第4話 『ケチャップと白紙』
放課後のファーストフード店は、少しだけ学校に似ていた。
制服のままの生徒たちが、あちこちの席に散らばっている。トレーの上には、紙に包まれたハンバーガーと、細いポテトと、氷の入った紙コップが並んでいた。誰かがストローでジュースをかき混ぜるたび、氷が小さく鳴る。ポテトをつまんだ指先には塩がついて、紙ナプキンには薄く油の跡が残る。明るすぎる店内の照明は、白いテーブルを少し安っぽく光らせていた。学校ではない。家でもない。でも、完全に外の世界でもない。制服のまま座っているせいで、まだ学校の続きにいるみたいだった。それなのに、テーブルの上にはハンバーガーがあって、ポテトがあって、ジュースがある。ただそれだけで、教室にいるときより少しだけ自由になった気がする。
わたしと、ひよりと、ありすは、四人掛けの席を三人で使っていた。ありすは荷物を椅子に置き、ポテトを食べながらスマホを見ている。ひよりは両手でハンバーガーを持って、ゆっくり食べていた。
ひよりが何かを食べているところを見るのは、少し不思議だ。教室で黙って座っているときのひよりは、食べたり、眠ったり、急いだりする普通の身体を、どこかに置いてきたみたいに見える。でも今は、紙に包まれたハンバーガーを持って、少しずつかじっている。そういう当たり前のことをしているだけで、ひよりがちゃんとこの世界にいるのだとわかる。
そして、その口元に、ケチャップがついていた。
「ひより、口にケチャップついてる」
言ってから、わたしは少しだけ笑いそうになった。
ほんの小さな赤だった。でも、ひよりの顔の上では、その赤がやけに目立つ。白い紙の上に赤いペンで点を打ったみたいに、そこだけがはっきりしていた。いつも静かで、どこか涼しいひよりの顔に、ハンバーガーのケチャップがついている。ただそれだけのことなのに、少しだけ世界のつじつまがずれたみたいで、おかしかった。ひよりはハンバーガーを持ったまま、こちらを見た。
「取ってください、リン」
「なんでだよ」
「リンが見つけたので」
「そういう制度ないから」
「取ってやんなよ、リンちゃん」ありすが、こちらを見ずに言った。
見ていないふりをして、絶対に見ている声だった。
「増えるな」
「いいじゃん。青春じゃん」
「ケチャップで青春を語るな」
そう言いながら、わたしは紙ナプキンに手を伸ばしかけた。
ナプキンを渡せばいい。ひよりが自分で拭けばいい。それだけで済む。ケチャップはケチャップで、放課後は放課後で、何も特別なことにはならない。でも、わたしの手は途中で止まった。ひよりは、まだこちらを見ている。口元に赤をつけたまま、静かに待っている。ありすはポテトを食べながら、横目でこちらを見ている。店内では誰かが笑っている。レジのほうから、番号を呼ぶ声が聞こえる。紙袋が開く音がする。その中で、ひよりの口元の赤だけが、なぜか大きなことのように見えた。
わたしは、ひよりの顔に手を伸ばした。ひよりのまつげが、ほんの少し動いた。逃げるかと思った。でも、逃げなかった。ただ、わたしの指が近づいてくるのを、そのまま見ていた。人差し指で、口元のケチャップをすくい取る。触れたのは、ほんの一瞬だった。口元のすぐ横。肌というより、そこにある熱だけに触れたような気がした。指先には、赤いケチャップが少しだけ残った。理由は、よくわからない。ただ、指先についたその赤を見た瞬間、そうしたいと思った。なぜか勝手に決まっていた。だからわたしは、そのまま自分の指をぺろっとなめた。
「……え」
ひよりが言った。
「え」
ありすも言った。
わたしは、指先を見た。もうケチャップは残っていない。別に、恥ずかしいとは思わなかった。まずいことをした、とも思わなかった。ただ、二人が思ったより大きく反応したので、そういうことなのか、と思った。これは普通にやることではなかったらしい。
「なに」
わたが聞くと、ありすが少しだけ口を開けたまま言った。
「リンって、たまに暴走するよね」
ありすは笑いをこらえきれない顔をしている。
ひよりは固まっていた。ハンバーガーを持ったまま、動かない。口元の赤は消えたのに、今度は耳が赤くなっていく。ゆっくり、少しずつ。白い頬の横で、その赤はさっきのケチャップよりもずっと目立った。
「ひよりちゃん、耳真っ赤」
ありすが言った。
「ケチャップみたいだな」
ひよりは、まだ黙っている。
「ひより?」
呼ぶと、ひよりはようやく少しだけ息をしたように見えた。
「……いまのは、いくらなんでも、ずるすぎます」
ひよりは、やっとハンバーガーを下ろした。耳はまだ赤い。
わたしは自分の指先を見る。もう、そこには何も残っていない。でも、何も残っていないはずの指先に、さっきの赤がまだあるような気がした。ひよりの口元にあった赤。わたしの指についた赤。それをなめたあとの、ひよりの耳の赤。赤が、場所を変えて残っている。そう思うと、少しだけおかしかった。
◇
教室で、プリントが配られた。
紙は薄かった。たった一枚。指でつまめば簡単に曲がるし、机の端に引っかければすぐ折れそうな紙だった。でも、机の上に置かれると、なぜか重く見えた。白い紙。黒い罫線。名前を書く欄。第一希望。第二希望。進学。就職。その他。
