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第五十三話 渇く

 渇くと聞くと皆さんは何を思い浮かべるだろう。

 渇きにも色々ある。体の水分が無くなり喉に渇きを覚える。緊張して喉が渇く、暑さで冷たいものを飲みたくなるなど日常生活で普通に感じるものだけではなく、病気でも喉が渇く、糖尿病は有名だ。他にも腎臓疾患で尿の排泄量がコントロール出来なくなり尿が増えて体の水分が少なくなり結果、喉が渇いたりもする。精神が不安定になって酷く喉が渇くこともある。

 渇くを辞書で調べると、喉がからからになって水分が欲しくなる。満たされぬ気持ちがいらだたしいほど高まる。心から強く欲しがる。求めても得られず、欲望や欲求が高まること、などと書いてある。


 渇くと乾く、どちらも「かわく」と読む異字同訓の言葉だ。

 よく似た意味だと思う人もいるだろうが基本的に違う言葉である。

 乾くは水分や湿気が無くなる意味だ。「舌の根も乾かぬうち」や「乾いた笑い」など非難することや温かみがないこと、冷たい感じがする意味にも用いられる。

 渇くは基本的には求める意味で使われる事が多いが枯渇のように無くなったという意味でも使われる。「喉が渇く」や「渇きを覚える」や「愛情の渇きを癒やす」などである。

 無くなるのと欲しくなるでは、全く意味が違ってくる。大雑把に別けると、乾くは水分が無くなる。渇くは水分が欲しくなる。ということである。


 凄く喉が渇くという人に哲也は出会った。だがその人が求めていたのはお茶でも水でもジュースでもなかった。



 昼食を終えた哲也はレクリエーション室へと行くために長い廊下を歩いていた。

「テレビ見た後で将棋かオセロに誘われるんだろうなぁ」

 再放送の時代劇を見ようと波瀬や山口に誘われたのだ。

「まっ、偶にはいいか」

 外は小雨が降っている。看護師の香織や早坂に用事を頼まれたときは別として普段は昼寝をしていることが多いのだが、今朝は朝から雨だったので朝食後の散歩を止めて午前中から部屋で寝ていたので眠気は全く無く、波瀬たちの誘いに乗ったのだ。

「哲也くん、遅いぞ、もう始まるからな」

「お饅頭あるから哲也くんにも一つあげるね」

 レクリエーション室の近くの廊下で波瀬と山口が待っていた。

「ごめんごめん、テーブルが汚れてて気になったから拭いてたら遅くなった」

 時代劇の好きな波瀬がムッとしているのを見て哲也が苦笑いで謝った。

「早く行くぞ、あと三分で始まるぞ」

 波瀬が哲也の腕を引っ張る。

「おっと……」

 急に引っ張られて体が斜めになった。その目に窓の外が見えた。

「なんだ? 物々しいな」

 窓の外、看護師や事務員が六人ほど固まって歩いていた。

 哲也は窓に近付いて確かめるように見た。

「佐藤さんと望月さんに下垣さんだ」

 離れているが如何にも体育会系といった大柄な佐藤たちは一目でわかった。

 隣から山口がひょいっと首を伸ばしてきた。

「ごっつい看護師ばかりだね」

「うん、苦手なのばかりだ。新しい患者さんが入ってくるのかな?」

 頷く哲也の横で山口も苦笑いだ。

「怒ると怖いもんね、佐藤さんと望月さん」

「マジで怖いよ、この前もナースステーションに遊びに行ったら見つかって怒られたよ」

 嫌そうに顔を顰める哲也を見て山口が声を出して笑い出す。

「あはははっ、よく行けるなぁ、僕なんて怖くて近寄らないよ」

「一日一回は香織さんの顔を見たいからね、夜勤のときはともかく……」

 戯ける哲也の腕を後ろから波瀬が引っ張った。

「そんなことより時代劇始まるぞ」

「はいはい、行きますよ」

「ほんとに波瀬は時代劇好きだなぁ」

 哲也と山口が振り返る。

 歩き出そうとして最後にチラッと窓の外を見た哲也が踵を返す。

「あっ、嶺弥さんだ!」

 六人ほどの集団の中、大柄の佐藤や望月で隠れて分からなかったが二人の向こうに警備員の須賀嶺弥がいるのが見えた。

「佐藤さんに嶺弥さん……ヤバい患者ってことか」

 問題を起しそうな患者には佐藤や望月といった体力自慢の強面の看護師が担当に付く、看護師だけでなく警備員の嶺弥が付き添っているということは更に問題のある患者ということだ。

「隔離じゃなくてこっちに入るみたいだな」

 看護師や警備員など六人掛かりで囲って連れてくるような患者は普通なら隔離病棟へと送られる。隔離病棟には佐藤や望月のような体育会系といった体力自慢の看護師ばかりだと聞いたことがある。それなのに此方の病棟へと入るには訳があるはずだ。

「ごめん、埋め合わせはするから」

 波瀬に向かって手を合わせて謝ると哲也はダダッと廊下を走って奥にある階段へと消えていった。

「哲也くん行っちゃったよ」

 山口が波瀬に振り向く。

「一緒に見るって言ったのに……覚えとけよ」

 哲也が消えた廊下の奥を睨みながら波瀬が膨れっ面だ。

「仕方ないよ、哲也くんは一応警備員だからね」

 弱り顔で言う山口にムッとした波瀬が噛み付く。

「患者だろ! 警備員の真似してるだけだろ! 哲也くんなんて夜の見回りだけ警備してればいいんだ」

 真剣な表情をして山口が波瀬の正面に立った。

「ダメだよ波瀬、そんなこと言ったら哲也くんに嫌われるよ」

 やんわりと叱る山口の前で波瀬の顔から怒りが消えていく。

「……そうだな、哲也くんに嫌われるのは嫌だな」

 山口の表情が緩んだ。

「そうだよ、哲也くんよくしてくれるからね」

「うん、叱られそうになってもいつも庇ってくれるからな」

 はにかむように笑いながら波瀬がこたえた。閉ざされた病院の中で互いのことを友達だと思っている二人だ。もちろん哲也のことも友達だと思っている。

「そうだよ、埋め合わせするって言ってたから今度、将棋とか付き合って貰おうよ」

「だな、たっぷり付き合って貰うか、おっと、時代劇始まってるぞ」

 怒っていたのが照れ臭くなったのか波瀬が慌ててレクリエーション室へと入っていく。

「なんかヤバそうな感じだけど大丈夫かな哲也くん」

 山口が窓の方を向いて呟いた。



 佐藤たちが本館へ入る直前で哲也が追い付いた。

「ちょっ、嶺弥さん」

 息を整えながら声を掛ける。

「なんだお前か、向こうへ行ってろ!」

 嶺弥がこたえる前に佐藤が追い払うように大声だ。

「ちょっ、お前って何すか!」

 哲也がムッとして言い返す。

 一応警備員だ。仲間だと思っている。それをお前呼ばわりされて、挙げ句に犬猫を追い払うように怒鳴られたのだ。

「煩い! 今は構ってる暇は無い、さっさと消えろ」

 佐藤の横にいた望月がジロッと哲也を睨み付ける。

「なっ、何すか」

 少し臆しながら哲也も睨み返す。

 佐藤も望月も如何にもといった風体の強面で患者に向かっても普段からぞんざいな物言いだったが、それでも今のように理由もなく怒鳴りつけたりはしない。

「何かあればお前にも頼む、今は邪魔だから向こうへ行ってろ」

 哲也の態度に怒鳴るのは逆効果だと判断したのか佐藤が語気を弱めた。

「僕はまだ何も言ってないっす。それなのに何すか」

 怒った哲也が言い返す。


 その時、下垣の叫びが聞こえた。

「うわっ!」

 右手を押さえる下垣の横で望月が私服姿の男を羽交い締めにした。

「こいつ! 大人しくしろ」

「喉が……喉が渇く……喉が渇くんだよ」

 押さえ込む望月の下で三十過ぎくらいの男が目を見開き、涎を垂らしながら、ぶつぶつと呟いている。その口の端が赤く染まっていた。

「痛てて……噛み付きやがった」

 下垣が左手で右腕を押さえる。その下、白衣が赤く染まっている。どうやら男に噛み付かれて出血したらしい。

「なっ、何が……」

 呆然と見つめる哲也の前に険しい表情をした嶺弥が出てきた。

「哲也くん、見ての通りだ。この患者さんは問題があってね、それで私たちが付き添っている。そういう事だから哲也くんは部屋に戻ってくれないか」

「でも……僕も何か手伝いたいです」

 佐藤たちに邪険にされたのがどうにも気に入らない、初めから事情を説明してくれれば大人しく引っ込んだのにと思いながら哲也は嶺弥を見つめた。

 険しい表情のまま嶺弥が続ける。

「それじゃあ、一つ仕事を頼もう、待機室の掃除をしてくれないか?」

 嶺弥にも邪魔者扱いされたと感じて哲也が頬を膨らませる。

「掃除なんてしませんから、どうせ僕は本物の警備員じゃないですよ」

「哲也くん……」

 拗ねる哲也を見て困ったように呟いた嶺弥の顔がパッと明るくなる。

「あとは頼むよ」

 先程まで見つめていた嶺弥の目が哲也の後ろを見ている。

「何してるの哲也くん!」

「かっ、香織さん」

 哲也がバッと振り返るといつの間に来たのか看護師の東條香織が後ろにいた。

「仕事の邪魔でしょ」

 香織にも叱られて哲也が膨れっ面だ。

「だって怒鳴られたから……」

 ふて腐れる哲也を見て香織が溜息をつく。

「まったく……」

「佐藤さんだけじゃなくて嶺弥さんも向こうへ行けって言うから」

「哲也くんを心配してるんでしょ」

 駄々をこねるような哲也を香織が姉のように窘める。

「それはわかってるけど……」

 哲也の膨れた頬が萎んでいく、佐藤はともかく嶺弥が自分を心配してくれていることは先程、患者が下垣に噛み付いたのを見ればわかる。


 佐藤たちの会話が聞こえてくる。

「大丈夫か下垣?」

「ああ、少し血が出ただけだ」

 哲也が前に向き直ると佐藤と望月が患者を両脇から挟むようにして立たせていた。

「渇く……喉が渇くんだよ」

「我慢しろ、診察が終ったらお茶でも飲ませてやる」

 ぶつぶつと呟く患者に右手を押さえながら下垣が叱り付けるように言った。

 患者を左で抱えながら佐藤が下垣を見る。

「俺たちに感染る(うつる)ことはないが一応診てもらっとけよ」

「そうだな、あとで池田先生の所へ行って来るよ」

 何やら会話をしながら患者を引き摺るようにして佐藤たちが本館へと入っていくところを哲也が見ていると嶺弥と目が合った。

「哲也くん、そういう訳だ。あとは東條さんにでも聞いてくれ」

 普段の優しい顔で言う嶺弥に哲也は安心した様子で頷いた。

「嶺弥さん、ごめんなさい」

 わかればいいと言うように手を振ると嶺弥も佐藤たちに続いて本館へと入っていった。


 哲也が振り返って香織に訊いた。

「あの患者何なんです?」

「気にしなくていいわ、三日だけこっちで預かることになっただけだから」

 普段の調子に戻った哲也に香織も普段通り素っ気ない。

「三日だけこっちってことは重病患者ですか? でも何でそのまま隔離に入れないんすか」

 哲也が首を傾げる。諍いがあって怒って噛み付く程度ならともかく、意味もなく看護師に噛み付くような患者は直行で隔離病棟へ入れられる。それが三日とはいえ普通の病棟で預かるのは訳があるはずだ。

「電気配線の工事やってるのよ、隔離は」

 困った顔で香織が続ける。

「今いる患者を空き部屋へ入れて調整して、どうにか都合を付けて工事を始めたんだけど、志賀田さんが急遽入ってくることになって、向こうじゃ入れる部屋がなくて仕方なしに三日だけこっちで預かることになったのよ」

 香織が大きな溜息をついた。

「こっちも手一杯だから困るのよね」

「あの患者、志賀田さんって言うのか」

 興味を持った顔で哲也が続ける。

「それで何で噛み付くんすか? 喉が渇くって言ってたけど、何の病気なんすか?」

「ダメよ、隔離に送る患者よ、哲也くんは近付いちゃダメ、何も知らなくてもいいです」

 キッと睨む香織の向かいで哲也がとぼけ顔だ。

「でも嶺弥さんは香織さんに聞けって言ってたっす」

「彼奴め!」

 乱暴な口調で憎々しげに言うと、溜息をついてから香織が教えてくれた。


 志賀田(しかだ)俊夫(としお) 三十五歳、中堅商社に勤めて十四年というベテランだ。性格も穏やかで勤務態度も真面目、ギャンブルは元よりタバコも酒もやらない、凝った趣味も無い、これと言って面白みの無い普通の男性である。その志賀田の唯一の趣味とも言えるのが旅である。旅行業者が作った決められたルートを辿る既製の旅ではなく、知らない土地を歩くのが好きだという。

 幼い頃から出歩くのが好きで物心ついた時から行き先を告げずに出掛けて行方不明になったと騒ぎになることも度々あった。所謂、放浪癖というヤツである。

 三週間ほど前、志賀田の住んでいる町で傷害事件が起きた。深夜、路上で男が噛みついてくるという奇妙な事件だ。連日事件が起り、ついに女性が殺害された。

 その容疑者として志賀田が逮捕された。路上で女性を襲ったとして捕まったが本人は何をしたのか全く覚えていない。だが目覚めて起きた時に足に泥が付いているのを見つけて何事かと恐怖を感じていたと供述した。

 捕まった志賀田はある山で迷って辿り着いた村へ行ってからおかしくなったと自供したが警察が調べても村など存在しない、志賀田が嘘を言っている様子もないので検査すると夢遊病のように無意識で出歩き人を襲ったと診断され心の病だとして措置入院で磯山病院へとやって来た。



 話しを聞いた哲也が身を乗り出す。

「殺人事件の犯人っすか」

 心の病を持った患者が集まる磯山病院だ。窃盗事件や傷害事件で捕まったという人も多い、殺人事件の容疑者とも何度か会ったことがあるので恐怖より好奇心が先に出た。

 香織が困った顔で哲也を見つめる。

「そうよ、本人は無意識に事件を起したみたいだけど、本当かどうか」

「嘘をついてるって言うんすか? 罪を逃れようと嘘ついたって言うんすか」

 香織が言葉を選ぶように話し始める。

「う~ん、それもちょっと違うかな、襲った自覚は無いって言っているけど、自分が何をしていたか少しは自覚があったんじゃないかな、だから病院で検査して貰おうとしていた。酷く喉が渇くって怯えていた。喉の渇きではなく本当は自分が何かとんでもないことをしているって何処かで気が付いていたんじゃないかな」

「それで山の中で襲われたってこと言って誤魔化そうとしたっていうんすか?」

 非難するように顔を顰める哲也の向かいで香織が少し考えてからこたえる。

「そうね……こんな事言いたくはないけど、刑務所に行きたくないからって病気の振りをする人は結構いるのよ」

「それは僕も聞いたことがあるっす」

 相槌を打つ哲也に香織が弱り顔で続ける。

「体の病気と違って心の病気は明確に見えるものじゃないからね、疑わしいものは全て病として扱うっていう医者も多いのよ」

「それには賛成っす。あとで犯罪起して無関係の人が被害に遭うよりましっすから」

 大きく頷く哲也の前で香織が困ったような笑みを浮かべる。

「それはそうだけどね、三年くらいで出てこれる罪なのに病気を装って措置入院になって一生病院暮らしになる人も多いのよ、入院しているうちに本当に心の病になってしまう……嘘を言った段階で心の病だったのかも知れないわね」

 話の途中で思い付いたように頷いてから香織が付け足す。

「でも志賀田さんは罪を誤魔化すために嘘をついたんじゃなくて怖かったんじゃないかな」

「怖かったか……」

 哲也の顔が楽しそうに緩んでいく。

「迷った山の中にあった村で襲われてからおかしくなったって言ってんすよね? 山の中で何に襲われたんすか?」

「私も詳しく聞いてないから……」

 途中でハッとして香織が哲也を睨み付けた。

「またお化けとかの仕業と思ってるんでしょ? そんな事あるわけないからね」

「そうっすね、僕もそう思うっす。でも話しを聞かないと真実はわからないっす」

 笑顔でこたえる哲也を香織が睨み付ける。

「話しを聞こうとしても無駄よ」

「僕を止めようとしても無駄っす」

 ニヤけながら即答する哲也に香織が釘を刺す。

「志賀田さんには二十四時間監視が付くからね、佐藤さんに望月さんや下垣さん、それに須賀さんたち警備員も入浴や散歩のときに来てもらうって事になってるから、話どころか近付けないわよ、変な事したら佐藤さんに怒鳴られるわよ」

「佐藤さんが二十四時間監視って……」

 哲也の顔から一瞬で笑みが消えた。それを見て香織が畳み掛ける。

「私は担当じゃないから別に哲也くんが何しようと知らないけど、須賀さんは仕事を頼まれてるから何かあれば責任問題にもなるのよ」

「嶺弥さんの責任って……そんなのダメっす」

「そうよ、須賀さんのことだから何かあれば哲也くんを庇うでしょ、哲也くんが何かして迷惑を掛けたらここにはいられなくなるかも知れないわよ須賀さん」

「嶺弥さんが辞めたりしたら嫌っす」

 悲しそうに俯いた哲也の頬に香織が手を当てる。

「わかったら今回だけはおとなしくしてなさい、ちょっかい出して叱られても私も庇ってあげられないのよ」

 優しく言い聞かせる香織を見つめて哲也が頷いた。

「わかったっす。約束するっす」

「よしっ! じゃあ話はお仕舞い」

 哲也の頬をポンポン叩くと香織が続ける。

「早坂さんがシュークリーム買ってきてくれたから一緒に食べましょう」

 哲也がパッと顔を明るくする。

「シュークリームっすか、もちろん食べるっす」

「まったく現金なんだから」

 哲也の様子に安心したのか香織も笑顔だ。



 志賀田は急に暴れ出して噛み付いてくるという事で厳重な監視下に置かれた。

 部屋は警備員控え室に近いD病棟で他の患者と接触しないように一階の普段は倉庫として使っている部屋をあてがわれた。

 監視は二十四時間、佐藤や望月に下垣といった荒っぽいことに慣れたベテラン看護師と長浜や今道など経験の少ない新人看護師を組ませて二人一組で行う。

 必要な時以外は部屋に監禁である。

 トイレは部屋の二つ向こうにあるので看護師と同伴で行く事になる。食事は食堂ではなく部屋に運んで貰う、天気の良い日は午前中に敷地内を散歩させる。散歩や風呂のときは監視の看護師とは別に警備員から一人応援に来てもらう事になっていた。


