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 少女が目を覚ましたとき、既にバードは褐色の翼に姿を変えて、僕の背中に納まっていた。

 彼女はベッドから身を起こして、床に座り込んだままの僕を見つけ、寂しげに微笑みかけてきた。目じりに残る涙のあとが痛々しかった。


 やはり彼女は理解していた。恋人との再会と別離が、彼女が禍神に捧げなければならない供物なのだということを。死を願うものの死は真の供物にはなり得ないことを。生き難い生をこそ、彼女は生きていかなければならないのだということを。


 ドアがノックされ、ハウスキーパーと称する女が顔を覗かせた。


「朝食の用意ができておりますが」


 はっきり言って僕も消耗しきっていたので、その場を動きたくなく、申し訳ないけれども朝食は食べられないといって断った。

 女はずかずかと部屋に入り込んできた。


「では、シーツの交換をさせていただきます」


 どうがでも僕らを部屋から追い出したいらしい。

 動けない僕の代わりにバードが僕の身体を使って立ち上がり、エストーラの手を引いて言った。


「仕方ない。食べに行こうか」


 エストーラは少し顔を赤らめて夜着の襟元を正してから、床に足を下ろした。


「一度、部屋に戻って着替えてきてもいいでしょうか」


 バードが頷くと、少女はパタパタと足音を立ててドアの向こうに消えた。

 元気そうだ。


 保留にしていた答えが、僕の中ですとんと胸に落ちてきた。

 バードはやはり冷酷ではなく優しいのだ。


 女は毛布を巻き上げてシーツをひっぺがし、夕べの交わりのあとを確認した。おそらくカイアルに報告するのだろう。

 この上もなくぶしつけな態度だったが、僕を全く恐れていない様子にちょっと驚いて、それから笑みがこぼれた。禍神といって闇雲に恐れる人間ばかりではないということだ。

 そこまで考えて、僕はまた可笑しくなった。僕は人間でいながら、禍神であるバードを恐れてはいない。そんな人間が2人いるのならば、3人、4人と幾らでもいるのだろう。


『それは違うぞ』


 女が去って新しいシーツに腰を下ろした途端、不意にバードが異議を唱えた。


『あの女は想像力がないだけだ。ユキヤのように私を恐れずにいるものなど、他にいるものか』

「そんなこと、決めつけるなよ」


 即座に僕は反論した。


「エストーラだって、もうあんたを恐れていないじゃないか。あんたのしたことを彼女はちゃんと理解していると思うんだけどな」

『あの娘をおまえのようなむごい目に遭わせたわけじゃない』

「なら聞くけど」


 僕は切り返す。


「僕がもう食われるのはこりごりだ、あんたに縛りつけられているのは嫌だ、どこか別の場所に行って別の人間を捕らえるなり食うなり勝手にやってくれって言ったら、あんたはどうする?」


 本当はみじんにもそんなことを考えていたわけじゃなかったけど、僕はあえてそう口にした。バードが僕に対して抱いているらしい負い目のようなものが、いかに根拠のない思い込みであるかを説明したかった。

 僕は無理矢理捕らえられて生贄にされているわけでは決してない。むしろこちらがバードの枷になっているといったほうがいい。彼が人を殺めないための重い不自由な枷だ。僕がいなくなれば、バードは尼さんとの約束をお反故にするのは不本意かもしれないけれども、とりあえず禍神として生きていくには、そのほうがずっと自然なはずだ。


 僕の言葉を聞いて、僕の背中で翼がもの言いたげに揺れた。けれどもバードは言い返さなかった。何か言いたげな気配のまま、バードは黙りこくっている。

 着替えを終えたエストーラが戻ってきたので、意味ありげなバードの沈黙は気になったが、ひとまず僕らは対話を打ち切った。




 僕らはその日のうちに、町を後にした。禍神として現れた以上は長くいればいるだけ無駄に人々をおびえさせるだけだと判断したためだった。飢えを満たした今、町に滞在する理由はもうなかった。

 町を去るときのカイアルは、エストーラの上首尾にすっかりご満悦で、彼女の恩赦のために惜しみなく力添えをする気でいるようだった。都でも政治的意図はなかったと判断されていることもあり、彼女の本格的な帰郷は、そう遠くない未来に実現しそうだ。


