9 シアレーゼは無言のまま、馬車に乗り込んだ。
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シアレーゼは無言のまま、馬車に乗り込んだ。その隣にクロムが座る。
馬車が進みだす。
シアレーゼは俯いたまま、自身の左手の指を擦り始めた。
ごしごしと、何度も何度も。
そこは、先ほどまではアレンからもらった婚約指輪が嵌められていた。貰ってすぐの頃はチェーンを通し首から下げ、指のサイズにぴったりになってからはずっと外すことなく、シアレーゼの左の薬指を飾っていた。
その、指輪の痕を、シアレーゼは擦る。
(指輪の痕も、感触も、アレン様との思い出も……全て全て消えてしまえばいい)
擦り過ぎて、赤くなり、ひりひりと皮膚が痛むころ、黙っていられなくなったクロムが、そっとシアレーゼの左手をそっと包んだ。
「痛いだろ?治すよ……」
いいとも、いらないとも、シアレーゼは言わなかった。ただ、シアレーゼの細い指が、手が、ぶるぶると震えた。
「心も……、気持ちも……、クロムお従兄様に治してもらえればいいのに……。そうしたら、こんなに辛くないの、に……」
「シアレーゼ……」
「七年も信じて待っていたなんて、わたし、馬鹿みたい。……アレン様に、恋なんて、しなければ良かった」
クロムがシアレーゼを抱き寄せた。幼子にするように優しく、シアレーゼの背を撫でる。そのクロムの掌の温かさに、シアレーゼの瞳からじわりと涙が溢れ出てきた。
「……そうよ、初めから、カイエン伯父様に言われた通りにクロムお従兄様と婚約を結んでいれば良かったのよっ!そうしたらこんな苦しみを味わわずに済んだのにっ!」
うわあああああ……と、大声で泣きじゃくるシアレーゼを、クロムは何も言わずにただずっと抱き締め続けた。
そうして、シアレーゼの感情が少しだけ落ち着いたのを見計らってから、クロムはシアレーゼの涙をハンカチで拭った。
「覚えているかいシアレーゼ。シアレーゼがアレンとの婚約を結び、うちの父にファイウッド叔父さんが殴られた時の事を。あの時エメラルダ姉様が言った言葉を」
思い出したくもないとばかりに、シアレーゼは顔を歪めた。
「エメラルダ姉様の未来視。僕とシアレーゼが婚姻を結んだ未来。それはね、波風なんて立たない穏やかな一生だったそうだよ」
「……やっぱり、わたし、クロムお従兄様と一緒に生きたら……、幸せに、なれたのね……」
呟くシアレーゼに、クロムは首を横に振った。
「シアレーゼ、よく聞いて。エメラルダ姉様の見た未来で僕は幸せだった。だけどシアレーゼ、君は違う」
「どういう……こと、ですか」
「結婚して子を生して。大勢の孫に囲まれて亡くなる直前にシアレーゼは僕にこう言うんだ」
クロムは言葉を止めて、シアレーゼを正面からじっと見た。
「『ああ、恋をしたかったわ。それだけが、心残りね……』って」
「え……?」
「レイナやミネルバ達がよく言っているだろ?一族の命令通りに親族間で血統を保持するための婚姻を結ぶのではなく、自由に恋愛がしたいってさ。エメラルダ姉様の見た未来ではシアレーゼは穏やかそうに見えても……きっとずっとそんな不満を抱えながら生きていた。いくら僕がシアレーゼに愛を告げようと、子や孫と穏やかに過ごそうと……ね。それだけじゃあ足りなかった」
「そんな……、贅沢よ」
「うん。かもね。だけど、仕方がない。僕はシアレーゼを幸せには出来なかったんだよ。僕はシアレーゼと穏やかに暮らすことを願っていた。それが僕の幸せだった。だけど……シアレーゼは穏やかさより、燃えるような恋を求めていたのかもしれないね。だから、僕は……僕とエメラルダ姉様はシアレーゼとアレンの婚約に反対しなかった。恋するシアレーゼは幸せそうに見えたから……。だけど、その判断は間違いだった。ごめん。余計に辛い思いをさせたね」
慌てて、シアレーゼ首を横に振った。
「クロムお従兄様のせいでもエメラルダお姉様のせいでもないわ。わたしが……馬鹿だったのよ」