 三日間だけだが殺人を犯した危険人物が同じ区画にいるという噂はあっと言う間に患者たちに広がった。

 その日の夜十時過ぎ、見回りをしていた哲也は波瀬と山口に呼び止められた。

「哲也くん、哲也くん」

 長い廊下の端と真ん中、トイレは各フロアに二つある。その廊下の真ん中、エレベーターの横にあるトイレの影から波瀬と山口が出てきた。

「哲也くん、殺人犯がいるんだってな」

「怒られるよ波瀬」

 楽しげな波瀬の後ろで山口が不安気だ。

「消灯時間過ぎてから出歩くのは禁止ですから」

 呼び止められた哲也が二人を睨み付けた。

「トイレだよ、トイレ、トイレはダメって言われてないだろ」

 とぼけ顔の波瀬を山口が後ろから引っ張って止める。

「ちょっ、波瀬、止めようよ」

「何言ってんだよ、お前だって聞きたいくせに」

 見回りの時間を狙って哲也が来るまでトイレに隠れていた様子だ。

「まったく……」

 呆れ顔で溜息をつく哲也を見て波瀬がムッと膨れっ面だ。

「一緒に時代劇見る約束すっぽかしただろ」

「わかりましたから、ここじゃ何だから波瀬さんたちの部屋で話しますよ」

 哲也が折れた。結構義理堅い性格だ。約束を破った代わりと言われたら断れない。

「そうこなくっちゃ」

「やっぱり哲也くんは優しいよね」

 ぱっと機嫌を直した波瀬の後ろで山口も嬉しそうだ。


 波瀬と山口のいる大部屋へと哲也が入る。

「みんな起きてるんだ……」

 同室の二人も起きていてベッドに座っていた。

 波瀬と山口の大部屋は六人入れる。今は波瀬と山口の他に二人、合計四人で使っていた。

「他の奴らも聞きたいってさ」

 ニッと悪戯っ子のように笑う波瀬を見て溜息をつくと哲也は近くにあった折り畳み椅子に腰を掛けた。

「僕から聞いたってのは絶対に言っちゃダメっすよ」

 四人を見回して哲也が念押しする。こんな事で叱られるのは勘弁だ。

「わかってるって、口が裂けても言わないよ、噂話に聞いたってことにするからな」

「うん、僕も言わない、だって哲也くんは仲間だからね」

 波瀬と山口が笑顔で誓った。他の二人も無言で頷いている。

「仲間か……」

 苦笑いを浮かべると哲也が話を始める。

「D棟に入ったのは志賀田さんって言って……」

 香織から聞いた志賀田のことをかいつまんで聞かせた。

 山で迷って何かに襲われたことなどは話していない、心の病で夢遊病のようになり無意識で人を襲ったということだけ説明した。

「無意識で人を殺すってちょっと怖いよね」

 嫌そうな顔をする山口を見て波瀬が鼻で笑う。

「嘘に決まってるだろ、刑務所に入りたくないから嘘言って病気の振りしてるだけだ」

「あっ、そうか」

 わかったというように頷いてから山口が続ける。

「もし嘘なら馬鹿だよね、隔離病棟に入るくらいなら刑務所の方がましなのにさ、あんなところ行ったら生きる屍になっちゃうよ」

「ましって、山口さん向こうのこと知ってるの?」

 隔離病棟のことを詳しく知っているかのような話し振りに哲也が訊こうとしたとき、波瀬が割って入る。

「そうだな、こっちならともかく、隔離送りじゃ務所と変わりないかもな」

 波瀬が知ったか振りをして話した後に哲也をじろっと見た。

「時代劇見るのすっぽかした穴埋めとは別だからな」

 山口も乗ってくる。

「ここ暫く遊んでないし、僕も哲也くんと遊びたいなぁ」

 二人に見つめられて哲也が弱り顔で頷いた。

「わかってるっす。今度雨降った時に部屋に遊びに行くっすよ」

「やったぁ~~、オセロしようね哲也くん」

 大喜びする山口の隣で波瀬が偉そうに口を開く。

「将棋もな、今日の時代劇一緒に見るってのはそれで許してやる」

「オセロでも将棋でもトランプでも何でも付き合うっすよ、だから消灯時間過ぎたら出歩いたらダメっすよ、他の人に見つかったら一週間テレビ取り上げられちゃうっすよ」

 弱り顔のまま注意する哲也を見て波瀬がニヤッと笑う。

「わかってるって、だからさっきもトイレに行ってたって事にしただろ」

「そういうことは知恵が回るんだから……」

 呆れ顔の哲也が壁に掛かっている時計で時間を確かめる。

「もう十時半だ。見回り急がないと他の警備員とかち合っちゃうぞ」

 パンッと手を叩くと、哲也が立ち上がってドアまで歩く。

「はい、話は終り、消灯時間とっくに過ぎてるからね、テレビ見るのはいいけど、出歩いちゃダメだよ、テレビの音も小さくするんだよ」

「わかってるって、今日は話しを聞きたかったからな」

「哲也くんありがとう、おやすみ」

 話しを聞き終えた波瀬たちが自分のベッドへと戻っていく。

「はいおやすみ、みんなもおやすみ」

 ドア横の電気スイッチを消して哲也は部屋を出て行った。

「巻き込まれなければいいけど哲也くん」

 山口がベッドに横になりながら呟いた声は誰にも聞こえていない。



 午前三時前、深夜見回りで哲也がD病棟へと入っていく。

「長浜さんも大変だなぁ」

 最上階まで上がろうとエレベーターを待っている間に廊下の奥を見ると新人看護師の長浜が志賀田の部屋の前に椅子を置いて座っていた。

「あれっ? 佐藤さんがいないぞ」

 夜十時の見回りで居た佐藤の姿が見えない。今夜は佐藤と長浜の二人が監視に付いているはずだ。香織に言われるまでもなく苦手な佐藤がいるので十時の見回りでは目も合わせないでスルーしていたのだが今見ると長浜一人だ。

 おかしいなと見ていると長浜が慌てた様子でドアを開けて部屋へと入るのが見えた。

「おいおい、入っていいのかよ」

 エレベーターが来たが気になった哲也は乗るのを止めて廊下の奥へと歩き出す。

「佐藤さんが部屋に入ってるのかな?」

 新人の長浜を気遣って様子を見に行こうとした足を止めた。

 ベテランの佐藤が部屋の中で何かしていて長浜を呼んだのだとしたら、そこにのこのこ歩いて行けば叱られるのは哲也だ。

 エレベーターに乗ろうと引き換えそうとした時、叫びが聞こえた。

「なっ、何をする! 止めろっ」

 反射的に哲也が走り出す。

「長浜さん、何かあったんですか」

 声を掛けながらドアを開けた哲也がその場に固まった。

「なっ、長浜……」

 ベッドの脇、背を見せる長浜の首に男が噛み付いていた。

「やっ、止めて……」

 苦しげに声を震わせる長浜を見て哲也が正気に戻る。

「何やってんだ!」

 ダダッと部屋に入ると哲也は男の頬を拳で殴った。

 普段は行き成り殴ったりなどしない、だが長浜の首筋に噛み付いている男の口元から赤いものが流れるのが見えたのだ。


『ぐっ、ぐがぁーっ』


 男が呻いて噛み付いていた首筋から顔を離した。

「この野郎!」

 長浜から引き離そうと哲也は男を押すようにして二人の間に右腕を差し込んだ。


『かぁぁーっ』


 叫びながら男がくわっと哲也を睨み付ける。その目が真っ赤に光っていた。

「なっ……なん!?」

 哲也の全身に怖気が走る。


『渇く……喉が渇く…………渇くんだぁぁ』


 男が哲也の二の腕に噛み付いた。

「いってぇーーっ」

 大声を出しながら哲也は左手に持っていた警棒代わりにも使える懐中電灯で男の頭を殴った。

 痛みからではない、男の赤く光る眼に恐怖を感じて無意識に殴りつけていたのだ。


『ぐぅぅ……』


 殴りつけても男は離れない。低く唸りながら哲也の右腕に歯を食い込ませる。

「離せよ!」

 哲也は左手に持っていた懐中電灯でまた殴りつけるが男はびくともしない。

「てっ、哲也くん」

 血が流れる首筋を右手で押さえながら長浜が哲也に加勢する。



「何やってんだ!」

 明け放れたドアから看護師の佐藤が慌てて入って来た。

「なっ、くそっ」

 一目で状況がわかったのか、哲也の腕に食らい付く男を後ろから佐藤が殴りつけた。


〝コキッ〟


 男の首から明らかに骨が折れたであろうというヤバそうな音が聞こえたが佐藤は気にもせず何度も殴りつける。

『がっ、がっかかぁぁ……』

 五度ほど殴りつけたところで男は苦しげに呻いて哲也から離れた。

「痛ててて……」

 右腕を押さえながら哲也が佐藤の後ろに逃げる。

「哲也くん大丈夫か?」

 先に逃げていた長浜が心配そうに訊いた。

「大丈夫です。それより長浜さんこそ血が出てますよ」

 哲也が噛まれた場所は右の二の腕だ。痛かったが出血はしていない。それよりも首を噛まれた長浜が心配だ。

「ああ、行き成り噛み付かれたからな、哲也くんの御陰で助かったよ」

 長浜が苦笑いでこたえた。それなりに出血しているが大動脈や大静脈まで達していないので安心といったところだ。


 ぐったりした男を投げるように乱暴にベッドの上に寝かせると佐藤が振り返る。

「お前何してんだ? 立ち入り禁止だぞ」

 じろっと怖い顔で哲也を睨む佐藤の横から長浜が待ってと言うように腕を伸ばした。

「待ってください、佐藤さん」

 何だというように佐藤が怖い顔を長浜に向ける。

「哲也くんは助けてくれたんです。自分が悪いんです」

 佐藤の顔が更に険しく変わる。

「助けた? 詳しく話してみろ」

 強面の先輩看護師に睨まれて長浜が臆しながら話出す。

「それが……志賀田さんが腹が痛いって言って、それで佐藤さんが帰ってくるまで我慢しろって言ったんですけど苦しみだしたから様子を見ようとドアを開けたら志賀田さんがベッドの上で血を吐いてて、喉に何か詰まらせたみたいだから慌てて処置しようとしゃがんだら行き成り噛み付いてきたんです。そこに哲也くんが来て助けてくれたんです」

 話しを聞いて佐藤の顔から怒りが消えていく、それを見て安心したのか長浜が付け足した。

「哲也くんが引き離してくれなければ首の(けい)動脈(どうみゃく)を食い千切られていたかも知れないんです。だから哲也くんは悪くないです。僕が悪いんです。すみません」

「わかった。直ぐに戻るから絶対にドアを開けるなって言っただろうに……」

 何とも言えない複雑な顔をして佐藤が哲也を見つめる。

「俺の勘違いだ。すまん、長浜を助けてくれてありがとう、俺からも礼を言う」

 佐藤が頭を下げた。初めてのことに哲也はどうこたえていいかわからない。

「えっ、あのぅ……」

 戸惑う哲也の前で佐藤が顔を上げる。

「でも次からは何があっても近付くな、お前に何かあると俺が叱られる。たとえ悲鳴が聞こえても絶対に近付くな」

「でも僕も警備員ですから……」

「頼む、俺や望月の責任になっちまう」

 反論しようとして哲也は止めた。大柄で強面、如何にもといった風体の佐藤がまた頭を下げている。

「……わかりました。佐藤さんや望月さんや下垣さんがいるときは悲鳴が聞こえても近付いたりしません、でも今みたいに長浜さんや今道さんだけのときは駆け付けますよ、心配ですから」

「それでいい、さっきのは俺のミスだ。トイレに行ってたんだ」

 強面を崩して佐藤がニッと笑った。

「トイレっすか」

 何かの用事で離れていたのがトイレだと聞いて哲也が思わずタメ口だ。

 笑みを浮かべたまま佐藤が長浜の頭をペシッと叩いた。

「何があっても構うなって言ったのに此奴は」

「すみません」

 長浜がおべっかを使うようにペコッと頭を下げた。

「今度から気を付けろ、それより首の手当てして貰え、それくらいですんでよかった。ここは俺に任せてさっさと行ってこい」

 大事にならなくて安心したのか佐藤も優しい。

「わかりました」

「じゃあ僕も見回りに戻ります」

 長浜に続いて哲也も部屋を出ようとしたとき、志賀田が目を覚ました。


 佐藤にのされてベッドで気を失っていた志賀田が怠そうに上半身を起した。

「うっ、うぅぅ……首が痛い」

 首をコキコキ鳴らしながら辺りを見回す。

「ここは? 看護師さん? あんたは?」

 哲也をみつけて志賀田が訊いた。

「僕は中田哲也、警備員です」

 ペコッと頭を下げる哲也を見て志賀田の表情が曇る。

「警備員さんか……もしかしてまたやったのか?」

「本当に記憶が無いんですか?」

 自分が何をしたのか覚えていない様子に哲也が思わず訊いていた。

「何も、何も覚えていない……看護師さんの首……僕がやったのか?」

 ドアの近くにいた長浜を見て志賀田が悲痛に顔を歪めた。

「ああ……」

「長浜! さっさと行け」

 こたえようとした長浜を止めると佐藤は視線を哲也に向ける。

「哲也くんも、お疲れさん」

「えっ、はい、じゃあ見回りに戻ります」

 佐藤の不機嫌な顔を見て哲也は長浜と一緒に出て行った。

 エレベーターの前で長浜とは別れた。長浜は首の手当にナースステーションへ向かう、哲也は見回りだ。

「まぁいいか、佐藤さんにありがとうって言われたし」

 嫌われていると思っていた佐藤に労ってもらって哲也は上機嫌で見回りを再開した。



 翌朝、朝食を終えた哲也が日課の散歩をしていると看護師と警備員の嶺弥に囲まれて歩いている志賀田を見つけた。

「志賀田さん散歩か……今日は望月さんが付いてるのか」

 今日の監視は望月ともう一人は名前も知らない、顔を知っているだけで話もしたことのない看護師だ。

 佐藤と同じく大柄で強面の望月は苦手だ。何か言われても嫌なのでそそくさと去ろうとしたが志賀田の後ろに嶺弥を見つけて哲也が足を止める。

「そういや、風呂と散歩のときに警備員も応援で付けるって言ってたな」

 考えながら見ていると近付いてきた志賀田が哲也に気付いた。

「ああ、警備員さん、昨日はお世話になりました」

 頭を下げる志賀田の後ろで嶺弥の顔が険しく変わる。

「いや……別に……仕事ですから」

 不機嫌そうな嶺弥に気付いて反対側へ歩き出す哲也を志賀田が止めた。

「本当にすみませんでした。何も覚えていないんです。けど……けど、喉が渇いて……渇いて……気が付いたら警備員さんや看護師さんに囲まれていて……ベッドに血が付いてて、またやったんだって…………話しを聞いたら警備員さんにも噛み付いたって、すみませんでした」

「気にしないでください、怪我はしてませんから」

 改まって頭を下げる志賀田に哲也は振り返って優しく返すと背を向けて歩き出す。

「本当にすみません、全部あの爺さんが……百世って爺さんが悪いんだ…………」

 志賀田の呟きが聞こえて哲也がバッと振り返った。

「もっ、百世って……」

 頭の中に人魚の肉を食ったという桑畑から聞いた話に出てきた老人の姿が浮んだ。

「百世ってどんな爺さんなんですか」

 駆け寄ろうとした哲也を嶺弥が一喝した。

「哲也くん!」

「れっ、嶺弥さん……」

 哲也が足を止める。嶺弥に迷惑を掛けるわけにはいかない。

「……ごめんなさい」

 謝る哲也を見て嶺弥が無言で頷いた。

 険しい表情のままの嶺弥を見て哲也は背を向けて歩き出す。

 今度は志賀田が動いた。

「百世を! あの爺さんを知っているのか?」

 駆け出しそうな志賀田の腕を看護師の望月がガシッと掴む。

「おっと、勝手をするな、暴れ出したら殴ってでも止めろって言われてるんだ」

 志賀田が振り返って望月を睨み付ける。

「暴れたりはしない、あの警備員さんと話をしたいだけだ」

「話? ダメだダメだ。お前は要監視患者だぞ、本当なら直ぐに隔離送りになってるんだ。こうやって外をのんびり歩けるだけでも感謝しろ」

 嘲るように笑みを浮かべて望月が志賀田を後ろ手にして動きを封じた。

「頼む、話をさせてくれ……」

 悲痛な顔をして志賀田が続ける。

「百世の事を聞きたいんだ……百世がどこに居るのかわかれば僕の言ったことが嘘じゃないって証明出来る……全部彼奴が知っているんだ」

 哲也が足を止めた。

 振り返ろうとしたとき、嶺弥の低い声が聞こえてきた。

「何をしている哲也くん、俺の言いたいことはわかるな」

 普段とは全く違う、嶺弥の冷たい声に哲也は背を向けたままコクッと頷くと走って行った。



 そのまま部屋へと戻った哲也はベッドに寝転がって考える。

「百世……桑畑さんだけじゃなく志賀田さんにも何かやったのか? 人魚の肉を食べて不老不死になったって言ってたけど、それだけじゃないのか? 何者なんだ百世って」

 百世に唆されて人魚の肉を食べて猿のような化け物人魚と混じって一つになったと話していた桑畑のことを思い出す。

「桑畑さんは人魚に襲われる夢を見るだけだった。志賀田さんは無意識に人を襲う、喉が渇いたって血を吸おうとしてたんじゃ……」

 怖い妄想を否定するように哲也が頭を振る。

「どうにかして志賀田さんから話しを聞こう」

 香織や嶺弥に迷惑が掛からないように今回は本当に志賀田に近付くつもりはなかった。だが百世が関係しているのなら話は別だ。

「どうにかして……」

 香織との約束も忘れて、何としても話しを聞こうと考えながら眠りに落ちていった。


 夕方の見回りで哲也がD病棟へとやってきた。

 普段は直ぐに病棟内へと入るのだが今日は入らずに外から観察するように建物をぐるっと一回りした。

「よかった。窓のある部屋だ。監禁しているから窓の無い倉庫を使っているのかと思ったよ」

 志賀田の部屋は元々病室だったのを倉庫として使っているものだ。窓が付いているのを見て哲也は一安心だ。

「窓から話しが聞けそうだ」

 外には見張りも居ない、窓には鉄で出来た格子が嵌められているので出入りは不可能だ。磯山病院は人手不足だ。余分に見張りを置いておく余裕は無い。

「あとは見つからないように近付くだけだ。深夜はダメだな、また暴れ出したら困る」

 どうにか出来そうだと思いながら病棟へと入っていく、夕方の見回りだ。


 夜十時の見回りで哲也はD病棟の一階、志賀田がいる部屋へと建物の後ろから近付いていく。

「志賀田さん、志賀田さん」

 夜間の見回りで持ち歩いている警棒代わりにも使える大きな懐中電灯を格子の隙間へ入れ窓ガラスを叩いた。

「誰だ?」

 名前を呼びながら四回叩いたところで返事があった。

「哲也です。昼間の警備員です」

「昼間の警備員?」

 窓の向こうから訝しむ志賀田の声が聞こえてきた。

「はい、志賀田さんが散歩のときにあった警備員です。百世のことで来ました」

「昼間の警備員さんか」

 百世と聞いて志賀田が直ぐに窓を開けてくれた。

「突然すみません、ドアからでは見張りがいますから」

 申し訳なさそうに言う哲也を見て志賀田が首を振る。

「とんでもない、来てくれただけで嬉しいよ、それで百世のことなんだが……」

 直ぐにでも話を聞きたそうな志賀田を哲也が止めた。

「今はまだダメです。この時間帯は警備員だけじゃなくて看護師さんも見回っているんです。だから僕の知っていることを書いてきました」

 哲也は格子の隙間から折畳んだメモ用紙を志賀田に渡す。紙には人魚の肉を食べた桑田の話を書いてある。

「そうか、ありがとう」

 嬉しそうに礼を言う志賀田に哲也が続ける。

「志賀田さんの話しも聞かせてください、深夜零時にまた来ます。その時に教えてください、僕も百世のことを知りたいんです」

「わかった。零時だな、頭の中を整理しておくよ」

「じゃあ、見つかると叱られるので僕はこれで」

 何度も頷く志賀田に軽く手を上げて挨拶すると哲也は窓から離れていった。


 深夜零時、哲也は誰にも見つからないように部屋を出ると志賀田のいるD病棟へと向かった。

「見回りと違って緊張するなぁ」

 警備員という建前で見回りの時間は外に出るのを許されているだけだ。時間外に出歩くのは哲也でも禁止である。見つかれば叱られるだけではすまない、下手をすれば治療方法を見直されて警備員を辞めさせられるかもしれない。

「誰も居ないよな?」

 見つかりにくい建物の影を通ってD病棟へと辿り着いた。

「志賀田さん、僕です哲也です。志賀田さん」

 格子の隙間に懐中電灯を入れて窓を叩いた。

「待ってたよ哲也くん」

 直ぐに志賀田が窓を開けてくれた。

「読んだよ、人魚の話、まさか百世が人魚の肉を食べて不老不死になってるなんて……」

 挨拶も早々に志賀田が顔を曇らせる。

「信じてくれるんですか?」

 じっと見つめる哲也に志賀田が大きく頷いた。

「ああ、他人が聞いたら馬鹿な話しだと思うだろうけど、僕も酷い目に遭ったからね、哲也くんの話を読んだら益々、百世って爺さんが何か企んでいたんじゃないかって思うよ」

「やっぱり……志賀田さんの話を聞かせてください」

 顔を強張らせる哲也に志賀田も神妙な面持ちで訊く。

「わかった。少し長くなるけど大丈夫か?」

 辺りに人がいないか見回してから哲也が頷く。

「ええ、次の見回りまでたっぷり時間はありますから」

「そうか、じゃあ話そう」

 志賀田が話を始めた。



 これは志賀田俊夫さんから聞いた話だ。


 一ヶ月ほど前、志賀田は東北のある山へと旅に出た。宿の予約はもちろん、電車やバスなどの交通機関も一切調べない、行き当たりばったりの放浪旅である。計画する事といえばだいたいの行き先と何日までに帰るという事だけだ。

 有給を四日使い土日を入れて六日間の休みを取った。志賀田は仕事が落ち着く頃を狙って長期休暇を取ることがよくあった。商社マンとしてそれなりに成績を上げ、勤務態度の良い志賀田のリフレッシュが一人旅だと知っている上司は快く有給の許可をくれる。


 テレビの旅番組でお笑い芸人が登っていた山が綺麗だったので行きたくなったのだ。

 早朝、時刻表など見ずに東北へ繋がる電車に飛び乗る。

「ちょっと腹減ったな……どこかの駅で蕎麦でも食うかな」

 二時間ほど電車に揺られた先の駅で構内にある立ち食い蕎麦屋を見つけて蕎麦と稲荷寿司を朝食に食べた。

 町を抜けるまでは快速など速い電車に乗っていたのだが景色が田園や自然豊かな山々に変わると鈍行列車に乗り換える。志賀田は電車の窓から見る景色が堪らなく好きだった。

「おお、いい町だな、お昼はここにしよう」

 昼前、車窓から見た少し寂れた町並みを見つけて電車を降りる。

「うん、田舎の町って感じだ。堪らん!」

 三十分ほど町を散策して小さな飯屋で昼飯を食べるとまた電車に乗り込んだ。

 誰に気兼ねもない一人旅だ。好きなところで電車を降りて散策してはまた電車に乗って先へと進む、最終的に行き先も変わることなどしょっちゅうだ。

「一泊してもよかったんだが……」

 車窓から田畑が続く景色を見ながら志賀田が呟いた。先程立ち寄った町が気に入った様子だ。普段の志賀田なら適当な宿を見つけて一泊していただろう。

「ダメだダメだ。あの山へ行くんだ。爺さんが旨そうに食べてた饅頭も食べたいしな」

 その日は違った。何故かわからないがどうしてもテレビで見た山へと行きたかったのだ。

 テレビの旅番組で芸人が登った山の景色が見事だった。芸人が山から降りて麓の町を散策して立ち寄った和菓子店で老人が美味しそうに饅頭を食べているのがチラッと映った。テレビの向こうの老人と目が合ったような気がした瞬間、志賀田は旅がしたくなった。

