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第六話 訪ね来るもの

 待ち人を待つ時、どんな気持ちになるだろうか? 待ち焦がれた人ならうきうきと心弾むだろうか? 逆に緊張して狼狽えるかもしれない。

 会いたくない人ならずーんと心が沈むだろう、逃げ出したいと思うだろう、最悪体調を崩す人もいるかも知れない。

 予めわかっているのなら待ち構えて心の準備が出来るのだが突然訪ねてくる人もいる。厄介だと思うが友人ならそれなりに嬉しいものでもある。

 訪ねる事を仕事にしている人もいる。手紙を運ぶ郵便屋さんや荷物を運ぶ宅配便さんなどはとてもありがたい存在である。

 逆にセールスや宗教の勧誘など二度と来るなと怒鳴りたくなるものもある。


 訪ねてくるのは人だけではない、野良猫や小鳥が訪ねてくる家もあるだろう、いつの間にか部屋に侵入しているクモや見た事もない虫たち、退治しても何処かから入ってくるゴキブリやハエなどの害虫、良いも悪いもなく、これらは排除しようと思えば出来る。

 だが、排除出来ないものが訪ねてきたら、何かわからないものが訪ねてきたら、どうすればいいのだろうか? 

 何か得体の知れないものが訪ねてくるという人に哲也も出会った事がある。



 昼食を終えてレクリエーション室の大きなテレビでワイドショーでも見ようと哲也が向かうと何やら言い争いが聞こえてきた。


「またやってるのか」


 些細な諍いは毎度の事だ。呆れながら哲也がレクリエーション室へと入っていく、


「ここは俺の席だって言ってるだろ」

「早くどけよ、茂さん怒らせるなよ」


 座布団の上に座っている男に2人が文句を言っていた。


「誰が決めたよ、名前でも書いてんのかよ」


 2人相手に座っている男は引きもしない、気が強いのか喧嘩っ早いのか荒い口調だ。


「決まってんだよ、ずっと前からここは俺の席なんだよ」

「そうだ。ここは茂さんの席だ。わかったらさっさとどけ」


 立っている2人は顔見知りだ。もう2年以上入院している山口茂雄やまぐちしげお波瀬邦夫はぜくにおだ。2人とも初老を迎えた60代の男だ。

 どけと言うように肩を掴まれて座っていた男が腰を浮かす。


「んだとぉ! 早い者勝ちだろが!! 」


 怒鳴る男は20歳ほどに見える。見た事もない哲也の知らない男だ。

 今にも喧嘩を始めそうな男を見て看護師の女が声を上げる。


「土谷さん、止めてください」


 若い男は土谷と言うらしい、どうやらテレビを見る場所を巡って争っている様子だ。


「テレビの席順か……ったく…… 」


 呆れながら哲也が間に入る。


「哲也さん、土谷さんを止めてください」


 哲也を見て看護師の女が安心したように頼んだ。


「任せてください、看護師さんは山口さんと波瀬さんを頼みます」


 前に立つ哲也を土谷がジロッと睨み付けた。


「なんだよお前! やるってのか」


 喧嘩腰の土谷を哲也が一喝する。


「いい加減にしろ! 」


 土谷より大きな声で怒鳴った後で哲也が続ける。


「いいから僕の言う事を利け! でないとレクリエーション室を暫く禁止にするぞ」

「なっ、何言ってやがる。そんな事勝手に出来るのかよ」


 怯みながらも言い返す土谷に哲也が毅然とした態度で話を始める。こういうタイプには高圧的に出る方がよいと経験でわかっていた。


「出来るよ、僕は警備員だからな、揉め事をしたって報告すれば罰として暫く出入り禁止になるぞ、見てみろあそこに書いてあるだろ」


 哲也が壁に貼られた注意書きを指差す。

 注意書きには諍いを起こした者は罰として3~5日間立ち入り禁止にすると書いてある。


「ここだけじゃないぞ、他の部屋もそうだ。みんなで使う場所にはルールがあるんだよ」

「だからって場所なんて決まってないだろ、俺が何処で見ようと勝手だろが」


 土谷はすっかり気圧されて声が小さくなっている。

 語気を強めて哲也が続ける。


「勝手じゃない! 病院の決めたルールの他に患者たちが決めたルールもあるんだ。あんたが座ってた席は山口さんがいつも座ってる場所だ。他もだいたい決まってる。言っちゃ悪いが新人は遠慮がちに端に座るもんだ。暗黙のルールだよ、ずっと昔からあるんだから仕方無いだろ、それで旨くいってんだ」


 患者の中には決まった場所でないと暴れる者もいる。新しく入って来たのに真ん中の席じゃないと騒ぐ情緒不安定な患者などには古参の患者も素直に席を譲ってやったりしている。先生や看護師が宥めて席を替えてもらう事も多い、そうやって旨くやっているのだ。

