ち上がらせると、顔を舐めるようにのぞき見た。

 獲物を前にした猫がひげを逆立てるような雰囲気で、彼は目の前の女をじろじろと眺める。

「僕はそういう、なりふり構わない女の子が好きだよ」

「あとで僕の部屋に来るように。気に入ればご配慮というのもしてあげる」

 さっと唇を盗むと、富山は明鈴を置いて去っていった。風がうなって池上に波が立つ。既に日は暮れかけていた。赤く染まる景色は、血のようであった。まるで明鈴の選択が、大きな誤りであったかのように。

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