第2話 『見てる』
帰りの廊下で、ありすと立ち話をしていた。
放課後の廊下は、昼休みより少しだけ乾いている。
授業が終わったあとの空気には、みんなの「もう帰ってもいい」という気配が混ざっていて、そのせいか声も足音も少し軽い。窓の外は明るいのに、校舎の中だけが一足先に放課後になっている。
その少し先で、ひよりが別の女の子と話していた。
仲よさそうに笑っている。
「あ、ひよりちゃん、浮気してる」と、ありすが言う。
「言い方」
「リンちゃん、止めなくていいの?」
「なんでわたしが」
そう言ったくせに、わたしはそのあとも二回くらいそっちを見た。
ありすに数えられていたらしい。
「でも、見てるよね」
「見てない」
「さっきから三回見た」
「数えるな」
「気になる?」
「……まあ、ちょっと」
「ちょっとなんだ」
「なんか、ちょっと、やだ」
「かわいい」
その言い方が腹立たしい。
でも否定しきれないのがもっと腹立たしい。
別に、それ自体はいい。
ひよりが誰と話そうが自由だし、わたしに何か言う権利があるわけでもない。ないのに、少し落ち着かない。見ているうちに、自分の中のどこかが小さくざわつく。
そのとき、ひよりがふいにこっちを見た。
目が合う。
長い黒髪が肩のあたりで揺れて、ひよりはさっきまで話していた子に軽く手を振った。それから、まっすぐこっちに来た。
「うわ」
「見つかった」と、ありすが言う。
ひよりは何でもない顔でわたしたちの前に立った。
「どうしましたか」
「どうもしてない」
ありすが即座に口を挟む。
「ひよりちゃんが 他の子と話してると、リンちゃん、なんかちょっとやだったって」
「そういう言い方はしてない」
ひよりは少しだけ近づいた。
近づくと、いつもより声が静かになる。
「安心しました」
「なにが」
「ちゃんと、わたしのこと見てたので」
「……見てない……わけじゃない」
「ほら、好きです」
「うるさい」
「はい、両想い」と、ありすが言う。
「増えるな」
ひよりは、そのあと少しだけうれしそうだった。
ありすは面白がっていた。
わたしだけが、妙に落ち着かなかった。
ありすと別れて、教室に戻る。
放課後の教室は急に広くなる。昼のざわざわがなくなると、机も窓も、少しよそよそしい顔をする。そういう時間の教室は、いつも少しだけ好きだ。好きだけど、今日は落ち着かなかった。
机の上の太いシャーペンを指で転がす。
ひよりが「ゴン太です」と言って持ってきたやつだ。ほんとうのゴン太はチワワで、こんなにごつくない。でも、ひよりはこれを気に入っている。
「ねえ、ゴン太」
もちろん、返事なんかあるわけがない。
ただ、こういうときは、返事をしない相手のほうがいいこともある。
「ひよりって、なんなの」
シャーペンは太くて、だんまりで、手の中で少しだけあたたかかった。
「ずっと見てくるし、すぐ変なこと言うし、たまにちょっとこわいし」
ゴン太は何も言わない。
その無責任さに少しだけ救われる。
「でも、別の子と話してると、なんか落ち着かないんだよね」
言葉にした瞬間、教室の静けさが少しだけ深くなる。
わたしはゴン太を転がす指を止めた。
「これ、なんなの」
背後で、声がした。
「それは恋です」
「うわっ」
振り向くと、ひよりがすぐ後ろに立っていた。
いつからいたのか知らない。こういうときだけ気配を消すのはやめてほしい。本当に心臓に悪い。
ひよりは、少しだけ不敵に笑っていた。
黙っていると西洋人形みたいなくせに、こういうときだけ少し悪い顔をする。そこがまた腹立たしい。
「それは恋なんです」
「うるさい、バカしね!!」
「かわいいです」
最後まで、その調子だった。
でも、その日の帰り道、わたしは少しだけ思っていた。
もしこれが恋じゃないなら、じゃあ何なんだろう。
たぶん、すぐにはまだわからない。
でも、わからないまま始まるものもある。
ひよりは昔から、そういうわからないものを、平気な顔でわたしの前に置いてくる。
そしてわたしは、文句を言いながら、たぶんもう少しずつそれを受け取っている。
たとえば、朝にシャーペンを借りること。
授業中に見られていること。
ノートのすみに勝手に増えていく自分の顔。
ありすが触ると、ひよりが静かに止めること。
別の子と話しているひよりを見て、少しだけ胸のあたりがざわつくこと。
そういう小さなことを、ひとつずつ拾い集めると、たぶんもう、知らないふりは難しい。
高校二年の春は、思っていたよりずっと騒がしい。
わたしの隣には、きれいで重たい女がいて、廊下には、茶髪でうるさい友達がいて、その真ん中で、わたしだけが少し遅れて気づき始めている。
これは、たぶん、そういう話の始まりだ。