 叱りつける哲也の前に山口茂雄が出てくる。


「まぁまぁ哲也くん、そう怒らないで……出入り禁止じゃかわいそうだよ」


 山口は基本的には優しい人だ。素直に隣りに座らせてくれと言えば喜んで場所を少しずらしてくれただろう、土谷の自分勝手な行動に怒ったのだ。

 山口と仲の良い波瀬邦夫が優しく土谷に話し掛ける。


「そうだな、土谷さんとか言ったね、私たちの横で一緒にテレビ見ようよ」

「 ……まぁ、俺はテレビが見れればどこでもいいけどよぅ」


 すっかり気を削がれたのか拗ねるような土谷に哲也が頭を下げる。


「土谷さん、怒鳴って悪かったね、謝るよ、僕もテレビを見に来たんだ。みんなで仲良く見ようよ」


 哲也が山口と波瀬にも振り向いた。


「この場は僕が謝るからさ、もう喧嘩は止めようよ」


 何も悪くない哲也が謝る事で双方の怒りを収めさせた。この様な諍いは毎度の事なので哲也も慣れたものである。誰かが謝る事で収まるなら安いものだと思っているのだ。


「そうだね、みんなで見よう、哲也くんもこっちに座って」


 手招く山口の隣で波瀬が紙包みを広げる。


「大福貰ったからさ、みんなで食べながらテレビ見ようよ、丁度4つあるからさ、哲也くんと土谷さんと私らで1つずつ食べようよ」

「大福か……いいねぇ」


 甘いものが好きなのか土谷の機嫌が一瞬で良くなる。


「じゃあ、ジュースでも買ってきますよ、僕が奢りますから山口さんと波瀬さんはコーヒーでしたよね、土谷さんは何飲みます? 」


 哲也が気を利かせた。新しく入ってきた土谷が古参の山口たちと仲良くなってくれれば諍いも減るのだ。


「悪いねぇ、俺はコーラで頼むよ」

「了解、じゃあ買ってきますから場所取っといてくださいよ」


 少しも悪いと思っていない嬉しそうな顔で頼む土谷に笑いながらこたえると哲也はジュースを買いにロビーへと向かった。


「流石哲也くんね、助かったわ」


 ロビーにある自販機でジュースを買っていると香織が哲也の肩をポンッと叩いた。何処かで見ていたのだろう、


「香織さん、丁度良かった。土谷さんって新しく入った人ですよね、何の病気なんですか? 」

「土谷さんはね……おっと危ない、自然と訊いてくるからうっかり話すところだわ」


 ジュースを買う手を止めて訊く哲也の後ろで香織がムッと怖い顔になる。


「そんな事言わないでさ、また揉め事あるといけないから病状がわかると対処も出来るでしょ? 」

「まったく哲也くんは旨いわね、わかったわ」


 負けたというように香織が土谷の事を教えてくれた。



 土谷直人つちやなおと24歳、背は哲也より低いが、がっしりした体付きに強面の顔で喧嘩が強そうに見える。病状は統合失調症だ。哲也と同じでよくある病状だが酷くなると幻覚や幻聴を見るようになる。