 けれども一度政治犯の烙印を押されたものの運命は、本当のところ、どう転がるかはわからない。エストーラがもっと大人になってタフになり、前科をものともしない逞しい生き方を選び取れるようになるまではまだまだ安心できない。

 僕らは上空から一度海に出たあと、レーダーを避けて人気のない海岸線に舞い戻った。


 バードがエストーラのことを考えているのがわかった。

 彼は内心では今しばらくこの国に留まって、こっそりとエストーラの行く末を見守っていてもいいと考えていた。もちろん僕は彼につき合うつもりだ。


 陸地に降り立つとすぐさま、バードは僕の背中から離れた。バードは人の形に姿を変えた後、すぐさま僕の背中の傷を修復してくれる。

 驚異的な治癒能力。

 時折彼の力には限界がないのではないかとさえ思うことがある。飢えていないときの彼には一片の禍々しさもない。ただ癒し、与え、潤す存在でしかない。


 海沿いの崖の上でアザミの花が風に揺れている。水彩絵の具の溶け出したような木々の鮮やかな緑色が懐かしく目にしみる。国が跡形もなくなっても自然は昔のままだった。


 僕らの生まれた時代に比べて、海の色のなんてきれいなことだろう。

 瑠璃色と翡翠の交じり合った海のおもての模様をもう少しだけ見ていたくて、僕は海の方を向いて草の上に腰を下ろした。


 両親や兄や友人らなどの、かつて僕に繋がっていた人たちのなきがらが、この土の下に今も眠っているのだ。そう考えると、何か不思議な気がした。

 崖の下から吹き上げる風が、潮の匂いを運んでくる。バードが僕の傍らに腰を下ろし、こちらを向いた。


「ユキヤ……」


 黙って見返した僕は、何か言おうと口を開きかけた彼が実際に声を発するまで、ずいぶんと待たなければならなかった。

 彼は何かを恐れているように、ゆっくりと言った。


「今朝の話だが……もしもおまえがこれ以上私といることに耐えられないと言ったとしても……」


 語尾は、微かにアクセントをつけてぷつりと途絶え、彼は息をついてから、僕の予想もしていなかった言葉を言いつなぐ。


「私はおまえを贄として食らい続けるだろう。おまえがもし私から逃れたいと願っても、もう解放してくれと懇願しても、おまえを自由にしてやることはできない」


 彼は言葉を切って視線を落とすと、済まない、と言い添えた。


「へえ……そうなんだ」


 僕は困って言葉を捜しあぐねた。別にそんなことを考えていたわけではなくて、ただ彼に負い目に思われるのが居心地悪くてそんな話を持ち出しただけだったのに。

 どうも風向きが妙な方向へ向かっている。


「まあいいけど、あんた、尼さんとの約束にそこまでこだわるか?」


 呆れ返った口調で、そうまぜっかえしてみせる。するとバードは低い声で、そうだと答え、済まない、ともう一度繰り返した。

 次の瞬間、からかってやろうと口を開きかけた僕の思惑をすり抜けて、思わぬ一言が自分の唇から飛び出していた。


「なんでだよ?」


 そう問い返した声は、自分でも思わぬ不機嫌な響きを含んでいた。


「相手はもう、とっくの昔に死んでるんだぞ? それも、自分がさせた誓いがどんなにとんでもない結果をもたらしたことすら考えもしないまま」


 僕を見るバードの目が、ちょっとびっくりしたように丸く見開かれる。と、彼は不意に目を細めて、なぜか幸福そうな微笑みを浮かべた。


「私は彼女を愛しているんだ。だから彼女との誓いは今でも……一度禁忌を破ってしまった今でも、私には神聖なものだ」

「あんたは好きで約束を破ったわけじゃない」


 僕は知っている。一度剥き出しになった彼の心の深淵を覗いてしまったから。あの日僕の目の前で、漆黒の闇の渦が、無数の屍を食らいながら慟哭していた。殺しても、殺しても、殺しつくしても満たされない飢えに駆られながら、狂喜と悲嘆の間で、渇望と深い虚無の間で荒れ狂っていた。

