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第1話:「この世界は、理不尽すぎる」


「――おい、いつまで寝ている! さっさと契約書スクロールに血印を押せ、この底辺負担者ベアラーが!」


 頬を蹴り飛ばされる鋭い痛みと、怒声。


 央はハッと目を見開いた。


 むせ返るような悪臭。


 石畳の冷たさ。


 頭上には、古びたレンガ造りの建物が空を狭めていた。


 路地裏だ。


 東京のそれとは全く異なる、中世ヨーロッパ風の街並み。


 目の前には、豚のように肥え太った中年の男が立っていた。


 いや、「浮いていた」。


「な……?」


 央は自分の目を疑った。


 男の足は、地面から数センチ宙に浮いている。


 まるで重力が存在しないかのように、その巨体をフワフワと揺らしているのだ。


(死んだはずなのに)


 死の感覚はあった。

 確かに、ロープが喉に食い込む感触があった。


 意識が落ちていく感覚が。


 だが今、央は生きている。


 体は若い。


 十代、いや、それより少し上か。


「状況が飲み込めていないのか? お前は昨晩、俺から『責任(カルマ)』を買い取る契約をしただろうが! ほら、さっさとこの五千ゴールドを受け取って、俺の重荷を背負え!」


 男が投げ捨てた皮袋から、チャリンと金貨がこぼれ落ちる。


 その瞬間、央の脳内に膨大な情報が濁流のように流れ込んできた。


(……思い、出した。俺は……死んで、この世界に……)


 バランシア。


 それがこの世界の名前だった。


 そして央は今、この世界のスラムで生きる孤児「オウル」として、前世の記憶を持ったまま転生していた。


 バランシアの法則は、極めて特異で、残酷だった。


 『責任カルマは、質量を持つ』。


 借金、失敗、他者への義務、犯罪。


 人が生きていく上で背負う精神的・社会的な「責任」は、この世界では実際の「重さ」となって体にのしかかる。


 罪を犯した者の体は文字通り重くなり、動きが鈍くなる。


 重い罪を犯し続ければ、やがて自分の体の重さで動けなくなり、最終的には地面に押し潰されて死ぬ。


 だが、人類は狡猾だった。


 その「責任」を数値化し、他人に譲渡する魔法契約を生み出したのだ。


 結果として、この世界では「責任=通貨」となった。


 富裕層は金にモノを言わせて、自分の罪や責任を他人に売り飛ばす。


 だから彼らの魂は軽く、物理的にも宙に浮くほど軽やかになる。


 「浮遊貴族」と呼ばれる上流階級は、常に地面から数センチ以上浮いた状態で生活していた。


 重さとは貧しさの証明であり、軽さとは権力の証明だった。


 逆に、貧困層はその日を生きるための金と引き換えに、他人の責任を肩代わりする。


 【負担者ベアラー】と呼ばれる底辺職だ。


 彼らは常人では耐えられない重荷を体に蓄積しながら、社会の底辺を支え、やがて重さに押し潰されて死んでいく。


 使い捨ての道具だ。


 前世の日本で言えば、サービス残業を強いられる非正規労働者より、もっと露骨な搾取構造が、この世界では制度として確立されていた。


(前世でも、この世界でも。人のやることは変わらないな)


 オウルは乾いた目で、目の前の浮遊貴族を見上げた。


「おい、聞いているのか! 俺が犯した『脱税および暴行の罪(クラスC)』、重量にして約五十キロ! 約束通りお前が引き受けるんだよ!」


 貴族が羊皮紙を突きつけてくる。


 前世の記憶と今世の記憶が合わさって、オウルには状況が完全に理解できた。


 「オウル」の肉体は昨夜、飢えに負けてこの契約にサインしてしまったのだ。


(前世でも今世でも、他人の尻拭いか)