 土谷も酷い幻覚と幻聴が出るという事で取引のある会社の勧めで入院してきた。幻聴とは誰かが訪ねてくると言うのだ。


「誰かが訪ねてくる幻聴っすか」

「面白そうとか思ってるでしょ」


 哲也の目が興味深げに輝いたのを香織は見逃さない。


「えへへっ、流石香織さんだ」


 バレたと笑って誤魔化す哲也を見て香織が呆れて口を開く、


「まぁ喧嘩にならなくて良かったわよ、土谷さんは短気だから気を付けておいてね、でもさっきは旨く止めたわね」


 自販機から出てきたジュースを3つ抱えながら哲也がこたえる。


「力尽くで止めても後で揉めるだけですからね、恨みを溜めて大喧嘩なんてなったらそれこそ大変ですから」

「偉い偉い、じゃあ哲也くんのジュースは私が奢ってあげよう」


 自分の分のジュースを買おうとした哲也の横から手を伸ばして香織がお金を入れてくれた。


「やったぁ、香織さんの奢りだぁ~~ 」


 わざとらしく喜びながら哲也が自販機のボタンを押す。

 哲也が選んだジュースを見て香織が眉を顰める。


「うわっ、哲也くんそれ飲むの? 不味いヤツだよね」

「なっ、何言ってんです。美味しいっすよ」


 お気に入りのジュースを否定されて哲也の声が上擦っている。


「ダメダメ、そのジュースはダメ、不味くて捨てたのはそのジュースだけよ、それだけは哲也くんとわかり合える事ないわ、あ~あ、奢って損した」

「ちょっ、損ってなんすか? 酷すぎるっす」


 全否定しながら去って行く香織の背を哲也が恨めしげに睨んだ。



 ジュースを抱えて哲也がレクリエーション室へと戻る。


「ありがとう、えーっと哲也くんだっけ? 」

「中田哲也です。哲也って呼んでください、この病院の警備員をしてます」


 嬉しそうにコーラを受け取る土谷に哲也がペコッと頭を下げた。


「俺は土谷直人だ。土谷って呼んでくれ」

「はい、土谷さん、よろしくお願いしますね」


 山口や波瀬にもジュースを配ると4人で並んでテレビを見る。

 駄弁りながらテレビを見ていて2時間ほどですっかり仲良くなっていた。



 更に2時間ほどが過ぎた。そろそろ夕食の時間だ。

 見回りがあるので哲也が腰を上げる。


「僕は見回りがあるから、波瀬さん大福御馳走様です」

「じゃあ俺も部屋に戻るかな」


 土谷も立ち上がって一緒にレクリエーション室を出て行った。

 廊下を歩きながら哲也が土谷に話し掛ける。


「土谷さん、話し聞いたんですけど…… 」

「なんだ? 何の話しだ? 」


 言い辛そうな哲也の顔を土谷が覗き込んだ。


「誰かが訪ねてくるって聞いたんだけど…… 」

「ああ、その話しか……訪ねてくるぜ、先生たちは幻覚って言うけどな、俺も本当か幻覚かわからなくなってな、そんで入院したってわけだ」


 一瞬顔を顰めたが仲良くなった哲也に気を許したのか土谷は何ともないと言うようにこたえた。


「話し聞かせてもらえませんか? 晩御飯食べた後に部屋に行きますよ、水羊羹ありますから2つほど持っていきますよ」


 土谷が甘党なのを知って餌で釣る作戦に出た。


「水羊羹か……3つだ。3つくれるなら全部話してやるよ」

「丁度3つありますよ、じゃあ後で部屋に行きますね、土谷さんの部屋は何処ですか何棟の何号室です? 」

「俺はB棟の311号室だ」


 昨日の定期診察で池田先生に貰った水羊羹が丁度3つある。自分の分が無くなるが話を聞けるならと哲也は差し出す事にした。


「じゃあ、7時頃に行きますよ、コーラも買っていきますから話し聞かせてください」

「おぅ、怖いって言うか変な話しだぞ、楽しみにしとけ」


 コーラのおまけも付いて土谷が上機嫌だ。



 夕方の見回りを終え、少し遅い夕食を食べると土谷の部屋へと向かう、


「311号室、土谷直人っと」


 ドアの横に付いているネームプレートを確認してからノックした。


「おう、来たな、まぁ入ってくれ」


 笑顔で出迎える土谷の後ろ、ベッドの近くを黒い影のようなものが横切るのが見えた。


「えっ!? 」

「ん? どうした? 」


 哲也の驚き顔を見て土谷が後ろを振り返る。


「何かあったか? 」


 直ぐに前に向き直って怪訝に訊く土谷に哲也が焦って返す。


「あっ、別に……綺麗にしてるなって」


 黒い影のようなものはベッドの下に入って見えなくなった。


「綺麗っていっても何もないしこんなもんだろ」

「漫画とか綺麗に棚に入れてるし……僕は放ったらかしだから」


 訝しげな土谷の向かいで哲也が慌てて誤魔化した。


「ああ、俺配送業やってんだ。それで配達しやすいように荷物を整理してたらいつのまにか何でも整理する癖がついちまった」

「そうなんですか、土谷さんって整理整頓するタイプに見えなくて吃驚したんですよ」

「なんだとぅ! 」


 顔を顰める土谷の前に哲也が袋を差し出す。


「あっ、お土産の水羊羹持ってきました。コーラもありますよ」

「おぅ、悪いねぇ」


 ムッと怒っていた土谷が一瞬で上機嫌になる。

 影のようなものがどうしても気になった。色々な怪異を見てきた哲也には悪いものに見えたのだ。


「土谷さん、犬とか猫に何かした事ありませんか? 」


 機嫌が良くなったのを見て哲也が思いきって訊いてみた。


「猫? そういや轢いた事があるな」


 水羊羹の入った袋を受け取りながら土谷がこたえた。


「いつ頃轢いたんです? 」

「何でそんな事聞くんだ? 」

「気を悪くしないでくださいね」


 また怪訝な顔をする土谷に哲也が始めに断ってから続ける。


「犬か猫の影みたいなのが見えたんです。一瞬だったから見間違いだと思うけど」

「猫の影か……バカバカしい、見間違いだよ」


 バカバカしいと笑いながらも思い当たる事があるのかベッド脇の椅子に座ると哲也にも座れと指差した。


「そういや、変な事が起こったのも猫を轢いた後からだ」


 哲也が座ると土谷が怪異について話を始めた。



 土谷は宅配便の配達の仕事をしていた。大手の正社員ではなく下請けの歩合制で荷物を運ぶ個人事業主だ。

 1つ荷物を運ぶごとに100円~200円ほどの利益となる。簡単そうに思えるが1つの荷物を運ぶのに10分ほど掛かるとして100個で1000分、時間にして16時間40分ほど掛かる事になる。受取人が留守なら再配達になってその分時間も掛かる。時間指定や代金引換の荷物などの手間の掛かるものもある。