「今回の旅の目的はあの山だ。さっきの町には帰りに寄ればいい、六日もあるんだ。一晩くらい泊まる余裕はあるさ」

 先程の町を見て回りたいのを押さえるように志賀田は他の事を考える。

「山に登ってテレビで見たように町を歩いて、あの和菓子屋へ行って饅頭を食べてから宿を探そう……宿が無かったら野宿でもするか、電車に乗って他の町へ行くかな」

 行き当たりばったりの旅ばかりしているので野宿は慣れている。背負っているリュックの中には夏季用の小さく折りたためる寝袋も入っていた。

 車窓からの景色を楽しみ、色々考えているうちに目的の山のある町の駅へと着いた。


 電車を降りて方角を確認する。目的の山は車窓から見えていた。

「あっちだな、向こうの道を真っ直ぐ行けばいい」

 幾つか連なった山々の手前、それほど大きな山ではないし道もしっかり整備されているので山頂まで二時間ほどで着く、今は昼の二時を少し回ったところだ。

「今から登ってもいいけど帰りは夜になるな……山登りは明日にして宿を探すか」

 連日の仕事の疲れもある。その日は麓の町を散策して宿を探して休むことにした。

 テレビで放送されたためか予想より人は多かったがどうにか泊まれる宿を見つけることが出来て温泉に浸かってゆっくりと休んだ。

「いい湯だった。料理も旨いし当たりだな」

 山のことばかり頭がいっぱいで温泉に入れるとは思っていなかったので満足して寝床に着いた。


『お待ちしておりましたよ』


 夢の中、テレビで見た饅頭を美味しそうに食べていた老人がニッコリと微笑んだような気がした。



 翌日、志賀田は朝食を食べると早速山へと向かった。

「九時だから、今から登って昼は山で弁当食べて、それから降りて三時前ってところか」

 コンビニで弁当とペットボトルのお茶に缶コーヒーを買ってリュックに詰め込む、それほど大きな山ではないが何かあった時にと夏季用の小さく折りたためる寝袋や保温のアルミシートに非常食の携帯食料などは入れてある。

「あっ、あの店だ」

 山へと通じる道を歩いていると和菓子屋が見えた。

「朝からやってるんだな、入ってみるか!」

 テレビで見た店に志賀田のテンションが上がる。

「山道歩きながら食べてもいいしな」

 店に入ると店員に話し掛ける。

「テレビ見ましたよ、お爺さんが美味しそうに饅頭食べてたから私も絶対に食べるんだって店を探そうと思ってたらこんなに近くだったんですね」

「そうですか、御陰様でテレビを見たって言ってお客さんが来てくれて沢山買って行ってくれるんですよ」

 店員が壁に掛けてある芸人のサインを指差しながらこたえてくれた。

「やっぱり皆考えることは同じですね、お饅頭美味しそうでしたから」

「あははははっ、私も見ましたよ、お爺さんが饅頭食べてたの映ってましたね」

 楽しそうに笑う店員に志賀田が相槌を打つ。

「それそれ、それ見て食べたくなったんですよ、お爺さんはこちらの方ですか?」

「あのお爺さんは見掛けない方なので余所から来た方だと思いますよ」

 こたえながら店員がショーケースを指差した。

「食べてた饅頭は多分あれだと思いますよ、ピンクの包み紙でしたから」

「じゃあ、それ三つください、今から山に登るから歩きながら食べますよ、お土産は明日にでも買いに来るんで宜しくお願いします」

「ありがとうございます」

 テレビで見たように山を降りてから饅頭を食べようと思っていたが景色のよい山中で食べるのも乙だと考えて志賀田は饅頭を三つ買って店を出た。

「あの爺さん地元の人じゃなかったんだな」

 テレビに映った老人は芸人が話し掛けたわけでもない、芸人の後ろでチラッと映っただけだ。時間にして僅か二十秒ほどだが妙に美味しそうに饅頭を食べていたので志賀田の記憶に焼き付いていた。



「忘れ物はないな、ペットボトルのお茶が二つに缶コーヒーと弁当に饅頭が三つ、寝袋と非常食にライト、スマホの充電もOKだ」

 リュックの中をチェックして山道へと入っていく、道も整備されていて山頂まで二時間ほどで行ける山だ。登山と言うよりハイキングと言う方が正しい。

 四合目辺りまで舗装された道が続き、その先は土が剥き出しの山道となる。昔は林業で使っていたのか八合目くらいまでは車が通れるほどの道幅だがそこから先は車は無理で歩くしかない細い道となっていた。

「おっ、アスファルトが無くなる。雰囲気出てきたな」

 土が剥き出しの山道を見て志賀田のテンションが上がる。

「山登りはこうでなくちゃな、車使って頂上まで行くのは邪道だよな、でも結構人多いな」

 テレビで放送した効果だろう、志賀田の他にも六人ほどが先を歩いているのが見える。

「こんにちは」

 早朝から登った人だろう、降りてきた老夫婦らしき男女が会釈してくる。

「どうも、こんにちは」

 志賀田も笑顔で返した。

「お一人ですか?」

 奥さんらしき老婆に志賀田がこたえる。

「ええ、テレビで見て登りたくなったんですよ」

「あっ、私たちと同じだ。私たちもテレビで見ましてね、綺麗な山だなって思って来たんですよ」

 如何にも話し好きそうな老婆に志賀田が相槌を打つ。

「僕もですよ、あれ見たら登りたくなりますよね、テレビで見た時より登っている人多いですから皆そうなんでしょうね」

 老婆の隣で夫らしきお爺さんが声を出して笑う。

「あははははっ、そうですね、私らもそうですから、丁度登りやすい山ですからね、若い人なら一時間半ほどで天辺まで行けますよ」

 志賀田が背負っていたリュックをポンッと叩いた。

「そうなんですか? 二時間ちょっと掛かるって聞いたから余分にお茶買ったのにな、一時間半ほどなら一つでよかったな」

「私たちがゆっくり登って二時間ほどですからお兄さんなら一時間半くらいで余裕ですよ」

 微笑む老婆の横でお爺さんも頷いた。

「そうだなぁ、運動に丁度いい山だな」

「そうですか、じゃあゆっくり登ることにします」

 老夫婦に会釈すると志賀田が歩き出す。


 土が剥き出しの道だが定期的に整備されているのか道を塞ぐような木の枝や雑草は生えておらずに歩きやすい。

「体鈍ってるなぁ……それとも歳かな」

 二十分ほど歩くと息をついて一休みする。山を登っているのだから当り前だが平地でなく坂道だ。行く宛てを決めずにふらっと旅に出るのが趣味の志賀田だが自分の足で山登りをすることは余りない。町を散策するときより疲れて当然だ。

 甘い物が食べたくなった頭に先程買った饅頭が浮ぶ、丁度いい岩が山道の少し外れに見えた。

「あそこで饅頭食おう」

 雑草を掻き分け道から少し離れた岩に腰掛けた。

 背負っていたリュックを脇に降ろすと饅頭を一つとペットボトルのお茶を取り出す。

「おっ、美味しい!」

 一口齧ると優しい甘みが口内に広がった。テレビに映った老人が美味しそうに食べていたのは間違いなかった。

「これ旨いわ、凄い上品な甘さだな、土産に買っていこう」

 会社の同僚たちが喜ぶ顔が目に浮ぶ。

「旨い、旨い」

 一つにしようと思ったが手が止まらずにもう一つ食べていた。

「ふぅ、残りは弁当を食った後の楽しみだ」

 ペットボトルのお茶を飲み、岩の脇に置いていたリュックを背負う。

「なんだ……入? 忌? なんだこれ?」

 座っていた岩に何やら文字らしきものが見えた。

「ただの岩じゃなかったのか……」

 草を掻き分けて岩をよく見る。

「入とか忌とか書いてあるな……古すぎて読めないな」

 志賀田には昔の道標か石碑か何かに見えた。

「よかった」

 文字や形から祠や道祖神ではないのを確認して一安心だ。

「昔は林業が盛んだったらしいから、それの関係だろう」

 山道に戻って歩き出す。


 一時間四十分ほどで頂上に着いた。

「ふぅ、やっと着いた。いい運動だ」

 頂上は木が伐採されてちょっとした広場になっている。それほど高い山ではないが頂上から見る景色は良かった。

「町を見下ろす景色も良いけど後ろの山も絶景だな」

 広場を歩いて景色を楽しむ、町を見下ろす反対側は大きな山々が連なっている。見下ろす町並みと見上げる山を楽しむことが出来る。

 伐採した木で作ったのだろう、如何にも手作りといった丸太で出来たベンチが彼方此方に置いてある。

「ちょっと早いけど飯でも食うかな」

 暫く見歩いたあと、ベンチに腰掛けた。

 時刻は午前十一時、先に登った人たちも所々で弁当を広げていた。

「コンビニ弁当ってところがちょっと寂しいが、まぁこの景色が御馳走だな」

 家族連れらしきグループが楽しそうに食べているのを横目に志賀田はリュックから弁当を取り出した。

「揚げ物ばっかだな……まぁ夜は宿で御馳走だからな」

 コンビニ弁当をつつきながら予定を考える。

「晩飯前に町を歩いて明日は神社にでも行ってみるか」

 テレビでお笑い芸人が山に登る前に行っていた神社を思い出す。神様を信じているわけではないが神社や寺を見て回るのは好きだ。寂れた神社の佇まいは何とも言えない落ち着きを感じた。

「まぁまぁ旨かったな、ごっそさん」

 弁当を食べ終わるとゴミをビニール袋に入れてリュックにしまう。

「さてと……」

 座りながら辺りを見回す。前に見下ろす町並み、後ろに連なる山々という絶好の場所だ。

「ちょっと休んでから降りるかな」

 ベンチにごろっと横になる。

 昨今の公園にあるような横になって寝ないようにするための邪魔な区切りなどのない切った丸太を並べただけのベンチだ。

「良い天気だなぁ」

 見上げれば晴天、周りは青々とした自然に囲まれている。ぽかぽかと暖かな日差しに爽やかな風が心地よい。

「十二時前か、三十分ほど昼寝でもするかな」

 スマホで時間を確かめる。小さい山だ電波も来ているようでアンテナが立っていた。

「今頃みんな仕事してるんだろうな」

 同僚に電話を掛けようと思ったが止めた。

「仕事のことは忘れよう、せっかくの休みだ。気持ちいいなぁ……」

 志賀田はいつの間にか眠りに落ちていた。


『お待ちしておりましたよ』


 テレビで見た老人が優しい顔で微笑んだ。

「ああ……饅頭美味しかったですよ」

 老人に気付いて志賀田がこたえる。

『そうですか、それは良かった。もっと良いものがあるのですが食べに来ませんか?』

 笑顔で誘う老人に志賀田は何の疑問も感じずに聞き返す。

「いいもの? 何ですか」

『肉ですよ、人魚の肉』

 声を潜める老人の向かいで志賀田が声を出して笑い出す。

「人魚? あははははっ、冗談でしょ、そんなものあるわけないでしょ」

 老人が笑顔で続ける。

『あるんですよ、人魚は本当にいるんですよ』

「あははははっ、食べると不老不死になるって言うんでしょ?」

 大笑いする志賀田を笑みを湛えたまま老人がじっと見つめる。

『そうですよ、食べに来ませんか?』

「はははっ、いりませんよ、本当だったとして死なないなんて御免です。永遠に生きて働くなんて考えただけでゾッとしますよ、限られた時間の中で生きるから楽しいんじゃないですか」

 老人の顔からすっと笑みが消えた。

『そうですか……貴方はそういう考えの方なのですね』

「そうですよ、適当に生きて、働いて、遊んで、それが一番ですから」

 冗談っぽく笑いながらこたえる志賀田の向かいで老人が背を向ける。

『残念です。では他の方を当たりましょう』

「はいはい、他を当たってください」

 バイバイというように手を振る志賀田の前で老人が振り返る。

『……一つ忠告しておきます。村人には注意してください』

「村人? 何の事だ」

 急に話が変わって志賀田が顔を顰める。

『行けば分かりますよ、泊まらずに山を降りなさい、貴方のためですよ』

 老人がまた背を向けた。

「ちょっ、何が言いたいんだ?」

 追うとした先で老人の姿がフッと歪んで消えていった。

「爺さん!」

 自分の声で目が覚めた。

「夢か……変な夢だったな……」

 目を擦りながらスマホで時間を確かめる。

「やべっ! 熟睡してた」

 スマホを正面で見たまま、ガバッと起きた。時刻は午後四時前を指していた。

 少し休むつもりが四時間近く眠っていた。

「まいったな……晩飯は六時頃って言ってたから町を歩く時間無くなったぞ」

 まだ明るかったが辺りを見回すと誰も居ない、子供を連れた家族連れは当然として夫婦や友人たちと来ていた大人だけのグループも全て山を降りた様子だ。

「さっさと降りよう」

 ペットボトルに残っていたお茶を飲み干すと志賀田はリュックを背負って立ち上がる。

「四時間も寝るなんてな……疲れてるのかな」

 早足で山道を降り始める志賀田は夢のことなど既に忘れていた。


 山の日暮れは早い、歩いている内に辺りが薄暗くなってくる。

「まいったな、外灯もないもんな」

 先程まで心地好いと思っていた風景が暗くなると途端に気味が悪く心細くなってくる。

「今日の晩飯は何かな、猪だっけ? 猪豚だっけ? 昨日の肉は美味しかったな」

 気を紛らわせようと楽しいことを考えながら薄暗い山道を下っていく。

「あれ?」

 二十分ほど歩いた所で足を止めた。

 道が二つに分かれている。登る時には一本道だったはずだ。

「成る程な」

 振り返って頂上へと続く道を見上げた。

 二つの道が交わって一つとなって頂上へと続いている。周りの木々に遮られて登る時には気が付かなかったのだろう。

「どっちから登ってきたんだ?」

 登ってきた記憶を必死に辿るがどちらの道かの判断がつかない。

「まぁいいか、小さい山だしどこから降りても町に着くだろ」

 旅慣れているが山には素人だ。山の怖さがわかっていない。

「右の方が広い道だし右だな」

 右へと歩き出そうとした時、左の道に人影が見えた。誰かが下っているようだ。

「すみません!」

 道を訊こうと志賀田は左の道へと入っていった。

「男だな、すみませーん」

 声を掛けながら追っていく、薄暗くてハッキリとは見えないが前を歩いているのは男らしい。

「足早いなぁ……ちょっと、すみません」

 足下に気を付けながら追い掛けるがどういう訳か追い付かない。

「すみません! 待ってください!」

 大声を出して呼ぶ志賀田の前で人影がすっと消えた。

「えっ!?」

 思わず立ち止まって前を凝視する。

「すみません、ちょっと、すみません」

 男がしゃがんだか脇に寄ったかしたのだと止まったまま声を掛けるが返事はない。

 怖くなった志賀田が引き換えそうと振り返る。

「なっ!」

 絶句した。道がない。今まで歩いてきた道が無くなっている。

「なんで……」

 確かに土が剥き出しの山道を下っていたはずだ。その土が剥き出しの地面が見えない、腰の辺りまである雑草が生い茂っているだけだ。

「どうなってんだ?」

 驚きながら辺りを見回す。前に向き直ってまた固まった。

「こっちも無くなってる」

 前に続いていた道も消えている。志賀田は腰の辺りまである雑草が生い茂る藪の中に立っていた。

「ヤバい……」

 言い知れぬ不安がよぎる。何かに化かされたのかと慌てて来た方向へと引き返す。

「ヤバい、ヤバい」

 藪を掻き分け斜面を登っていく、男を追って歩いたのは四分ほどだ。直ぐに元の道に出ると思ったが十分歩いてもそれらしき道は見つからない。

「何でだよ……道はどこだよ」

 完全に迷った。木々の間から月を見つけて方向を探ろうとしたが曇っていて月どころか星一つ見えない。

「電話! 電話だ」

 救助を頼もうとスマホを取り出した。

「何でだよ!」

 思わず怒鳴った。電波が来ていない。山頂で休んだ際には確かにアンテナが立っていた。同僚に電話を掛けようとして止めたのだ。その時に間違いなく電波が来ているのを確認していた。

「藪を掻き分けて降りるか……」

 山で迷ったら動かずに救助を待つ、もしくは下らずに峰を目指すと何かの本で読んだことがあるがそれは大きな山のことだと思っていた。

「寝袋があるからどこでも寝れるけど、こんなところで野宿はごめんだ」

 登山は素人だが旅には慣れている。冬の寒空の中、神社の境内で夏季用の寝袋と保温シートに拾った段ボールで夜を明かしたこともある。山の中で寝るのも平気だが先程見た男が気になった。何かが化かしたのだとしたらと考えると怖くて野宿など出来ない。

「よしっ、降りよう」

 小さな山だ。藪を掻き分けて下れば直ぐに町に出るだろうと考えた。


 藪を掻き分けて降り始めると直ぐに獣道のような小道に出た。

「道か……山菜採りか何かで使っているのかな」

 とても人が普段使っているようには見えなかったが道らしきものに志賀田はほっと安堵した。

「この道を下っていくか……」

 迷っていると獣道の向こう側の藪が揺れた。

 志賀田が身構える。戦うつもりなどない、逃げるために何時でも走れるように身構えたのだ。

「おやっ? 誰か居るのかい?」

 人の声を聞いて志賀田は反射的に返事を返す。

「あっ、はい、居ます居ます」

「おや、まぁ」

 藪を掻き分けてお爺さんが出てきた。

「すみません、道に迷ってしまって」

 お爺さんを見て安堵した志賀田の顔に笑みが浮んだ。

「迷ったのか、そうかい、それは難儀なことで」

 お爺さんが値踏みをするように志賀田を見つめた。

「吃驚したよ、こんな時間に……狐か狸じゃないだろうね」

「違いますよ、迷ってしまって……あっ!」

 慌てて弁解する志賀田がお爺さんの顔を見て気が付いた。

「テレビに出てましたよね、美味しそうに饅頭を食べてた」

 旅番組に映っていた老人だった。

「テレビ見たのかい? まいったなぁ」

 お爺さんの顔に笑みが浮んだ。

「見ましたよ、それで来たんですから、お爺さんが食べてる饅頭美味しそうだって思って」

 テレビを見て一方的に知っているだけなのに志賀田はすっかり安心していた。

「まいったなぁ、あれからテレビに出てたってからかわれるんだよ」

 好々爺といった顔になるとお爺さんが続ける。

「どうやら狸や狐じゃなさそうだ。こんなところで何してるんだい?」

「それが道に迷ってしまって……」

 志賀田は先程の出来事を話した。

「そりゃぁ狸か狐じゃな、化かされたんじゃよ」

 お爺さんは話しながらズボンのポケットから煙草を取り出した。

「やっぱし……見間違いじゃなかったら、そうですね」

 狸や狐が化かすなど信じてはいない、だが男の姿を追って藪の中へ迷い込んだのは事実だ。何か不思議な出来事に遭遇したのは間違いないと思った。

「化かされたときは煙草が効くんじゃ、あいつら煙草の煙が苦手じゃからな」

 煙草に火を点けるとお爺さんは志賀田にも勧めてくる。

「僕は吸いませんから」

 断る志賀田の前でお爺さんが口から煙草の煙を吐き出した。

「吸わんでええ、吹かして煙を吐くんじゃ、化かされたくないじゃろ」

「ああ、はい、じゃあ一本貰います」

 志賀田は煙草を一本貰うと続けて訊いた。

「お爺さんはこんな時間に何で山に?」

「猟をしとっての、仕掛けた罠を見て回ってたら遅くなってしもうてな」

 こたえながらお爺さんがライターを志賀田に向ける。

「罠ですか猪とか出るんですか」

 お爺さんが持つライターで煙草に火を点けながら志賀田がまた訊いた。

「猪は滅多に獲れん、罠に掛かるのは狸や穴熊かハクビシンじゃな」

 ライターを仕舞ながらお爺さんが連なる山を指差す。

「この山じゃなくて向こうの山じゃ、ここは観光客が登ってくるでな、万が一事故でも遭ったら大変じゃから猟などせん、お前さんのように迷った人が罠に掛かると大事だからな」