 オウルは諦めの笑いを漏らしそうになった。


 が、諦めた。


「……わかりました。契約、します」


 どうせ逆らえばこの場で殺される。


 ここで死んでもまた転生するかもしれないが、その保証はない。


 オウルは自らの指を噛み切り、羊皮紙に血でサインをした。


『契約成立――譲渡:脱税および暴行の罪/重量:五十kg』


 無機質なシステム音声のようなものが脳内に響いた直後。


「――ッッッ!!??」


 全身の骨が、ミシミシと凄まじい音を立てた。


 見えない巨大な万力で、全身の細胞を押し潰されるような激痛。


 ただの五十キロの重りではない。


 魂そのものに直接五十キロの負荷がのしかかっているのだ。


 並の人間なら内臓が破裂してもおかしくない。


「あははははッ! いやぁ、助かるよ! やっぱり罪を手放すと、羽が生えたみたいに清々しいねぇ!」


 浮遊貴族の男は、完全に地面から足が離れ、ふわふわと軽薄なステップを踏んでいる。


「じゃあな、底辺運搬人。精々、重力に潰されて死なないように地べたを這いずって生きな!」


 高笑いを残して、貴族が去ろうとした――その時だった。


 言葉が“流れ込んできた”。


《 魂の限界負荷を検知。条件を満たしました 》


 脳が直接、理解させられる。

 意味が先に届き、遅れて言語が輪郭を持つ。


《 個体名:オウル のオリジン(前世)の特質を参照……完了 》


 その瞬間、全身の血管が脈打った。


 ドクン、と一際強い拍動。


 まるで体内に別の心臓が埋め込まれたかのように、リズムが“上書き”される。


 神経の奥を、冷たい何かが走る。


 筋繊維の一本一本、血の流れ、神経網――それらすべてが、信号として点滅している感覚。


 理解が、焼き付けられる。


《 固有スキル:【責任転換ウェイト・コンバート】が解放されました 》


(……え?)


 声にはならなかった。


 思考が追いつくより先に、体が変わっていく。


 内側から、何かに“書き換えられている”。


 次の瞬間、全身を押し潰そうとしていた五十キロの重さが、スゥッと体の中に溶け込んでいく感覚があった。


 苦しくない。


 それどころか、血肉が沸き立つような、圧倒的な充実感が全身を走った。


 《 スキル効果発動。背負った『責任カルマ』を、自らの物理・魔法ステータスに百パーセント変換します。さらに、使用者への圧壊ダメージを完全に無効化します 》


 ――なんだ、これ。


 この世界の常識では、重い責任を背負えば背負うほど、動きは鈍くなり、いずれ重力に潰されて死ぬ。


 だが、今のオウルに与えられたルールは違った。


『重い罪を背負えば背負うほど、純粋に強くなる』。


 しかも、潰れることは絶対にない。


「……おい、お前」


 オウルはゆっくりと立ち上がった。


 ズンッ、と足元の石畳が蜘蛛の巣状にひび割れ、陥没する。


 五十キロ分の責任が全身の筋力と骨密度に変換され、普通の人間では到達しえない質量が、今のオウルの肉体には宿っていた。


「あぁ? なんだ、まだ生きて……ヒィッ!?」


 振り返った貴族の男は、オウルの姿を見て悲鳴を上げた。


 ただ立ち上がっただけなのに、オウルの周囲の空気が歪み、尋常ではないプレッシャーが放たれていたからだ。


 石畳のひび割れが、まるでオウルを中心にした衝撃波の跡のように、放射状に広がっていた。


「アンタの罪、確かに受け取ったよ」


 オウルは、軽く右拳を握り込んだ。


 ただそれだけで、バチンッ、と空気が破裂するような音が鳴る。


「でも、たったの五十キロじゃ、少なすぎるな」


 前世で、世界中の理不尽を背負わされて、潰された。


 ならこの世界では――この重さを全て喰らって、力に変えてやる。


「なぁ、アンタ。もっと重い罪、隠し持ってないか? 俺が全部、買い叩いてやるよ」


 底知れない漆黒の瞳で見下ろすオウルに、宙に浮いていた軽薄な貴族は、恐怖のあまり失禁しながら地面へと墜落した。





 貴族が腰を抜かしたまま逃げた後、オウルはしばらく路地裏にしゃがみ込んでいた。


 考えることが多すぎる。


 まず、スキルの仕組みを整理する必要があった。


 ・背負った責任カルマの重さが、ステータスに変換される。

 ・重さが増えるほど強くなる。

 ・潰れない。


 逆に言えば、この世界で「責任を引き受けること」は、普通の人間にとって死に直結する行為だ。


 にもかかわらず貧困層はそれを生業にしている。


 体が限界を超えれば、静かに潰れて死ぬ。


 それが当たり前の世界。


(……俺にとっては、逆だ)


 重くなるほど強くなる。


 前世でずっと背負わされ続けた「重さ」が、この世界では純粋な力になる。


 それだけは理解した。


 問題は、どう動くかだ。


 オウルは立ち上がり、路地を出た。


 スラム地区――この世界では「底辺街ロウタウン」と呼ばれる区画の、昼間の風景が広がっていた。


 石畳の道は所々剥がれ、排水路は詰まっている。


 行き交う人間たちは全員、足取りが重い。


 中には地面に手をついてでなければ歩けない老人もいた。


 責任カルマの重さが、文字通りそこに見えた。


 そして、その重さを「買い取る」業者の看板が、通りのあちこちに出ていた。


責任カルマ買取・即日対応。負担者ベアラー登録無料』


 オウルは立ち止まって、看板を読んだ。


(仲介業者か)


