降臨の章24 怨念(一)
無言で立ち上がりかけた美菜は、はっとして動きを止めた。
「……来やがったぜ」
涼輔は普段の声色のまま言った。癖なのか、ポケットに手を突っ込んでいる。
そろそろと立ち上がった美菜は、スカートの裾を払いながら
「……何、あれ? なんだか、獣みたいな声がしたけど」
眉をしかめた。
「確かに獣、だな。ただの獣ならまだ可愛いモンだけど、あいつは人間の生命がよほど狂って出来上がったヤツだから、ただの獣より相当性質が悪い」
「浅香君」
「……ん?」
彼女はむんずと涼輔の腕をつかんで引っ張った。
「ポケットに手を入れてたら、いざという時に危ないわよ。さっきから気になってたんだけど、小銭でも入ってるの?」
無意識にそうしていたらしい。癖といってもよかった。
未菜はずっと見ていたらしい。
涼輔は素直にポケットからスポンと両手を抜き、決まり悪そうに笑って見せた。
「ああ、ごめん。癖だなぁ。……ほら、北海道って、寒くて」
「言い訳しないの」
「……はい」
見た目淡白でシリアスな割に、妙に愛嬌があって意外と気を遣ったりする。今に初めて感じた印象ではないのだが、彼のそんな部分が垣間見える度に、美菜は気持ちのどこかがふっと軽くなるような気がするのであった。
しかし、二人はすぐに闇の方に注意を向けた。
再び「オオオオォ……」という声が聞こえてきたのである。
ごくりと生唾を飲み込む美菜。
彼女とて様々な幻魔衆を相手に戦ってきたが、こうまで得体の知れない不気味な存在と相対するのは、初めてのことであった。空間の奥からずしりと重たいプレッシャーを絶えず吹き付けられているようで、あたかも、前から不良グループがやって来るのに出くわした新入生のような心地がした。
「……」
涼輔は一言も喋らない。じっと、狂気の気配を窺っていた。
少し間をおいて、またも例の唸り声がした。
と、同時に、闇にぽつりと一点の鈍い光が点った。
白でも青でも黄色でもない。
赤かった。
遠くに見えた信号機の様かといえばそうでもなく、赤は紫を帯びた、毒々しい色彩であるように、美菜は感じた。
次第に光は揺らめきながら大きくなっていき、うっすらと床や壁、天井をも映し出す程になった。しかし光には一切の閃きがなく、ぼうっと、どちらかといえば闇に浮き出ている、という感じである。ネオン管の、あの状態にも似ていた。中心付近の色が妙に濃く、周りにいくに従って形状が安定せず、ゆったりした炎のようにぼんやりとしている。
その光の中心あたり、色の最も濃い部分が透明度を失っていき、向こう側が完全に透けて見えなくなった頃、ぐっとTの字が浮かび出てきた。
よく見れば、厳密には、Tの字などではない。
人の顔を模していた。瞼や口は閉じられている。
眉のあたりがちょっと神経質そうな、しかしそれ程単純なものではなく、憂い、苦悶、苦悩、そして憎悪、そういう生命の負の働きばかりが滲み出て来たような、見るからにおぞましい感覚を与える相貌であった。
(……やっぱりか)
涼輔が心の内で呟いた瞬間。
異形の幻魔衆が、カッと目を見開いた。
瞳孔が、ない。血走った白目だけが、微かにギョロリと微動した。
同時にその口が醜いばかりに大きく開けられ
「――オオオオォ」
と、本当に獣のように絶叫した。地獄でのた打ち回る亡者を彷彿とさせた。
その咆え声が轟くや、得体の知れない何かが吹き荒れた。
さっと身体を縦にして涼輔はその抵抗をかわし、美菜は片腕で身を守るようにした。
最初は強い風のようなものかと二人は思ったが、どうも勝手が違った。触れた箇所だけが、異様なな力でぐぐっと圧されていくのである。気を抜くと、そのまま背後に持っていかれそうにさえなる。
「な、に、これ……?」
必死に体勢を保ちながら、美菜が呻いた。