 ニヤッと意地悪顔で笑うお爺さんに志賀田がおべっか笑いで返す。

「あっ、はい、そうですね」

「冗談だよ、ここで会ったのも何かの縁じゃな、私についてくるとええ」

「お願いします。助かります」

 お爺さんの後について志賀田が歩き出した。


 お爺さんの後につきながら獣道らしき細い道を歩いて行く。

「もう六時か……」

 スマホで時間を確かめると午後の六時を少し回っていた。午後四時に山頂から降り始めたのだ。彼此、二時間ほど迷っていたことになる。

「おかしい、三十分も迷ってないはずなのに」

 四時に降り始めて二十分ほど歩いた場所で男の影を追って分かれ道に入った。それから一時間三十分以上迷っていたことになるが感覚では三十分も歩いていたような気がしない。

「おかしい……」

 首を傾げ呟く志賀田の前を歩く爺さんが振り返る。

「山は感覚がおかしくなる。方向も時間も、迷って焦っていたなら尚更だ」

「そういうものなんですか?」

 志賀田の納得のいかない様子の険しい顔を見て爺さんが楽しげに口元を歪める。

「そういうものだ。まぁ、お前さんの場合は化かされて感覚がおかしくなっていたのだろう」

「う~ん、化かされてたからか……」

 無理矢理納得しようとする志賀田を見て爺さんが笑い出す。

「あははははっ、今時化かされるなんて滅多に無いぞ、いい土産話ができたな」

「そうですよね、助かったら笑い話ですよね」

 爺さんに釣られるように志賀田も声を出して笑った。

「助かったらか……」

 前に向き直り歩き出した爺さんの呟きは志賀田には聞こえなかった。


 世間話をしながら獣道らしき細い道を暫く歩くと山道へと出た。

「おお、道だ」

 安堵の息をつく志賀田に爺さんが優しい笑みをして口を開く、

「私の村は向こうにあるんだよ」

 爺さんが指差す先で山道が二つに分かれていた。

「そうなんですか、山の中に村があるんですね」

 日が落ちて薄暗い中、爺さんが指差す道は奥の山へと向かっている。

「昔は林業が盛んだったから村も沢山あってな、山の頂上の広場も大昔は村だったんだよ」

「そうだったんですか、景色いいですもんね、歩いて一時間半なら車なら直ぐですし、今でも村があれば僕も住みたいぐらいですよ」

 助かった安堵からか志賀田が饒舌だ。

 爺さんが軽く首を振る。

「住むだけならいいんだが仕事が無いからなぁ、それで多くの村が無くなった。今は私の住む村とあと一つだけだ」

「仕事か……そうですね、仕事が無いと暮らしていけないですよね」

 志賀田は町まで車で通えばいいと思いながらも爺さんに話しを合わせた。

「そういう事だ」

 爺さんと一緒に山道を歩き出す。

「この道を下ると村に出る」

「本当に助かりました。ありがとうございました」

「困った時はお互い様だ」

 分かれ道で礼を言う志賀田に気にするなと言うように手を振ると爺さんは向こうの山へと続く道へ入っていく。

「そうそう、言い忘れるところだった。泊まっちゃいけないよ」

 七メートルほど離れた所で爺さんが振り返った。

「泊まる? どこに泊まるんですか」

 志賀田が訊くが爺さんはこたえずに背を向けて歩いて行った。

「なんだろう?」

 追い掛けて聞くのもなんだしと、志賀田も町へと続く道を歩き出す。

「そういやぁ、爺さん町じゃなくて村とか言ってたな」

 ふと立ち止まって振り返るが爺さんの姿はもう見えなかった。

「まぁいいか、聞き間違いか、爺さんの言い間違いだろ」

 村の話をしていたので間違えたのだろうと志賀田は気にせず山道を下って行った。


 暫く歩いて志賀田は奇妙なことに気が付いた。

「おかしいな、上がってるぞ」

 いつの間にか下りではなく上り道になっている。

「道が違うのかな? そういや景色が違うような気がする」

 薄暗くてわからないが、初めに登ってきた道と違うような気がした。

「別の道だったら、そんな事もあるかな」

 クネクネと曲がった山道なら上りだけでなく下りもある。上がり下りしながら登っていく山は幾らでもあるのだ。

「爺さんが言ってたから大丈夫だろ」

 違う道だったとしても町へ出るのは間違いないと志賀田は安心して歩き出した。


 二十分ほど歩くと明かりが見えた。

「おっ、家だ」

 爺さんのことを疑っていたわけではないが、明かりを見て安堵した。

「爺さんの言ってた村だな」

 まだ山の中だ。山肌にへばり付くように疎らに家が建っているのを見て爺さんが言っていたもう一つの村だと思った。

「疲れたぁ~~」

 道に迷っていたという緊張が解けると同時に疲労がどっと襲ってきた。

「少し休もう」

 村へと続く山道の脇にあった岩に腰掛けると一息ついた。

「コーヒーあったな」

 リュックを下ろし缶コーヒーと饅頭を取り出した。

「美味しい、やっぱ、この饅頭旨いなぁ、帰りに一杯買って帰ろう」

 村の明かりを見ながら饅頭を食べコーヒーを飲むと少し気力が戻ってくる。

「よしっ、行くか」

 立ち上がってリュックを拾う。

「なんだ……入? 忌? なんだこれ?」

 座っていた岩に何やら文字らしきものが見えた。

「おっと、岩じゃなかった。石碑かよ」

 時間を見るために点けたスマホの明かりで石碑らしきものを照らす。

「これより……禁ずる? 忌……いらずの山? なんだこれ?」

 掠れている上に昔の字体でハッキリとは読めないが良い事を書いていないのは何となく分かった。

「座ってすみませんでした」

 ポケットに入れていた飴玉を二つ供えて石碑に謝った。

「余り良い場所じゃないのかもな、さっさと帰ろう」

 リュックを背負って歩き出す。村があるなら町に続く道もある。あと一時間も歩けば町に帰れるだろうと志賀田は思った。


 志賀田が村へと入っていく。

「やけに静かだな……」

 まだ午後の七時だというのに生活音が聞こえてこない、ぽつぽつと建つ家々には明かりは点いているが会話はもちろんテレビなどの音が一切漏れてこない。

「こんなものかもな」

 山の中の寒村だ。過疎化で子供も居なければ音もしないのかもなと志賀田は足を速めた。

「あんた誰だ?」

 家の脇を通っていると右手の石垣の上から声が聞こえて志賀田が振り向いた。

「あっ、すみません」

 石垣の上から男が覗いているのが見えて志賀田がぺこりと頭を下げた。

「こんなところで何してる?」

「すみません、怪しい者じゃないです」

 怪訝な顔で聞く男に志賀田は山で迷ったことを話した。

「そうですか、それは大変だったでしょう」

「小さくても山じゃから気を付けんと迷うぞ」

 傍で声が聞こえて志賀田が振り返る。

「おわっ!」

 いつの間に居たのか五人ほどが後ろに立っていた。

「すっ、すみません……」

 全く気配を感じなかった事に驚きながら志賀田はペコッと頭を下げた。

「お騒がせして申し訳ない。直ぐに出て行きますので安心してください」

 閉鎖的な村だと余所者を不審者扱いするのは当り前だ。出来るだけ印象を良くしようと笑みを浮かべて何度も頭を下げた。

「それはお困りでしょう、是非泊まっていってください」

「それがいい、泊まっていけばいい」

 志賀田の話しを聞いていなかったのか村人たちが泊まれと勧めてくる。

「いや……そのぅ……」

 どう答えようかと思案していると石垣の上から声が聞こえた。

「今日は祭りがあるからな、泊まっていけ」

 志賀田が見上げると先程まで不審者を見るような怪訝な顔をしていた男が満面の笑みを浮かべていた。

「お祭りですか?」

 村には提灯一つ灯っていない、囃子の音も聞こえない、とても祭りがあるようには思えない。

「ええ、小さな祭りじゃが村総出で行いますじゃ」

 男の代わりに後ろに居た老人がこたえてくれた。

 祭りがあるから外に出てきていたのかと安心したが、村人たちの目付きが気になった。笑顔だが何か獲物を狙っているような目付きに感じた。

(泊まっちゃいけないよ)

 爺さんの言葉が頭に浮んだ。

「余所者ですし……やっぱり帰りますよ」

 断ろうとする志賀田を村人たちが取り囲む。

「余所者なんて気にせんでええ、小さな村の小さな祭りじゃ、一人でも多く来てくれれば賑やかでええ」

「うんうん、泊まっていけばいい。祭りだから遠慮は無しだ」

「ここに来たのも何かの縁だ。お客様として歓迎するよ」

 笑顔で勧める村人たちの前で志賀田が弱り顔で口を開く。

「でも、もう七時だし、遅くなると宿の人も心配すると思うから……」

「泊まっていけばええ、宿には電話すればいいだろ」

 石垣の上から男が強引に言い放つ。

「でも……」

「そうですよ、御馳走を用意するので是非泊まっていってください」

 困り果てていると囲んでいた老人の後ろから二十歳くらいの若い女がやってきた。

「私の家に泊まってください、歓迎しますわ」

 若い女が石垣の上を指差した。

「うちの娘ですわ、客人の世話をさせますので是非泊まっていってください」

 石垣から覗いていた男はどうやら若い女の父親らしい。

「はいお父様、喜んでお世話をさせて貰います」

 若い女がしがみつくように鹿田の腕を取った。

 薄暗い中でもわかるほど白い肌をした美人だ。志賀田の顔が緩んでいく。

(泊まっちゃいけないよ)爺さんの言葉がまた頭に浮んだ。

「私の家に泊まっていってください、精一杯お世話しますから」

 若い女の胸が腕に当たる。甘い良い香りが鼻を擽った。爺さんの言葉など一瞬で頭の中から吹き飛んだ。

「もう七時だし、このまま帰っても宿の晩飯食えるかどうか……」

 祭りの御馳走に美人が世話をしてくれると聞いて志賀田の心は決まった。

「では泊まっていってくださるのね」

 若い女が胸を押し付けるように志賀田に抱き付いた。

「じゃあお世話になろうかな」

 緩みきった顔で志賀田が言うと囲んでいた村人たちが喝采をあげた。

「おお、それが良い、それが良い」

「決まりだ。決まり」

「今宵は良い祭りとなるのぅ」

 村人たちが家々へと帰っていく、若い女が志賀田の腕を引っ張った。

「遠慮なさらずにゆっくりしていってください」

「お言葉に甘えてお世話になります」

 若い女に連れられて志賀田は石垣の上にある家へと入っていった。



 斜面にへばり付くように建っている他の家と違い石垣の上に大きな屋敷が建っていた。

「立派な家ですね」

「父は貴族ですから」

 志賀田がお世辞を言うと若い女が自慢気にこたえた。

「貴族って?」

 聞き返す志賀田の後ろから大きな笑い声が聞こえてきた。

「あははははっ、冗談だ冗談、うちは名主をしとったからな」

 石垣から覗いていた男が笑いながら若い女を睨んでいた。

「すみませんお父様」

 女はペコッと頭を下げると振り返る。

「冗談ですわ冗談、では私は食事の用意をしてきますね」

 微笑みながら若い女は先に家へと入っていった。

「冗談でも凄いですよ、立派な家じゃないですか、名主って言うと村長さんみたいなものですよね? どうりで立派な家だ」

 女は笑っていたが目に怯えが浮かんでいたように思えて父親に叱られるとかわいそうだと思い志賀田は戯けるように言った。

「お気遣い要りませんよ、叱ったりしませんから、客なんて滅多に来ないので浮かれてるんでしょう」

「はははっ……すみません」

 考えを読まれて志賀田が乾いた笑いで誤魔化した。

「中へどうぞ、山奥ですから碌なものはありませんが祭りで普段よりは豪勢なものを用意していましたので一緒に食べましょう」

 男が笑いながら家の中へと招く、薄暗くて分からなかったが近くで見ると男は日本人離れをした彫りの深い顔をしていた。

 男に続いて玄関から入るとスリッパが揃えて置いてあった。先に入った娘が用意してくれたのだろう。

「お邪魔します」

 少し大きな声で言うと志賀田は靴を脱いでスリッパに履き替えた。


 男に続いて長い廊下を歩いて行く、襖が幾つも見える。各部屋を襖で区切っている昔ながらの古民家の作りだ。

 薄暗い廊下の向こう、襖が開いて明かりが漏れている。どうやら食事はその部屋らしい。

「おおぅ凄い」

 思わず声が出た。男に続いて入った部屋に豪華な料理が並んでいた。

「どうぞおかけになってください」

 若い女が上座に座るように促す。

「いやぁ……」

 流石に上座はと遠慮していると男が先に座った。

「お客さんだ。遠慮しなくていい、向かい合って食べよう」

 男に前に座れと指差されて志賀田は料理が並ぶテーブルの向かいに座った。

「お酒持ってきますね」

 座ったのを確認して部屋を出て行こうとする若い女の背に志賀田が声を掛ける。

「あっ、僕はそれほど飲めませんので……」

 志賀田は普段酒を飲んでいない、下戸ではないので飲めないわけではないが、飲みたいと思わないのだ。

 向かいに座る男が豪快に笑う。

「あははははっ、そうですか、じゃあ付き合いで一杯だけ、乾杯しましょう」

「一杯だけなら……」

 機嫌を損なうのもいけないと志賀田は少しだけ付き合うことにした。

「では一番良いお酒をお持ちしますね」

 若い女が微笑みながら部屋を出て行った。

「遠慮無しに食べてください」

 言いながら男が並んだ料理に箸を伸ばす。

 刺身の盛り合わせ、猪か鹿か、山で採れたと思わしき燻製した肉、岩魚だろうか? 尾頭付きの焼き魚、山菜の天麩羅、野菜の和え物、箸休めの煮豆に栗金団など宿の料理より豪華なものが並んでいる。

「今朝魚市場で買ってきた魚だ。少し寝かせて今が食べ頃だ」

 刺身を食べる男を見て志賀田も箸を伸ばした。

「美味しい……お世辞抜きで美味しいですよ」

 刺身を口に入れて志賀田が唸った。とても海から遠い山の村とは思えない、港町で食べる刺身と同じくらいに美味しかった。

「あははははっ、そうでしょう、全部アレが作ったんですよ、料理だけは自慢出来ますわ」

 若い女の出て行った方を指差して男が嬉しそうに笑った。

「全部娘さんが作ったんですか? 料理だけってとんでもない、美人ですし凄い娘さんですよ」

 志賀田のテンションが上がる。お世辞ではなく本心だ。明るい部屋の中で見た女は透き通るような色白でほっそりしているが胸が大きくスタイルも良くて、顔は女優になってもおかしくないくらいの美人だ。

「あははははっ、美人か、まぁ俺の子にしては良く出来てるよな」

 豪快に笑う男の向かいで志賀田が調子に乗って続ける。

「いやいや、お父さんもイケメンですから娘さんが美人なのも当然ですよ」

 日本人離れした彫りの深い男を見て、どこか海外の血が混じっているのではないかと思った。ハーフは美男美女が出来やすいと聞いたことがある。

「んん、わかるか? 俺も若い頃は結構モテたからな」

「羨ましいですよ、僕なんてからっきしで今も一人ですから」

「なんだ独身か?」

「はい、縁がなくて……」

 初めは強面の男を少し苦手だと思っていたが嬉しそうな笑顔を見ていると話が弾んだ。


 話し込んでいると男の後ろで襖が開いた。

「お父様、恥ずかしいから止めてください」

 酒の入ったコップが載った盆を持って娘が照れながら入って来た。

「はははっ、そう言うな」

「そうですよ、自慢の娘さんですから当然ですよ」

 楽しげな男に志賀田も相槌を打った。

「もうっ! 止めないとお酒下げますからね」

 ムッとしながら娘が男の前に酒の入ったコップを置いた。ビールや洋酒、焼酎ではなく日本酒らしい。

「わかった。わかった」

 男が笑いながらコップに口を付ける。

「お客様もどうぞ」

 コップを志賀田の前に置くと娘は隣に座った。

「お父様、乾杯前ですよ」

 先に口を付けた男を娘が窘めた。

「おっと、悪い悪い」

 コップから慌てて口を離すと男が酒の入ったコップを頭の上に翳した。

「じゃあ、乾杯」

 志賀田も慌ててコップを持つと口を開く、

「乾杯!」

「かんぱぁ~~い」

 隣で娘もコップを持って可愛い笑みを見せた。

「お客様、沢山召し上がってくださいね」

「全部お嬢さんが作ったの? 凄く美味しいよ」

 テーブルに並ぶ料理を指して志賀田が言うと娘が嬉しそうに志賀田の顔を覗き込む。

「本当? 嬉しいなぁ、お世辞でも嬉しいよ」

「お世辞じゃないよ、本当に美味しいよ、そこらの店よりずっと美味しいよ」

 志賀田が慌ててこたえる。

「あはっ、嬉しい!」

 一段高い声を出して娘が志賀田に抱き付いた。

「おわっ!」

 慌てながら志賀田は向かいに座る男を見る。娘が男に抱き付くところを見て不快に思っていないか気になったのだ。

「あははははっ、客人が居ると飯も旨くなる」

 豪快に笑う男を見て志賀田は一安心だ。

「本当ですわ、普段はお父様と二人だから他の人が褒めてくれると凄く嬉しい」

 抱き付きながら娘が志賀田を見つめた。

「ほっ、本当に美味しいですよ」

 酔ってもいないのに志賀田は真っ赤な顔だ。

 娘はサッと離れると手招くようにテーブルに並ぶ料理を指した。

「さぁさぁ、沢山食べてくださいね」

 山を迷って腹が減っているのもあったが、隣に座る美人が勧めることもあって、志賀田は遠慮なく食事に箸をつけた。

「この燻製は俺が作ったんだ。桜の木のチップを使って……」

「こっちの和え物は私の自信作です」

「山菜は今朝採ってきたのをアク抜きして娘が天麩羅にして……」

「苦手なものがあったら言ってくださいね、無理に食べるといけませんから」

 男と娘が交互に料理の説明をする。

「全部美味しいです。苦手なものでもお嬢さんが作ったものなら無理にでも口に合わせますよ」

 お世辞ではなく本心だ。美人で料理も旨い娘に志賀田は心惹かれていた。

「嬉しい!」

「おわっ」

 娘がまた抱き付いてきて志賀田が嬉しい声を出す。

 お淑やかに見えて結構やんちゃなのかも知れない。

 楽しい宴会が続く、男と娘が山や村の話をして、志賀田が今まで旅してきた話しをする。


 行きずりなのに客として向かい入れられて、気分が良くなったのか志賀田は普段は飲まないコップの酒をいつの間にか飲み干していた。

「ささ、お客人、もう一杯」

 酒を持った男が向かいから手を伸ばす。

「いやぁ、もう……」

 断ろうとする志賀田の隣から娘が父の持つ酒瓶を奪い取る。

「お父様のお酒はもういりません、お客様は私のお酒を飲むんです」

 酒瓶を持った娘が横に座る志賀田に振り向いた。

「ねぇ、お客様、私のお酒の方が良いですよねぇ」

 これでもかという可愛い笑みを浮かべて娘が志賀田の空になったコップに酒を注いだ。

「いやぁ……」

 美人の娘に注がれては断れない。酒の注がれたコップを志賀田が手にする。

「あはははっ、お客人のことを気に入ったみたいですな」

 楽しそうに声を出して笑う男の前で志賀田がコップに口を付けた。

「はい、気に入りました。お客様みたいな男の人は好きですよ」

 隣でニッコリと微笑む娘を見て志賀田が照れながら酒を飲む、

「美人が入れてくれた酒は飲まないと罰が当たりますよ」

 二口ほど飲んだあとで言うと続けてゴクゴクと喉を鳴らして酒を飲み干した。普段酒を飲まない志賀田は日本酒の飲み方など知らないので一気に飲んだ。

「良い飲みっぷりだ」

「嬉しい、全部飲んでくれた」

 男と娘、満面の笑みで志賀田を見つめている。

「ふぅっ、ご馳走さん」

 赤ら顔で志賀田がコップをテーブルの上に置いた。

 空になったコップに娘が酒瓶を近付ける。

「さぁさぁ、お客様、もう一杯どうぞ」

「いただきます」

 既に酔いが回ったのか、美人の娘に自分のことを気に入ったと言われて有頂天になっているのか、志賀田の頭の中から断るという文字は消えていた。



 楽しい話しに普段飲まない志賀田も気が付くとコップに五杯も日本酒を飲んでいた。

「あはははっ、本当に楽しい……」

 赤ら顔で笑っていると、ふと祭りのことが頭に浮んだ。

「ところでお祭りはいつ始まるんですか?」

 志賀田が訊くと向かいに座っていた男の顔から笑みが消えた。

「祭りか……」

「お祭りするんでしょ? お祭りの御馳走だって」

 テーブルに並ぶ料理を指差す志賀田を見て男がニヤッと企むように笑う。

「ああ、御馳走が来たんで祭りが出来る」

「御馳走が来た?」

 志賀田が首を傾げる。酔っているので思考が回らない。

「御馳走が来るんですか?」

 どういう事かと考えようとする志賀田に隣に座っていた娘が抱き付いた。

「お祭りは深夜に行います。私は巫女もやっているんですよ」

 娘の顔が志賀田の右肩の上にある。美人だ。真っ白な肌、ほっそりとした頬に鼻筋が通っていて、目が大きい、只一つ気になったのは唇だ。ルージュを引いているのか真っ赤である。