 個人事業主なのでガソリン代などは自分持ちだ。その他諸々引いて1日働いて手取り日給1万ほどの稼ぎとなる。


 磯山病院に入院する一ヶ月半ほど前のある日、土谷はいつものように効率の良い配達ルートを調べて軽自動車のバンタイプを走らせていた。


「次はっと…… 」


 信号待ちで次の配送地域を確認する。


「あの辺り留守が多いんだよな」


 青に変わって愚痴りながら軽のバンタイプを走らせる。


「おわっ!! 」


 慌てて急ブレーキを踏んだ車体に衝撃が走った。


『ニギャァアァ~~ 』


 鳴き声と共に黒いものが軽のバンタイプのフロントガラスの上を飛んでいくと運転席の脇に落ちていく、


「猫かよ! 」


 運転席の横、殆ど水の流れていない側溝に黒い猫が倒れていた。


「荷物は? 走り始めでよかった」


 猫の事より荷物の心配が先に出る。預かっている荷物を壊したら大変だ。今取引している宅配会社は配送中に事故などで壊しても土谷自身が弁償する事などはないが上への心証は悪くなる。宅配会社によってはペナルティーをつける会社もある。

 荷物の無事を確認して再度猫に視線を移す。


「汚ぇなぁ…… 」


 黒猫の頭がぱっくりと割れて血が溢れている。

 車を確認しようと土谷が外に出た。軽のバンタイプの正面下、バンパーから車体に掛けて赤い血がべったりと付いていた。


「洗車しないと……ったく、クソ猫が! 」


 忌々しく睨んでいると倒れていた猫がムクッと起き上がって土谷をじっと見つめた。


「おわっ! 」


 思わず声が出た。猫は割れた頭と半分崩れた顔、片目が潰れている。


『ニィィ~~ン』


 か細い声で一鳴きすると側溝をトトッと走って消えていった。


 近くのガソリンスタンドに入って給油するついでに高圧洗浄機で猫の血を洗い流して貰う、


「取り敢えずこれでいいだろ、配達終ったら綺麗に洗おう、まったくついてないぜ」


 愚痴りながら残りの配達を済ませて帰りについた。



 安アパートで一人暮らしの土谷は普段のようにスーパーで買ってきた総菜と安酒で夕食を終えてテレビを見ながらそのまま寝てしまう、


『おはようございます』


 どれ程寝ただろうか? 声が聞こえた気がして土谷が寝返りを打った。

 同時にぐっと胸に激痛が走る。


「うぅ…… 」


 まるで心臓を掴まれているような痛みに脂汗を掻きながら暫く動けないでいると声が聞こえてきた。


『おはようございます』


 か細い声だがハッキリと聞こえた。玄関からだ。

 いつの間にか胸の痛みは引いていた。1分も経っていないだろう、寝返りを打った事で筋でも吊ったのだろうと考えているとまた声が聞こえてきた。


『おはようございます』


 おはよう? 今何時だ? 土谷がテレビの横に置いてある置き時計を見る。


「4時じゃねぇか」

『おはようございます』


 面倒臭そうに放った声に重ねるように聞こえてきた。


『おはようございます』

「何考えてんだ! 用があるならインターホン鳴らせよ」


 愚痴りながら起き上がると寝間着代わりのジャージ姿のまま玄関へと向かう、


『おはようございます』


 ドアの横、磨りガラスになっている所に人影が見えた。黒い服を着ている女らしき小柄な影が立っている。


「何の用だ! 」


 寝ているところを起こされて不機嫌に土谷が怒鳴った。


『おはようございます』


 二度ほど同じようなやりとりをしたが相手はか細い声で『おはようございます』を繰り返すだけだ。


「何の用だっつってんだ」


 喧嘩っ早い土谷がバッとドアを開けた。

 直前まで磨りガラスに映っていたはずなのに誰も居ない。


「おいコラ! 」


 玄関から出て近くを探すが人の気配すらない。


「 ……ったく何だってんだ」


 まだ酔いも残っているのかさして気にもせずに悪戯だろうと部屋に戻るとトイレをすまして眠りについた。



 翌日も同じような出来事が起こる。その次の日も早朝に『おはようございます』と何者かが訪ねてきた。

 寝ているところを起こされて寝返りを打って胸に激痛が走る。脂汗を掻きながら耐えていると直ぐに痛みはなくなる。全て起こされて筋でも吊った所為だと考えた。


「クソったれが! 胸は痛くなるし……捕まえてぶん殴ってやる」


 3日続けて悪戯されたと頭にきた土谷は翌日、仕事が休みなのを幸いと寝ずに待ち構えて犯人を捕まえてやろうと考えた。

 薄暗い早朝の4時頃にやってくる犯人を捕まえようと待っていたがすっかり明るくなった6時を過ぎてもやってこなかった。


「クソが……もう来ないならまぁいい」


 悪戯が止まったと思った土谷は布団に潜って夕方まで眠った。



 次の日、仕事を終えていつものようにスーパーで買ってきた総菜を肴に酒を飲んで良い気分で布団に潜る。


『おはようございます』


 どれくらい寝ただろう、耳元で声が聞こえて土谷が目を覚ます。


「痛てて…… 」


 胸に激痛が走って布団の中でじっと耐える。1分も経たずに痛みは消えた。


『おはようございます』


 またか……クソがっ! 土谷がそっと起き上がる。相手が消えるのは土谷の気配を察して逃げたのだと考えた。


『おはようございます』


 足音も立てずにそっと玄関まで行くと磨りガラスに黒い服を着ている女らしき小柄な影が見えた。

