第1話 『シャープペン忘れた』
シャーペンを忘れた。
朝から終わっている。
授業が始まる前に気づいたので、まだ完全な死ではない。けれど、かなりみっともない死に方ではある。筆箱の中には芯だけが入っていて、それを前にしたわたしは、文明を失った人みたいな顔をしていた。
仕方なく、隣の席のひよりをつつく。
「ひより、シャーペン貸して」
ひよりは前を向いたまま、少しも動かなかった。
その反応の遅さで、嫌な予感がした。
「やです」
即答だった。
「なんで」
ようやくひよりがこっちを見る。
その目は朝から妙に落ち着いていて、貸す気のない人間の目ではなく、条件を提示する人間の目だった。
「昨日、わたしのことかわいいって言いませんでした」
朝から重い。
要求の形をした脅迫である。
「それ、今ここで回収するの?」
「昨日の未払いは、今日に持ち越されます」
「恋愛感情みたいに言うな」
「似たようなものです」
こういうことを、ひよりは平然と言う。
冗談みたいな顔ではなく、本当にそれが自然な流れだと思っている顔で言う。だから、こっちだけが困る。
「……かわいいよ」
小声でそう言うと、ひよりは小さくうなずいた。
それから新品のシャーペンを三本、わたしの机に置く。
「多いな」
「予備です」
「こわ」
一本で済むところを三本出してくる。
こういうところが、ひよりは少しおかしい。好意がまっすぐすぎるというか、配分を知らないというか、とにかく普通の顔で普通じゃないことをする。
そのあと、ひよりは何事もなかったみたいに前を向いた。
わたしだけが、三本並んだシャーペンを前にして、朝からいらない種類の動揺をしていた。
ひよりは、黙っているときれいだ。
これは、かなり腹が立つ事実である。
高校二年生、十七歳。
同い年のくせに、ひよりはたまに教室の中でひとりだけ温度が違う。黒くて長い髪は胸のあたりまでまっすぐ落ちていて、少し首を動かしただけで、細い糸みたいにさらりと揺れる。肌は白いというより、妙に透き通って見える。頬にも余計な熱がなくて、目元まで静かだ。黙って座っていると、ほんとうに西洋人形みたいだった。きれいで、整っていて、そして少し冷たい。
男子が勝手に夢を見るタイプの顔である。
そして、しゃべった瞬間にだいたい夢は壊れる。
授業が始まった。
借りたばかりのシャーペンでノートを取りはじめる。
隣からの視線が気になる。視線というのは見えないくせに、向けられつづけると重さを持つ。ひよりの視線はだいたいそうなる。
案の定、先生に見つかった。
「ひより。どこ見てる」
教室の空気が少しだけ浮く。
ひよりは姿勢を正したまま、まるで何も困っていない顔で答えた。
「リンです」
「即答しないで」
教室のあちこちで笑いが起きる。
先生は少し黙って、それから黒板を指した。
「黒板を見なさい」
「見ています」
「どこを」
「リンを」
わたしは机に額を打ちつけたくなった。
ひよりはたぶん、これを面白いと思っていない。ほんとうに見ていたから、ほんとうのことを言っただけ、という顔をしている。あれがたちが悪い。
休み時間になっても、ひよりは平然としていた。
消耗しているのはわたしだけである。
「ひより」
「何でしょう」
「少しはごまかせないの」
「見ていたので」
「そういうところだよ」
「リンは、見られるの嫌ですか」
そう聞かれると、少しだけ困る。
嫌だ、と言い切るには、もうだいぶ見られすぎている。見られていることに、少し慣れてしまっている。慣れたものを急に拒絶すると、自分のほうが変な顔になる。
「……授業中はやめて」
「善処します」
「絶対しないやつじゃん」
「リンのことは、どうしても目に入るので」
そういう言い方が、また腹立たしい。
こっちが赤くなるようなことを、本人は普通の天気の話みたいに言う。
そのとき、ふと窓に映った自分の顔が目に入った。
わたしはリン。
髪は短い。頬のあたりで止まる、部活帰りみたいな長さだ。昔からよく、男っぽいと言われる。サバサバしてるとも言われる。そう言われるのは別に悪くない。可愛いより、そっちのほうがずっと楽だ。
わたしはわたしで、そういう顔をしている。
だから余計に、ひよりが平気でかわいいと言ってくるのが、少し気持ち悪い。
次の授業でノートを取っていると、すみに小さい顔が描いてあるのに気づいた。
一人。
次のページにも一人。
その次にもいる。
見れば見るほど、全部わたしだった。
「……なんでこんなことに」
隣から、ひよりがのぞきこんでくる。
近い。透き通った肌が目に入る。まつげまで無駄にきれいで、腹が立つ。
「どうしましたか」
「ノートのすみに、わたしの似顔絵ある」
「ありますね」
「あるんだ」
ひよりは、まるで初めて知ったことみたいな顔でうなずいた。
「しかも増えてる」
「かわいいです」
「感想そこなんだ」
ページをめくる。
次のページにも、その次のページにも、小さなわたしがいた。どれも妙に丸くて、ちょっとだけ不機嫌そうで、たしかに似ているのが腹立たしい。
「人気者ですね」と、ひよりは言う。
「ひより」
「なんでしょう」
「ノート、見せて」
「絶対やです」
「やっぱりおまえか」
ひよりは否定しなかった。
好きなものを見ていたら増えました、くらいの感覚なんだろう。ほんとうに、隠すという機能がだいぶ壊れている。
昼休みになると、ありすが来る。
ありすは隣のクラスだ。
茶髪は校則ぎりぎり、というより、たぶんときどき普通にアウトだ。職員室に呼ばれているところを見たことがある。ギャルではない。そこまで完成された図々しさはない。でも、見た目がうるさい。甘い色のピンだの、余計なチャームだの、そういうものがいつもどこかにくっついている。表情もうるさいし、言動はもっと騒がしい。
ひよりが静かな圧なら、ありすは明るい暴力だった。
「リンちゃーん、ぎゅっとさせてー」
そう言いながら、もう両手を広げている。
宣言してから実行までが早すぎる。
「うっとおしい」
「えー、けち」
そう言いながら、ありすは結局わたしの腕にぶらさがってきた。
ふわっと揺れた茶色の髪から、甘い匂いがした。
「重い」
「それが愛だよ」
少し離れた席で見ていたひよりが、すっと立ち上がる。
静かな顔のまま近づいてきて、ありすの肩にそっと手を置いた。
「ありすさん」
「なにー?」
「リンさんは今、大変混雑しておりますのでご遠慮ください」
「じゃあ、空いたら呼んでね」
「一点物ですので、ご予約は三年待ちです」
「リンちゃんは職人さんの工芸品なの?」
わたしは思わず吹き出した。
ひよりは本気なのか冗談なのか、やっぱり顔だけではわからない。たぶん半分ずつくらいだと思う。ひよりの言葉はよくそうなる。
ありすは大笑いしていたし、わたしは半分あきれていた。
でも、その昼休みだけで、たぶんこの教室の配置はだいたい決まっていたのだと思う。
わたしを見つめるひより。
わたしにぶらさがるありす。
その真ん中で、文句ばかり言っているわたし。
平和ではない。
でも、退屈もしない。
その日の放課後、机の上に残った三本の新品のシャーペンを見ながら、わたしは少しだけ思った。
高校二年の春というのは、もっとどうでもいい顔をして始まるものだと思っていた。
少なくとも、こんなふうに誰かに見られながら始まるとは思っていなかった。