「お客さんが美味しそうに食べてくれて、料理を作った甲斐があります。私も御馳走が食べられるなんて思ってもみませんでしたから……」

 話す度に娘から甘い良い香りが漂ってくる。

 抱き付く娘の柔らかさ、温かさに志賀田の思考力は益々失われていく。

「巫女? それはいいなぁ、巫女姿見てみたいなぁ」

 話など耳に入っていない、娘の巫女姿の想像で頭がいっぱいだ。

「うふふふっ、後で見せてあげますよ」

 志賀田の耳元、唇がつくくらいの距離で娘が笑った。

「本当? それは楽しみだ……でも祭りまで起きてられるか……」

 志賀田が眠そうに目を擦った。酔うと直ぐに眠くなる。普段、酒を飲まない理由の一つだ。

「お布団を用意していますから向こうへどうぞ」

 娘が奥の襖を指して微笑んだ。

「でも祭りが……巫女さんを…………」

 志賀田は半分寝ている状態だ。

「祭り……」

 倒れ込む志賀田を娘が抱きかかえた。

「安心してください、祭りが始まったら起して差し上げますから」

「まつり……」

 娘の胸元に顔を埋める。温かで甘い良い匂いに包まれて志賀田は眠りに落ちていった。

「ふふふっ、起してあげますよ、貴方は祭りの主賓ですから」

 意識が無くなる寸前、娘の声が聞こえたような気がした。



 志賀田は原っぱに立っていた。

「ここは?」

 辺りを見回す。後ろには大きな山々が連なっていて、前には遠くに町が見える。山の中腹といった雑草が生い茂る広場だ。

「山に登ってたんだ」

 旅に出て山に登ったのをぼんやりと思い出す。

「泊まってはダメだと言ったでしょう」

 声がして振り返るとテレビで見た老人が立っていた。

「爺さん」

「泊まってはダメだと言ったのに、仕方のない人だ」

 あやすような老人の前で志賀田が何の事か分からないというように首を傾げる。

「人魚の肉もいらないといい、泊まるなといっても泊まる」

「泊まる? 村のことか」

 自分が村に居るのを思いだした。

「なんで泊まるとダメなんですか?」

 ハッキリとした口調で訊くがまだ頭の中はぼんやりとしている。

「向こうが旨く行きそうだ。放っておこうと思ったがまだ使えるかも知れないので助けてあげましょう」

 質問には答えずに老人はスッと背を向けた。

「ちょっ! 待ってください」

 追い掛けようとした志賀田の体がグラッと揺れた。


「もし、お客様、起きてくださいな、もし……」

「うぅ……」

 目を開けると辺りは暗い。

「もし、お客様……」

 声と同時に体が揺すられた。

「ここは?」

「やっと起きてくださいましたね、お客様」

 薄暗い中、白い顔が見えた。娘さんだ。

「ここは?」

 呟くと周りを見回す。八畳ほどの部屋の中、布団が敷かれてそこに寝ていた。どうやら酔っ払って眠ってしまったようだ。

「寝てたのか」

 起き上がろうとする志賀田の左肩に娘が手を当てた。

「お祭りが始まりますよ」

 横になっている志賀田を見下ろして娘が微笑んだ。

 部屋の中は薄暗い、明かりは枕元でユラユラ揺れる灯台があるだけだ。灯台とは油を灯して明かりを点ける照明のことだ。電気の無かった昔に室内灯として使っていたもので時代劇などでよく見るものである。

「祭り……」

 頭の中が次第にハッキリとしてくる。

「深夜にするって言ってたな祭り」

 起き上がろうとする志賀田を娘が左肩に置いた手に力を入れて止める。

「そうですよ、今から始まります」

 妖艶に笑いながら娘が抱き付いてきた。

「可愛がってください」

「なっ、何を……」

 志賀田が慌てて娘を引き離す。

 娘がじっと志賀田を見つめた。

「抱いてください」

「なっ、何で……」

 意味が分からず戸惑う志賀田を娘が見据える。

「これが祭りです」

「祭り? お嬢さんを抱くのが祭りって?」

 混乱する頭を整理しながら訊く志賀田の前で娘がニッコリと微笑んだ。

「そうです。だから遠慮なく抱いてください」

 娘がまた抱き付いてくる。

「ちょっ、待って……待ってください」

 志賀田が慌てて止める。娘が美人過ぎて何かの罠としか思えない。

「私の事が嫌いなのですか?」

 娘が眉間に皺を寄せて志賀田を睨んだ。

「そんな事はないけど……」

 志賀田が言い淀む。

 薄暗い中、改めて見ると娘は浴衣なのか白い薄布一枚しか羽織っていない。その胸元が大きくはだけて乳房が見えている。

「なら抱いてください」

 志賀田の視線に気付いたのか娘が薄布をスラッと脱いだ。

 ユラユラと揺れる油の灯りの薄暗い中でも娘の透き通るような白さがわかる。すらっとした体に予想以上の大きな乳房が付いていた。顔も綺麗だが体も綺麗だ。

「でも……」

 正直、抱きたいと思ったが頭に父親の顔が浮んだ。彫りの深い強面の男が娘の父親だ。ここで娘を抱けば何をされるか分からないと思った。

「抱いてくれないのですか? お祭りなのですよ、遠慮などいりません」

「そんな事を言われても……」

 目に涙を浮かべる娘を前に志賀田は必死に理性で抑えた。

「父に叱られます。貴方が抱いてくれないと他の男に抱かれないといけません、私はそんなのは嫌です」

 叱られると聞いて志賀田の理性が吹き飛んだ。父公認だ。

「お嬢さん!」

 志賀田がガバッと娘を抱き締めた。

「嬉しい……」

「お嬢さん……」

 娘の胸に顔を埋めながら志賀田が上になる。

「可愛がってください」

 娘が嬌声を上げる。もう何も考えられない、志賀田は貪るように娘を抱いた。

 寝ている間に着替えさせられたのか自身も浴衣のような薄布一枚だった。娘を抱いている間に薄布は自然と脱げていた。

「もっともっと可愛がってください」

 娘に乞われるまま志賀田は何度も抱いた。


 何回抱いただろう、六回までは覚えているがその先は記憶に無い、風俗に行ってもこれほどはしない、自分でも驚くほどだ。それほど娘は気持ち良かった。

「あぁ……もう無理だ」

 志賀田が娘の隣に倒れ込んだ。全身がじんじん痺れるように気持ち良い。

「たっぷり楽しみましたね……では次は私を楽しませてくださいな」

 ぐったりと心地好い疲れと余韻を楽しんでいた志賀田に隣りに横たわっていた娘が抱き付いた。

(もうたっぷりと楽しんだじゃないか)

 抱き付く娘の頭を志賀田が優しく撫でる。

「ふふふふっ、美味しそう」

 娘が鎌首をもたげる。何を言っているんだと志賀田が娘を見た。

「ひぅっ!!」

 志賀田が短い悲鳴を上げた。

 娘の目が赤く光っている。

「なっ、何を……」

「お祭りよ、これがお祭りの本番よ」

 驚いて言葉を無くす志賀田を見下ろし娘が真っ赤な口をニタリと広げた。

「お祭り? 何言ってるんだ」

 起き上がろうとする志賀田の両肩を娘が押さえ込む、細い体のどこにそんな力があるのか、志賀田は身動き出来ない。

「やっ、止めろ……」

 もがく志賀田の首筋に娘が噛みついた。

「がかっ!」

 呻く志賀田を押さえ付けながら首筋に齧り付いて娘が血を啜った。

「美味しい……ああぁ……生き返るわ」

 娘は首筋から顔を離すと志賀田にキスをする。

「貴方素敵よ、とても美味しいわ」

 鼻から下を真っ赤に染めて娘が嬉しそうにニタリと笑った。

「たっ、助けてくれ……」

 首筋が熱い、初めは痛かったが今は痺れて感覚が無い。志賀田は逃げようともがくが馬乗りになった娘に左右の上腕を押さえられて動けない、腰を上げようと足をばたつかせるが小柄な娘は大きな岩のように重く感じて一ミリも腰は浮かなかった。

「無駄よ、この村に入ったらもう逃げられないわ」

 舌舐めずりをしてから娘はまた志賀田の首に食らい付いた。


 襖がスッと開いた。気付いた志賀田が助けを求めるように手を伸ばす。

「どうだ? そいつの味は」

 娘の父親が立っていた。

「ああぁ……」

 男の目も赤く光っているのを見て志賀田の伸ばした腕が力無く落ちていく。

 齧り付いていた娘が頭を上げてこたえる。

「とても美味しいですよ、お父様」

 娘が口を開く度に血がポタポタと志賀田の額や頬に落ちてくる。

「なっ、なんで……何でこんな事を…………」

 どうにか逃げようともがきながら志賀田が訊いた。

「祭りだ。六年に一度の祭りだ」

 男が目を爛々と光らせてこたえた。

「六年に一度、私たちは蘇る。そして人を迷わせて血を貰うのよ」

 真っ赤な口を開いて娘がニタリと笑った。その血で染まった赤い口の中、白い大きな牙がついていた。

「旨いのか、どれ、俺も頂こう」

 娘が齧り付いた反対側の首筋に男が齧り付く。

「ががっ!」

 痛みに志賀田が唸る。

「ほぉ、確かに旨いな」

「そうでしょう、お父様」

 娘が微笑む横で男がジュルジュルと音を立てて血を啜る。

「かっ、かぁあぁ……」

 貧血か、恐怖か、志賀田の意識が朦朧としてくる。

 そのとき、襖の向こうがガヤガヤと騒がしくなる。

「たっ、助けて! 助けてください」

 朦朧とする意識の中、志賀田が必死で声を出した。

 襖が左右に大きく開かれた。

「助けて……」

 志賀田の希望が一瞬で絶望に変わった。

「もう始めていたのか」

「儂らの分も残してくださいよ」

「俺は血よりも肉がいい」

 村に入った道で志賀田を囲んでいた村人たちが目を赤く光らせて立っていた。

「あぁぁ……」

 諦めたのか志賀田の意識が遠くなっていく。



『だから言ったでしょ、泊まるなって』

「爺さん……うぅぅ……」

 声が聞こえたような気がして志賀田が目を覚ます。

「ここは……」

 昨晩の事を思い出しガバッと上半身を起すが、ふらついて直ぐに倒れ込んだ。

「夢……」

 横たわっている布団が乾いた血で赤黒く染まっていた。首筋も熱を持ったようにじんじん痺れている。首だけではない手足の彼方此方が痺れていた。

(夢じゃない、逃げないと……)

 ふらつきながら両手で支えるように上半身を起す。

 ふと、人の気配を感じて振り向いた。

「だから言ったでしょ、村には泊まるなって」

 テレビで見た老人が微笑んでいた。

「じっ、爺さん……夢か?」

 まだ少し朦朧とした意識の中、老人を夢で見たのを思い出す。

「爺さん、あんた夢で見たよな」

「はい、何度かお会いしましたね」

 優しく微笑む老人に志賀田がガバッと掴み掛かる。

「泊まるなって……こんな目に遭うってなんで言ってくれなかった」

「失礼ですよ」

 老人がバシッと手を払う、貧血を起している志賀田はふらっと簡単に倒れた。

「なっ、なんで……」

 倒れた志賀田を老人が見据えた。

「言っても信じないでしょ? だから忠告だけしたんですよ」

「こんなこと信じれるか……」

 志賀田が震える手で自分の首筋を触ると包帯が巻かれてあった。

「夢じゃない……」

 夢と思いたいが体の怠さに血で染まった布団、首筋の包帯、手足にも噛まれたような赤い痕がある。全てが事実だ。

「せっかくの忠告を無駄にしたのは貴方ですよ」

 老人は溜息をついてから話を続ける。

「奴らは一度に殺しません、飯を食わせて回復させてまた血を啜るのです」

「彼奴らは何者なんだ?」

 泣き出しそうな弱り顔で志賀田が訊いた。

 老人の顔から表情が消えた。

「鬼ですよ、血を啜る鬼、吸血鬼です」

「吸血鬼? そんな……」

 呆然とする志賀田を見下ろしながら老人が無表情で続ける。

「居ないって言うのですか? 現に貴方はここに居るじゃないですか、奴らに捕まって」

 昨晩の事を思い出して志賀田の顔が強張っていく。

「たっ、助けてくれ!」

 志賀田が老人の足にしがみついた。

「仕方ないですね、貴方は適合者ですから何かあった時に使いたいので助けましょう」

「適合者? 何の事だ? 色々知っているみたいだけどあんた何者なんだ」

 強張った顔のまま志賀田が訊いた。自分を襲った連中も怖いが目の前の老人も正体不明で怖かった。

「私ですか? 私は百世といいます。百の世と書いて百世、色々な世の中を見てきた者ですよ」

 含み笑いをしながらこたえる老人を見て志賀田が眉を顰める。

「百世? 爺さんの名前はどうでもいい、何者なんだ、何をしているのか教えろ」

「そうですねぇ……教えてもいいですが時間がありませんよ」

 老人はとぼけ顔で奥の襖を見つめながら続ける。

「逃げずに奴らの餌食になるのなら構いませんが……」

 釣られるように志賀田も奥の襖を見つめた。

 ザワザワと声が近付いてくるのが分かる。

「たっ、助けてくれ、あんたのことはどうでもいい、逃がしてくれ」

 恐怖を浮かべた志賀田が床に手を着いて頼んだ。

「わかりました。では奴らには少し眠ってもらいましょう」

 優しい顔で頷くと老人は奥の襖を開けて出て行った。


〝何だお前は! 我らを知っての……〟


 襖の向こうで騒ぐ声が聞こえて、直ぐに静かになった。

「これで暫く……十分ほどは大丈夫です。今のうちにお逃げなさい」

 襖を開けて入って来た老人が優しい顔で志賀田に服を差し出した。

「俺の服……」

 志賀田は服を着替えると老人の後に続いて家を出た。



 ふらつく足で村を出た志賀田が山道で倒れ込む。

「ここでは捕まりますよ、石碑の向こうまで逃げなさい」

 老人が指差す先、雑草に覆われた岩が見えた。

「ダメだ……もう歩けない」

 大量に血を失ったのだ。貧血を起したように志賀田はフラフラだ。

「ここでは追い付かれます。もう少し、あの結界まで頑張りなさい」

「結界?」

 倒れ込んでいた志賀田が上半身を起した。

「はい、奴らを封じ込めた結界ですよ、五芒の結界で村ごと封じたのです」

 にこやかにこたえる老人を見上げて志賀田が顔を顰める。

「五芒?」

「陰陽師の使う術です。眞部何某とかいう術者が大昔に封じ込めたらしいですよ」

「陰陽師の眞部……」

 霊現象や霊能力者などを信じていない志賀田はあからさまに疑いの顔だ。

 志賀田に構わず老人がにこやかに続ける。

「ですが結界の要となる力石、あの石碑です。それが朽ちてきて奴らも力を戻しつつあります。五十年ほど前までは眞部の子孫が様子を見に来ていたのですが、それも途絶えました。今の時代に陰陽師など必要とされないのでしょう」

 老人の顔から笑みが消えた。

「いらずの山として誰も入らないように戒めていたのですが人間とは愚かですね、先人の忠告を聞きもしない。この高さまで津波が来るから気を付けろという石碑を無視して下に家を建てる。鉱毒が含まれているから飲むなという書き付けを無視して飲用にする。言い伝えを只の物語としか思っていない、愚かしいことです」

 倒れている志賀田を老人が支えるようにして立たせた。

「貴方もですよ、私の忠告を聞いていれば苦しむことはなかったのに……」

「すみません、助けて貰ったことは感謝してます」

 苦しげに顔を歪めながら謝る志賀田の背を老人がポンッと叩いた。

「まだ助かっていませんよ、さぁ早く歩きなさい」

 無言で頷くと志賀田は歩き出す。


 おぼつかない足でやっと石碑まで辿り着いた。

「頑張りましたね、ここまで来れば安心です。では、私は失礼しますよ」

 老人がくるっと踵を返す。

「ちょっ……爺さん、待って…………」

 自分を置いていかないでくれと訴えながら志賀田は気を失った。



「おい、あんた、大丈夫か、おい」

 体を揺すぶられて志賀田が目を覚ます。

「うぅぅ……」

「よかった生きてたか」

 野良着姿の男が志賀田を覗き込んでいた。

「ここは?」

 ぼんやりとした頭が次第にハッキリとしていく。

「たっ、助けてくれ」

 野良着姿の男に志賀田がしがみついた。

「ちょっ、ちょっと、何があったんだね」

 志賀田の肩を掴んで引き離すと男が訊いた。

「化け物に……あの村で化け物に……」

 座ったまま、振り返って逃げてきた村を指差す。

「あの村で……」

 絶句した。気を失う前まで見えていた村が消えている。

「村?」

 野良着姿の男が首を傾げた。

「家が……村があったんです」

 志賀田が泊まった大きな屋敷はもちろん、山肌にしがみつくように建っていた家々も全て見えない、木々や藪が生い茂っているだけだ。

 男が怪訝な目で志賀田を見つめる。

「村なんてこの山には無いぞ、いや、ここらの山には村なんて一つも無い」

「無い? 村が……」

 ここらには無いと聞いて志賀田の頭に百世老人の顔が浮んだ。

「向こうの山にはあるんですよね? その村の爺さんが……百世って爺さんが……」

 志賀田の言葉を男が遮る。

「何言ってんだ? 村なんて無いぞ、向こうの山もあっちの山も、この山も、この辺り一帯に村なんて無い」

 周りの山々を指差しながら男が言い切った。

「そっ、そんな……」

 では、あの百世とかいう老人は何者なのだろう。

「百世って爺さんが……テレビにも映ってた爺さんが…………」

 愕然とする志賀田を見て男が哀れむような顔で続ける。

「この山には昔も今も村なんて無いぞ、小さな山だからな、村があるかないかなんて直ぐに分かるだろ、まぁ、林業が盛んだった昔は向こうの山と更に奥に村があったんだが、それも昭和までだ。もう三十年以上前から村は無くなってるよ、大雨や地滑りで道も無くなって村の跡に行く事も出来ないよ、だからこの辺り一帯の山には村なんて一つも無いぞ」

 男が志賀田の手足に視線を向ける。

「それよりあんたここで野宿でもしたのか? 虫刺されが酷いぞ」

 志賀田の手足には村人に噛みつかれた痕が彼方此方で赤く腫れていた。

「違うんです。これは吸血……」

 吸血鬼に襲われたと言おうとして止めた。

 そんな話をしても信じてもらえないだろう、おかしいと思われて通報でもされたら面倒なことになる。

「虻か蚋か、それともダニに食われたんだな、気を付けんと病気になるぞ」

 男が背負っていた籠から薬を取り出す。

「これでも塗っとけ、痒みくらいは治まるぞ」

 市販の虫刺され薬を差しだした。

「大丈夫です。痒みはありませんから」

 志賀田が断る。痺れは残っていたが痒くはなかった。

「そうか……あんたどこに泊まってる? この辺りに住んどるんか? 送っていこうか?」

 明らかに不審者扱いされて志賀田が苦笑いで口を開く。

「旅行です。東京から来ました。テレビで見まして……」

「そうか、あの番組か」

 男の顔がパッと明るく変わった。テレビで放送されたことを知っている様子だ。

「この山も映ってたからな、そうか、そうか」

 納得したように頷いてから男が続ける。

「あんた一人で大丈夫か? 宿まで送って行ってやろうか、下に車停めとるから」

「大丈夫です。一人で歩けますから」

 急に親切になった男に苦笑いのまま断ると志賀田は立ち上がろうと石碑に手を掛けた。

「禁……忌……」

 石碑の文字が目についた。昔の字体でおまけに掠れていたが何が書いてあるのかは何となく分かった。

「これより先……禁ずる? いらずの山か」

 百世老人が言っていた言葉を思い出した。

「いらずの山? 何言ってんだ。そんな事聞いたことがないぞ」

 顔を顰める男を見て志賀田が石碑を指差す。

「でもここに書いてあるじゃないですか」

 石碑をチラッと見てから男が話出す。

「ああ、それか、この山の持ち主が勝手に入るなって置いていったんだ。大昔のことだ。今は町の持山だからな、誰でも自由に入ってもいいんだ。俺も茸取りに来たんだ。そしたら、あんたが倒れてたから死んでるのかと驚いたぞ」


〝先人の忠告を聞きもしない〟


 笑みを浮かべて何でも無いとでも言う男を見て百世の言っていた言葉が頭に蘇る。

「そうですか……じゃあ僕の勘違いですね」

 これ以上、話しても無駄だと、まだ怠い体で志賀田が歩き出す。

「一人で歩けるか? 送っていこうか?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 ジロジロと顔を窺う男に会釈を返すと志賀田は山道を下っていく。

「まぁ、それならいいが……」

 歩き出した志賀田を男が不審者を見るような目で見送った。



 無事に宿に戻ると志賀田は山のことや村のことを宿の女将や和菓子屋の主人などにそれとなく聞いてみたが皆知らないとこたえた。

 志賀田自身も全て夢だと思いたかったが手足に出来た赤い痣や首筋の左右に付いているまるで噛みつかれたような二対の痕が事実だと告げていた。

 野良着姿の男が言っていたように虫に刺された痕だと思いたかったが、それでは首に巻いていた包帯が何であるのか説明が付かない。

「あの爺さんが……百世が居てくれたら」

 全て百世が知っていると思った。百世は実在している。テレビに映っていたのを和菓子屋の主人や宿の女将も知っていたのだ。だが百世が何者なのかは誰も知らなかった。地元の人ではないと皆口を揃えて証言した。もう一度、山へ行って確かめようとも考えたが、次は百世も助けてくれないだろうと思い直した。