 声も出さず、開ける音も出来るだけしないように気を付けてドアに手を掛ける。


『おはようございます』


 声が聞こえた。磨りガラスに影がまだ居るのを確認してサッとドアを開ける。


「なっ……なんで…… 」


 土谷が立ち尽くす。

 誰も居なかった。ドアを開ける寸前まで磨りガラスに影は映っていた。目を離したのはドアを開けた数秒だ。10秒も経たない間に隠れる場所などは何処にも無い。


「なんで……誰が………… 」


 体が急に冷えていく、残っていた酔いも一気に醒めた。

 冷静になって考えると奇妙な事に気が付いた。『おはようございます』という声の抑揚が全く同じように聞こえる。まるで録音している音声を繰り返し流している感じだ。

 それだけではない、玄関まで行くと相手の声がか細く小さい事がわかる。相手から直ぐの玄関だからどうにか聞こえるほどの声だ。では何故寝ている時はハッキリと聞こえたのだろうか? 玄関でどうにかわかるほどの声が奥の部屋まで届くだろうか? 有り得ない、それとも土谷が奥にいる間は大きな声を出していたのだろうか? 


「くだらん悪戯しやがって……何の悪戯かは知らんが御苦労さん」


 態と大声で言うと土谷は部屋に引っ込んだ。

 次の日から土谷は声を無視する事にした。構うから悪戯を止めないんだと考えたのだ。



 12日経った。待ち構えている時以外は毎朝来ていた何者かが来なかった。当然というか胸の痛みも起こらない。


「やっぱ、相手するからダメなんだな、バカは無視に限る」


 犯人がやっと諦めたと上機嫌で仕事に向かった。


「今朝は楽だったな、昼からもこの調子で頼むぜ」


 コンビニの駐車場に止めた軽のバンタイプの中で手早く昼飯を食べるとドアに寄り掛かるようにして仮眠を取る。ぶっ続けで働くより30分ほど仮眠を取った方が頭も回り効率が良くなるので時間に余裕がある時は必ず寝るようにしている。


『こんにちは』


 20分も眠っただろうか、誰かに呼ばれたような気がして土谷が頭を起こす。

 同時に胸に激痛が走った。


「痛ててっ…… 」


 車のハンドルにもたれ掛かるように痛みに耐える。

 1分もしないで痛みは消えた。それを見計らったように声が聞こえてくる。


『こんにちは』


 軽のバンタイプの後ろ、左右の窓にはスモークが貼ってある。内側からは見えるが外側からは見えないというヤツだ。内側から見えるといっても何も貼っていない窓のようにクリアに見えるわけではない、運転席からだと少し曇ったように見えるのだ。

 その少し曇ったような窓に黒い人影が映っていた。積んである荷物の間からなので余計にハッキリとは見えないが誰かが立っているようだ。


『こんにちは』


 また声が聞こえた。どうやらその人影が呼んでいるようだ。

 コンビニの駐車場だ。何か問題でもあったのかと土谷がドアを開けて外に出る。


「なんだ? 」


 車をぐるっと回ったが誰も居ない、悪戯かと辺りを見るがコンビニの店内に5人ほど客がいるだけで外には誰も居ない、駐車場には自分の他に3台あるがトラックの中で飯を食っている男以外は乗っていない。


「何だってんだ……まったく」


 眠りの邪魔をされて憤慨しながら車に戻る。


「さっさと済まして帰るか」


 そのまま午後の配達を終えて家に帰った。


 翌日は忙しく仮眠どころか昼飯もゆっくりと食べる事もできないで運転しながらおにぎりを頬張った。

 次の日、いつものようにコンビニの駐車場に車を止めて昼飯を食べた後に仮眠を取る。


『こんにちは』


 誰かに呼ばれて目を覚ます。

 胸に激痛が走る。脂汗を掻きながら後ろを睨み付けた。

 軽バンタイプの後ろ、配達する荷物の間から右の窓に黒い人影が見えた。


「何の用だ! 」


 直ぐに痛みは消えてムッと怒りながら車を降りる。乱暴にドアを閉めて辺りを探すが誰も居ない。


「なんだ…… 」


 ハッと思い出して言葉を止めた。『こんにちは』という抑揚が前に聞いた『おはようございます』と似ている事に気が付いた。


「ざけんな! 俺は忙しいんだ」


 少し大きな声で言うと車に戻って直ぐに発車させた。



 配達地域とルートが殆ど決まっているので使うコンビニもだいだい同じ場所だったのを次の日から態と変える事にした。

 場所を変えれば何者かも訪ねてこないだろうと思ったのだ。


「明日は休みだし、頑張って早めに終らせるか」


 時間に余裕がある時は必ず仮眠を取っていたのだが休日前なので仮眠は取らずに昼飯を食べたら直ぐに午後の配達を始める予定でコンビニの駐車場へと入っていく、


「配達ルートの再チェックでもするか」


 手早く昼飯を食べ終わると残りの配達物の確認を始めた。


『こんにちは』


 声が聞こえてビクッとして土谷が動きを止めた。同時に胸が痛くなる。耐えながら振り返る。荷物の間から見える窓に黒い人影が映っていた。一分ほどで痛みは引いた。

 見間違いじゃねぇ……、仮眠で寝惚けた頭ではなく起きている時にハッキリと見ているのだ。土谷はそっとドアに手を掛けた。このまま開けば窓の外にいる誰かを正面から見れるはずだ。


『こんにちは』


 声が聞こえると共にドアを開けて影が立っていた窓の方を見る。


「なっ…… 」


 絶句した。誰も居ない、一切目を離していないのだ。誰かが『こんにちは』と言った後で走って逃げた気配もない、では声を発したのは誰なのか? 