風ではない証拠に、彼女の長い髪やスカートには、なんら作用していない。
「命術……なの?」
違う、と涼輔は直感した。
明確にはわからないが、恐らく他者に対する憎悪や威嚇を象徴したインパクト、とでもいうべきものであろう。生命対生命の作用だから、命術でなくともそういう現象は時としてあり得る。
ただ、それだけに相当性質の悪いものであると言わねばならない。
ふっと、インパクトのプレッシャーが弱まった。
「……双転……の、化身……。殺してやる……」
怨念に満ちた、搾り出すような禍々しい声が響いた。
耳障りで、聞く者をことごとく呪い殺してしまいそうな波長である。耳から脳を抜けて、胴体の奥まで陰々と震わせ、そこから破壊されるような心地にすらなる。余りの不愉快さに、美菜は顔を歪ませた。
が、涼輔は黙って表情も変えない。
彼には、すでにその正体の見当がついていた。
酷性である。
異空でさんざんやりあった末、涼輔の一撃によって消滅した筈の酷性。
しかしながら、涼輔の妙な予感は的中し、やはりこうして執念深く彼を追ってきていたのであった。凄まじく狂いに狂った、想像もつかない程に破滅した生命の働きの具現である。
といって、人間の生命が生み出したものに他ならない。
我が生命を冷静に省みることなく、他者や環境だけを目の敵にし、恨み、妬み、憎み、呪い、ただひたすらにその存在の消滅だけを欲してしまった時、人間の生命は浄化もままならない位に乱れ狂ってしまう。こうなってしまっては、ちょっとやそっとの表面的なケアなどで復旧されることはあり得ない。犯罪者が釈放後にやはり犯罪を繰り返してしまうように、人間の生命というものは、根底から見つめなおし、メスを入れなければ到底修正さるべきものではない。
彼は、美菜の気持ちを解きほぐしてやるかのように、
「……あの馬鹿の薄ら汚い面に、見覚えないかい?」
「……よく、覚えてないけど、なんかどこかにいたような――」
一度見たような気もするのだが、何せ身体全体が固定化することなく、絶えず崩れかけたり戻りかけたりするものだから、はっきりと認識することができない。
眉間にしわを寄せながら凝視していると、涼輔が答えてくれた。
「そう、あいつさ。酷性の奴だ」
「……酷性? って、一体……?」
「あいつが、俺を異空に誘き寄せるために、恵ちゃんをさらうように外の幻魔衆の連中に入れ知恵しやがったのさ。今回の一連の襲撃を背後で操っていた、黒幕はあいつなんだ」
「……あの幻魔衆? 恵のことを、さらっていった……?」
「ああ。妙に悪知恵の働く、ろくでもない野郎さ」
そして涼輔は、こうも言った。
「ただ、要注意だな。一見冷静そうだったのが、やりあっているうちに独りで興奮して狂ったように笑い出しやがった。とんでもない猫かぶりだよ。」
美菜は、自分の内に、ふつふつと怒りが湧いてくるのを覚えた。
戦う力もない無垢な妹を、ただ自分や涼輔を罠にかけるために異空まで拉致し、抵抗もできない彼女を殺そうとさえしていたらしいという。そういう救い難い汚らしさを、彼女は何よりも許せなかった。
表情をキッと一変させた美菜。
「……あたし、恵の分の借り、あいつにきっちり返してやる。あたしが邪魔ならあたしに直接ぶつけてくればいいものを、よりによって恵に――」
彼女の闘気そして生命力が一気に高揚していくのを、涼輔は感じ取った。怯えるよりも、完全に戦おうという姿勢を見せた美菜を頼もしく思いながら
「賛成。あの馬鹿、今度こそ死ぬほど泣かせてやる」
彼にしても、恵の一件は腹に据えかねている。
深異空に飛んだ時は、とにかく恵を助けることに意識が動いたが、今という今は顧慮するべき何物もない。妹の身を案ずる余り、美菜が涙を浮かべた姿が脳裏を過ぎった。美菜が言う通り、自分を引きずり出すために可憐な恵に、どれだけ恐ろしい思いをさせたと思っているのか。
