仮宮
そこには自由が形を見せているようだった。いつもどこかで香がたかれていて、しっとりと鼻の奥をくすぐる甘く重い香りがする。寺院のように荘厳であったが、少し調合してあるのかわずかに南国のからりとした空気を思わせるところがある。貴子は女の匂いだ、と身を震わせた。そこには女の性があった。
外回廊を進むたびに様々な花樹が現れ、四季を常に楽しめる試みがされているのがわかる。広大な庭にはたくさんの池があり、大池は女官見習いの学生たちが舟をだして、男たちのするようなまねをして釣りをしている。池身草が円い葉を浮かべて、葉の上に虹色の水滴を転がす。風が冷たいが、女たちは楽しそうである。
「新人かしら」
声がして視線を池から回廊の先に移すと、色とりどりに着飾った十五歳くらいの少女たちが面白そうにこちらを見ている。引率の先生と思われる女官が、「これ」と制して「さあ、王妃さまに差し上げるお花を摘みにいくのだよ」と彼女たちを従わせて横を過ぎる。じろじろと多くの目が明鈴と貴子を値踏みして去っていく。ちゃりちゃりと、彼女たちのつけている飾りが音を立てる。後ろ姿を見守っていると、貴子はまたさらさらと衣の擦れる音を耳して、そちらを見た。
「ここに来たのを後悔なさらないことね」
ひときわ強い香をたきしめた十三くらいの女の子が、眼光鋭く貴子を目で射た。
その瞬間、かあっと体が熱くなるのを貴子は感じた。少女が輝き、透明に浮き上がる。そして自分の体も、透き通ってしまったかのようだった。彼女は金とも銀とも言えぬ光で輝いていた。唇だけが色を持って、赤く濡れている。
「あなたは」
言いかけて、龍に声を書けられ、我に帰った。既に少女の姿はない。
「誰だったのだろう」
「なに、あんな小娘はお前の敵ではない」
「そうですよ、あたしも負けません」
明鈴はいつの間にか、「あたい」ではなく「あたし」と言うようになっていた。彼女は旅の姿のままで、まだ身なりが粗末であったから、精一杯の虚勢なのかもしれない。
「そういえば貴子はいくつなのだ」
「十四」
「ほう、皇王様より一つ年下か。まあ胸もまだだないようだし、早く年頃の熟れた娘にならぬと、寵愛はいただけぬかもしれんな」
「なぜ」
食いつく貴子をおかしいと思ったのか、「あの年頃は年上に憧れるものなのだ」といいながら龍は笑う。
「野心がたっぷりあるのだなあ、俺はそういう奴、大好きだ」
「わたしは別にあなたのことが好きではないですけど」
「けど?」
「明鈴はあなたのことが好きみたいです」
冗談めかして言ったつもりだったが、龍はさっと顔色を変えて、「おれは女に興味がないんだ」と突き放す。その豹変ぶりと発言に驚いて、明鈴と貴子は二人は顔を見合わせた。
「いや、それは」
「うるさい、言い寄られるのは大嫌いだ。恥知らずめ、自分の姿を鏡で見るのだな。それも仮宮で、内吏のおれに」
吐き捨てるように言う。なぜそこまで言う必要があるのか。貴子はだが素知らぬ顔をして、冷静を装った。下手に騒げばかえって嫌な言葉が増えるだけである。明鈴が傷つくのが目に見えていた。
「龍さま、これから私たちはどこに通されますか? まずは湯浴みしたいのですけれど」
「湯浴み?」
「旅の泥路を落とさないで入るには気後れする大邸宅ですから」
「ううむ」
なぜかしぶる龍に、誰かが声をかける。
「いいじゃない。身体検査があるんですからきれいにすれば? くさいわ」
「あ、さっきの」
さきほど貴子を射すくめた少女だった。神出鬼没である。
「しかし」
「おだまりなさい、ネイファンの内吏風情が。ここでは女が上ですよ」
「う」
珍しく龍が気圧されて、引き下がる。内心ひどく怒っているのが手に取るようにわかる。黒い顔が赤黒く染まっていた。
「さ、入っていらっしゃい」
「どこですか」
「いいわ、わたくしが連れて行ってあげましょう」
うつむく龍をその場に残して、三人は北の湯殿に向かった。
「裏山で温泉が湧くので、ここまで引いているのです。自由にお使いなさい。今の時間では、誰も使わないですし」
「みなさんは?」
「それぞれ仕事をしているわ。早く宮中に行くための生活訓練です」
「じゃ、あなたは?」
「わたくしは、ぶらぶらするのが仕事です」
ふふっと笑って、また去っていった。
湯気の立ちこめる湯殿に二人は取り残されたが、ここで明鈴は固まってしまった。脱ぎはじめた貴子には、胸板があった。
真っ赤になって明鈴は「あの、見張りしてます」と出ようとした。そこで事態に気づいた貴子は、さっと帷子を着ると「おれはざっと浴びるだけにするから、その間、君は湯船につかっておいで。それで、顔をよく洗って、髪を整えるんだ。きっとあの人がびっくりするよ」と後ろを向いた。
「あの人」
龍のことだとすぐに明鈴は気づいたようだった。貴子は続ける。
「お兄さんに似ているんでしょ?」
「ええ、十年前に亡くなったわ」
「美形なのは認めるけど、趣味がわるいよ」
「そうかしら」
「そうさ」
振り向きかけて、貴子はあわててまた後ろを向く。
「さっきの女の子、名前を聞きそびれてしまったな」
「女官かしら」
「さあ」
二人は帷子を何回も着直して体を拭くと、衣を着て、ようやく顔を見合わせた。
「あ」
貴子は驚きの声を上げ、そして微笑んだ。
目の前には、湯上がりの色香漂う美女が立っていたのである。
「さあ、ネイファンに」
「ええ」
内府長の部屋の前に行くと、青い衣の龍が立っていた。彼はすぐに、異常に気づいた。
「だれだ?」
顔を覗き込んで、それが明鈴だと気づいた彼は、身をのけぞらさんばかりに驚いて、そしてばつが悪そうに、「行くぞ」とだけ言って、二人を連れて内府長の部屋の戸を開けた。