そこには、まだ何も書かれていない。何も決まっていない。何になりたいのかも、どこへ行きたいのかも、どんな大人になるのかも、まだ空っぽのままだ。それなのに、紙だけは先に配られる。空欄のままの未来が、机の上に置かれる。先生は、いつもの調子で説明していた。まだ仮だから。深く考えすぎなくていいから。家の人とも相談して。期限までに提出して。深く考えすぎなくていい。でも、提出はしなければならない。まだ何もわからないのに。まだ自分の中には、はっきりした答えなんてないのに。それでも欄を埋めろと言われる。何者になりたいのか、どこへ行きたいのか、自分の未来に名前をつけろと言われる。からっぽのまま、時間に背中を押される。自分で歩き出したわけではない。まだ行き先を決めたわけでもない。なのに、後ろからゆっくり押されている。立ち止まっているつもりでも、いつの間にか前へ進んでいる。進みたいかどうかを聞かれる前に、進むことだけが決まっている。そうしてわたしたちは、少しずつ大人になることを強要されていく。
「もう、こんなこと考えないとだめなのか」
ため息まじりに言うと、隣からすぐに声が返ってきた。
「わたしは嫌です」
ひよりは、白紙のプリントをじっと見ていた。
「大人になることを急かされているようで」
ひよりの声は、いつもより少し低かった。
「わたしは大人になんかなりたくないです」
「急だな」
「ずっと十七歳のわたしでいたいです」
「それは無理でしょ」
「知っています」
ひよりは、ちゃんと知っている顔をしていた。だから、その言葉は子どものわがままには聞こえなかった。十七歳。進学にも、就職にも、その他にも入らない。放課後に寄り道すること。ケチャップで耳が赤くなること。くだらないことで笑うこと。まだ何者でもないまま、机を並べていること。そういうものは、進路希望欄のどこに書けばいいのだろう。
「……白紙で出しちゃおうか」
「反抗ですね」
その返しが、少しだけうれしかった。ひよりはこういうとき、変にまっすぐだ。わたしが冗談みたいに投げた言葉も、ちゃんと拾ってくれる。冗談を冗談として流すのではなく、その中に少しだけ本当が混じっていることまで、見つけてくれる。ひよりは真面目な顔で言う。その真面目さが、少しおかしい。少しおかしいのに、笑いきれない。
わたしは立ち上がった。椅子の脚が、床を小さく鳴らす。その音が、思ったより大きく聞こえた。ひよりの席の前まで行く。たった数歩の距離なのに、なぜか少し遠かった。机と机のあいだ。床に落ちた夕方の光。誰かの鞄についたキーホルダーが、小さく揺れている。教室の中にはまだ人の声があるのに、その声が少しだけ薄くなった気がした。ひよりは、白紙のプリントから目を離して、わたしを見上げた。長い黒髪。静かな目。薄い光を受けた額。その手元には、まだ何も書かれていない進路希望の紙がある。第一希望も、第二希望も、空欄のまま。未来は白紙だ。
「……リン?」
ひよりが小さく呼ぶ。
わたしは少しだけ身をかがめる。ひよりの目が、ほんのわずかに見開かれる。逃げる時間はあった。よけることもできた。でも、ひよりは動かなかった。近づいていく。ひよりの睫毛が見える。呼吸が、少し止まる。自分の前髪が、頬の横で揺れる。机の上のプリントが、窓から入る風でほんの少しだけ震える。たった一枚の紙が揺れただけなのに、まるで未来そのものが息をしたみたいだった。その向こうで、ひよりがわたしを見ている。
わたしは、そのまま、ひよりのおでこに自分のおでこをくっつけた。
こつん、というほどの音もなかった。ただ、皮膚と皮膚がそっと触れて、そこに小さな温度が生まれた。ひよりの額は、少し冷たかった。ほんの狭い場所で、わたしの体温と、ひよりの体温が、ゆっくり混ざっていく。世界が、少し遠くなる。教室の声も、廊下の足音も、夕方の光も、全部が一歩下がる。残ったのは、ひよりの額の冷たさと、近すぎる息遣いと、机の上に置かれた白紙の未来だけだった。
「……なにを」
ひよりが、ほとんど息みたいな声で言った。
「反抗」
「意味がわかりません」
「たまにはいじめてやる」
「今日のリン、いろいろすごいです」
ひよりは動かなかった。逃げない。拒まない。ただ、そのままそこにいる。それだけで、胸の奥が変なふうに苦しくなった。こんなのは、ただのおでこだ。ただ、額と額が触れているだけだ。キスでもない。抱きしめているわけでもない。何かを約束したわけでもない。それなのに、どうしてこんなに大きなことみたいに感じるのだろう。
進路希望の紙は、まだ白。教室の隅で、誰かが笑っている。廊下を走る足音がする。窓の外では、夕方がゆっくり色を変えていく。先生は明日になれば、進路希望の提出を忘れないようにと言うだろう。たぶんわたしたちは、適当な何かを書いて出すのだろう。
それでも、今だけは、こんなことをしていれば、進路とか将来とか、そういう言葉は全部、教室の外に置いていける気がした。何者になるのかより先に、今ここで何を感じているのかを、もう少しだけ大事にしていたい。たぶんわたしは、大人になるのが怖いんじゃない。大人になる途中で、こんな時間がこぼれていくのが怖いのだ。 そういう、どこにも提出できないものが、いつの間にか置き去りになるのが怖い。
未来はそこにある。書けと言われている。
でも今は、まだ書けない。
白紙の未来よりも、いま触れているひよりの体温のほうが、ずっと信じられる。