「いいや、僕が間違えた。シアレーゼを幸せにしたいなら、他人に任せるのではなく、僕が。シアレーゼが僕に恋をしてくれるように努力するべきだったんだ」
「え……?」
きっぱりと言ったクロムに、シアレーゼは戸惑った。
「恋……って、クロムお兄様。それではまるで……」
まるでクロムがシアレーゼに恋をしているようではないか。シアレーゼはその言葉を続けることができなかった。
「ああ、もちろん。僕はね、ずっとシアレーゼのことが好きなんだよ」
「ま、待ってクロムお従兄様。それは……か、家族として、ですとか、その、妹に対する感情で……」
「違うよ。僕はね、男としてシアレーゼを愛している」
クロムがシアレーゼに向ける目は、いつもどこまでも優しい。
だけど、今、この時は優しいばかりではなく、情欲を伴う熱が、確かに込められていた。
シアレーゼがびくりと肩を震わせる。
家族への愛ではなく。
男として、とクロムが言ったからだ。
(わたし、こんなクロムお従兄様は……知らない、知らなかった……)
抱きついて、背を撫でてもらっているのだって「兄」のように思っているからだ。
なのに。
(こんなふうにずっと……本当は、クロムお従兄様はわたしのコトが……好き、だったの?だ、抱きしめたいとか……キス、したい、とか……?)
かああああああ……と、シアレーゼの体温が上がった。
(クロムお従兄様のお気持ちが、わたしに対する恋というのなら……、わ、わたしは、どうしたら、いいの……。今までずっとクロムお従兄様に甘えていたのよ。アレン様をお慕いしていた気持ちを、全部うちあけて……不安になれば相談して……ずっと甘えて、頼って……)
どんな気持ちでクロムは、シアレーゼと接してきたのか。
恋する女が、別の男と婚約をして、その男のことを何度も相談する。
(わたし、ひどいことをしてきたわ……)
顔を赤らめながら、同時に青ざめるようなシアレーゼに、クロムは小さく「ごめんね」と呟いた。
「え……?ク、クロムお従兄様……」
「今まで『兄』としか思っていなかった僕から好きだとか言われても、シアレーゼは困るよね……」
クロムがすまなそうに微笑む。
「だけど、僕は本当にシアレーゼが好きなんだよ……」
寂しげなクロムの声。
それが、シアレーゼの心に突き刺さった。
「クロム……お従兄、様……」
シアレーゼはしゃんと背筋を伸ばした。
(今、ここで、クロムお従兄様に甘えてはダメだわ。ちゃんと、考えなきゃ……)
考える。
クロムの気持ちを。
これまでの事を。
それから、エメラルダの見た未来のことを。
シアレーゼはクロムと婚姻を結び、子や孫に囲まれて穏やかに天寿を全うする。幸せな一生だとクロムは考えていたが、シアレーゼは違った。恋をしたかったと、そんな後悔を言葉に出して、死んだ。
未来のクロムのショックはどれほど大きなものだったのだろうか。
長年連れ添った妻に、最期で裏切られたようなものではないか。
シアレーゼは思う。
親族間の決められた婚姻であっても、クロムなら誠実にシアレーゼを愛してくれたはずなのに。
それなのに。
「酷いわ……」
「うん、ごめんねシアレーゼ」
「違うわクロムお従兄様。酷いのはエメラルダお従姉様の見た未来のわたしよ。クロムお従兄様に感謝しながら死ぬのならともかく、そんなわがままで勝手な、クロムお従兄様のことなんて、全く考えてない……勝手よ。すごく勝手だわっ!あ、愛して、大事にしてもらって……なのに……。でも、それをしたのが未来のわたし、なのね……」
シアレーゼははっとして、クロムを見た。
(そんな身勝手だから、クロムお従兄様はわたしとアレン様の婚約を駄目だと言わなかったのかしら?わたしのことを……見限ったから……)
そこまで考えて、シアレーゼはぞっとした。
(わたしなんて、もう要らないってことなの?い、嫌よ……クロムお従兄様に、そんなふうに思われたら、嫌……。だけど、こんな勝手なわたしなんて、見捨てられても仕方がない……)