 この世界の「責任売買」には、仲介業者ブローカーが存在する。


 貴族と負担者ベアラーの間に入り、双方から手数料を取る。


 今朝オウルに契約を迫ってきた浮遊貴族も、本来はこういった業者を通すはずのところを、直接スラムに乗り込んできたのだろう。


 どういう構造になっているのか、もう少し知りたかった。


 オウルは看板の事務所に入った。


 薄暗い部屋。

 煤けた壁。


 奥のカウンターに、四十代くらいの男が座っていた。


 眠そうな目。


 煙草に似た草を指に挟んでいる。


「登録か?」


「情報が欲しい」


「金払いか?」


「払う」


 男がようやく少し顔を上げた。


 オウルは朝の契約で得た五千ゴールドの皮袋を取り出し、カウンターに置いた。


「この街の責任カルマの流れを教えてくれ。誰が何を売って、誰が何を買っているのか。特に、大きな案件を抱えている貴族の名前と、それが今どこに流れているか」


 男は少し黙って、オウルを見た。


「……ガキが何を考えてるんだ」


「情報収集だ」


「それだけか?」


「今のところは」


 男はしばらく草を吸った。


 やがて、ため息をついた。


「……五千じゃ安い。二万出せ」


「一万。それ以上は今持っていない」


 男はまたしばらく黙った。


「……まあいい。どうせすぐ死ぬだろうしな、お前」


 オウルは何も言わなかった。


 男から得た情報は、思っていたより整理されていた。


 ロウタウンには、現在三つの大きな責任カルマの「塊」が流通している。


 一つ目は、「バルディクト伯爵」が抱える複合罪。


 詐欺、傷害、証人への脅迫。

 クラスBで、重量は百八十キロ超。


 市場に出したいが、引き受け手がいない。

 重すぎるからだ。


 二つ目は、「港湾ギルド」が集積している労働災害の責任。


 複数の小口案件を束ねたもの。

 クラスCが十数件で合計二百キロ近い。


 分割なら引き受け手があるが、一括だと誰も手を出せない。


 三つ目は、今朝オウルが偶然引き受けた浮遊貴族の件と同系統の、個人売買の残りカス。


 小口の案件がロウタウンに散在している。


(面白い構造だ)


 オウルは事務所を出てから、しばらく歩きながら考えた。


 この世界の負担者ベアラーは、個々の案件を少しずつ引き受けて、限界が来たら死ぬ。


 それが通常の流れだ。


 だがオウルには限界がない。


 つまり、誰も手を出せない「重すぎる案件」を引き受ければ引き受けるほど、オウルだけが利益を得る。


 しかも、ただ金を稼ぐだけでなく、強くなれる。


(悪くない)


 計算が合っていると思った。


 ただ、一つだけ気になることがあった。


 男から聞いた話の中に、不自然な点がある。


 バルディクト伯爵の案件は、半年前から市場に出ているらしい。


 通常、これほど大きな案件が半年も売れ残ることはない。


 必ず誰かが分割して小口化するか、別の形で処理するはずだ。


 それができていない、ということは。


(何か、理由がある)


 オウルは足を止めた。


 路地の向こう、少し先に、妙な人だかりができていた。





 人だかりの中心には、男が一人、倒れていた。


 三十代くらい。

 薄汚れた服。


 体が、地面に沈み込むように重そうだった。


 呼吸のたびに胸が軋む音がする。


 傍に、十歳前後の子供が二人しゃがんでいた。


 野次馬の中に、ブローカーらしき男が二人いた。


 契約書スクロールを持っている。


「……頼む、もう動けない。この責任(カルマ)を引き取ってくれ」


 倒れた男がかすれた声で言った。


「引き取るのは構わんが、お前が持ってるのはクラスCの複合罪、三十キロだ。今の相場だと三千ゴールドが上限だ」


「それじゃ足りない。子供たちが……」


「知らん。相場は相場だ」


 オウルは人だかりの外から、その様子を見た。


(ふーん)


 感情的な反応は薄かった。


 だが、論理的な観察はある。


 倒れた男が持つ三十キロの案件に、ブローカーは三千ゴールドしか出さない。


 しかし、ブローカーが別の負担者ベアラーに転売するときの相場は、おそらく五千から六千ゴールドだ。


 差額が業者の利益になる。


 それ自体は当然の商売だ。


 問題は、別のところにある。


(この男が持っているクラスCの複合罪……内訳が気になる)


 事務所の男から聞いた話では、バルディクト伯爵の案件が半年売れ残っている理由として、「誰かが意図的に市場操作をしている可能性がある」という噂があった。


 具体的には、ロウタウンに流通する小口案件の買値を人為的に下げることで、負担者ベアラーたちの資金力を削ぎ、大口案件を引き受けられる体力のある業者が育たないようにしている、という話だ。