 もう旅どころではない、志賀田はその日の内にチェックアウトして一人暮らしをしている東京のマンションへと帰った。


 夕方、マンションの自室へ入ると緊張が解けたのか着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。

「あと三日残ってるけどゆっくりと休もう」

 普段の志賀田なら三日も休みがあれば彼方此方へ旅に出るのだが今回は疲労困憊して食料を買いに出掛ける気力も湧いてこなかった。

「明日病院へ行こう……」

 化け物に襲われて血を吸われたのだ。何かあると大変だと検査して貰うことにしたが、その日は疲れ果てて栄養ドリンク剤を二本飲むとそのまま眠った。


 翌日、昼過ぎに目が覚めた。

 昨日の夕方から二十時間近く眠ったのがよかったのか、栄養ドリンクが効いたのか、疲れは飛んでいた。

「ふぁあぁぁ~~~っ、よく寝た」

 伸びをして起き上がるとシャワーを浴びに行く。

「まだ残ってるな……」

 浴室で手足や首筋を確かめる。ポツポツと赤い痣が付いていた。村で吸血鬼に襲われた痕だ。

「何だったんだろうな」

 何度考えても答えは出ない、霊現象などは信じていなかったが考えを改めた。世の中には不可解な霊現象のようなものがあるとしか思えない。

「助かったからまぁいいか、病院行って診てもらおう」

 深く考えるのは止めた。考えても答えは出ないし、人に話してもおかしくなったと思われるだけだ。


 冷蔵庫にあった冷凍食品で昼食を終えると志賀田は病院へと向かった。勤めている商社が社員の健康診断に使っている病院だ。

「山に行って何か虫に刺されたようで……」

 志賀田が赤い痣を医者に見せる。吸血鬼に血を吸われたなどと言えば心の病院を紹介されるだろうことは考えなくともわかる。

「マダニだと大変だ。血液検査もしましょう」

 志賀田の手足を見て医者が険しい顔で言った。

 血液検査はもちろん尿検査にアレルギー検査などの診察を受けた。結果は明後日に出ると聞いて志賀田は帰路についた。

 本日を入れて残り三日、志賀田は何をするでもなく部屋でのんびりと過ごした。回復はしているがまだ本調子ではなく何処か体が重かったのだ。

 二日後、診断結果を貰いに病院へと行った。

「よかった。正常だ」

 何かの病気に感染していたらとの不安が払拭された。

「ゾンビみたいに噛まれてうつったら大変だからな」

 手足に付いていた赤い痣はいつの間にか消えて、体も本調子に戻っている。

「あの女に噛まれたのだけ消えないな」

 ただ首筋に付いた二対の痣は黒くシミのようになって残っていた。



 翌朝、目を覚ましてベッドから起き上がる。

「んん?」

 顔を洗おうと洗面所へと行こうとした足に違和感を感じた。

「なんだ? 砂?」

 足の裏が黒くなるほど砂や汚れが付いていた。

「ざらっとすると思ったら汚いなぁ」

 まるで素足で外を歩き回ったかのように汚れている。

「床汚れてたかな?」

 一ヶ月ほど掃除をしていない部屋を見回す。確かに埃っぽいが足の裏が黒くなるほど汚れているとは思えない。

「ベランダだな」

 昨晩、洗濯物を干そうとして素足でベランダに出たのを思い出した。普段はベランダ用に置いていたサンダルを履くのだが何故か片方が無くなっていて玄関から靴を持ってくるのも面倒くさくなり昨晩は裸足で出たのだ。

「帰りに百円ショップでサンダル買ってこよう」

 洗濯物を少し干しただけで付くような汚れでは無かったがその時は気にせずにシャワーで洗い流した。今日から仕事だ。細かいことに構っている暇は無い。


 テレビを点けニュース番組を見ながら朝食の用意をする。

「クリームスープでいいか」

 鍋に水を入れてオートミールを放り込む、沸騰したらインスタントの粉スープを入れてスープ粥の出来上がりだ。

 志賀田は普段の朝食はパンかシリアル、オートミールで済ますことが多い。

「熱、熱、うま旨」

 ふうふう冷ましながら熱々の粥を食べていた手が止まる。

「この近くだな」

 ニュースで傷害事件があったことを報じている。

「隣町かよ、物騒だな」

 志賀田の住むマンションのある地区の隣で事件が起きていた。

 深夜、自転車で帰りを急いでいた大学生が男に襲われて何かで刺されたらしい。

「物騒だなぁ、僕も気を付けないとな」

 残業で帰りが遅くなることもある志賀田は朝食を終えると背広を着てマンションを出て行った。


 仕事を終えて帰りにつく、残業があったので時刻は夜の十時を回っていた。

「やっぱ好評だったな」

 満員ではないがそれなりに人がいる電車に揺られながら呟いた。土産に買っていった饅頭が同僚たちに受けて気分が良かった。

「あぁ喉が渇いた」

 別に暑くもないのに今日は一日中、喉が渇いて仕方がなかった。仕事中も一時間置きにお茶を飲んだり自販機で缶コーヒーやジュースを買って飲んでいた。

「喉が渇く……ビールでも買って帰るか……あっ!」

 口から出た言葉に自分でも驚いた。炭酸飲料やコーヒーを飲みたいとは思うが自分から酒を飲みたいなど今まで思ったことも無い、それが自然と口から出たのだ。

「酒はダメだ。酔って起きれなかったら大変だからな、ジュースだ炭酸でも買って帰ろう」

 独り言を言っているのに気が付いて周りを見回す。

 殆どの人はスマホに夢中で志賀田のことなど気にも掛けていなかったが近くで吊革を持っていた三十歳くらいの女性が軽蔑するように見ていた。

「ははっ……」

 苦笑いすると志賀田は視線を逸らした。

「ああ、喉が渇いた」

 自然と口から出ていた喉が渇いて仕方がない。

 また独り言を言っていたと慌てて辺りを見回す。吊革を握っていた女もスマホを見ていて素知らぬ顔だ。

 よかった……。志賀田は変に思われていないと安堵すると同時に女が気になった。

 チラチラと女の様子を探る。何故かはわからないが女を見ていると、更に喉が渇いてくる。

「喉が渇く……」

 電車が止まって女が出て行く。

「喉が渇く……飲みたい」

 ふらりと志賀田も電車を降りた。

 フラフラと酔ったようなおぼつかない足で女を追い掛けていく。

「旨そうだな……」

 女が改札を抜けていく、志賀田も続いた。


〝ピンポーン ピンポーン〟


 ブザーの音に驚いて志賀田が立ち止まる。

「お客さん、切符あります」

 駅員がやって来た。

「ここは?」

 志賀田は呆然としながら辺りを見回す。いつの間にか改札機の中に立っていた。

「お客さん、切符、切符ありますか?」

「あぁ……切符ですね」

 駅員に訊かれて志賀田は慌てて定期を出した。

「あるなら使ってくださいね」

「ああ、すみません」

 志賀田の定期券を確認すると駅員は迷惑顔で戻っていった。

 改札を抜けて駅の通路にあるベンチに腰掛けた。

「何で降りたんだ?」

 いつも使っている最寄り駅では無い、二つ前の駅だ。幸い定期の区間内だったので注意だけで済んだが下手をするとキセルと間違われているところだ。

「喉が渇く……」

 近くの自販機で炭酸飲料を買って飲む。

「あの女が気になって……」

 電車で見た女が気になって、物凄く喉が渇いてからの先が記憶に無い。気が付くと駅員に注意されていた。

「疲れが溜まってるのか、何かの病気かな」

 とにかく喉が渇く、志賀田はもう一本ジュースを買って飲み干すと、改札を通って駅のホームに行き電車に乗って帰った。


 最寄り駅からマンションまで徒歩十八分ほどだ。志賀田は運動に丁度良いと歩きで通っている。

「喉が渇く……コンビニでお茶でも買うか、ついでに朝飯のパンも買おう」

 駅の近くのコンビニへと入って菓子パンを二つと二リットルのペットボトルのお茶と缶の炭酸飲料を買う。

「ふぅ……少しはマシかな」

 炭酸ジュースを飲みながら歩き出す。

 前を若い男が一人で歩いていた。何がぶつぶつ言っているのでスマホで電話でもしながら歩いているのだろう。

「喉が渇く……」

 志賀田はいつの間にか男の後を追っていた。

「渇く……」

 大きな道路が交差して信号で若い男が止まった。

「渇く……喉が……旨そうだ」

 追い付いた志賀田が信号待ちをしている若い男に後ろから手を伸ばす。


〝ウゥー、ウウゥーー〟


 その時、大きな道路をパトカーがサイレンを鳴らして通った。

「えっ?」

 ハッとして志賀田は手を引っ込めた。

「ここは? 何をしてたんだ?」

 志賀田が呆然と周りを見回す。

「スーパーの前か……」

 普段買い物に使っているスーパーの近くだ。自分のマンションとは逆方向に居るのがわかった。

 信号が変わって若い男が渡っていく。

「喉が渇いた……」

 男の背を見ていると何故か無性に喉が渇く。

「お茶があったな」

 コンビニで買ったペットボトルのお茶をその場で飲み出す。

 後ろから歩いてきたカップルらしき男女が志賀田を見て笑いながら横断歩道を渡っていった。

「……何してるんだ」

 歩道の真ん中で二リットルのペットボトルでお茶を飲んでいる自分に気付いて愕然とした。

 病気か? 志賀田は逃げるようにマンションへと帰った。


 自分の部屋へと帰ると志賀田はシャワーを浴びて早々に床についた。

「喉が渇く病気は……」

 ベッドに横になりながらスマホで調べる。

「糖尿病に腎臓疾患と中枢性尿崩症か……」

 喉の渇く症状が出る病気が幾つか検索に引っ掛かる。

「糖尿は無いな、この前の健康診断でも異常は無かったし、喉が渇く症状が出るほど進んでいるなら引っ掛かるはずだからな、腎臓疾患も無いな健康診断正常だし」

 糖尿はもちろん他の病気にも心当たりはないので少し安心した。

「神経がおかしくなっても喉が渇くのか……」

 ネットで調べると精神の異常でも喉が渇く症状が出る場合があると書いてあった。

「疲れているだけだ。あんな目に遭ったからな」

 山で迷って化け物に襲われて精神的に参ってしまって喉の渇きという症状が出たのだと思った志賀田は体を休めるために早めに眠った。



 翌朝、目を覚ました志賀田は口の中に違和感を感じた。

「ん? 塩っぱい? ネチャネチャして気持ち悪い」

 唾を吐きたくなって慌てて洗面所へと行った。

 喉の奥に絡んでいるものを吐き出すようにして唾を吐いた。

「うわっ!」

 自分の吐いた唾を見て思わず声が出た。

「なんだ?」

 赤黒いゼリー状の塊が混じったピンク色の唾だ。

「痰か?」

 痰でも絡んでいたのか、まだ喉の奥が気持ち悪い。

 蛇口を捻って水を両手で掬ってうがいをする。

〝ガラガラガラ……〟

 普段より丁寧にうがいをして吐き出した水が薄いピンク色をしていた。

「血か? 何処か切ったか」

 歯茎から出血しているのか、それとも口の中でも切ったのかと鏡で見るが普段と変わりがない、切れているなら染みるはずだがそれもなかった。

 もう一度うがいをした。

「透明だ。口の中じゃ無いみたいだな」

 吐き出した水は透明に戻っている。歯茎や口内が出血しているなら二回目もピンクに染まっているだろう。

「内臓がおかしいのかな? 喉が渇くのもその所為かもな」

 口内の出血ではないとすると考えられるのは喉の奥か胃腸だ。

「今度の休みに病院行って調べて貰おう」

 四ヶ月前に行った健康診断では何も異常は無かった。もし胃腸に異常あるとしても大した事はないだろうと楽観視してそのまま顔を洗う。

「んん? ザラザラする」

 喉を気にして気付かなかったが足の裏に違和感を感じる。

「なんだ? 砂か?」

 足の裏が黒くなるほど砂や汚れが付いていた。

「昨日も付いてたよな」

 足の裏をじっと見つめる。昨日の朝も同じように汚れていたのを思い出した。

「あっ、百円ショップでサンダル買うの忘れてた」

 昨日は裸足でベランダに出て洗濯物を干していたので汚れていたと思っていたがどうやら違うようだ。

「どっか汚れてるのかなぁ」

 洗面所から出て台所を見回すが足が黒くなるほど汚れている様子はない。

「次の休みは病院行くから……その次の休みに部屋中大掃除でもするか」

 部屋の何処かが汚れていてそれを踏んで足の裏が黒く汚れたのだろうと大して気にもせずに足をシャワーで流すと朝食の支度をする。

「コーヒー作って、今日はパンだ」

 昨日の帰りに買った菓子パン二つとインスタントコーヒーが今日の朝飯だ。


 普段のようにテレビでニュースを見ながら食事を始める。

「おっ、このパン美味しいな、今日も帰りに買おう」

 パンを一口食べてコーヒーに伸ばした手を止めた。

「そういや、喉渇かないな」

 昨日はあれほど喉が渇いていたのが今は一切無い。

「体調が悪かっただけだな」

 体調を崩して一時的に喉が渇いて仕方がなかったのかと思った。

「でもまぁ一応病院へ行って診てもらおう、さっきの血も気になるからな」

 テレビのチャンネルを変えて普段見ているニュース番組を映す。

「なんだ? また事件か」

 ニュースで事件を報道している。

「この近くだ……」

 志賀田はパンを口元に持ってきたまま固まった。隣町で殺人事件があったらしい。

「酷いなぁ」

 新聞配達をしていた年配女性が殺害されたらしい。

「何考えてんだ! 犯人死刑にしろ」

 志賀田が憤る。ニュースでは喉を掻き切られて出血死したと報道していた。

「近頃物騒だよな、気を付けないとな」

 朝食を終えて歯を磨いて背広を着る。天気予報を確認してから出勤するのがいつものパターンだ。



 普段通りに仕事を終えて帰路につく。今日は残業が無かったので午後の六時過ぎに会社を出た。

「やっぱり一時的なものだったんだな」

 昨日の喉の渇きが嘘のように今日は喉は渇かなかった。普段よりもお茶や缶コーヒーを飲まなかったほどだ。

「疲れてたか、精神面で弱ってたんだな」

 一応次の休みに病院で診てもらおうと思いながら機嫌良く電車に乗り込む。

「おっ、良い所だな、今度行ってみるかな」

 ドアの近く、スマホで旅番組の動画を見ていると奥に居た女性がやってきた。どうやら次の駅で降りるらしい。

(なかなか可愛いな)

 チラッと女性を見た。二十代前半といった感じの肉感的な女だ。志賀田は痩せているよりも、今後ろに居るような、少しぽっちゃりした女性がタイプだ。

 好みだと思っていると喉の奥が熱くなってきた。

「うぅん」

 喉の調子がおかしいかと軽く咳払いをする。熱が冷めたと思ったら喉が渇いてきた。

「喉が渇いた……」

 自然と呟いていた。後ろに居る女を見ていると激しく喉が渇く。

 電車が止まり、女が降りていく。

「すみません」

 ドアの近くにいた志賀田ともう一人の男性の脇を女が通っていく。

「喉が渇く……」

 目の前を女が通って行ってから記憶が無い。


「おわっ!」

 階段で躓きそうになって志賀田は必死に手すりにしがみついた。

「なっ、何で? 何してるんだ」

 電車に乗っていたはずが駅構内の階段に居る。

「なんでこんな所に?」

 呟きながら辺りを見回す。

「あの女……」

 階段の下で電車で見た好みだと思った女が強張った顔をして見上げていたが志賀田と目が合うと逃げるように駆けていった。

「ちっ、違う……」

 不審者だと思われたらしいので弁解しようとして止めた。女はもう居ない、こんな所で叫べばそれこそ不審者だ。

 それよりも自分が何故ここに居るのかがわからない。

「いつの間に降りたんだ?」

 電車を降りて改札を抜けて、今居る階段へ来た記憶が全くない。

 スマホで時間を確かめる。旅番組の動画を見ていて時間は覚えている。六分ほどしか経っていない。

「良い女だって思って……喉が渇いて……」

 どんなに思い出そうとしてもぷっつりと記憶が飛んでいた。

「記憶障害かよ……」

 焦りを浮かべながら改札を通って駅のホームへと出た。

「マジで病院で調べて貰おう、脳の病気かも知れない、MRIやMRAで調べて貰おう、喉の渇きだって脳の病気が原因かも知れない」

 焦っているからか、やけに喉が渇く、電車を待つ間に志賀田は缶コーヒーを二つも飲み干していた。


 最寄り駅に着いて電車を降りて近くのコンビニへと寄って菓子パンとペットボトルのお茶を買ってマンションへと急ぐ。

「しっかり意識を持ってマンションへ帰るんだ」

 先程のこともあるし、昨夜もいつの間にかマンションとは反対側を歩いていたのを思い出し、気を失わないように家に帰ることだけを考えて歩き出す。


「てめぇ! 何か用か」

 怒鳴り声と共に頬に衝撃が走った。

「ががっ……」

 呻いて志賀田が倒れた。

「てめぇ、殺すぞ」

 倒れた志賀田を若い男が蹴った。

「ぼっ、僕が何をしたって……」

 何が起きたのか志賀田にはわからない。

「ふざけんじゃねぇ! 俺の女に抱き付こうとしただろが」

 怒鳴る男の隣に女が立っていた。

「抱き付く? 僕が?」

 ふらつきながら志賀田が上半身を起した。

「もう止めなよ、酔っ払いだよ」

 彼女らしき女が若い男の腕を引っ張る。

「今度しやがったらボコボコにすんぞ」

 一声吠えてから若い男は女を連れて向こうへ歩いて行った。


「痛ててて……」

 頬を押さえて志賀田が立ち上がる。どうやら男に殴られて倒れたらしい。

「ここは?」

 周りを見回すと後ろに自分の部屋のあるマンションが見えた。五十メートルほど通り過ぎた歩道に志賀田は立っている。

「なんで……」

 絶句した。また記憶が飛んでいた。

「明日病院へ行こう」

 怖くなった志賀田は逃げるようにマンションへと入っていった。


 マンションの自分の部屋へと戻った志賀田は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出すとゴクゴクと飲み干した。