 やけにリアルに記憶が甦ってくるのは、ここの空気のせいかもしれない。だからこれまで見過ごしにしてきたことを、笑って流せなくなる。


「あんたはできない約束をさせられたんだ。思い上がった、身の程知らずのバカ修道女のために」

「それは違う」


 バードは首を振った。


「彼女のせいじゃない。彼女だけがそう思っていたんじゃない。私自身も誓いを守りたいと、そう願ったんだ。どんなに飢えても食らわず、どんなに渇いても何も口にせず、最後には彼女が眠るのと同じ土に還りたいと強く願ってしまったから……」

「それは、彼女がどうでもそうしろと言ったからだろう? あんたのことを本当に理解しようとせず、愚かにもあんたを悪だと決めつけて、くだらない神への信仰であんたが救われると頭から決めつけて」

「彼女は愚かなんかじゃなかった」


 すぐさまバードは言い返してきた。


「清らかで美しく、この上もなく聡明で気高く優しい女性だったよ」


 けっ。やってられるか。

 そう言って会話を終わらせろ。これ以上何もしゃべるな。僕は自分の心にそう言って呼びかけたけれども、僕の心は忠告を無視した。


「どうしてあんたはあのバカな修道女を責めないんだ? 彼女の無知と傲慢と思い上がりがどんな結果をもたらしたか、あんたがどんなにひどい目にあったのか、どれだけとんでもない重荷を背負わされ続けているのかわかっているのか? どうしてそんな風に、いつまでもいつまでも想いつづけていて、ただ信じつづけていられるんだよ?」


 言ってはだめだ。僕の心の中で、なけなしの理性が囁き続けていたけれども、一度内心を吐露してしまうと、もう言葉は止まらなかった。

 バードが彼女との思い出を幸福そうに語るたび、僕はイライラして仕方がなくなる。

 この悔恨の持って行き場がわからなくて、いたたまれない思いだけが膨れ上がっていくんだ。


「だから彼女はあんたにした仕打ちを……悔いることができない。自分の間違いを認めることすら。あんたが何一つ、恨みにすら思っていないから……それどころかあんたは……」

「なんで恨みに思ったりするんだ?」


 僕の支離滅裂な言葉を聞いていたバードは、不意に優しい声で僕の言葉を遮った。


「彼女は私の声を聞いて、ちゃんと助けにきてくれたじゃないか。そして今も、ずっとそばにいてくれる」


 間抜けなことに、彼の言葉の意味を僕の頭が理解するまでに、少々時間がかかった。もとはといえば自分が言い出したことだというのに……。バードが言っているのは他でもない僕のことだ。


「知って……いたんだ?」


 やっとのことで、それだけの言葉を絞り出した僕に、バードは優しい顔で、もう一度笑いかけた。


「ユキヤこそ、いつ思い出した」


 そう訊ねられて、首を振る。


「はっきりとした記憶があるわけじゃないんだ。ただ、そうじゃないかとはずっと思ってた」


 そう。僕に前世の記憶とやらがあるわけではない。けれど僕は彼女とバードのことを考えるたび、叫びだしそうになる。彼女はあんたをそんな風に苦しめるつもりはなかったんだ。ただ、知らなかったんだ。想像もしなかった。信仰は絶対だと思っていた。神の名のもとにあんたを救うことができると信じていた。愚かだった。考えなしだった。無邪気で残酷だった。


「ユキヤ、私はもう、彼女の名前を思い出すことはできないんだよ。暗黒の塊と化す以前の記憶は、私としても本当はひどくあやふやで、夢の中の出来事のように途切れ途切れに覚えているだけだ。私が彼女にどんな名で呼ばれていたかも、もう覚えていない。だが、彼女がどんな面差しをしていたかは知っている。おまえは彼女に生き写しだったから」


 バードはそう言いながら、手を伸ばして頬に触れてきた。知らないうちに流れ始めていた僕の涙を、そっと指先で拭う。


「あのとき、穢れた闇の中心で、おまえは手を差し伸べて私の前に佇んでいた。私にはおまえがすぐにわかった。おまえは私を恐れていなかった。逃げようともしなかった。そして飢えた私に食われながらも、私の内側の声だけを静かに聞いて、恐怖からではなく悲しみの涙を流した。正気を失っていた私は、おまえの悲しみにふれて、心を取り戻した」