 誰の利益になるのかは、まだわからない。


 だが。


「……お前のその案件、見せろ」


 オウルが人だかりに割り込んだ。


 ブローカーの男が振り返った。


「なんだ、ガキ」


「その案件の契約書スクロールを見せてくれと言っている」


「客でもないのに見せる義理はない」


「じゃあ、買う」


 ブローカーが目を細めた。「……六千だ」


「五千で買う。差額は俺が引き受ける代わりに、この男に渡せ」


 倒れた男が、かすれた声で言った。「……なんで」


「情報が欲しいから」


 オウルはブローカーを見た。「どうする?」


 ブローカーは少し考えた。


 五千ゴールドの即決買いは、今の相場では悪くない。


 男が一人、少し得をする。


 それだけだ。

 邪魔する理由もない。


「……いいだろう」


 契約書スクロールが差し出された。


 オウルは内容を読んだ。


(……やはり)


 倒れた男が抱えているクラスCの複合罪の内訳には、見覚えのある項目が一つ含まれていた。


 「証人への威圧による口封じへの加担」。


 これは、バルディクト伯爵の案件の中にあった罪状と同種の罪だ。


 接点がある。


 オウルは指を噛み切り、サインをした。


 『契約成立――譲渡:複合罪(クラスC)/重量:三十kg』


 三十キロが加算される。


 スキルが飲み込み、変換する。


 微かな充実感。


 誤差程度だが、着実に積み上がっていく。


 オウルはしゃがんで、倒れた男と目線を合わせた。


「バルディクト伯爵を知っているか」


 男の顔が、一瞬だけ強張った。


 それで十分だった。


「……話せることと、話せないことがある」


「話せる範囲で聞く。ただ一つだけ先に聞かせろ。お前のその罪の内訳、証人への口封じへの加担、これはバルディクトの件か?」


 男はしばらく黙った。


 子供たちが、不安そうに父親の顔を見ている。


「……俺みたいな人間が口を開いたら、また別の罪が降ってくる」


「降ってきたら、俺が引き受ける」


 男がオウルを見た。


「……なんでそんなことができる」


「体の構造が違うから。それだけだ」


 男はまた少し黙った。やがて、かすれた声で言った。


「……バルディクト伯爵は、架空の責任カルマを作れる」


 周囲がざわめいた。ブローカーが素早く立ち去った。


「罪を犯していない人間の魂に、直接罪の刻印を押せる。それが本当の話だ。俺はその現場を見てしまった。だから口封じをされた。罪を押しつけられて……ずっと、動けなかった」


 オウルは男の話を聞きながら、頭の中で情報を整理した。


 (架空の責任カルマ。つまり、「売買できる資産」を無から生み出せる。それが半年間、バルディクトの案件が売れ残っている本当の理由か)


 市場を操作する必要すらない。


 架空品で市場を埋めれば、合法的な案件の価値が相対的に下がる。


 そして架空品を流し続けることで、本物の責任カルマを処理したように見せかけながら、実際には自分の罪を消していない。


 完全な詐欺だ。


 しかも、被害者は罪を犯していないのに体が重くなり、やがて死ぬ。


「……ありがとう。金はブローカーから受け取れ」


 オウルは立ち上がった。


「待て」


 男がオウルの袖を掴んだ。


「……お前、何をするつもりだ」


「まだ決めていない」


「バルディクトに手を出すのは、危険だ。あいつは――」


「知っている。強い貴族だろう。怖い手下もいる。そういう話だろう」


 男が黙った。


「だが、俺にとってはむしろ好都合だ」


 オウルは男の手を静かに外した。


「架空の責任カルマを量産しているなら、その総量はかなりになる。それを全部俺に流してもらえれば、それだけ俺は強くなれる」


 男が目を丸くした。


「……お前は、伯爵を脅すつもりか? たった一人で?」


「脅すつもりはない。取引をしに行く」


 オウルはそれだけ言って、路地を歩き始めた。


 倒れた男が、呆然とした顔でその背中を見ていた。


 子供たちも、黙って見ていた。


(バルディクト伯爵か)


 オウルは歩きながら考えた。


 架空の責任カルマを生み出せるなら、それは一種の錬金術だ。


 そんな力を持つ人間が、なぜまだロウタウンの末端に影響を及ぼすような小細工をしているのか。


 上を見ていないのか。


 それとも、上に何か、別の事情があるのか。


(面白い)


 前世で死ぬほど退屈だった世界と違って、この世界は、少なくとも複雑だった。


 複雑な方が、考えることがある。


 考えることがある方が、生きている気がする。


 それは、悪くなかった。

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