だけではない。
時間を巻き戻して考えれば、彼らは朝からしつこく恵を付け回していたのである。
自分よりも弱い者を狙うという、この卑怯という醜い悪質。かつ、どうも酷性は自ら手を下さず、他の幻魔衆に小出しにあたらせていたという形跡がある。涼輔によって彼等が脆くも駆逐された後、仕舞いには彼等の残留する念をかき集めて気味の悪い命幻術まで仕立てあげて見せた。
「ホント、しつこい野郎だよな。だから、幻魔衆なんて趣味の悪ぃ生き物なんかになっちまうんだぜ」
そうぼそりと毒づいている涼輔が、何となく判じ物めいていて、美菜は不意に可笑しみを覚えた。要するに目の前にいる幻魔衆は、彼すら持て余してしまうほどに執拗で陰険な奴なのだと、彼女自身も妙な部分で納得していた。
「……じゃ、さっさと片付けましょ。その、趣味の悪い生き物を」
すっと片手を差し向けたのを、涼輔は手で制するようにした。
「……待った。下手に撃ち込みなんかすると、あの馬鹿がどういう訳のわからん事を仕出かすかも知れない」
彼独特の勘が働くのか、そんな慎重なことを言った。
「それじゃ、どうすれ――」
気勢を削がれた美菜が苦情を口にしかけたのと、異変が始まるのと、ほぼ同時であった。
酷性の両眼が突然一閃したのである。
途端、彼の不定型な胴体がアメーバ風に波打ち出した。そこから幾本もの細長い触手が突き出て行く。
毒々しい赤の触手は、鞭のようにしなっていたかと思うと、うねうねと海中の昆布のように宙を漂ったりしている。
それが一斉に、ぴたりと、動きを止めた。
止めたと思った瞬間。あっという間もなく、二人を目掛け伸びてきた。
迫り来る、などというものではない。目にも止まらない程のその早さは、あたかもレーザーの様である。しかも一本や二本ではなく、無数に、廊下という空間を埋め尽くしている。
明らかに、逃げ場などなかった。
「……!」
美菜ははっとしたが、身体はそう早く反応できない。
背中に冷たいものが流れた。
だが。
間髪を容れず、空間全体が真っ白な光芒に満たされ、ギャギャギャと、不快な音が轟いた。
眩しさの余り思わず顔を背けた美菜。
目が慣れないながらそうっとそちらの方へ視線を移すと、涼輔が光壁を放って触手の大群を阻んでいた。光と化した彼の意志と、邪な生命の波動が競り合い、例の音が発されていたのである。
ふと、美菜は気が付いた。
なんと、涼輔はあの無数のおぞましい触手を、左の片手だけで押さえている。宙ぶらりんの右手はというと――やっぱりポケットに突っ込んでいた。
その是非はともかく、彼の強靱な意志、そして生命力の強さに、美菜は舌を巻いた。涼輔本人はただでは済まない程の怪我を負い、加えて、度重なる攻撃からの回避でさんざん体力を消耗しているのである。
「……ォオオオオオォ!」
光と触手の向こう側で、酷性が大きく咆えた。
金属音のような、耳障りな音が一層大きくなった
酷性から派生した触手が、さらにプレッシャーをかけてきているらしい。光壁を突き破ろうとして、光壁が発する拒絶のインパクトと激しく衝突し合い、断続的にフラッシュが続いた。例えるなら、記者会見などで一斉にたかれるフラッシュにも似ていた。
しかし、涼輔の横顔は少しも動揺していない。生命力を込めている左手をしっかりと突っ張り、どこまでも触手の大群をシャットアウトして寄せ付けない。
一瞬、心のどこかで安堵していた美菜。
が、涼輔の背中から不規則に飛び散る血飛沫が目に入った瞬間、彼女は我が身の浅はかさを恥じた。恵を守ることと引きかえに受けた傷であるのに、さらには自分までも守られっぱなしでは、彼に対して何一つ申し訳が立つものではない。
何かアクションを起こす必要を思った。
(あ、あたしも、なんとかしなきゃ……!)
