プロローグ:「俺の人生は、軽すぎた」
完全新作として公開開始します。
俺が最初に覚えた言葉は、「ごめんなさい」だった。
物心がついた頃には施設にいた。
親の顔は知らない。
捨てられた理由も教えてもらえなかった。
ただ、施設の職員から「あなたはここにいさせてもらっている立場なのだから」と、何度も何度も言い聞かされた。
子供だった俺には、その言葉の意味を疑う頭がなかった。
ありがたい。
申し訳ない。
役に立たなければいけない。
それが俺の背骨に染みついた。
社会人になっても、その癖は一ミリも抜けなかった。
むしろ加速した。
新卒で入った中堅ITベンチャーは、体裁だけは整ったブラック企業だった。
残業代は出ない。
有給は幻だ。
上司のミスは部下に流れ、部下のミスは俺に流れてきた。
同期が次々と辞めていくのを、俺は見送り続けた。
辞める理由が見つからなかったわけじゃない。
残ることでしか、自分の存在意義を確認できなかったのだ。
重荷を背負っている間だけ、俺はここにいていい気がした。
それでも、七年間は持った。
終わりは、月曜日の朝だった。
「――すまないッ、重野! この通りだ、どうかお前が泥を被ってくれ!!」
社長室の床に額を擦りつける部長の頭頂部を、俺は虚ろな目で見下ろした。
薄くなった髪。
脂ぎった首筋。
フローリングに滲む、脂汗の染み。
醜い。
ただそれだけの感想しか湧かなかった。
「部長が横領した五千万円の補填と、その隠蔽のためのデータ改ざん……それを、全部僕一人の独断でやったことにしろと?」
「頼む! 娘が私立に受かったばかりなんだ! ここで私が捕まれば、家族は路頭に迷う! お前には身寄りがないだろう? 会社からは懲戒解雇になるが、後で個人的に退職金以上の額を必ず払う! だから!」
俺は内心で、静かに嘲笑した。
知っている。
横領した金は娘の学費なんかじゃなく、歌舞伎町のキャバクラとオンラインカジノに消えた。
総務の女性社員がこっそり教えてくれた。
この会社が俺を切り捨てて、全部なかったことにしようとしているのも、法務部長がこっそり教えてくれた。
みんな、知っていて、見ていて、何もしない。
それがこの世界の作法だと、七年かけてようやく理解した。
「……僕が断ったら?」
「その時は、お前がこれまで進めてきたプロジェクトのチームメンバー全員に、連帯責任を取らせる。あいつらの人生も終わるぞ」
その言葉が、全てを決めた。
入社三年目の田中。
去年結婚したばかりの桐島。
来月に出産予定の妻がいる坂本。
あいつらを巻き込む選択肢は、俺の中に存在しなかった。
これが合理的な判断なのか、ただの癖なのか、もう自分でも分からなかった。
俺は昔から、自分より他人の重さを先に計算する。
それが正しいことだと信じていた時期もあった。
今はもう何も信じていないが、体が先に動く。
「……わかりました。僕が、全責任を負います」
部長の顔が、安堵と侮蔑の混合物に歪んだ。
その瞬間、ああ、やっぱりこいつはそういう顔をするんだと思った。
驚きは一切なかった。
翌日、重野 央は懲戒解雇された。
約束の金は、永遠に振り込まれなかった。
部長は音信不通になった。
世間はネットで俺の実名と顔写真を拡散し、「会社を裏切った横領犯」のレッテルを貼った。
同棲していた婚約者は玄関先で「犯罪者とは一緒にいられない」と言って、段ボール箱を一つ持って出て行った。
箱の中には、俺が誕生日に贈ったマグカップが入っていた。
返してくれるんだ、と思った。
それだけだった。
怒りはなかった。
呆れもなかった。
全部、予想の範囲内だった。
人間はそういうものだ。俺がそれを知るのに、三十一年かかった。
深夜の四畳半。
首を吊るためのロープを梁にかけながら、俺は不思議と穏やかな気持ちでいた。
悲しくない。
悔しくもない。
ただ、終わるんだという感覚だけがある。
この部屋に残っている俺の所有物は、着古したスウェットと、空の財布と、読みかけのままの文庫本一冊だ。
人一人の三十一年間が、四畳半に収まる。
それが事実として、ただそこにある。
重かった。ずっと重かった。
他人の責任。
他人の失敗。
他人の人生。
俺はそれらを全部、自分のものだと思って背負い続けた。
体感的には、自分の体重の十倍くらいの重さを、七年間ずっと引きずって歩いていた気がする。
それが今、少し、軽くなっていく気がする。
不思議だな、と思った。
死ぬ直前になって初めて、肩が楽になるとは。
これがせいせいするということなのか。
よく分からないが、悪くない感触だった。
「……もし、次に生まれるなら」
踏み台から、足を外す。
最後に強く願った。
(理不尽な重さに……決して潰されない自分がいい。重さを受け止めて、喰って、力に変えられる、そういう自分が……)
プツリ、と。
思いのほか、あっけなかった。
俺の三十一年間なんて、そんなものか。
まあ、悪くなかった。
誰かの役には立てたはずだ。
証明はできないけど。
視界が暗転する中、最後にそんなことを考えながら、重野 央の人生は幕を閉じた。
――はずだった。