 上空に淀む闇が降って落ちてきたときの記憶は、僕には正確ではない。正確でないというよりも、よく覚えていないといったほうが正しい。僕はあの直後に、血と脳漿と内臓を飛び散らせてくたくたと地面に崩れ落ちたのではないかと思う。思うだけで、覚えているわけではないのだ。あのときバードがどうやって僕を修復できたのかもよくわからない。


 ただ、僕は彼の心が突き刺さるほどに痛かった。彼の慟哭が、わがことのように苦しかった。満たされない飢えが、怒りが、苦悶が、絶望が、痛くて痛くてしかたがなかったんだ。


 涙に濡れた頬を、バードの両手がそっと包み込んだ。

 ひどく真剣な顔が、すぐ目の前で僕を覗き込んだかと思うと、優しいキスが降りてきた。





 僕らは一番近い海沿いの都市を目指して、日が暮れるまで歩き続けた。

 長い間抱えていたもやもやを言葉にして吐き出してしまったことと、もしかしたらと思っていたとんでもない事実を確認してしまったことで、なんとはなしに僕は無口になっていた。だからといって、僕の中で、これから特に何が変わるわけでもなかったけれども。


 ただ、自分の心を見つめなおして新しく気づいたこともある。

 彼に僕を食らい続けることを負い目に思わないでほしいと願うのは、そもそも僕自身が彼といることが自分の蒔いた種を刈り取るようなものに過ぎないと考えていたからで、そのことを負い目に思っていたのはむしろ僕の方だった。


 彼は食事を摂らねばならず、そのことで僕を傷つけなければならないことについて、負い目とかなんとかじゃなくて、ただ辛いのだと言った。けれども僕を手放す気になれないのはやっぱり一緒にいたいからで、約束を守り通したいこととはまた別の問題なのだとも言われた。

 愛する人を傷つけたくない気持ちと手放したくない気持ちは矛盾するけれども、そのどちらもが本心だ。そう真顔で言われて、僕は鼻白んだ。


 思慮深く気高く慈愛に満ちていたらしい尼さんと僕とはどう考えても別人格だし、少なくとも風貌については瓜二つだったとバードは主張するけれども、それだって本当のところはどうだったか怪しいものだ。まあ、白人の女は僕ら東洋人から見たらまるで女に見えなかったりもするから、そういうこともあるのかもしれない。


 彼女の感情をシンクロさせて不覚にも涙をこぼしてしまったのは僕の方だから、バードが混乱しても仕方がない部分もあるかもしれない。

 けれども、一時の激情のようなものが潮が引くように静まると、気が置けない友人に対するいつもの敬愛の情が戻ってきた。

 僕が彼に対して抱いているのはやはり恋情ではなく友情だ。そう正直に告げたら、バードは特に気落ちした様子もなく、仕方がない、なんて言って笑った。そのくせ僕を抱き寄せていた腕の力をいっかな緩めようとはしなかったのだけれども。


 エストーラの恋人は今は亡き人で、あの少女がいずれあちら側に行ったとき、なにも約束はなくともきっと彼と再会できるのだろう。すべての生命の源、人が行き着く混沌と豊饒の海で。

 人間である以上は僕も、いつかはきっと皆が還りつく根源へと流れ着く。いかに長く、永劫とも思える時を彼の力によって生かされていようとも。


 けれども禍神であり人間以上の存在であるバードがどのように終末を迎えるのかは、僕には見当もつかない。

 僕の中に眠りつづける彼を愛したかの女性の記憶は、いつどこで彼とめぐり合うことができるのだろう。僕が生きているかぎり、僕という器に閉じ込められて、彼女は直接彼と対峙できないのではないか。ふとそういうことを考えて、それはバードにとってとても理不尽なことではないかと思い至る。


 けれどもそれを口にしても仕方がないことも僕は知っている。もしそれで彼の望みが叶うとしても、そのために僕の命を終わらせることを彼は選ばないだろうという気がするから。そしてそれはやはりどう転んでも理不尽なのではないかと、繰り返し僕は思った。


 理不尽で一方的な彼女との約束を、彼は守り続ける。彼女に繋がるものとして、僕はそれを見届けていきたいと願う。


《終》

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