ぱたり、と。シアレーゼの腕が落ちた。顔からも血の気が引いている。
「シアレーゼ。僕が言ったのは『エメラルダ姉上が見た未来』であって、本当にシアレーゼが僕に言ったことではないよ」
「でもっ!だけどっ!そ、それを知ったから、クロムお従兄様は……、わたしをもう要らないって、アレン様に渡してもいいって思われたんでしょう!?」
「は?シアレーゼ?」
「い、嫌ですお従兄様っ!わ、わたしの事、捨てないで……」
「ちょ、ちょっとシアレーゼ、どうしたの?捨てることなんて、あるはずがないっ!」
「ほ、ほんとう……に?」
「本当だとも。僕はシアレーゼを愛していると言っただろう」
アレンが第三王女を選んだことよりも、クロムがシアレーゼを見限るかもしれないという想像の方が、何倍も、何十倍もシアレーゼにとっては恐ろしかった。
産まれた時からずっと一緒に過ごしてきたようなクロムと違い、アレンとはたった四度しか会ったことがない。
初対面で婚約して、二度目に会った時には魔王討伐に出発し。そうして七年後、帰って来たかと思えばアレンは魔王に呪われベッドの上で。四度目の今日は、アレンは第三王女と婚姻を結ぼうとした。
(わたしは……アレン様と婚約を結んでからずっとずっと……アレン様を好きだと思ってきたわ。だけど、それは……、恋に恋をしていただけだったのかもしれない。遠くで命を懸けて戦っている勇者と、その勇者の無事を祈る婚約者の娘。そんな役柄に酔っていたのかもしれない……)
シアレーゼは分からなくなった。
七年間ずっと。アレンに恋をしていたと思った。
クロムは、優しい『兄』だと思っていた。
(今、わたしは……誰をどう思っているの……?)
分からない。
本当は、誰をどう思っているのか。
自分はこれからどうしたいのか。
シアレーゼは分からなくなった。
「ああ、ごめんよ、シアレーゼ。いきなりこんなことを言われたら混乱するよね」
「こんらん……ええ、そうね。そうなのかもしれないわね……」
「本当はもっと後で。シアレーゼがアレンのことを忘れて、それから。ゆっくりとシアレーゼを口説くつもりだったのに。僕も焦ってしまったのかな。今度こそ、シアレーゼを誰にも渡さないようにって……」
自嘲するように嗤うクロムを、シアレーゼはじっと見る。
「クロムお従兄様は……本当に、わたしのことが、好き……?」
「うん」
「い、いつから……?」
今までの言葉の端から、少なくともシアレーゼがアレンと婚約を結んだときには既に、クロムがシアレーゼのことを好いていて、けれど、エメラルダの未来視があったから、クロムはシアレーゼと結ばれようとはせずにいた。そして、未来のシアレーゼの『恋をしたかった』という願いを叶えるために、気持ちを抑えてアレンに託した……と考えられた。
(七年前には既に……?ううん、もっと前から……?アレン様から七年も放っておかれた挙句、婚約破棄する手間すらかけてもらえなかった、こんなわたしなのに……?)
アレンに蔑ろにされて、傷ついたシアレーゼ。
だけど、そんなシアレーゼを大切にしてくれていたクロム。
シアレーゼの、傷ついた心を、いつも包み込んでくれていたクロム。
(わたし……クロムお従兄様に、本当に大事にされていた……。これまで、ううん、きっとこれからも)
だから、知りたかった。
どのくらい強く、愛してくれていたのか。
知って、まず謝罪をして。そして……。
(わたし、クロムお従兄様と向き合いたい。ちゃんと、クロムお従兄様の気持ちを知って、それから……わたしの気持ちがどうなのか……考えなきゃ)
けれど、クロムは照れくさそうに笑って、「秘密」としか答えてはくれなかった。
お読みいただきありがとうございました。
12話完結で、最後まで一応書き終えました。
自分的に、誤字を無くそうキャンペーン中につき、いつもより丁寧にチェックしてから、残りの10話、11話、12話をアップしていきたいと思います。一日おきに掲載。よろしくですm(__)m