第1話 日常という贅沢
月曜の朝。
オフィスの空気は、いつも通りだった。
キーボードの音。
プリンターの稼働音。
コーヒーの香り。
結婚式を挙げても。
新婚旅行へ行っても。
北海道から帰って、みんなでカニを食べても。
月曜日になれば。
また仕事が始まる。
何も変わらない。
――はずだった。
「優真さん」
「ん?」
「本日のスケジュールです」
澪がタブレットを差し出す。
「十時から打ち合わせ。十三時から取引先への訪問。十五時半から社内ミーティングです」
「ありがとう」
「移動時間を考慮すると、昼食は十二時までに済ませた方がいいと思います」
「了解」
優真がタブレットを受け取る。
「……」
由奈が。
その様子を見ていた。
「……」
「佐倉さん」
「はい!」
「何でしょうか」
「いえ」
「……」
「なんか」
「はい」
「普通だなあと思って」
「何がですか?」
「澪さんと社長です」
「?」
澪が首を傾げる。
「結婚式して」
「はい」
「新婚旅行に行って」
「はい」
「二人で北海道を満喫して」
「はい」
「帰ってきて、みんなでカニを食べて」
「はい」
「それなのに月曜日になったら、普通に仕事してる……」
「当然です」
「そこです!」
「?」
「この普通に戻ってる感じがいいんですよ!」
「意味が分かりません」
「私は分かります!」
「分からなくていいだろ」
陸が横から突っ込んだ。
「朝から何言ってんだよ」
「陸さんには分からないんです」
「何が?」
「日常に戻った新婚夫婦の良さが!」
「仕事しろ!」
「してます!」
「してないだろ!」
いつものやり取り。
優真が笑う。
澪は小さく息を吐いた。
「佐倉さん」
「はい」
「業務に集中してください」
「はーい」
由奈が自分の席へ戻る。
「……」
その様子を見ながら。
澪も自分の席へ向かう。
机の上には。
出発前に整理しておいた資料。
確認すべきメール。
今日処理する予定の書類。
何も変わっていない。
新婚旅行へ行く前と。
同じオフィス。
同じ仕事。
同じ席。
なのに。
「澪」
「はい」
「コーヒー飲む?」
「……」
澪が顔を上げる。
「優真さんが淹れるのですか?」
「うん。俺のついで」
「でしたら、お願いします」
「了解」
優真が給湯スペースへ向かう。
「……」
以前なら。
自分で淹れた方が早い。
そう考えていたかもしれない。
わざわざ頼む必要はない。
自分のことは自分ですればいい。
その方が。
効率的だ。
「……」
だが。
今は。
優真が淹れてくれるというのなら。
頼んでもいいと思える。
「はい」
しばらくして。
優真がカップを机に置いた。
「ありがとうござ――」
澪がカップを見る。
「……」
「どうしたの?」
「優真さん」
「うん?」
「これは」
澪がカップを持ち上げる。
「私のですか?」
「そうだけど」
「……ミルクが入っています」
「うん」
「砂糖も」
「入れたよ」
「……」
「違った?」
「いいえ」
澪がカップを見る。
「合っています」
「よかった」
優真が自分の席へ戻っていく。
「……」
澪は。
もう一度カップを見る。
自分がいつも飲んでいるもの。
ミルクの量も。
砂糖の量も。
聞かれていない。
なのに。
合っている。
「……」
一口。
飲む。
「……おいしい」
小さく。
誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「澪さん」
「……」
顔を上げる。
由奈が。
こちらを見ていた。
「何でしょうか」
「いえ」
「……」
「今、めちゃくちゃ新婚っぽかったなって」
「どこがですか?」
「社長が澪さんのコーヒーの好みを完璧に把握してるところです!」
「一緒に生活していれば、覚えることは不自然ではありません」
「そういうところも含めてです!」
「業務に集中してください」
「はい!」
「佐倉」
陸が呆れたように言う。
「さっきも言われただろ」
「でも気になるじゃないですか!」
「気にするなよ」
「無理です!」
澪は。
もう一度コーヒーを飲んだ。
「……」
少しだけ。
口元が緩んだ。
◇
午前の仕事は。
いつも通りに進んだ。
メールを確認して。
資料を作成して。
電話に対応する。
新婚旅行へ行っていた数日間の遅れもない。
澪が事前に予定を組み。
直人たちが対応してくれていたおかげだった。
「いやあ」
陸が椅子にもたれる。
「社長たちがいない間、思ったより何も起きませんでしたね」
「何も起きないように準備してから出発しましたので」
澪が即答する。
「さすが澪さん」
「必要な対応です」
「でも」
由奈が振り返る。
「私、ちょっと期待してたんですよね」
「何を?」
「社長と澪さんがいなくなった瞬間、会社が大混乱するやつ」
「何を期待してるんだよ」
陸が突っ込む。
「だって、ドラマならありそうじゃないですか!」