「喉が渇く……」

 酷く喉が渇いたが、これは走ってきたからだと自身に言い聞かせた。

 怖かったのだ。激しい喉の渇きと記憶の喪失、関係があるとすれば脳の病気かも知れない。

「課長はまだ会社にいるかな」

 電話を掛けようとスマホを持った手を止める。

「明日はダメだ。重要案件だ休めないぞ」

 有休を取ろうとしたが明日は取引先の人と会う約束があった。

「明後日なら大丈夫だ。明後日休みが貰えるように課長に電話しておこう」

 会社に電話を掛ける。課長が残業していて病院へ行くというと明後日の有給を許可して貰えた。

「これでいい、明後日、病院で調べてもらおう……喉が渇く」

 缶コーヒーを飲んでから十分も経っていないのに酷く喉が渇いた。

「しゃっ、シャワーを浴びてからだ」

 喉の渇きを我慢してシャワーを浴びる。

「ダメだ。やっぱり喉が渇く」

 普段の半分の時間で浴室から飛び出した。我慢をすれば収るかと思ったが無駄だった。益々飲みたくなり、冷蔵庫から炭酸飲料を取り出すと一気に飲んだ。

「飯はパンでいいや」

 飲み物で腹が膨れたのか菓子パンを一つ食べると八時前だというのに早々と横になる。

「寝ちまえばいい、寝たら喉も渇かないだろう」

 元々寝付きはよい方だが疲れが溜まっていたのか直ぐに眠りに落ちていった。



 翌朝、喉に違和感を感じて六時前に目が覚めた。

「がっ、がはっ、ごほっ、喉が気持ち悪い」

 咳き込みながら枕元に置いていたスマホで時間を確かめる。

「五時四十分かよ……昨日は八時に寝たからな」

 早すぎると思ったが喉が気持ち悪くて起き上がった。

「痰でも絡んでるのかな」

 うがいをしようと洗面所に行って何気なく鏡を見て固まった。

「うわぁあぁーーっ」

 悲鳴がでた。鏡に映る自分の口元が真っ赤だ。

 怪我をしたのかと慌てて顔を洗い、うがいをする。

「どこも切れてない、口の中も大丈夫だ」

 口元も顎も頬もどこにも傷は無い、口を大きく開けて鏡に映すが口内も出血はない様子だ。

「じゃあ、何で血が……」

 必死に考えてハッとした。

「吐血でもしたんじゃ……」

 慌てて洗面所を出るとベッドに駆け寄る。

「汚れてるけど、大したことない」

 枕元が血で汚れているが吐血した様には見えない。

「だとすると鼻血かな」

 のぼせたか、寝返りか何かして鼻を圧迫して鼻血が出たのだと思った。

「八時に寝たからな、寝過ぎだな」

 吐血ではない様子に一安心だ。

「あっ、足も汚れてる。部屋掃除もしなきゃな」

 足の裏が真っ黒に汚れていた。三日も続くと慣れたのか部屋の何処かが汚れていて足に付いたのだろうと大して気にもしなくなっていた。風呂場に行って足裏の汚れを落とす。

「二度寝したら起きれないな、コーヒーでも飲もう」

 普段は八時半に家を出ている。今は午前六時だ。ゆっくりと寛ぐことにした。

「時間あるし、朝飯はオートミールじゃなく御飯と卵でお粥でも作ろう」

 鍋に水と米を入れる。米からじっくりと茹でてお粥を作る。米の芯が無くなるまで三十分以上掛かるので普段は作らないお粥だ。

 沸騰すると弱火にしてお粥が出来るのを待ちながらインスタントコーヒーを作ってリビングで寛ぐ。

「また事件か」

 テレビを点けるとニュースで女性が襲われたと報じていた。

「猟奇事件かよ」

 襲われた女性は男に噛みつかれ出血して搬送されたとのことだ。

「どこに噛みついたんだろうな、ヘンタイだな」

 レイプでもしようと乳房か何処かに噛みついたんだと思った。

「そろそろいいかな」

 朝の六時半頃に卵粥で朝食だ。テレビを見ながらゆっくりと食べる。

「ふぅ、美味しかった」

 朝食を終えて、食器を洗いスマホで旅動画を見ているとインターホンが鳴った。


〝ピンポーン〟


 こんな時間に誰だと無意識に時計を見た。午前七時ピッタリだ。

「誰だ?」

 志賀田が迷惑そうに顔を顰める。近くに知人は住んでいない、こんなに早くに訪ねてくる人に心当たりはない。


〝ピンポーン〟


 また鳴った。志賀田はそっと玄関へ行くとドアスコープで確かめようと顔を近付ける。

「志賀田さん、居るんでしょ? 警察です」

 警察と聞いて志賀田がその場に固まる。

「志賀田さん」

 名前を呼びながらドアが叩かれた。

 ドア越しに様子を覗うとどうやら一人では無く複数居るのがわかった。

「なっ、何の用でしょうか?」

 本物の警察かと疑いながら志賀田が訊いた。

「朝早くに済みません、この辺りで起きている事件のことでちょっと」

 ニュースでやっていた傷害事件のことだと直ぐにわかった。

「はいはい、今出ます」

 念のためドアチェーンを付けてからドアを開けた。

「志賀田俊夫さんだね」

 がたいのよい男がドアの隙間に半身を入れながら訊いてきた。

「あっ、はい、僕が志賀田ですけど」

「事件のことで訊きたいことがあるから署まで来て貰えるかな」

 臆しながらこたえる志賀田を男が鋭い眼で見つめた。

「えっ、いや、ダメですよ、仕事がありますから」

 弱り顔で志賀田が返す。本物の警察だとして急に来いと言われても行けるわけがない。

「仕事はいいから、此方から連絡しておくから」

 なに勝手なことを言っているんだと少しムッとしながら志賀田がこたえる。

「今日はダメです。取引先と会う約束がありますから」

「いいから、いいから、ドアチェーン外してくれるかな」

「明日にしてください」

 志賀田が少しキツい口調で返すと横から別の男が顔を見せた。

「家宅捜索令状出てるから、家の中見せて貰うよ」

 五十歳は過ぎているだろう初老の男が何やら書かれている紙をドアの隙間から見せる。

「家の中? 何言ってんだ! 勝手に入るな」

 志賀田が切れ気味に怒鳴った。目の前に居る男たちはとても警察官には見えない、逆にヤクザのように思えた。

「仕方ないな」

 初老の男が大きなワイヤーカッターを隙間に入れてドアチェーンをバチンと切り落とした。

 同時にがたいのいい男がサッと入って来て志賀田を羽交い締めにする。

「痛ててて……」

 押さえ込まれて痛がる志賀田の目の前にドアチェーンを切った初老の男が家宅捜索令状と書かれている紙を突き出す。

「家宅捜索令状ね、これがあると家の中を調べることが出来るからね」

 同時に三人の男が入って来て部屋の中を調べ始めた。

「何するんだ。あんたら、警察呼ぶぞ」

「だから私たちが警察だって」

 もがきながら睨み付ける志賀田に家宅捜索令状を手にした男が苦笑いだ。


 奥の部屋を調べていた男がシーツを手にやって来る。

「ありました。被害者の血ですかね?」

「よしっ、押収しろ」

 命じながら前に居た初老の男が家宅捜索令状を仕舞う。どうやらこのグループのリーダーらしい。

「何なんだよ、あんたら、本当に警察か?」

 志賀田が疑うのも無理はない、警察の世話になるようなことは一切していない。

 リーダーらしい男が別の紙を取り出しながら呟くように言う。

「確保」

 志賀田を羽交い締めにしていた男がサッと離す。

「痛かった……」

 安堵した志賀田の手にがたいのいい男がカチッと手錠を掛けた。

「志賀田俊夫、確保、午前七時十三分」

「なっ、何をするんですか!」

 驚いて大声を出す志賀田に初老の男が何やら書いてある紙を見せた。

「逮捕状ね、容疑者として逮捕したから」

「えっ、なんで……」

 自分を容疑者と聞いて志賀田の頭が真っ白になる。

「ちょっ、待ってください……」

「いいから、話は向こうで聞くから」

「止めてください、あんたら本当に警察か」

 また暴れ出した志賀田をがたいのいい男が押さえ込む。

「疑ってるの? ほら、警察手帳ね」

 初老の男が出した手帳を見て志賀田は暴れるのを止めた。

「僕が何をしたって言うんですか……」

「殺害に傷害、その他いろいろだ」

 証拠物件として血で汚れたシーツや枕などを押収されてマンションの前に停めてある黒塗りの警察車両に乗せられて志賀田は連行されていった。



 警察署で志賀田は監視カメラの映像を見せられる。

「ぼっ、僕が…………」

 余りの衝撃に言葉を失った。

 大きな道路脇の歩道を志賀田がフラフラと歩いている。薄暗い中、走る車のヘッドライトが付いているので夜だとわかる。

「何で僕が……」

 寝間着代わりに来ているジャージ姿だ。自分なのは志賀田には直ぐにわかったが、夜に出歩いた記憶など無い。

 家にやって来たリーダーらしい初老の男が志賀田の顔を覗き込む。

「こっちがコンビニ前のカメラね、次が注目だ」

 男は刑事らしい、映像が切り替わる。

 何処かのビルの上から撮っている監視カメラだろう、交差点を俯瞰で映していた。

 タクシーが停まって派手な服を着た女が一人降りた。タクシーが走っていく、水商売らしき女は信号待ちをしながらスマホを弄っている様子だ。

「あれは?」

 画面の端からフラフラと志賀田が歩いてくるのが見えた。

 夢中になってスマホを見ている女の後ろに志賀田が近付いていく、次の瞬間、志賀田が女に襲い掛かった。

「なっ、何で……」

 信じられないといった様子で周りに居た警察官を見回す。

 画面では襲われた女がバッグを振り回して、それに怯んだ志賀田から走って逃げていくのが映っている。

「ぼっ、僕じゃない、僕は知らない」

 強張った表情で否定する志賀田に初老刑事が続きを促す。

「続きがある」

「続き?」

 志賀田が画面に注目する。

 映像が切り替わる。先程までと違い、荒い映像だ。

「これは民家のカメラだ。自宅の駐車場に悪戯されないように付けてたカメラが偶然撮ったものだ。昨日の午前三時二十六分の映像だ」

 刑事の説明を聞きながら動画を見る。

 画面の右端から自転車がやって来る。三軒並んだ真ん中の前に自転車が止まった。どうやら乗っているのは女性らしい、女は自転車から降りると荷台から何かを取って家に入れていた。新聞配達だ。

 配達を終えた女が自転車に乗って画面の左に消えていく。

「これがどうしたんですか?」

 何も起きなくて志賀田が安堵する。

「来たぞ」

 初老刑事が指差す先、画面の左から先程の新聞配達の女が足を引き摺るようにして早足でやって来るのが見えた。

「自転車は?」

 転けたのだろうか、画面を見つめながら志賀田が訊いた。

 初老刑事は答えない、画面の真ん中まで女がやって来る。足を引き摺る姿は何かに追われているようだと思った時、左から走ってきた男が女を押し倒した。

「あれは……」

 荒い監視画像だが直ぐにわかった。自分だ。女に襲い掛かっているのは志賀田自身だ。

 画面の中では、暴れる女を何度も殴ってぐったり倒れ込んだ女の肩口に志賀田が顔を付けているように見えた。

「被害者は四十代の女性、死因は出血死、喉元を噛みつかれての出血死だ」

 初老刑事が責めるような目で志賀田を見つめた。

「しっ、知りません……ぼっ、僕じゃありません……似てるけど僕じゃない」

 悲痛に顔を歪ませて志賀田が訴えた。

「もう観念したらどうだ?」

 初老刑事の後ろでがたいのいい男が呆れ顔だ。

「証拠も挙がってるんだぞ」

 この男も刑事らしい。

「違います! 僕じゃない、僕は知らない」

 昨日、新聞配達の女性が殺害されたとニュースで報道していたのは知っている。その犯人が自分だと言われて志賀田は必死で否定した。

「その時間は寝てた。外になんか行っていない僕は……」

 ハッとして言葉を止めた。足の裏の汚れだ。まるで素足で外を歩いたように真っ黒に汚れていたのを思い出した。


 別の部屋で女性が事情聴取を受けていた。

「この人です間違いありません」

 幾つか並べた写真の中から女性が志賀田を指差した。

「血が欲しいって、喉が渇いたって襲ってきたんです」

 今朝のニュースでやっていた男に襲われたという被害者の女性だ。

「間違いないですね」

「はい、暗かったですけどハッキリと顔を見ました」

 警察官の質問に女性はしっかりとした口調で答えた。

 それを聞いていた刑事らしき男が部屋を出て行った。


 取調室で志賀田は悲痛な顔で訴えていた。

「僕じゃない、僕がやったって証拠はあるんですか? 監視カメラの映像だけで決めつけるんですか? 僕と似た人が犯人だったらどうするんですか」

 そこへ被害女性から事情を聞いていた刑事が入ってくる。

「間違いありません」

 報告を訊いて正面に座っていた初老刑事が志賀田を見つめる。

「今朝、襲われた女性が写真を見てあんたが犯人だって証言したよ」

「そっ、そんな……嘘だ! その女が嘘をついているんだ」

 今朝、起きた時に口周りに付いていた血の汚れ、三日前からの足裏の汚れ、不安が膨らんでいくが、記憶が無い以上、志賀田は信じるわけにはいかない。

「もういい加減に全部話したらどうだ? 歯形を調べれば直ぐに分かるぞ、亡くなった被害者にも証言してくれた女性にも歯形は付いているんだからな」

 向かいに座る初老刑事が優しい声で畳み掛ける。

「違う……僕じゃない……」

 志賀田が首を振って否定していると別の男が何やら書かれた紙を持って部屋に入ってきた。

「結果が出ました。被害女性の血液と一致しました」

 受け取った初老刑事が志賀田の前に紙を置いた。

「志賀田さんのシーツと枕に付いていた血液が今朝、襲われた女性のものと一致した。これ以上の言い逃れはみっともないぞ」

 刑事が見据える前で志賀田がブルブルと震え出す。

「ちっ、違う……知らないんだ……僕はやってない」

 初老刑事が苛つくように机を指でトントン叩きながら続ける。

「何でも、喉が渇いたとか、血が欲しいとか言って襲ったらしいじゃないか」

「血が欲しい……」

 血が欲しいと聞いて、志賀田の頭の中に、あの山の村での出来事が鮮明に蘇った。

「ばっ、化け物だ! 彼奴らが何かしたんだ」

 志賀田がバッと立ち上がる。

「勝手に立つんじゃない」

 がたいのいい刑事が押さえ付けようとすると志賀田が暴れ出す。

「彼奴らだ。吸血鬼が僕に何かしたんだ……彼奴らが……彼奴らがぁぁ…………」

 目を見開き、口から涎を垂らして暴れる志賀田を見て向かいに座っていた初老刑事が席を立つ。

「少し休もうか、ゆっくり考えるといい」

 机に突っ伏すように押さえ付けられた志賀田を置いて警察官たちは部屋を出て行った。


 一人部屋に残った志賀田が今までの出来事を振り返る。

「僕がやったのか……僕が…………」

 異常な喉の渇き、朝起きた時の足裏の汚れ、記憶の欠如、無意識で人を襲ったのではないかと志賀田は考えた。

「刑事さん、話があります。刑事さん」

 志賀田は刑事を呼んで、九日前に山へ行って迷って辿り着いた村で襲われた事を話した。

「あのなぁ、子供でも、もう少しマシな嘘をつくぞ」

 がたいのいい刑事が呆れる横で初老刑事がじっと志賀田を見つめた。

「そうか……なら調べてみよう」

 初老刑事は志賀田から旅をしたルートや山のことをメモしながら訊いた。

「一時中断だ。山へ行ってみるよ」

「お願いします」

 初老刑事が味方に付いてくれると考えたのか志賀田は真摯に頭を下げた。

「他に何か気が付いたことがあれば思い出しておいてくれ」

 そう言うと警察官たちは部屋を出て行き、志賀田も留置所へと入れられた。



 翌日は昼から取り調べが始まった。

「山へ行ってみたんだがね、村なんて無かったよ」

 向かいに座る初老の刑事が開口一番に言った。

「無いって……そんな、今は無くとも昔はあったんですよね? 結界を張られて見えなくなって、いらずの山って石碑がありますよね」

 縋るように見つめる志賀田の前で初老刑事が首を振る。

「残念だが無いよ、今も昔も村なんて存在していない、調べたんだよ、江戸時代から記録が残っていたが山に村があったなどという記述はどこにも無かった。奥の大きな山には昭和の頃まで二つの村があったらしいが志賀田さんが迷った山では村なんか無いよ」

「でも石碑が……石碑はあったんでしょ? いらずの山って石碑が」

 諦めきれない志賀田の向かいで初老刑事が頷いた。

「ああ、石碑はあったよ、でも村があった証拠にはならない、あの石碑は大昔に山の持ち主が誰も入らないようにと建てたものだ。昔は山で採れる木材が一財産になったからね」

「そっ、そんな……じゃあ僕は何を見たんだ?」

 愕然とする志賀田を哀れと思ったのか初老刑事が優しい声で続ける。

「志賀田さんが歩いた通りに山を登ってみたよ、良い所だねぇ、帰りも同じ道で通ったが分かれ道など無かったよ、化かされて道に迷ったって言ってたけど迷うような山じゃないだろ、あんなに小さな山で、迷っても真っ直ぐに降りれば麓に出る山だ」

 初老刑事はあの日の志賀田の行動を全て辿ったらしい、志賀田のことは宿や和菓子屋が証言してくれた。山の近くの住民に聞き込みをしたり、役所で資料を調べたが村など存在していた様子は全く無かった。

「そんな……」

 志賀田は何か無いかと必死に記憶を辿る。

「百世! 百世って爺さんを探してください、テレビにも出てた百世って爺さんが村のことも僕が襲われたことも証言してくれます」

 百世老人のことを思い出して志賀田の声が大きくなった。

「百世か……」

 そんな事かというように溜息をついてから初老刑事が話出す。

「その老人のことだが、何の関係も無いよ、地元住民でもないし、只の観光客だよ、テレビ局にも確認したんだけど、たまたま映っただけでスタッフがモザイクを掛けましょうかと老人に話したんだが別に映ってもよいって返事を貰ってそのまま放送しただけだ」

「そんな……探してください、あの爺さんが嘘じゃないって証言してくれます」

 懇願する志賀田を初老刑事が見据えた。

「無理だよ、テレビのスタッフもチラッと映っただけの老人に連絡先など一々訊いてないって言うし」

「そこをなんとか、警察なら調べられるでしょ」

 縋り付く目をした志賀田に初老刑事が鋭い視線を向ける。

「第一、全部本当だったとして志賀田さんが被害女性を殺害した事実は覆らないよ、証拠は全部揃っているんだ。素直に認めた方が裁判での印象も変わってくるよ」

「僕はやってない……」

 震えながら俯いて呟く志賀田の向かいで初老刑事が立ち上がる。

「明日は拘置所に送るからね、まぁここより寝やすいと思うよ」

 志賀田の肩をポンポンと叩いて初老刑事は出て行った。

「じゃあ調書作るから、全部ハイでこたえて」

 代わりに三十歳くらいの刑事が向かいに座る。

 刑事が事務的に調書を作っていく、反論する気力も無くなったのか志賀田はハイハイと淡々とこたえていった。


 取り調べが終って留置所へと入れられる。本来なら他の容疑者と共用の部屋なのだが志賀田は殺人事件の容疑者だ。特別に個室をあてがわれていた。

 何を言っても無駄だと諦めたのか志賀田は大人しく横になっていた。

 深夜、志賀田が目を覚ました。

「喉が渇く……」

 喉が焼け付くように熱い。

「誰か! 誰か居ないのか!」

 志賀田は大声で叫んだ。

「何を騒いでいるんだ」

 警察官が直ぐにやって来た。

「喉が渇くんだ。何か飲ませてくれ……喉が渇く……」

 虚ろな目をして志賀田が訴えた。

「わかった。わかった。何か持ってきてやるから騒ぐな」

 しょうがない奴だという表情で警察官がお茶を持ってきてくれた。

「ほらお茶だ」

 檻の向こうからお茶を渡そうとした警察官の腕を志賀田が引っ張った。

「おわっ、何をする」

「血だ! 血が飲みたい……」

 檻に引き入れた警察官の腕に志賀田が噛みついた。

「痛ててっ! こいつ何しやがる」

 騒ぎを聞いて他の警察官がやって来る。

「血を……もっと血を飲ませてくれ…………」

 虚ろな表情で口元を血で染めた志賀田が警察官たちに取り押さえられる。


「僕は何を……」

 暫くして正気を取り戻した志賀田に警察官が先程の出来事を話す。

「僕が血を吸った……僕が……」

 山で迷った村で吸血鬼に襲われた光景が頭に蘇る。

「吸血鬼になったんだ……彼奴らと同じように吸血鬼になったんだ。うわぁあぁあぁーーっ」

 恐怖でパニックになった志賀田が暴れ出す。

「こらっ! 大人しくしろ」

 警察官が数人掛かりで志賀田を取り押さえる。

「痛ててて、俺も噛まれたぞ」

「まったく、なんて奴だ」

 手足を拘束されて留置所へ転がされた。暴れる容疑者への処置だ。警察官に危害を加えるのを防ぐためだけではない、自傷するのを防ぐためにも行われる処置である。



 翌日、志賀田は容疑者として拘置所へ送られた。

 三日ほどして弁護士と一緒に初老の刑事が訪ねてきた。

「調べたんだが、あったよ村が、室町時代だ。あの山に小さな村落があったらしい」

「だから言ったでしょ、僕は嘘は言ってない、僕が悪いんじゃない、彼奴らが吸血鬼が悪いんだ」

 窶れた表情で志賀田が力無く笑った。

「鬼の村だ。迷い込んだ人を食ってたんだ。それでいらずの山って……」

 次第に志賀田の顔付きが変わってくる。ニタリと嫌な笑みを浮かべながら志賀田が続ける。

「吸血鬼を陰陽師が封じたんだ。だから村は見えなくなった。でもその力が弱まって出てくるんだ。それで僕が襲われたんだ。僕も吸血鬼になったんだ」

 目を見開き興奮気味に話す志賀田を見て初老刑事が首を振る。

「そんな事あるわけないだろ……」

 妄想虚言が酷いと弁護士が訴えて志賀田は精神鑑定を受けることになった。

 結果、心に病があり無意識に出歩いて人を襲っていたのだと診断される。一種の夢遊病だ。それによって罪には問えないとして措置入院が決まり磯山病院へとやってきたのだ。


 これが志賀田俊夫さんが教えてくれた話だ。



 哲也が強張った表情で格子の向こうの志賀田を見つめた。

「吸血鬼ですか……」

 志賀田が真面目な顔で頷く、哲也なら信じてもらえると思ったのだろう。

「ああ、百世って爺さんが言ってた。あの村の連中は吸血鬼だってな」

「百世……」

 哲也は言葉が出てこない、また百世の名を聞くなどとは思ってもみなかった。

「あの爺さんは何者なんだ? 人魚の肉を食って不老不死になっただけか? 何で吸血鬼の村なんて知ってるんだ? 何で僕をこんな目に遭わせた?」

 悲愴を浮かべた志賀田が立て続けに訊いてきた。

 軽く首を振ってから哲也が話出す。

「僕にもわかりません、渡したメモに書いてあったように不老不死っていっても肉体には限界があるらしいんです。それで代わりの体を探していた。それで桑畑さんが選ばれたんです。適合者だって……」

 適合者と聞いて志賀田が身を乗り出すとバッと格子を掴んだ。

「言われた! 僕も適合者だって言われた」

「志賀田さんが適合者?」

 眉間に皺を寄せ、更に厳しい表情になった哲也を睨むようにして志賀田が続ける。

「ああ、確かに言われた。村から逃がしてくれたときに適合者だから助けると言われた。適合者って何なんだ?」

 少し考えてから哲也がこたえる。

「ハッキリとは僕もわかりません、不老不死を受け継ぐには相性がある。誰でもいいわけじゃない、自然治癒力が高い人が選ばれるらしいんです。怪我の治りが異様に早かったり、病気をしない人を選んで取り込む…………僕の考えですが百世は桑畑さんがダメだったときに志賀田さんを使おうと考えて助けたんだと思います」

「他がダメだったときの予備ってわけか……」

 少し間を置いて納得がいかない顔をして桑田が話す。

「でも僕はべつに治癒力が高いわけじゃないぞ、怪我の治りも普通だし、風邪だってよく引く、哲也くんの話に出てくる桑畑って奴みたいに怪我が直ぐに治ったりしないぞ」

 志賀田の目をじっと見て哲也が首を振る。

「それは……わかりません、僕も同じです。それなのに僕も誘われました。不老不死にしてやるって、一緒になろうって誘われました」

「哲也くんも知らないのか……何者なんだ百世って」

 気落ちした様子で目を伏せる志賀田に哲也が頭を下げた。

「すみません、力になれなくて」

 力のない笑みを浮かべて志賀田が顔を上げる。

「哲也くんが謝ることないよ、百世ってのが本当にいるってわかっただけでもいい、全部僕の妄想じゃないってわかったんだ。僕は病気じゃない……確かに殺人はした。けど僕だけの所為じゃない……全部百世って奴が悪いんだ」

 言葉を選ぶようにして哲也が口を開く。

「……全部かどうかは知りませんが百世が何かしたのなら志賀田さんは悪くないって僕も思います。志賀田さんも被害者ですから」

「哲也くんだけだ信じてくれるのは…………」

 目に涙を浮かべて言葉を詰まらせる志賀田の前で哲也の目も潤んでいた。

「信じますよ、色々見てきましたから……でも力になれそうにありません、すみません」

「いいよ、信じてくれただけでいい、誰も信じてくれなかったんだ……哲也くんだけだ」

 志賀田の頬を涙が伝わる。

「志賀田さん……」

 どうにか力になってやりたい、自分に出来る事はないだろうか?