「くそったれが! バカな悪戯しやがって」


 ドアを閉めると直ぐに車を出した。

 午後の配達を終えて家に帰る。忙しさに昼間の出来事など既に忘れていた。


「明日は休みだ。給料も入ったしたっぷり飲むか」


 いつもの安酒ではなくビールや高い日本酒を買ってきてスーパーの総菜で普段より多く飲んで酔っ払った。

 休みという事もあり遅くまで飲んで昼過ぎまで寝入ってしまう、


『こんにちは』


 声が聞こえたような気がして床に直接寝ていた土谷が寝返りを打った。


「いつつ…… 」


 胸に激痛が走って身を固くする。胸の痛みは一瞬だ。もう慣れていつもの事だと気にもしなくなっていた。


『こんにちは』


 胸の痛みが消えると土谷は直ぐに玄関に向かった。


「はい、何です? 新聞とかセールスはいらない…… 」


 面倒臭そうに話していた言葉が途中で途切れる。

 ドアの横、磨りガラスに人影が映っていた。黒い服を着ている女らしき小柄な影だ。


『こんにちは』

「誰だてめぇ!! 」


 怒鳴りながらドアを開けた。誰も居ない、明るい昼間だ。数秒で隠れるなど無理である。


「朝と同じだ……間違いない」


 声色、声のトーン、以前の『おはようございます』とやってきたものと同じだと確信して呆然と立ち尽くした。


「構うから調子に乗りやがる」


 土谷はまた無視する事に決めた。

 思惑通り12日ほどで『こんにちは』と訪ねてくるものは来なくなった。



 翌日、同僚との飲み会があり一連の出来事を話すと疲れていて体は眠っているのに頭は起きていて幻聴が聞こえるんだと言われた。

 玄関の磨りガラスや車の窓に見えた人影は全部夢だ。金縛りで恐怖体験をするのと同じ原理だと説明されて土谷は納得する。


「半分頭が覚醒してるからリアルな夢を見るんだな」


 夢と言われれば全ての説明が付く、家に帰るとその日はそれ以上酒を飲むのを止めて栄養ドリンクを飲んで早めに寝床に付いた。


『こんばんは』


 声が聞こえて土谷が身を固くする。同時に胸に激痛が走った。


「ぐぅぅ…… 」


 1分も経たずに痛みは消えた。


『こんばんは』


 また声が聞こえた。布団の中で身を堅くしたまま土谷は考える。

 テレビ横の時計を見ると時刻は午後9時を少し回っていた。

 夕方飲んだ酒はとっくに抜けてるぞ、酔ってないし夢でもない……、じゃあ本当に誰か来たのか? 


『こんばんは』

「あー、ハイハイ」


 独り身で友人も殆どいない土谷だがセールスや勧誘などの他に大家さんが数ヶ月に一度訪ねてくる事がある。畑を持っているので取れた野菜を持ってきてくれるのだが本当の目的はアパートに住んでいる年寄りが孤独死していないかの確認らしい。

 同僚と飲んでいて帰ったのが7時過ぎだ。夕方いなかったので夜に来たのだろうと土谷が玄関へと向かう、


「ハイハイ…… 」


 軽く返事をしていた言葉を引っ込めた。ドア横の磨りガラスに黒い人影が映っていた。


「なっ、何の用だ」

『こんばんは』


 震える声を出す土谷の耳にか細いがハッキリした声が聞こえてきた。

 今までの事を思い出す。

 夢じゃないっていうのか? 構うとダメだ。無視すれば10日ほどでいなくなる。土谷は何もしないで引き換えそうと背を向けた。


 コン! コン! ドアをノックする音で振り返る。

『こんばんは』


 磨りガラスに映る影が動いていた。ゆっくりとドアをノックしている。


「何の用だ! 」


 土谷が怖さを誤魔化すように怒鳴った。


『こんばんは』

「てめぇ! 」


 バッとドアを開けた土谷の目の前に血塗れの女が立っていた。


『こんばんは』


 頭が割れ、顔の左半分が潰れている。真っ赤に染まった顔の残った右の目がギラッと恨めしげに光っていた。


『こんばんは』


 左の頬もぱっくりと割れていて旨く話せないのか声が掠れている。

 いままで聞いていた声と全く同じだ。そうわかった瞬間、土谷の中で何かが切れた。


「うわぁあぁ~~、夢なんかじゃねぇ~~~ 」


 騒いでいるところを近所の住人に通報された。それが宅配便会社の知るところとなり病院で検査を受ける事を勧められる。近くの病院に行くと何者かが訪ねてくるという妄想に囚われた心の病気だと言う事で磯山病院に入院してきたのだ。