といって、この状態で、どう手を貸していいものやら、見当がつかない。
命の鍔迫り合いをしている最中に、横から飛び込める訳がないではないか。
美菜が躊躇している間も、生命力の拮抗は続いている。
やがて、無尽蔵に繰り出されてくる触手の多さに、埒が明かないと思った涼輔。
彼はポケットから右手を引き抜くと、素早く左手に合わせて突き出した。
「……このォ!」
気合いと同時に、光壁が一際激しく閃いた。
すると、今まで受けに回っていた光壁が涼輔の手を離れて反転し、間髪を容れずに前へと驀進していった。その様はあたかも、壁全体が押し出されていくようであった。
涼輔が撃ち放った気合いによって瞬間的に勢いを得た光壁は、それそのものが巨大なプレッシャーとなって触手を片っ端から粉砕し、消滅させていく。彼の一撃の前に、小賢しい狡猾な生命の象徴とも思われる触手など、何ら意味をなさなかった。
空間を走った光壁、もとい命術は、そのまま酷性本体にも襲いかかった。
「……ォオオオオォ!」
酷性の口が大きく開かれた。
そこから放出された、濁った黄色い光。それは酷性の前面にパッと展開し、涼輔の白い命術を間一髪のところで支障した。
またも繰り返される、命術と命術との鍔迫り合い。
眩むような閃光が簿異空化した校舎内に満ち満ちている。軽く地震のように揺れているのは、その強力な命術同士の衝突による振動であるらしかった。
力と力の拮抗は、やや涼輔が押している。
守りの光壁を一瞬で攻撃の命術に転化させるという凄業を彼がやってのけようとは、酷性も予想できなかったらしい。咄嗟に打ち放った波動によって何とか防御したものの、涼輔の命術に具わった勢いは、受け身な酷性のそれを少しづつ退け始めた。
肉眼で確認できないながらも、その感覚は、撃ち手の涼輔にも当然伝わっている。
(このまま押し切ってやる!)
彼は両手に、更にぐっと念を込めた。
命術が、一層激しく光芒を放ちだす。
生死の拮抗線がぐぐぐと酷性側に見る見る押されていき、その状態で決着がつくかと思われた時であった。
目も眩むような光の中、涼輔はふと目の前を過ぎる影を認めた。
「……?」
次の瞬間、彼はそれが何であるのかを悟っていた。
例の、消滅させられた筈の幻魔衆の影達である。いつの間にか音もなくすぅっと涼輔を取り囲むように現れていた。
と思った瞬間、影達は彼を素通りして背後へと抜けていった。
狙いは涼輔ではない。美菜であった。
「……この!」
不意を衝かれたといっていい。
強烈な閃光に視覚を奪われていた美菜は、その異変を察知出来ていなかった。
はっとした時には、囲まれていた。
前と左右に、表情のない、幽鬼のような幻魔衆の影がある。意志のない、人形のような相であった。
「……!」
恐怖が、美菜を凍りつかせた。
一方、涼輔は両手にかかる抵抗がふっと抜けたことに気が付いた。
酷性が彼に命術をぶつけるふりをして、その実、幻魔衆の影を放って美菜を襲わしめる策に出たのだろうと受け取った。
となれば、話は早い。
これを奇貨とばかりに、彼は右腕だけに念を移行させると、そのまま右後方の美菜に向かって振り向けた。
涼輔の腕を離れた白い光が宙を走る。
そして、まるで生き物のように美菜の足元に収束すると、一気に下から上、一点から放射状に展開し、幻魔衆の影と彼女とを遮断するようにした。
が、次の瞬間には、影達は一斉に掻き消えていた。
そこで、涼輔は酷性の本当の意図を悟った。
(――ダミーだってのか!)
気付いた時には遅かった。
前から、巨大な光弾が、ほとんど間合いを奪いつつ迫ってきていた。
「……野郎!」