 必死で考える哲也の右横に誰かが立った。

「哲也くん何をしている?」

「嶺弥さん……」

 話に夢中で嶺弥が傍に来るまで気付かなかった。

「違うんです」

 哲也が言い訳をする前に嶺弥が声を大きくした。

「何も違わない、近付くなと言われなかったか?」

 いつも見せる優しい顔ではない、見たこともない険しい表情だ。

「でっ、でも……ごめんなさい」

 厳しい目付きに何を言っても無駄だと哲也は頭を下げた。

 志賀田がバンッと格子を叩いた。

「叱らないでやってくれ、哲也くんは悪くない、僕の話を聞いてくれただけだ」

「志賀田さん……」

 庇ってくれて嬉しそうな哲也の前に行くなと言うように嶺弥が腕を伸ばした。

「話? 人殺しの言い訳か? 全て妄言だ。そんなことを話して何になる」

 普段の柔らかな話し方ではない、嘲るような言葉使いの嶺弥を哲也は驚くように見ていた。

「違う! 妄言なんかじゃない、本当の事だ」

 両手で格子を掴みながら志賀田が嶺弥を睨み付けた。

「言い訳なんかじゃない! 僕は悪くない……僕は…………全部……ぜん……ぶ…………」

 興奮した様子で怒鳴っていた志賀田が急に力が抜けたように格子を掴んだまま滑り落ちるように体を崩した。

「病気だ」

 嶺弥がぽつりと呟いた。

 病気? なんだろうと哲也も志賀田を見つめる。

 力無く項垂れていた志賀田がバッと顔を上げる。

『うぅ……うっうぅぅ……渇く……喉が…………喉が渇く……血だ……血を飲ませろ、飲ませろぉーーっ』

 志賀田が格子を掴んで暴れ出す。

「しっ、志賀田さんっ」

 哲也が絶句した。志賀田の目が赤く光っている。

 嶺弥が哲也の肩を掴んで引き寄せる。

「哲也くんは部屋に戻れ」

「でっ、でも……」

 嶺弥が厳しい目で哲也を見つめる。

「望月たちが来る。見つかれば厄介だ。俺にも庇いきれないぞ」

「望月さんが……わかりました」

 出歩くだけなら誤魔化せるが志賀田に近付いて何かしていたなど、今日の監視役である看護師の望月ともう一人に見つかると只では済まない、哲也だけでなく嶺弥の責任問題にもなる。

「すみませんでした嶺弥さん」

 改まって頭を下げる哲也を見て嶺弥の口元に笑みが浮ぶ。

「ダメだと言われると余計にしたくなる。見るなと言われると見たくなる。人間の本質かもな、それは理解しているつもりだ。けど忠告だけは利いてくれ」

 普段の優しい顔で言う嶺弥に頷くと哲也は自分の病棟へと走って行った。



 哲也が戻って行った後、嶺弥が志賀田に向き直る。

『渇く……喉が渇く…………血だ! 血を飲ませろぉーーっ』

 窓に嵌められた格子を掴んで暴れる志賀田を見て嶺弥の顔から表情が消える。

「貴様が居なければ」

 どこから出したのか、嶺弥の右手に日本刀のような刃が光った。

「殺してはダメよ」

 刃を構える嶺弥を後ろから香織が止めた。いつの間に来たのかはわからない、影が伸びるようにスーッと嶺弥の後ろに現れたのだ。

「お前に止められるか? 俺を」

「う~ん、止めようと思えばどうにかなるかな、でも私も只じゃ済まないわね」

 背を向けたまま、無表情の嶺弥と違い香織は楽しげだ。

「ならどうする?」

 志賀田に向かって刃を構えたまま訊く嶺弥に香織が意地悪な笑みを向ける。

「私はいいけど、池田先生に叱られるわよ」

「チッ、威を借る狐が」

 吐き捨てるように呟くと嶺弥が刃を収める。

 嶺弥がくるっと振り返った。

「接触させるなと命令されていなかったのか?」

「だから近付かないように佐藤や望月が見張ってたじゃない」

 真面目な顔をして香織が正面から嶺弥を見つめる。

「そもそも散歩中に接触させたのは貴方のミスでしょ」

 嶺弥の無表情が崩れた。

「それを言われると……立つ瀬が無い」

 嶺弥から殺気が消えたのがわかったのか香織が微笑む、

「まぁ初めに接触させたのは佐藤のミスだからこちらもこれ以上言わないから貴方もこれ以上は止めましょう」

 普段の爽やかな表情に戻ると嶺弥が頷いた。

「わかった。この件に関しては俺も退こう」

 楽しそうな笑みを浮かべて香織が続ける。

「でも正直、もっと遣りようはあったわよね、哲也くんを近付けないように志賀田を見張るより、哲也くんそのものを三日ほど外に出すとか」

「哲也くんを外に出す? 面白い意見だが今は賛成出来ないな、それにラボの方も色々準備があったんだろ、哲也くんはともかく、他に感付かれると困るからな」

 顔を顰める嶺弥の向かいで香織が意地悪顔になる。

「猫とか狐に好かれてるからね哲也くん」

「そういう事だ」

 いつの間にか嶺弥の顔にも笑みが浮んでいた。


 そこへ望月と新人看護師の渋沢がやって来るのが見えた。

『血だ! 渇く……血を飲ませろぉぉ』

「仕方ないなぁ」

 格子を掴んで暴れる志賀田の額に香織が左手を当てる。

『血だ……血ぃぃ…………』

 香織の手に噛み付こうとした志賀田がぐらっとその場に崩れていく。

「気功か?」

「妖術よ、威を借る狐ですから」

 鋭い眼で訊く嶺弥に香織がこれでもかという可愛い笑みを向けた。


 息を切らせて駆け付けた望月が二人を見つめる。

「何がありました?」

「病気だよ、また暴れ出した」

 こたえる嶺弥の手から刃が消えている。

「通り掛かったから処置しておいたわよ」

 楽しげに微笑みながら香織が言うと望月がすっと頭を下げる。

「そうでしたか、お手数をお掛けして申し訳ない」

「いいえ、貴方たちが協力してくれて此方こそ助かります」

 可愛い笑みでこたえる香織を新人看護師の渋沢がボーッと見惚れている。

「見返りがあるのなら喜んで手を貸しますよ」

 キラリと目を光らせる望月の口元から牙のような歯がチラッと覗いた。

「勝手にやってくれ」

 軽く手を振ると嶺弥は警備員控え室の方へと去って行った。

「では我々もこれで」

 香織に向かって望月が頭を下げる。

「行くぞ渋沢」

 頬を赤くしてボーッと香織を見つめていた渋沢には会話は聞こえていない。

「おい、渋沢」

「はっ、はい、望月さん」

 苛立つような望月の声を聞いて渋沢が慌てて返事を返す。

「ふふっ、渋沢くん、大変だけど監視頑張ってね」

 香織が渋沢に微笑みかける。

「はっ、はい、頑張ります」

 元気よく返事を返すと渋沢は望月に続いて戻って行った。



 部屋に戻った哲也はベッドに寝転がって考えていた。

「百世か……彼奴がまた何かやったのは間違いない」

 百世が何かを企んで志賀田を山の中の村へと導いた。そして吸血鬼に襲われた。

 話を思い出して哲也がバッと上半身を起す。

「吸血鬼に噛まれて吸血鬼になったのなら長浜さんや僕も噛まれたぞ、長浜さんなんて首を噛まれて血を吸われたし」

 哲也が右の二の腕を見つめる。血こそ出なかったが歯形が残るくらいに強く噛まれたのだ。

「僕も吸血鬼になるのか? でも血が出てないし、でもゾンビの映画とかじゃ血が出てなくても感染してゾンビになったりするのもあったし……」

 急に怖くなった。自分も志賀田のように目を赤く光らせ無意識に人を襲うようになるのではないのか、どうしたらいいのか必死で考える。

「眞部さんに助けて貰おう」

 磯山病院では事務部長をしている眞部代古だが陰陽道の家系で霊能力を持っており哲也も何度か助けられたことがある。

「そういや、志賀田さんの話の中にも眞部って陰陽師が出てきたな」

 村を封じた陰陽師が眞部という名前だったのを思い出した。

「もしかして眞部さんと関係があるのかも……」

 志賀田の話しに出てきた眞部の子孫が事務をしている眞部なら自分だけでなく志賀田も救えるかも知れないと希望を持ちながら哲也は眠りに落ちていった。


 翌朝、八時前に目を覚ます。

「やばっ! 深夜の見回りすっぽかした」

 テーブルの上に置いてある目覚まし時計を見て哲也がガバッと起きる。

「でも仕方ないよな……嶺弥さんも怒ったりしないだろう」

 色々あって考え事をしていて目覚まし時計をセットするのを忘れていた。

「それよりも眞部さんだ。眞部さんに話を聞いてもらおう」

 普段なら見回りをしなかったことで落ち込むところだが今回はそれどころではなかった。自分も吸血鬼になるのではないかと不安でいっぱいだ。


 朝食を終えると日課の散歩を中止して眞部に会おうと本館へと向かった。

 一階にある事務室の受付から哲也が中を窺う。

「眞部さん居ないのかな?」

 いつも座っている奥の机に眞部の姿が無い。

「おっ、哲也くんじゃないか」

 事務室へは何度か来ている。顔見知りになった事務員が哲也に声を掛けてくれた。

「眞部部長かい?」

「はい、眞部さん居ないんですか」

 事務員が後ろを見て確認してから向き直る。

「さっきまで居たんだけどね……トイレにでも行ったのかな」

「そうですか」

「用事があるなら伝言しておくよ」

 眞部が何かと哲也を気に掛けているのを知っている事務員が優しく言ってくれた。

「いえ、あの……そうですね、僕が訪ねてきたって伝えてください」

 吸血鬼のことで相談に来たなどと事務員に話せるわけもなく哲也が言葉を濁した。

「わかった伝えておくよ」

 受付の窓の向こうに居る事務員にペコッと頭を下げて哲也が帰ろうとして振り返ると廊下の向こうに眞部が見えた。

「おや、哲也くんじゃないか、どうしたんだい?」

 にこやかな笑みを湛えて眞部が歩いてきた。

「あのぅ、ちょっと相談が……」

 眞部の顔色を窺うように哲也が見つめた。受付口の向こうにはまだ事務員が居てこちらを見ているので吸血鬼などとは言えない。

「わかった。ちょっと待っててくれ、書類を置いてくるからね」

 小脇に抱えた大きな封筒を見せると眞部は事務室へ入っていった。

 何やら事務員に指示をする眞部の声が聞こえてくる。暫くして眞部が出てきた。

「お待たせ、ここじゃなんだから散歩しながら話そうか」

「はい、お世話を掛けます」

 にこやかな眞部に哲也は姿勢を正して頭を下げた。

「また難しいことを頼まれそうだねぇ」

「すみません」

 微笑む眞部と申し訳なさそうな顔をした哲也が本館を出て行った。



 敷地内をぐるっと回る遊歩道を歩きながら哲也は今までの事を眞部に話した。

「志賀田さんか……無理だね、もう手遅れだ。私にはどうすることも出来ないよ」

 足を止めると眞部が哲也を見つめた。

「そんな……眞部さんでも無理なんですか?」

 哲也の顔が悲痛に歪んでいく、鬼でも追い払う力を持つ眞部ならどうとでも出来ると簡単に考えていた。

「哲也くんの頼みだ。利いてやりたいがあれは無理だよ」

「吸血鬼って本当に居るんですか?」

 哲也が質問を変えた。志賀田を助けるのは無理だとして何か少しでも出来る事はないかと思ったのだ。

「吸血鬼か……私は見たことはないが鬼の一種だと考えればいるのかも知れないねぇ、だけど……」

 一呼吸置くと険しい顔をして眞部が続ける。

「だけどあれは病気だ。志賀田さんのは病気だよ、肉体の病気とは違う、心霊的な病、霊的な伝染病といったものだ」

「霊的な伝染病?」

 悲痛な表情のまま哲也が首を傾げる。

「肉体的な病や精神つまり心の病、これとは別に霊的な病がある。何かに憑かれたとか呪いや祟りを受けて原因不明で体の調子が悪くなるなど、どうにか祓える軽い症状から力の強い、例えば神様から受ける神罰のように重いものまで霊的な病には色々ある」

「霊障ってヤツか……」

 呟いた哲也に軽く頷くと眞部が続ける。

「そうだね、霊障も心霊的な病と言ってもいいねぇ、その病の中で希有なものが変化や同化に伝染だ。哲也くんも聞いたことがあるだろう、人が妖怪や化け物に変化した話を、昔話にもあるよねぇ、安珍清姫伝説は有名だね、安珍という旅の僧に恋をした清姫が大蛇と化して鐘に隠れた安珍を鐘ごと焼き殺す話や仙人なども一種の変化だよ、同化は哲也くんも知っているだろう、桑畑さんの話は聞いたよ、人魚の肉を食べて力を得たものと桑畑さんは同化して一つになった」

「桑畑さんのことを知っていたんですか? それなら相談しにくればよかった」

 話に割り込んで悔やむ哲也を眞部が見据える。

「来ても無駄だよ、自分から望んで行くものを止めることは出来ない、それにあれほど力の強いものを相手にして私も只では済まないだろうからねぇ」

「……すみません」

 軽く考えていた自分が恥ずかしくなり哲也が頭を下げた。力を持っているが眞部は霊能力者として仕事をしているのではない、只の事務員だ。

「まぁ、哲也くんは孫みたいなものだから助けられるのならどうにかするけど、他の人は無理だねぇ」

「ありがとうございます」

 嬉しそうに顔を上げると哲也が訊いた。

「それで伝染っていうのはどういうものなんです?」

「同化の一種だよ、霊気や妖気に毒気などを相手に送り込む、そうすると魂が病に冒される。それでおかしくなったり霊的に操られたりする」

「ゾンビみたいなものか……」

 呟く哲也の前で眞部が違うと手を振った。

「ゾンビとは全く違うよ、映画の中ではゾンビに噛まれると細菌か何かが移って噛まれた人もゾンビになってしまう、でもあれは作り話だ」

「やっぱそうっすよね、実体験でゾンビに襲われたとか聞いたことないっすよ、ゾンビらしきものを見たって話なら聞いたことあるけど」

 同意する哲也を見て眞部が続ける。

「ゾンビは元はブードゥーの邪法で麻薬などの薬物を使って体と精神を支配してからマインドコントロールを掛けて術者が自由に操るものだ。薬によって仮死状態となった者が自分の意識を持たずに蘇り術者に操られフラフラと歩くのを見て物語のゾンビが出来たんだよ」

 知っているというように何度も頷く哲也の前で眞部が険しい顔になる。

「でも志賀田さんのはそれとも違う、私も詳しくは知らないが魂が病む伝染病だ。普通の病気ならワクチンなども開発出来るだろうが、心霊現象は無理だ。魂というものもハッキリとわかっていない現代では治す術は無い、私の術でもこればかりは無理だ」

「眞部さんも治せないって……僕も噛まれたんです」

 自分も吸血鬼になるかも知れないと哲也が焦る。

 眉間に皺を寄せると眞部が目を伏せる。

「残念だ……」

「そっ、そんな……僕も鬼になるっていうんですか?」

 焦る哲也を見て眞部が楽しげに笑い出す。

「あははははっ、冗談だよ、哲也くんは大丈夫だ」

「でも噛まれて……大きな歯形まで付いたんですよ」

 まだ不安気な哲也の向かいで眞部が笑みを浮かべて続ける。

「志賀田さんはまだ本当の鬼にはなっていない、噛みつかれても感染するほどの力はないから安心するといい」

「よかったぁ~~~」

 安堵しながら疑問に思っていたことを訊いた。

「でもなんで血が欲しくなるんですか?」

 眞部の顔から笑みが消える。

「詳しくは知らないが魂が渇きを訴えたんだよ、物理的に血を吸うが、奴らが本当に吸っているのは血ではない、気力、活力、といった生命のエネルギーだ。体中に栄養を運ぶのが血だ。同時に生体のエネルギーも運んでいる。それを血と一緒に取り込むんだよ」

「生命のエネルギーっすか? 何となく分かるような分からないような……」

 眞部が困ったように話し始める。

「私も上手く説明出来ないよ、だけど自然治癒力っていうのも生命のエネルギーが関係しているのかも知れないって思っている。医学に関係している人も自然治癒力を明確に説明出来る人はいないくらいだからね、他にも何らかの生命のエネルギーとでも呼ばないと説明の付かないことが沢山あるんだよ」

 自然治癒力と聞いて哲也の顔が強張っていく。

「自然治癒力……桑畑さんだ。百世が探していたのも自然治癒力が高い人だった」

「うーん、そうだね、私は会っていないが、その百世って奴も生命のエネルギーを欲していたのかもしれないねぇ」

 全く知らないというわけでもなさそうな顔でこたえる眞部に構わず哲也が続けて訊いた。

「じゃあ、生命のエネルギーを吸い取るために血を吸って志賀田さんが吸血鬼になったってことっすか」

「たぶん、そうだろうね、他にも方法はいろいろある。セックスをして性エネルギーを取り込もうとするものもいる。魂そのものを喰らう化け物もいる。だが結果は全て同じだよ、魅入られた者の末路は死……もしくはそれに近いものとなる」

「じゃあ志賀田さんは……」

 強張った顔のまま見つめる哲也の向かいで眞部がスッと目を伏せた。

「ここに居る間は大丈夫だろうが生涯、魂の渇きに苦しむことになる。ここを出て人を襲い続けると姿まで変化して本当の鬼と化すだろうねぇ」

「じゃあ志賀田さんは一生出られないのか……いや、出したらいけないのか」

 悲痛にギュッと目を閉じる哲也を見る眞部も神妙な面持ちだ。

「そうだね、このまま施設で暮らすか、渇きに耐えられずに自害するか、それは志賀田さん次第だね、襲われた日に直ぐに力のある霊能者に相談すれば何とかなったかも知れないが、普通の病と同じように霊的な病も時間と共に進行するんだよ、もう手遅れだ。かわいそうだけど、私にもどうすることも出来ないよ」

「志賀田さん……」

 志賀田の行く末を思い浮かべ、哲也は何とも言えない無念顔で唇を噛み締めた。

「じゃあ、私は戻るからね、何かあればまた訪ねてくればいい」

 帰ろうとする眞部に哲也は気になっていたことを訊いた。

「志賀田さんの話に出てきた陰陽師の眞部って眞部さんの御先祖様じゃないんですか?」

「どうだろうねぇ、室町時代のことなんて聞いたこともないからなぁ」

 とぼけ顔で言うと眞部は本館の方へと戻っていった。



 三日後、志賀田が隔離病棟へと連れて行かれる。

 佐藤や望月だけでなく隔離病棟から来たのか、哲也は見たこともない大柄の男性看護師が四人、合わせて六人に囲まれて厳重警戒の中、移送が始まる。

「僕は悪くない……全部、彼奴が、百世って奴が悪いんだ……彼奴に吸血鬼にされたんだぁぁ」

 喚く志賀田が遠くで見送る哲也を見つけた。

「てっ、哲也くん、哲也くんなら信じてくれるだろ、説明してくれ、皆に先生たちに、警察に、説明してくれ、哲也くん、僕は悪くない、そうだろ? 哲也くんは味方だよな、助けてくれ……百世って奴のことを皆に話してくれ、僕を助けてくれぇぇ…………」

「志賀田さん」

 一歩前に出た哲也の腕を香織が引っ張った。

「ダメよ、彼は病気なだけ、人格障害が出て無意識に歩き回って人を襲っただけ、吸血鬼なんているわけないでしょ、本気でそんなことを言う人は心の病に掛かっているのよ」

 暗に、吸血鬼などと騒げば病状が悪化したと思われると香織が忠告した。

「香織さん……」

 振り向いた哲也を見つめる香織は無表情だ。

 看護師たちに叱られながら志賀田が連れて行かれる。

「暴れるな、大人しくしろ」

「助けてくれ、僕は悪くない、哲也くん、皆に証言してくれ、百世が悪いって……」

 哲也はくるっと背を向ける。

「哲也くん! 哲也くん、てつや…………」

 建物の向こうへ志賀田が消えていった。

 哲也がキッと香織を睨んだ。

「吸血鬼が、鬼がいるかは僕には分かりません、でも僕は志賀田さんの言ったことは信じます。嘘じゃない、何かがあるんだ。百世って奴も……桑畑さんや志賀田さんや、僕にも…………何だか分からないけど、何かがあるんだ」

 吐き出すように言うと哲也はスッと目を逸らした。

「生意気言ってすみません」

 ペコッと頭を下げると哲也が駆け出す。

「哲也くん……」

 香織が悲しそうな顔で哲也の背を見つめていた。



 部屋に戻ってベッドに寝転がる。

「百世……どうにかして彼奴に会えれば」

 考えれば考えるほど不安が大きくなっていく。

「病気か……これが病気なのかな、だから入院してるんだ」

 今まで心の病だと自覚はしたことがなかった。不安に押し潰されそうになって初めて心の病かも知れないと哲也は思った。


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