 これが土谷さんが語ってくれた話しだ。



 怪異は現在も続いているという、『こんばんは』は12日間で終って今は『お邪魔しました』と誰かが訪ねてくると言うのだ。


「お邪魔しましたってここにも、病院にも来るんですか? 」


 部屋を見回す哲也を見て土谷がニヤッと口を歪めて頷いた。


「ああ来るぞ、夜中だ。深夜の2時か3時頃だな、お邪魔しましたって影がそこに見えるんだ」


 部屋のドアに付いている磨りガラスを土谷が指差した。


「やっぱ何かあるんですよ、お祓いとかした方がいいですよ、影がベッドの下に入っていくのを見たんです。看護師さんに頼めば御札とか買ってきてくれますから…… 」


 真面目な顔に焦りを浮かべる哲也の向かいで土谷が声を出して笑い出す。


「あはははっ、大丈夫だ。お化けなんていないよ、御札なんて買うくらいならケーキでも買ってきて貰うよ」

「でも胸が痛むんでしょ? 何かに取り憑かれてるんじゃ…… 」

「あははははっ、哲也くんはお化け信じてるのか? お化けなんていないよ、胸の痛みは病気だよ、肋間神経痛ろっかんしんけいつうって言うんだ。睡眠不足やストレスで痛むんだってさ、配達の仕事は神経使うからなストレス溜まってたんだ」


 土谷は肋間神経痛ろっかんしんけいつうと診断されていた。

 肋間神経痛とは風邪や打ち身に冷え、睡眠不足やストレスによって胸部が差し込むように痛む病気だ。人によって様々だが普通は持続するものではなく暫く安静にしていれば痛みは治まる。


 大声で笑われて哲也がムッとして言い返す。


「笑い事じゃないですよ、心配してるんですから」

「あはははっ、悪い悪い、でも大丈夫だ」

「何が大丈夫なんです? 」


 自信ありげな土谷を見て哲也が顔を顰める。


「幻覚か幻聴かお化けか知らんがお邪魔しましたも今日で10日目だ。だからあと2日で来なくなる。そしたら治るような気がする。お邪魔しましたってのは帰る時に言う言葉だからな、もうこなくなるって気がするんだ。そしたら退院だ。入院なんて退屈でしてられるかよ」

「なんであと2日で終るってわかるんです? 」


 興味津々で聞き返す哲也の向かいで土谷がニヤッと笑いながら話を始めた。


「ここに入院してから暇すぎて思い返して調べたら全部12日程で終ってるんだ。『おはよう』も『こんにちは』も『こんばんは』も全部12日間だ。だから『お邪魔しました』も同じなら明日と明後日で12日間だ」

「12日か……何かあるんですかね? 」

「さぁな、お邪魔しましたが終ればわかるんじゃないか? 」


 他人事のように言いながら土谷が立ち上がる。


「これで話しは終わりだ。俺はテレビ見ながら水羊羹食べるから哲也くんは帰ってくれ」


 土谷は部屋に置いてある16インチのテレビを付けるとベッドに転がった。

 まだ訊きたい事はあったが短気な土谷が怒ると厄介なので仕方無く哲也は部屋を出て行った。



 3日経った。土谷の話では『お邪魔しました』と尋ねてくるのは終っているはずだ。


「昨日は来たんですか? 今日はもう来ないんですよね」


 レクリエーション室でテレビを見ていた土谷に哲也が何気なく訊いた。


「多分な、昨日の『お邪魔しました』で終わりだ。もし今日も来るなら挨拶が替わってるだろ、来ても無視すりゃいいだけだ」


 平然とこたえる土谷の隣で哲也が顔を顰める。


「何もしないとしても怖くないんですか? 」

「怖いって言うよりムカつくな、寝てるの起こされちゃ誰でも怒るだろ」

「そうですけど……僕は何もしなくても来るだけで嫌です。それにここに来る前に頭の割れた血塗れの女を見たんでしょ? 怖すぎますよ」


 怖がる哲也の肩をポンッと叩いて土谷が話し出す。


「あれは幻覚だ。寝惚けてたんだ。胸が痛いのも寝不足とストレスの病気だってわかったしな、哲也くんを笑っといてなんだが、俺もどっかで怖いって思ってたんだろな、それで変な幻覚を見たんだ。でも今は平気だ。アパートと違って先生も看護師さんも哲也くんもいるからな、何かあってもナースコールで直ぐに来てくれるしな」