「現実で起きたら困るだろ!」
「それを私たちが力を合わせて乗り越えて!」
「普通に仕事して終わっただろ」
「はい」
「じゃあいいだろ」
「物足りません!」
「会社に何を求めてんだよ!」
「佐倉さん」
「はい!」
「何も起きなかったことが最善です」
「分かってます!」
「でしたら」
「仕事します!」
由奈が前を向く。
優真が笑いを堪えながら言った。
「でも、ありがとう」
「?」
澪が優真を見る。
「みんながちゃんと回してくれたから、俺たちも北海道でゆっくりできたし」
「ああ、それは確かに」
陸が頷く。
「俺、ちゃんと働きましたからね」
「知ってるよ」
「私もです!」
由奈がすぐに手を挙げる。
「佐倉もありがとう」
「はい!」
直人はパソコンから視線を上げない。
「俺は?」
「もちろん直人も」
「ならいい」
「そこ確認するんだ」
優真が笑う。
澪も。
小さく笑った。
それから。
時計を見る。
「そろそろ十二時ですね」
「もうそんな時間?」
「はい」
「じゃあ昼にしようか」
優真が立ち上がる。
そして。
「澪」
「はい」
「今日、昼どうする?」
「……」
澪が考える。
「午後の予定を考えると、近場で済ませるのが効率的です」
「やっぱりそうなるよね」
「はい」
「じゃあ近くの店にする?」
「……」
「澪?」
「優真さん」
「ん?」
「以前、駅の反対側に新しいお店ができたと言っていましたよね」
「……言ったね」
「まだ行っていませんよね?」
「うん」
「では」
澪が時計を見る。
「今日は、そちらへ行きませんか?」
「え?」
優真が少し驚く。
「いいの?」
「何がでしょうか」
「ちょっと遠いよ?」
「徒歩十分程度です」
「往復なら二十分」
「はい」
「いつもの店より時間かかるけど」
「……」
澪が一瞬。
黙る。
「午後の予定には間に合います」
「それはそうだけど」
「それに」
「うん」
「気分転換は、その後の業務効率を向上させる可能性があります」
「結局、合理的な理由をつけるんだ」
「事実です」
「はいはい」
優真が笑う。
「じゃあ行こうか」
「はい」
「……」
由奈が。
またこちらを見ていた。
「佐倉さん」
「まだ何も言ってません!」
「顔に出ています」
「だって!」
由奈が二人を見る。
「澪さんから遠い店に誘いましたよ!?」
「遠いといっても徒歩十分です」
「そういう問題じゃないです!」
「では、どういう問題ですか?」
「北海道です!」
「意味が分かりません」
「北海道で絶対何かありましたよね!?」
「佐倉」
陸が由奈の肩を掴む。
「昼飯行くぞ」
「ちょっと! まだ聞いてません!」
「聞くな!」
「気になるんです!」
「他人の新婚旅行を掘るな!」
「カニの話だけでも!」
「この前聞いただろ!」
二人が先にオフィスを出ていく。
「……」
優真と澪が。
顔を見合わせる。
「行こうか」
「はい」
二人も。
並んで歩き出した。
◇
会社を出る。
いつもの道を歩き。
いつもなら曲がる角を。
今日は通り過ぎる。
「……」
たったそれだけ。
数分。
余計に歩くだけ。
効率を考えれば。
何の意味もない。
「澪」
「はい」
「北海道、楽しかったね」
「……はい」
「また行きたい?」
「北海道へですか?」
「うん」
「……」
澪が少し考える。
「行きたいです」
答えは。
すぐに出た。
「そっか」
「はい」
「俺も」
「……」
二人で歩く。
手は繋いでいない。
会社の近くで。
仕事中で。
ただ。
昼食へ向かっているだけ。
それでも。
澪は。
少しだけ歩く速度を緩めた。
「?」
優真も。
それに合わせて。
少しだけゆっくり歩く。
「……」
澪は何も言わなかった。
優真も何も言わない。
急ぐ必要はない。
午後の予定には。
十分間に合う。
だから。
ほんの少しだけ。
ゆっくり歩いてもいい。
「……」
澪は。
隣を歩く優真を見る。
結婚式。
新婚旅行。
北海道。
それらは。
特別な時間だった。
でも。
こうして会社へ行って。
仕事をして。
昼になれば。
一緒に食事へ向かう。
そんな。
何でもない一日も。
以前とは少し違って見える。
(こういう日常こそ)
澪は思う。
(本当は一番、贅沢なのかもしれません)
「……」
以前なら。
そんな考えに。
意味を求めていたかもしれない。
必要なのか。
合理的なのか。
効率的なのか。
けれど。
今日は。
答えを出さなかった。
「澪?」
「はい」
「どうしたの?」
「いいえ」
澪は。
ほんの少しだけ笑う。
「お昼のお店」
「うん」
「楽しみです」
「……そっか」
「はい」
優真も笑った。
いつもより。
少しだけ遠い店。
いつもより。
少しだけ長い昼休み。
その程度の。
小さな非効率。
それでも。
悪くない。
特別なことなど。
何もない月曜日。
そんな日常こそが。
二人にとっては。
少しだけ。
贅沢だった。