「土谷さんは凄いっすね、僕は怖くて寝られませんよ」

「あははははっ、一ヶ月も続いたら慣れちまったよ」


 剛胆に笑い飛ばす土谷を見て哲也は心配するのを止めた。



 深夜3時、哲也はB棟へと入ると最上階から各階を見て回る。


「訪ねてくるものか…… 」


 呟きながら土谷の部屋である311号室の前を歩いて行く、


『お邪魔しました』


 5メートルほど通り過ぎた時、掠れた声が聞こえた。

 哲也がバッと振り返ると黒い影がドアから出てきて廊下を横切って向かいの窓へと消えていくのが見えた。


「なん…… 」


 驚きに身を固くしていた哲也だが直ぐに311号室へと駆け寄った。


「土谷さん! 」


 ノックもせずにドアを開けた哲也の目にベッドの上で寝息を立てている土谷が映る。


「なんだ…… 」


 哲也がほっと息をついた。土谷は気持ち良さげに眠っている。

 部屋を見回して何も異常がないのを確認すると哲也はそっと出て行く、


「見間違えか……土谷さんの話し聞いてたからビビって見えたんだな、何かが訪ねてきたら胸も痛くなるって言ってたしな」


 見回りを再開して長い廊下を歩いて行く、


「まてよ、全部嘘なんじゃ……水羊羹欲しさに嘘ついたんじゃ……土谷さんならやりそうだぞ、明日訊こう、嘘だったらもうジュース奢るの止めるからな」


 怖い目に遭っているのに土谷は平然としている様子から全て作り話ではないかと疑いながら哲也は深夜の見回りを終えた。



 翌日、9時頃に起きて朝食を食べに行く、磯山病院の規定では朝食は午前7時~9時の間となっているが深夜の見回りをしている哲也は特別に9時半まで認めて貰っているのだ。

 眠そうに廊下を歩いているとナースステーションが何やら慌ただしい、


「何かあったんですか? 」

「あっ、哲也くん」


 丁度鉢合わせした看護師の香織に訊くと土谷が亡くなったと知らされた。

 心臓発作らしい、看護師が朝の見回りに行くと土谷がベッドから落ちて死んでいたのだ。


「そんな……昨日の、深夜の見回りじゃ気持ち良さそうに寝てましたよ」


 驚く哲也の顔を香織が覗き込む、


「哲也くん、土谷さんの部屋に入ったの? 」

「ええ……土谷さん何かが訪ねてくるって言ってたから注意するようにしてたんです」


 哲也がこたえると香織の顔が険しくなる。


「誰にも言っちゃダメよ、哲也くんは土谷さんの病室には入ってない、いいわね」

「何でそんな事を…… 」


 少し焦った様子の哲也に正面から香織が険しい顔のまま話し始める。


「まだはっきりしないけど土谷さんの死亡時刻が午前3時~5時の間らしいのよ、だから哲也くんは何も言っちゃダメよ、哲也くんが何もしていないのはわかってるわ、でも疑われるのは嫌でしょ? いいわね、絶対に誰にも言っちゃダメよ」

「香織さん、僕を心配して……ありがとう」


 嬉しそうに礼を言う哲也に香織がいつもの優しい笑みを向ける。


「哲也くんの事はよく知っているからね」


 普段の表情に戻った香織に安心した様子で哲也が話し掛ける。


「ベッドから落ちたって胸の痛みで転がり落ちたんですね」

「そうだと思うけど…… 」


 口籠もる香織に何かピンときた様子で哲也が続きを催促する。


「どうしたんです? 」

「土谷さんの顔がね、苦しいと言うより恐怖で引き攣っていたって感じだったわ、こんな仕事してるから亡くなった人は何人も見てるのよ、だからわかるのよ」

「恐怖でって…… 」


 哲也が詳しく聞こうとした時、仲間の看護師が香織を呼んだ。


「はい、今行きます」


 じゃあね、と言うように手を振ると香織は小走りで去って行った。


「お邪魔しましただからもう終わりだって、これで来なくなるだろうって喜んでたのに土谷さん……訪ねてくるものか………… 」


 何とも言えない顔で呟くと哲也は食堂へと向かった。



 土谷は持病のようになっていた肋間神経痛ろっかんしんけいつうの痛みでショックを起こして心臓発作になって死んだと診断された。

 胸の痛みは確かに肋間神経痛という病気の所為だったかも知れない、だがそれと心臓発作を安易に繋げていいのだろうか? 

 土谷の顔は恐怖に歪んでいたという、だが痛みによる苦痛で歪んでいたのではないとしたら? 頭の割れた血塗れの女が現われたのではないだろうか? 

 その女が土谷さんを……、先生たちに言っても信じてもらえないだろう、哲也は胸の中に収めるしかなかった。

 土谷が怪異だと認識して寺や神社に相談していればどうにかなったかも知れない、無視していれば終ると、お化けなどいないとバカにして笑い飛ばした結果がこれだ。


 今回の出来事は哲也にはさっぱりわからない、訪ねてきたものの正体は勿論、何故土谷の前に現われたのかもわからない、無理矢理関連付けるとすると土谷が死んだのは轢き殺した猫の四十九日とほぼ同じくらいだと言う事だ。『おはよう』『こんにちは』『こんばんは』『お邪魔しました』と何者かが訪ねてきたのが各12日間、合計48日間それに土谷が死んだ深夜に哲也が聞いた『お邪魔しました』を足すと合計49日間となる。


 人は死後四十九日間、魂は現世を彷徨うという、猫も同じだとしたら、轢き殺された猫が女の姿になって訪ねてきたのだとしたら……四十九日の間に呪いか何かを掛けたのだとしたら……哲也は土谷の部屋で見たベッドの下に逃げていった小さな影を思い出した。

 訪ねてきたのではなく部屋の中にいたのではないだろうか? ずっと土谷の傍にいたのではないだろうか? だからか細い声でもハッキリと聞こえたのだ。

 訪ね来るもの、死を告げに来たのだとしたら……そんなものが来ないように哲也は願った。

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